無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

キリスト教と政治~生産性は悪か?~

前回のブログで、「生産性」への信仰が現代の偶像崇拝となっていることを書きました。


しかし、では生産性は悪なのでしょうか? 次のような反論が考えられるでしょう。「生産性が悪ならば、企業はどうなるのか? 生産性を上げて価値を生み出し、業績を上げることこそ、企業の使命なのであって、徹底的な合理化と効率化は避けられない。能力のない一匹の羊を守っても、会社が潰れて残りの99匹の羊もろとも路頭に迷うことになるのならば意味がない」。


まったくそのとうりなのであって、資本主義体制下において、企業の使命は徹底的な合理化と効率化によって生産性を上げて優良な財やサービスを社会に行き渡らせることにあります。いかに生産性がもたらす悪を指摘しようとも、社会が原始時代の自給自足のような生活に戻ることを善しとする人はいません。


では、何が問題なのかというと、企業ではなく政治による生産性への信仰が問題なのです。


企業の使命が、能力のない者を切り捨ててまでも、合理化と効率化によって生産性を追求し、利益をあげなければならないのに対し、政治の使命は、まさにそうした優勝劣敗適者生存の弱肉強食の競争からこぼれおちた人々の保護と救済を目的としているからです。


たとえば、スウェーデンフィンランドなどの北欧の福祉国家を考えてみましょう。これらの国では企業はドライに雇用を調整して労働者を解雇したりすることができます。もちろん失業は大変なことですが、しかし、労働者にあまり悲壮感はありません。なぜならば、仕事を失っても手厚い失業保険や職業訓練の機会と援助によって生活が国によって保証されているからです。企業側が適性のない労働者を囲い込む必要がないのと同様に、労働者の側も、向いてない仕事や会社にしがみつく必要はありません。


かたや日本はといえば、労働者の雇用と生活は政治ではなく、企業がまもるようにと要請されています。なので、日本の企業は適性のない労働者が「正社員」であるならば簡単に解雇することはできません。企業が適性のない労働者を「使いものになる」ように教育することがすすめられています。しかし、人間には個性があるので、教育したからといってみんなが同じ能力を発揮できるわけではありません。だから、「教育」という名のもとにパワハラモラハラ、イジメ混じりの「調教」が行われることになります。年功序列によって自動的に昇進してゆくので、すぐに怒鳴ったり暴言を吐いたりするような自分の感情のコントロールすらできない人間が管理職として適性を欠いたままマネジメントをすることになります。会社側から労働者を解雇できないので、労働者が自分から辞めるように陰湿な無視、暴言、仲間はずれが行われるようになります。そこで企業側は、ハイリスクな正社員の穴を、安くて、いつでも切れる便利な「非正規労働者」で置き換えるようになりました。しかし、この非正規労働者は、政府が「自助」を強調しているように、政治によってもまもられていません。政治が企業に丸投げして、その使命を果たさないので、日本人の体と心と絆はボロボロに傷ついています。


誰がブラック企業で働き続けたいと思うでしょうか? 日本からブラック企業がなくならないのは、政治がその使命を果たさないからに他なりません。人々がブラック企業にしがみつかなければならいのは、解雇を「クビを切る」と呼ぶのに象徴されているように、会社を離れては生活がたちまちに立ち行かなくなるからです。ブラック企業は労働者の弱みを知っているので、「この会社を辞めたら、お前の家族を養っていけるのかあ? 他にお前の年齢で雇ってくれるところがあるのかあ? 家族を路頭に迷わせたくなければつべこべ言わずにはたらけ!」と脅すことができます。会社を離れてもある程度生活が保証されているならば、労働者はブラック企業から離れる余裕をもつことができます。そして、ブラック企業は、ブラックであることを改めない限り、労働力の流出を止めることができません。


企業の使命は合理化と効率化を優先して生産性をあげ、利益をだし、社会に優良な財やサービスを行き渡らせることにあるとすれば、政治の使命は「人権」にもとづいて、そうした合理化と効率化からはじき出された人々の保護と救済にあります。政治家が「生産性」を語り「政治にも経営者目線を!」と言うとき、それらの政治家は政治のイロハすらわかっていません。


