無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

キリスト教と同性愛

同性愛に否定的なクリスチャンは、その根拠を主にパウロの手紙と旧約聖書の一部から引用します。聖書が神の言葉だからという信念からでしょう。


たしかに、パウロの手紙には男色への批判がいくつかみられますし、ユダヤの伝統では同性愛は禁じられていました。


パウロが非難する男色と現代の同性愛は違うという意見もあるかと思いますが、もしパウロが現代にタイムスリップしたとしたら、同性愛の結婚やジェンダーの多様性を認めようという時代の流れに対して、決してよい顔はしなかったでしょう。


同時にパウロの手紙には女性差別的な記述があるのもよく知られています。


もし、パウロの手紙を誤りなき神の言葉としなければならないとしたら、女性は教会でヴェールを被らなければならず(第一コリント11:3‐7)。女性は男性に意見を言ったり、教えたりすることが許されません(第一コリント14:34‐35)。「女は子供を産むことによって救われる」なんて記述もあります(第一テモテ2:9‐15)。同性愛の否定を神の言葉であるパウロの手紙に求めるなら、なぜこれらのことも教えないのでしょうか? それは、女性の地位が向上した現代において、こんなことを言ったら大ひんしゅくを受けるのは目にみえているからです。原理主義の教会においてすら、女性にこんなことは言えないし、女性たちも容認しません。


旧約聖書を誤りなき神の言葉とするなら、なぜ割礼を受けず、律法の食物規定を守らず、清浄規定を守らないのか?」といった古典的な問いと同じく、パウロの手紙が神の言葉なら、なぜアレはよくてでコレはダメといった選別がありえるのでしょうか? パウロの手紙から同性愛の否定のみを主張することもまた、結論ありきの恣意的な選別だという指摘をまぬがれるものではありません。


もちろん、聖書からの聖句の引用は常に何かしらの目的のためになされます。その際の正当性は、ナザレのイエスによって啓示された愛(アガペ)に準ずるか否かによって左右されます。


清い心を持つ者にはすべてのものが清い。しかし、汚れた心の者にはすべてのものが汚れている(テトス1:15)。教会の壁にかけられた十字架も、講壇用の特大聖書も、憎しみにかられた人には人の頭を叩き割る凶器として用いられるように、聖書の言葉も悪意のある人間が用いれば、差別と略奪と殺人の正当化のためにつかわれます。


パウロが偉大な使徒であることは変わりません。しかし、パウロは一人の人間であって神ではない。パウロはひとつの時代の限られた土地の間を生きた一人の人間にすぎません。それも、パウロの書いた手紙は、これまた限られた時代と場所の特殊な状況下にいた人々に宛てて書かれました。パウロは自分の書いた手紙が千年後、二千年後と「誤りなき神の言葉」としてイエスの福音と同列に読まれていることを知ったら驚いて腰を抜かすでしょう。


実際、パウロ自身「私は良心に照らして何のやましいところもないけれど、だからといって神の前で義とされているわけではない。主が全てをあきらかにするまで、何ごとも先走りして裁いてはならない」(第一コリント4:1‐5)と言いました。


パウロの手紙が神の言葉なのではなく、聖書が神の言葉なのではありません。パウロや聖書が指し示すその人、すなわち「イエス・キリスト」が神の言だ、というのがパウロの証言であり、聖書の証言でしょう。ならば、イエスをさしおいてパウロの言葉で人を裁くなら、パウロはどう思うでしょうか?


私たちにとって重要なのは、「聖書やキリスト教が同性愛者にどう接するか?」ではなく、「イエスが同性愛者にどう接するか?」なのです。


ではイエスは同性愛についてどのように考えていたのでしょうか? イエスの発言で同性愛についての直接的な言及はありません。私が思うに、イエスにとっては「神の子らか、この世の子らか」という区別しかなかったように思います。もしかしたら、イエスも同性愛の性に否定的だったかもしれませんが、それに劣らず異性愛の性に対しても非常に厳格であったのは周知の事実です。


