無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

あらためて「無」教会について~生けるキリストと野生のクリスチャン~

「また言われた、「神の国は、ある人が地に種をまくようなものである。 夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 実がいると、すぐにかまを入れる。刈入れ時がきたからである」。 」(マルコ福音書4:26‐29)


「あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。 (ヨハネ福音書3:7‐8)


「野生のクリスチャン」または「野良(のら)クリスチャン」、あるいは「おひとりさまクリスチャン」と呼ばれる人々がいます。彼らは教会に行けない、あるいは行かないけれども聖書を読み、ナザレのイエスの言葉と生き方、また使徒の証言に影響を受けて、その真理に従おうとする人々です。


彼らは洗礼を受けている人もいれば、未受洗の人もいます。私自身もまた、教会に行かず洗礼を受けていない者です。にもかかわらずキリストに捕らえられた者です。水をかぶらなければクリスチャンではない、と言うのなら、いつでも水をかぶってもよい。しかし、そんなことは何の証明にもならず、教会に行かないのだから証明を要求する人もいない。私がクリスチャンと呼ばれようが何と呼ばれようが私にとって問題ではありません。上辺よりも中身が問題であって、事実としてある聖霊の洗いと新しく生まれることこそ重要だからです。


「教会に通わなければ曲がった信仰を持つことになる」と言うのならば心配御無用。教会だって「正しい」信仰を持ったことなどないのだから。神の前で自分の正しさを主張できる教会などありません。むしろ、個人の曲がっ信仰よりも、教会の曲がった信仰のほうが教会員を同じ道に引きずってゆくぶん、なおさら悪い。


「教会」は、個人をキリストの前に立たせ、向き合わせてこそ正常であって、教会員を教会、教派、牧師のカラーに染め上げることではありません。だから、正常な教会は定住して固定したものではなく、常に流動的で生成変化のただなかにある教会であって、教会のなかに神の国があるのではなく、神の国へ向けて「旅の途上にある教会」です。神がアブラハムに呼びかけて、荒野へ召し出したように、教会も教会員としてのクリスチャンも、キリストにあって神が呼びかけたもうならば、常に外へ外へと約束の地へ向けて未知の荒野を歩むべく召されている。


「正しい」教会がまずあって、クリスチャンを正しく染め上げてゆくのではない。唯一の神がいまし、唯一の「正しい」キリストが生きて働き、ひとりひとりを招いて御自身の肢体(からだ)を建てたもうところこそ「教会」と呼ばれるものです。それは、キリストにあって集まり、キリストにあって「この世」に派遣されるべく散ってゆく間柄です。


だから、本質的には壁のある教会など存在しない。生けるキリストに壁などないのだから。キリストが生きており、教会の壁なぞ無関係に、あらゆる時間と場所で聖書の証言を通して、人々を招いて御自身の肢体(からだ)を建てたもうのだから、キリストが生きて働いているこの世界のすべてが「教会」と呼ばれるべきものです。この社会と、この世界のすべてが「教会」と呼ばれるべきものです。なぜなら、キリストは「ここ」でも「あそこ」でも生きており、また働いているからです。


「野生のクリスチャン」の存在は何を意味するのでしょう? 教会のクリスチャンが野生のクリスチャンを語るとき、子供の世話をすることのできない親が持つような負い目を語ることがあります。本来ならば教会に属すべきクリスチャンが、教会の数が少なく、規模も力も小さいがゆえに、包摂できないことが申し訳ない、というわけです。野生のクリスチャンは、保護者のいない孤児だというわけです。それは、教会のクリスチャンにとっては「哀しい知らせ」なのです。


しかし、「野生のクリスチャン」の存在は決して哀しい知らせなどではありません。それは、むしろ教会の外でもキリストが生きて働いていることの知らせであって、キリストの復活を示す「喜ばしい知らせ(福音)」なのです。教会のクリスチャンや牧師の努力と頑張りとは無関係に、自生的に野生のクリスチャンが生まれ、聖書が読まれ、福音が語られ、キリストに従おうという人々が現れているということが、キリストが生きて働いていることの事実。


キリスト自身が働いて、教会の外に御自身の肢体(からだ)をたてられる。親はなくとも子は育つ。教会がなくともクリスチャンは育つ。植物がひとりでに芽を出し、実をむすぶように(マルコ福音書4:26‐29)。聖霊の風が思いのままに人を新しく生まれ変わらせるように(ヨハネ福音書3:7‐8)。「野生のクリスチャン」の存在は、路傍の石に福音を叫ばせ(ルカ福音書19:40)、石ころからアブラハムの子孫をおこし(マタイ福音書3:9)、死人をよみがえらせたもう神の力である「生けるキリスト」を証しするものです(ヨハネ福音書11:23‐45)。


もちろん、壁のなかの教会だってキリストの復活と生きて働くキリストを伝える。にもかかわらず、「教会の外に救いなし」と主張したり、野生のクリスチャンを「にわかクリスチャン」のようにみなすことは、復活して生きて働いているキリストを否定するものではないでしょうか?


キリストを教会の壁のなかに閉じ込め、正規の教育を受けた聖職者・教職者を通してのみキリストが働くことを教える者は、キリストの復活と自由を否定するものです。キリストが復活して、死から自由になったことを宣べておきながら、教会にある十字架の置物のように、キリストが十字架に釘付けられたまま、動かず、語らず、ただうなだれているだけの姿でいることを求めることは、キリストの復活を拒否するものです。


たしかに、過去の時代に多くの人が文字を読めず、聖書の写本も限られた数しかなく、教養のある訓練された聖職者によってしか人々が聖書に触れる機会がなかった時代には、「教会の外に救いなし」と言えたかもしれません。教会に通い、聖職者の説教と解説によらねば多くの人は聖書を知ることができなかったのだから。


しかし、マルティン・ルターたち宗教改革者と印刷技術の発展により、自国語で誰でも聖書に触れることができるように、教会の聖職者から一般民衆へと聖書が民主化されて以降、壁のある教会にのみ救いを限定することは、時代錯誤以外の何ものでもない。聖書によって証言されたキリストは、それ自体によって人を救う力をもつ、という信仰こそ、聖書を聖職者の手から民衆へと開放する精神ではなかったのでしょうか?


強調すべきは生きて働くキリスト。野生のクリスチャンの正統性を保証するものは、生けるキリスト。キリストは生きて働くゆえに見える教会に縛られない。そして、生きて働くキリストに従うゆえに、教会員として教会に通うクリスチャンも、無教会の野生のクリスチャンも教会に縛られない。どのような立場のクリスチャンも、生きて働くキリストに従うゆえに本質的には「無」教会であらざるおえない。


壁のなかの見える教会は、教会員が少なくなり、牧師もいなくなり、看板も外されて伽藍堂になることもあるでしょう。そして、これからますますそうなるでしょう。洗礼者ヨハネがイエスを「彼は必ず栄え、私は衰える」と言ったように(ヨハネ福音書3:30)、時の徴は教会の凋落を告げしらせる。しかし、生きて働くキリストの肢体(からだ)としての「教会」は廃れることがない。キリストが永遠であるように、彼の民もまた、永遠であるからです。