政治とは何でしょうか? たとえば国家や政府が存在しない世界を考えてみましょう。それは漫画の「北斗の拳」で描かれるような弱肉強食の世界です。法律もなければ警察もないので、「ドラえもん」のキャラクターのジャイアンが「オレのものはオレのもの、おまえのものもオレのもの」と言うように強者は強さに訴えて弱者からすべてを奪ってゆきます。そこで、奪われるばかりだったのび太君のような弱者たちは力や富を出しあって政府をつくり、軍隊や警察をつくってジャイアンに対抗します。政府のない自然状態では、法律に縛られることもなく、税金も払う必要もなく、力の及ぶ限りの自由を行使することができますが、より強い者が現れればその者に屈服させられ、すべてを奪われて奴隷状態にされてしまいます。なので、法に縛られ、税金を払うことになっても、政府に従うほうがより自由を享受することができるのです。政府は、市民によって、市民の生命や財産、自由などの「人権」を守るためにたてられるので、もし政府がその契約を守らず、暴走し、市民の人権を侵害するならば、市民は政府に抵抗して、契約を履行できる政府に変えることができます。


「人権」とは何でしょうか? その由来については諸説ありますが、形成にあたってはキリスト教文化のなかで培われてきたことは言うまでもありません。所変われば人変わる。法律や道徳は時代によっても場所によっても変わります。しかし、人間が人間である限り、時代や場所が変わっても同一で普遍的な戒律もあります。それは、聖書にも書かれていますが、聖書の時代より昔からある戒め、すなわち「自分がされて嫌なことは、人にもしてはならない」という戒めです。どんなに文化や習慣が違っても、殺されることは誰にとっても嫌なことですし、時間と労苦をかけて築いた家や家財道具などの財産が理由もなく奪われることは嫌なことですし、自由が奪われて奴隷になることは嫌なことです。法や道徳などの文化や習俗の違いはそれぞれあれど、こうした生命、財産、自由を守る権利はすべての時代や土地を越えて普遍的であって、人間がつくった法ではなく、創造の時から神によって人間に刻まれた法、すなわち「自然法」です。


「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.その正当な権力は被統治者の同意に基づいている.いかなる形態であれ政府がこれらの目的にとって破壊的となるときには,それを改めまたは廃止し,新たな政府を設立し,人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方でその政府の基礎を据え,その権力を組織することは,人民の権利である」(アメリカ独立宣言より抜粋)


したがって、どんな権力者であっても「自然法」である生命、財産、自由を守る権利を侵害する者は、人間に対する罪なだけでなく、それを人間に与えた神に対する反逆であって、神の前での罪なのです。自然法は万民に適用されるので、もちろん社会のなかの最も無力で小さい人々にも及びます。だから、社会のなかで生活を再建できないまでの貧困が存在し、奴隷状態で働いている人がいるとすれば、彼らは神によって与えられた権利が侵害されているので、政府は彼らを放置することは許されません。放置されているとしたら、それは政府の怠慢なのであって、貧者の自己責任ではありません。


政府が社会福祉のために富裕層に課税しようとすると、富裕層は必ず「財産権の侵害」と言って反対します。しかし、一方の権利の尊重が、他方の権利の侵害になる場合、その要求は正当ではありません。一方に富が集中し、他方には生活を維持できないほどの貧困があるならば、富が独占されることによって一方の生存、財産、自由の権利が侵害されているからです。人はその能力と努力によって財を獲得し、その財の所有権はその人に属します(獲得した財がすべて努力の成果ではありませんが!)。しかし、それが他の人の財の獲得の機会を奪うほどの独占であった場合、それこそ財産権の侵害なのです。神の前では誰もが幸せに生きる権利があるのであって、ひとり占めは神が万民に与えた権利の侵害なのです。これは、ユダヤ教の頃からの伝統なのであって、ミレーの絵画「落ち穂ひろい」に描かれているように、土地を持たない貧者が飢えることがないように、畑の作物は全部収穫せず残しておかなければならないのです。


「あなたがたの地の実のりを刈り入れるときは、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの刈入れの落ち穂を拾ってはならない。あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記19:9‐10)

