キリスト教は愛と「ゆるし」の宗教だといわれます。
しかし、キリスト教に馴染みのない人々は「許してしまったら、悪はどうなるのか?野放しにされた悪はますます増長するのではないか?」と疑問に思います。そこで、あるクリスチャンは「いや、許されるのは神の前であって、人の前ではしっかり罪は指摘されて指導されなければならない」とか、「いや、許される罪と許されない罪があるのだ」と言って、かつてのパリサイ派が聖書に対してそうしたように、「どこからが許される罪で、どこからが許されない罪か」の煩雑な律法の目録をつくって人を裁き回ることになります。それで、キリスト教に馴染みのない人々は「あれ? キリスト教は愛と許しの宗教じゃなかったっけ?」と、また疑問に思います。
「許し」と「赦(ゆる)し」は違う、というクリスチャンがいます。「赦(ゆる)し」は、赦免という言葉があるように罪の責任を問わず罰しない、という意味だが、「許し」は許可という言葉があるように、罪や悪を見過ごして承認するという意味に誤解される、というわけです。最近の聖書の翻訳では「赦(ゆる)し」に統一されているようです。
しかし、日常言語で「あなたを許してあげる」と言うとき、罪や悪の責任を問わないという「和解」意味で使われるのであって、罪や悪の許可や承認を意味しません。なので、別にどちらの漢字を使ってもよいのです。それなのに、わざわざ難しいほうの非日常言語にこだわると、キリスト教に馴染みのない人々からすれば、ますます敷居の高い「お高くとまった意識高い系」の宗教に見えて敬遠されることになります。聖書やキリスト教を人々に身近に感じてもらいたければ、わざわざ難しい漢字や言葉を用いないで、人々が実際に使っている言葉で語りかければよいのです。わざわざ難しい言葉にこだわるのは、日本のクリスチャンが「身内」の視線しか関心がなく、同じクリスチャン同士の内輪で語りあっているだけで、キリスト教に馴染みのない人々へ語りかけることへの関心が薄い「閉鎖的な」傾向のあらわれであるかのように思います。
「ゆるし」というのは、悪を放免することではありません。成された悪や被害を忘れることなど誰にもできない。
そうではなく、「ゆるし」は悪に対する別の異なる戦いなのです。「ゆるし」は、人間に対する戦いではなく、人間に悪を行わせる「見えない力」に対する戦いなのです。
「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。 」(エペソ6:12)
オウム真理教を絶滅させたところで、第二、第三のオウム真理教がでてくるでしょう。テロリストを死刑にしたところで、また新しいテロリストが生まれてくるのを防ぎはしません。
悪や罪に対する勝利は、悪人や罪人の絶滅ではなく、悪や罪を行わせる「見えない力」、たとえば貧困や偏った社会システムとその文化、また幼小期や少年期に受けた虐待やいじめによる虚無や、他の様々な力に対する勝利なのです。その勝利は、悪や罪を犯した人からの「私は間違ったことをした…」という心からの告白をもって果たされる。
その戦いは、たえまのない対話と議論と調査を必要とします。悪人が憎いでしょう。罪人が憎いでしょう。しかし、対話や理解(この場合の理解は、相手のありのままを受け入れるという意味での理解ではなく、相手の行動や思考の原因を理解するという意味での理解)の努力を拒んで死刑にほうりこんでしまえば、気分はスカッとしますが、悪や罪を行わせた見えない力は無傷のまま隠蔽されてしまう。
イエスは「ゆるせ」と言いましたが、イスラエルとすべての人間の罪に対して死にいたるまで対峙し続けました。もし、イエスが罪を許さなかったなら、「もう、お前たちなんか知らない! 勝手に滅びてしまえ!」と言って弟子たちと一緒に遠くに離れて暮らしたでしょうし、十字架にかけられることもなかったでしょう。しかし、イエスはイスラエルと人間の罪に対して死にいたるまで対峙し、関わり、対話を続けました。それが、イエスの「ゆるし」だったのです。
「パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 」(マルコ福音書2:16‐17)
「愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。 悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」 (ローマ12:19‐21)
愛(アガペー)が人間の罪や悪に対峙すれば、それは十字架の犠牲へと至らざるをえません。
人間の罪や悪に対峙し続けるイエスの生そのものが「ゆるし」であり、また、そうであるがゆえに十字架へと至ることが避けられない生でありました。神によって見捨てられたかのような傷ついて孤独な十字架上のキリストは、「神は罪人を見捨てない」というメッセージだったのです。
「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。」 (ルカ福音書23:34)
「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。 …わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18・21‐32)
人を生(活)かすために、傷つき、命までも注ぎだすこと愛(アガペー)と言います。人間の親だって、自分の子供を見捨てないためならば苦しみと貧しさと孤独を負ったりもします。人間の親が自分の子供を愛するのは、その子が自分のエゴと肉体の延長であるがゆえに愛するので、時にはその犠牲や献身が独善や悪となることがあります。しかし、神の愛(アガペー)は、人間から罪や悪をとりさって、キリストに似たものとさせるために、御自身のひとり子を十字架の犠牲へと引き渡されるのです。
「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 」(第二コリント5:21)
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(第二コリント8:9)
「こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。 」(第二コリント4:12)
「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」(ガラテヤ4:19)
罪人を見捨てないために、キリストは神に見捨てられねばならなかったのでした(マタイ福音書27:46)。しかし、キリストは「復活」する。そして、キリストの「復活」は、私たちの「新生」をも意味する。イエスが十字架の死に至るまで私たちの罪や悪に対峙し続けたので、イエスの体と共に私たちの罪の旧い体が死に、イエスの復活とともに、私たちも義に生きる新しい体へと復活するのです。そして、復活したイエスは新生した私たちと共に、私たちをその肢体(からだ)として、この世界に生きている。これを「教会」と呼びます。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」(ガラテヤ2:20)
「わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。 」(第二コリント5:14‐15)
「教会」は、「○○教会」と看板があるところにあるのではなくて、十字架上のキリストと共に旧い生が殺されて罪がゆるされ、復活したキリストと共に新しい生を歩むすべての人のところにあります。
「しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」 (ガラテヤ6:14‐15)
キリスト教の「ゆるし」は、罪や悪の放免ではなく、その滅却であることは、キリストであるナザレのイエスの生においてあきらかにされる。愛(アガペー)と「ゆるし」と十字架と復活、これらはキリストの生において1本の糸でつながれている。キリスト教の「ゆるし」は、罪や悪をそのままにして許すのではなく、十字架の死にいたるまで罪人を見捨てない神の愛(アガペー)で罪人を浄(きよ)めることによって「ゆるす」のです。