エスの前では、この世の人間の営みで肯定できるものは何ひとつとしてなく、罪を悔い改めなくてよい人は一人もいない。「新しく生まれなければ神の国には入れない」(ヨハネ福音書3:3)とイエスは言いました。同性愛者に比べて異性愛者が神の前に義であるわけでも、天国に近いわけでもない。そこにあるのは、互いに裁く資格のない同じ罪人であって、ただ憐れみがあるのみ。


天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。それゆえに、人はその父母を離れ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。」(マルコ福音書10:6‐9)とあります。しかし、「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、かの世にはいって死人からの復活にあずかるにふさわしい者たちは、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」(ルカ福音書20:34‐36)ともあります。キリストにおける救いは、エデンの園における創造の秩序の回復ではありません。それをもっと超えたものです。


神の国」は、この肉体と、この世界ではなく「新しい天と地(ヨハネの黙示録21:1)と、新しい体(第一コリント15:35‐58)」でしょう。神の国は、新しい人間と新しい世界の創造であって、創世記の創造された世界を更新するものです(ヨハネの黙示録21:5)。だから、結婚しなくても、子供をつくらなくても、神の国に入ることができるのです。創世記の創造目的も性別も関係ありません。男も女もなく、アガペーで愛することのみがあるのです。同性愛者でもアガペーで愛するなら神の国から出されておらず、異性愛者でもエロースでしか愛さないなら神の国から追い出されているのです。


聖書で重要な対立項は、「あなたは、天使のようにアガペーで人を愛するのか? それとも、エロースで自分のために人を愛するのか?」という対立であって、ノーマルな家庭の中にもエロースはあるし、アブノーマルな人間関係の中にもアガペーはあります。ここには同性愛も異性愛も関係ありません。


エスは、髭モジャの男の弟子たちに「互いに愛しあえ」と言いました。これは同性愛ではないのでしょうか? しかり、同性愛でした。しかし、欲のために互いを利用するエロースではなく、愛する人のために愛するアガペーにおける同性愛でした。ここにあるのは異性愛VS同性愛の対立ではなく、異性同士であれ、同性同士であれ、アガペーで愛するかエロースで愛するかの対立だけなのです。異性愛の結婚も、同性愛の結婚も、それ自体で正しかったり間違っていたりするのではなく、その関係がアガペーによるものかエロースによるものかの違いだけなのです。


結局のところ、なぜキリスト教ではこんなに同性愛の問題がこじれるでしょうか?


ローマ教皇のフランシスコは、トランプ大統領の政策を批判して「キリスト教は壁をたてるのではなく、橋をかける」と言いました。同性愛者を含むキリスト教徒のマイノリティたちは、自身のマイノリティ性にたいして、イエスによって「橋」がかけられていることを知っているのです。だから、聖書や教会によって否定され、全クリスチャンが排除し、壁を築こうとも、恐れず自身のマイノリティ性を告白します。同性愛者を擁護するクリスチャンも、イエスの十字架によってかけられたこの橋を守るため、他の全クリスチャンを敵にまわすことも恐れません。


私たちには、石を投げるイエスというのが想像できません(ヨハネ福音書8:1‐11)。「七の七十倍まで許せ」と言ったイエスは「十字架の死に至るまで」石を投げることはしませんでした。


しかし「最後の審判では、イエスは同性愛者どもに石を投げつけるために来られるだろう」と一部のクリスチャンは言うでしょう。しかり、最後の審判ではイエスは許すためではなく、分けるため、命と滅びとの間に壁を築くために来られる。


では、同性愛者を糾弾する自分たちは神の国の壁の外に追い出されないと、なぜ言えるのか?ノーマルな性とノーマルな家族をもっているだけで入れるほど神の国の入り口は広くありません。「狭き門より入れ、事実、入れる者は少ないのだから」とイエスは言いました。クリスチャンは、他者の罪やマイノリティ性よりも、それを指差す自分の手が汚れていないかどうかを確認すべきなのです。


エスは「最も小さい者にしたことが、私にしたことだ」(マタイ福音書25:31‐)と言いました。その日、あるクリスチャンが同性愛者を悔い改めさせ、ノーマルな性と家族を持たせたことを誇ってこう言うでしょう「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と。

「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』」(マタイ福音書7:22‐23)