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ジャン=フランソワ・ミレー作「落ち穂ひろい」*この絵に描かれた人々は収穫しているのではなく、貧しい人のために残しておかれた落ち穂をひろっている。


私たちが生きている民主主義的な政治は、このような宗教的、哲学的伝統の果てに存在しているのであって、無宗教、無思想の権力ゲームなのではありません。日本の政治が、権力ゲームに堕しているとすれば、「和魂洋才」というスローガンのもとに、民主主義政治のカタチだけを真似して、その宗教的、哲学的伝統の「核」であるようなエネルギーの源泉を学ばなかったからです。日本人は温厚で秩序を好み、平和を愛する優れた文化をもっておりますが、それだけでは正義や公正や真実のために命懸けで権力者に抵抗する「預言者エートス」は身に付かなかったのでした。


いうまでもなく選挙などの民主的手続きによって成り立つ民主主義の腐敗は、主権者である国民自身の腐敗であって、民はその民度にふさわしい政府をもつ。この意味で、「暴君や腐敗した政府は愚かな民を罰するための神の鞭」という神学的解釈は民主主義社会においてこそ当てはまる。一人の傑物が政治家になったからといって社会は変えられないし、高い投票率は何ら政治的な成熟を意味しない。投票に行く全ての人が合理的な選択をするわけではありません。権力者はプロパガンダや煽動によって高い投票率を自分に向けさせる術を心得ている。仮想敵をうちたてて「韓国ガー!中国ガー!今こそ政府のもとに一丸となって危機を乗り越えよう!批判したり、分裂を促す連中は非国民であり敵対勢力だ!」と言って求心力を高めることもできる。


何が政治的なことなのでしょうか? 選挙における出馬や投票ではありません。政治的なこととは、常に誰かと「私たちはどんな社会に生きることを望むか? 」「善き生とは何か?」について語りあうことです。ちょうど、腐敗したアテナイの民主政下においてソクラテスが問いかけたように、個人の「魂への配慮」なくして善き社会はありえません。


「わたしは、アテナイ人諸君よ、君たちに対して切実な愛情をいだいている。しかし君たちに服するよりは、むしろ神に服するだろう。すなわち、わたしの息のつづくかぎり、わたしにそれができるかぎり、けっして知を愛し求めることはやめないだろう。わたしは、いつだれに会っても、諸君に勧告し、言明することをやめないだろう。そしてそのときのわたしの言葉は、いつもの言葉と変わりはしない。『世にもすぐれた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大なポリスの人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか、評判や地位のことは気にしても思慮や真実のことは気にかけず、魂をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず心配もしていないとは。』…つまり、わたしが歩きまわっておこなっていることはといえば、ただ、つぎのことだけなのです。諸君のうちの若い人にも、年寄りの人にも、だれにでも、魂ができるだけすぐれたものになるよう、ずいぶん気をつかうべきであって、それよりもさきに、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならない、と説くわけなのです。そしてそれは、いくら金銭をつんでも、そこから、すぐれた魂が生まれてくるわけではなく、金銭その他のものが人間のために善いものとなるのは、公私いずれにおいても、すべては、魂のすぐれていることによるのだから、というわけなのです。」(プラトンソクラテスの弁明」田中美知太郎 訳)


あなたはどんな生を望むのでしょう?勝ち組となって成功者となることでしょうか? しかし、いつも競争に勝てるわけでも、健康な体や心が永遠に続くわけでもありません。これから日本は人口も経済も縮小して椅子取りゲームの椅子が少なくなってゆくように勝ち組の枠も狭く、少なくなってゆきます。「今だけ、カネだけ、自分だけ」では、自分も自分の家族も守れない時代になりつつあります。たとえ、あなたは成功者として終えることができたとしても、あなたの子供や孫や家族はどうでしょう? 勝ち組になるべく教育や投資をしても、怪我をして障害を負ってしまったり、重圧のなかで精神を病んで競争から外れなければならなくなるかもしれません。そのとき、あなたが望んだ社会があなたとあなたの家族を切り捨ててゆきます。あなたは本当にそんな社会を望むのでしょうか? それとも、あなたとあなたの家族がどんな立場になったとしても守られ、大切にされる社会を望むのでしょうか?