無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

健全という病、救済という虐待、善意という傲慢

古い記事ですが、mixiに投稿されていた記事です。「人を健康にするという傲慢さ」というタイトルの記事です。

 

以下、引用

「人を健康にするという傲慢さ

mixiユーザー
2008年05月21日 14:50
カウンセラーや臨床心理士を目指す若い方とお話をする機会が多いのですが、最近よく聞く話があります。

みんなとても向上心が高く、やる気に溢れていて、困っている人を助けたいという熱い思いを持っている事は悪いことではないのですが、たくさんの人を助けたい、すべての人の心を健康にしたい、ということを言います。

一見、とても素晴しい志のように思うのですが、よくよく考えてみると、これはとても怖いことだなって思います。

何が怖いのかというと、「心の健康」というコトバを通して、コントロール/支配ということをすることができるからです。健康であらねばならない、という単一化された価値観に染められてしまい、健康ではないことが悪いことになってしまいます。

そして、健康ではない人を、カウンセラーという名の警察官が、カウンセリングや心理的援助という名の牢屋に入れることとイコールになります。

言い換えるなら、心理学が市民支配に悪用されるということですね。

健康であることが本当に良いことで、健康ではないことが悪いことなのか、もう一度考える必要があるように思います。というのも、人間の心というものは多様性のあるもので、個々それぞれで機能や構造に違いはあれども、良し悪しといった価値観を部外者が決定することではありません。

それを、健康ではないから治療する、といった事はとてもおこがましいことです。

さらに、これらの思想の背景には、私は正常で、あなたは異常であるといったとてもナルシスティックな幻想が隠されています。そして、異常というレッテルを貼り、排除しようとしているのでしょう。

しかし、物事には、裏があるから表がある、夜があるから昼がある、陰があるから陽がある、のです。そして、これらの逆もまた真です。

もちろん、機能不全を起こし、苦しんでいる人はたくさん居られるし、その方々を放置しろ、ということではありません。心理学をうまく使い(上記のような悪用ではなく)、サポートすることも大切です。もちろん、主体は苦しんでいる方です。

さらに、コミュニティでのネットワークやコミュニケーションを活性化させることも大切でしょう。おこがましいカウンセラーではなく、コミュニティで支えあえる社会になり、カウンセラーといったものがなくても構わないという方がより健全にも思えます。言い換えるなら不健康でも健康に暮らせるということでしょうか(もちろんこう構想には僕の価値観も入っているので、これが絶対的に正しいということではありません)。

カウンセラーをするとか、人を健康にする、といったことはとても傲慢なものです。ましてや全国民を健康に!とかいうのは健康というお題目を掲げたファシズムでしょう。優性思想の現代ヴァージョンと言っても良いでしょう。これらのことをもっと自覚することが大切だと思います。一番性質が悪いのは、100%の善意を持っている傲慢さに無知なカウンセラーです。」

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=59636&id=31277963#:~:text=%E4%BA%BA%E3%82%92%E5%81%A5%E5%BA%B7%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86,mixi%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC

 

ここにあげられているのは、主に精神医療に関する指摘だと思われますが、様々な分野のことについてもいえることだと思います。

 

とりわけ、宗教においてクリスチャンというのは、真剣な人であればあるほど善意の塊になりがちです。イエスが語った隣人愛に忠実に生きたい。「地の塩、世の光」として社会の役に立ち、人々に尊敬され、神の栄光をあらわす生き方をしたい。喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣く愛に満ちた生き方をしたい。

 

それ自体は美しいことです。何も非難されるべきことではありません。しかし、同時に聖書は、善意の塊である人間が、その善意のゆえに、最悪の結果を招くこともあることを教える。

 

健康で、健全な生活をさせようとして、かえって鬱病にさせ、社会で活躍できる有能なエリートに育てようとして、かえって引きこもりにさせてしまう。天国へ導こうとして、かえって地獄の子にする。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。 」(マタイ福音書23:15)

 

聖書は、人間のなかには、人間にはコントロールできない「罪」の力があり、その「罪」の力が人間の善意や良心、律法、道徳などを用いて真逆の悪の結果をもたらそうとする。

「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。 そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。 すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。 もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。 そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。 すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」 (ローマ7:14‐25)

 

