無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

民衆のアヘン

資本論」を書いたカール・マルクスが「ヘーゲル法哲学批判・序説」という本のなかで「宗教は民衆のアヘン」という有名な言葉を残しています。


「アヘン」というのは、いうまでもなく麻薬のアヘンですが、ここでいうアヘンとは、重に鎮痛剤という意味でのアヘンです。アヘンの成分に鎮痛効果があるからです。


現実が苦しみや痛みや悲しみで耐え難いとき、人がアヘンに依存して現実逃避をするように、キリスト教は民衆が現実逃避をするためのアヘンだというわけです。


日本人の多くは、「宗教は弱者がすがるもの」と考えています。実際、人がキリスト教を含む宗教に求めるものは、心の平安や孤独感の解消だったりします。宗教の聖職者もそれがわかっているので、そのような「麻酔効果」を売りにします。教会を含む宗教施設は、人が現実の痛みや悲しみを一時的に忘れるための「阿片窟」のようなものとして機能しています。


マルクスキリスト教を含む宗教を批判したのも、このような点でした。キリスト教が、麻酔効果で人々の痛みを和らげているせいで、社会への不満や怒りが社会変革へと向かわず、静められてしまう。教会は、その意図がなくても社会の不公正や不平等、奴隷状態の問題をそのまま温存させてしまう。教会は、「この世」の矛盾の解決を「あの世」へと投げてしまうことで、「この世」の問題をそのまま温存してしまう。教会は、民衆の奴隷状態で利益を得ている資本家階級の道具となっている、というわけです。


社会変革で奴隷状態から解放され、現実生活での苦しみ、悲しみ、痛みが解決されるならば、人はアヘンへの依存から脱するようにキリスト教を必要としなくなる。だから、キリスト教や天国などの「あの世」で人を現実逃避させるのではなく、「この世」の現実の悲惨を解決すべく政治的、経済的な改革に力を注ぐべきだ。貧困や差別や奴隷状態が存在しない共産社会が実現したならば、誰も神やキリスト、天国について語らなくなるだろう、というわけです。

*(マルクスのいう共産社会というのは、理論上のユートピアで、実際の中国、北朝鮮、ロシアを意味しません。それらの国は理論上では社会主義国家で、共産社会へと至る過渡的状態を意味します。マルクスのいう共産社会には国家も所有も存在しないからです。

ちなみに、クリスチャンは共産主義を蛇蝎のごとく嫌いますが、聖書には原始キリスト教の教会は共産制だったと書かれています。

「信者たちはみな一緒にいて、いっさいの物を共有にし、資産や持ち物を売っては、必要に応じてみんなの者に分け与えた。そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。(使徒行伝2:44‐47)」

マルクス唯物論者でしたが、キリスト教に改宗したユダヤ人の家に育ちました。彼のなかには、不平等や不公正を許さないユダヤ預言者の伝統が引き継がれていたのです。)


現実はたしかにマルクスの言うとうりになりました。共産主義的なユートピアでなくても、安全や自由が保障され、経済が豊かになるにつれて人々は教会に行かなくなり、キリスト教に関心をもたなくなりました。まさに、リアルが充実することと宗教の世俗化は比例して進んだのです。


しかし、キリスト教を必要としなくなったのは事実ですが、アヘンから人が解放されたわけではありませんでした。歴史を見れば、キリスト教の代わりにマルクス主義の哲学が新しい民衆のアヘンとして「消費」されていたことがわかります。


富や名声のすべてを手にしたように見えるスポーツ選手や芸能人たちですら薬物への依存とは無縁ではありません。「リア充」に見える人はたくさんいますが、彼らが本当にリア充かどうかは誰も証明できません。


仕事にやりがいを感じて日々のすべてを仕事に費やす人でも、彼の仕事への依存が、何かをごまかしたり、何かから逃避したりするために必要なアヘンではないと証明することは誰にもできません。


映画、漫画、アニメ、ゲーム、小説、思想などの文化だって、現代の「民衆のアヘン」として消費されていることは言うまでもありません。


映画や漫画やアニメの世界観にどっぷり「ハマる」ことは、「不満で、不全で、つまらない現実」に対して「ここではないどこかへ…」連れだしてくれるアヘンの依存と変わりがありません。


情熱的な海外ドラマを見るのを楽しみに、現実の希薄な人間関係を生きる「世俗的」な現代人は、天国の安息を思いながら人生の苦役を生きるクリスチャンと何が違うのでしょう。


もちろん、それらの文化作品のなかには優れたものがあって、「民衆のアヘン」として消費されるのを拒むものがあります。現実から目をそらせておきながら、前よりも現実がよく見えるようになって現実へ送り返すような作品です。アヘンとして現実から逃避させるがままにするのではなく、もっと強く現実と対峙できるように世界観や人生観を変えてしまうような作品です。そのような作品はたしかに存在します。


キリスト教も、その消費の仕方は千差万別で、アヘンとして消費されることもあるでしょう。しかし、イエスは「私に従う人は私と同じ苦い杯を飲み、十字架を背負うことになるだろう」と言いました。イエスは人を癒すときも「見よ、あなたはよくなった。自分の足で立ち上がって歩きなさい。」と言いました。聖書に準ずれば、キリスト教は人から痛みを忘れさせたり、「あの世」へ逃避させたりするものではなく、むしろ十字架の痛みを負うべく現実と対峙させるものでありました。「神の国」にいる人は、神の召命に従うべく、「この世」の現実のすべてをリアリスティックに見渡して十字架を負うべく生きるよう呼びかけられている。旧約聖書預言者のように、社会の不公正、不平等、奴隷状態を糾弾し、社会に「神の国」というオルタナティブの穴を穿つべく呼びかけられている。これまでもそのようなクリスチャンはいたし、これからも呼び起こされてくるでしょう。私にとってもまた、キリスト教はそのような徹底したリアリズムのひとつです。