大義のない悪はない。ことわざに「地獄への道は善意で舗装されている」とあるように、どんな悪も「あなたの未来のためなんだよ! あなたの健康のためなんだよ! この社会、この国の安全と平和のためなんだよ! あなたの霊魂の救済と神の栄光のためなんだよ!」といった「善意」に満ち溢れている。

 

教会が若者の性の放埒を問題にして掲げる「純潔教育」なるものも、しばしばその理想とは裏腹に多くの人を差別と絶望と排除に追い込んできました。ポルノに触れず、マスターベーションをせず、性的に異性を搾取する欲求が薄いとしても、自分の夢や理想や承認欲求のゆえに他者に干渉し、コントロールしようとしているとすれば、隣人を自分の「スカッと!」や「スッキリ!」とした快感のための餌食としていることであって、性的搾取と変わりがない。そして、性的には「純潔」をアピールするクリスチャンや教会も、この点においては節度の欠けるところが多い。

 

自分が他者について何かを変えられると思い込んでいるとすれば、それはもうカルト化の黄色信号だと思う。キリスト教は、人間がその善意や努力によって「神の国」が成し得るとは教えない。多くの人を救い得ると思っているときには、実際には誰も救いえていない。かつて「天皇陛下万歳!」と叫んでいた人々が一夜にして「民主主義万歳!」と手のひらを帰したように、一夜にしてクリスチャンとなった人々は、一夜にして無神論者にもなるでしょう。

 

「罪」についても、何かの依存性についても、良くなったり悪くなったり、浮き沈みをくりかえす。一生涯付き合わなければいけない。まさに、それは当時者にとっても、周りでサポートする者にしても「十字架」であって、 家族ですら投げ出しかねない他者のそのような「十字架」を共に背負うことに一生涯をかけられる人間は多くない。

 

たった一人の人の肉体と魂の救済は、一生涯をかけた大事業であって、キリストの背負った十字架と同じく、自分も自分の人生をかけて、付き合わなければならない。すべての人の体と心と魂の救済というけれども、たった一人の人間の救済ですら、他人が人生の片手間で関われるほど軽いものではない。相手の人生と共に、自分の人生も破滅してよいという覚悟がなければ、他人について何ほどかのこともできない。人間を簡単に変えられると思うのは、十字架なしに罪を贖えると思うような人間の傲慢だと思う。

 

何もできないし、何もしなくてもよいということではありません。「十字架」の重さと痛さを引き受ける覚悟と厳粛さを欠いた善意は、容易に反対のものに変わる。「これだけ私が人生の時間と労力を費やして、あなたに尽くしてあげたのに、どうしてあなたは変われないの!」と。

 

聖書に「放蕩息子の譬え」があるように、私たちは誰もが罪と弱さによる困窮と孤独のなかにある放蕩息子として、私たちを抱擁すべく帰還を待つ父の愛のなかにあり、また、そのような父の愛に倣いつつ、自分の罪と弱さと、他者の罪と弱さとを担い、神のもとに帰るまで許し、信じ、希望し、忍耐して待ち続ける。

「また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。 しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」 (ルカ福音書15:11‐32)

 

聖書においては、たった一人の罪人が神のもとに帰るだけでも天に大きな喜びがあることを教える。たった一人の救済。その「ひとり」は、自分自身であり、また、あなたの隣りにいるたった「ひとり」の隣り人でもある。そのたった「ひとり」のためにキリストは十字架上で、たった「ひとつ」の生涯を捧げた。多くの人を救えなくてもよい。多くの人を神のもとに導けなくてもよい。体と心と魂の救済は、一回きりの全人生をかけた大事業だから、自分自身の救済も一生涯をかけた大事業だし、あなたのたった「ひとり」の隣り人の救済も、キリストが人生を捨てて背負った十字架と同じく、一生涯をかけて付き合わなければならない。自分自身を含めたたった「ひとり」を神のもとに帰したのであれば、ひとりの人間としても、ひとりのクリスチャンとしても、神の前で成すべき全てを成したのです。そのとき、天において大歓声があがるでしょう。

「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。そして、見つけたなら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『わたしと一緒に喜んでください。なくした銀貨が見つかりましたから』と言うであろう。よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。 」(ルカ福音書15:4‐10)