無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

怪獣大戦争~何が怪物を生み出すのか~

今年の夏、日本の政治史において最も長いあいだ総理の職をつとめた元首相が銃撃のすえに亡くなるという事件がありました。事件のあと、政治家たちが口を揃えて「民主主義への挑戦」といってテロ行為を批判するコメントを表明しました。


しかし、ここ10年間の日本の政権の有り様を知っている人は思ったはずです。「力で民主主義を歪めてきたのは誰だったのか?」と。


目に見えるナイフや銃だけが暴力なのではない。さまざまな見えない権力を行使して役人や政治家に圧力を加え、「こちらの言うことをきいてくれたらどうなるか。 反対したらどうなるか。……………わかるよねぇ?」と無言の忖度(そんたく)を誘って、権力に蝿のように手をすりゴマをすって群れ集まってくる悪友(オトモダチ)に便宜をはからせ、力の弱い虐げられた人々のか細く小さい声を押し潰してきたのは誰だったのか?


悪友(オトモダチ)の利権を優遇し、本当に支援が必要な人々の声を無視し、聞こえないふりをしてきたことを「民主主義への挑戦」と言わないで何と言うのか? 権力の私物化、これこそ、この10年のあいだ日本を支配してきた政権の有り様だったはずです。虐げられた貧しい人々が声をだしてもかきけされ、暴力に訴えねばならないほどの窮状を放置してきたのは誰だったのか?


何が「怪物」を生み出すのか? テロ行為や社会への復讐のためにむき出しの暴力を行使する「怪物」を生み出し、そのような「怪物」が生まれるような窮状にいたるまで人間の生活を喰い漁る巨大な「怪獣」を放置し続けたものは何なのか?


「テロリストが悪い」と言うのは容易い。また、「テロを生むような政治が悪い」と言うのも容易い。しかし、そのような政治を支持し、放置してきたのは誰だったのか? 誰もこのような事件に対して無関係だと言える人はいない。腐敗した政権にしても、人を食いものとするカルト宗教にしても、このような「怪獣」に餌をやり、養い続けてきたものは何だったのか?

 

人は誰しも幸福を求める。そして、「宗教は人を幸福にするもの」と言われる。そのとうりである。しかし、誰もが幸福(だけ)を求めたらどうなるか? 私たちがだす生活のゴミは消えてしまうのではない。そこにはゴミを集める人がおり、ゴミを処理する人がおり、またゴミは消えてしまうのではなく別の物質となって再利用されるか、大地に残る。幸福も純粋な幸福などがあるのではなく、誰かが安全、安心、便利、快適な生活を求めれば、別の誰かががそのような生活を支えるためのコストとリスクを担う。


当然、人が純粋な幸福(だけ)を求めれば、その幸福な生活を支えるための痛みや労苦は誰か他の人にやってもらったほうがよい。こうして「幸福」を金科玉条とする社会は、みんなが純粋な幸福を求める結果、その幸福な生活を支えるコストやリスクは社会のより弱い立場の人々にしわ寄せさせられることになる。こうして、人類史のうえで奴隷制の存在しない社会はなかったし、また、かたちのうえでは奴隷制を廃した社会でも、誰もが嫌がるようなキケン・キツイ・キタナイおまけに低賃金の仕事は、貧しく立場が弱いがゆえに職業選択の選択肢が少ない人々に押し付けられることになる。それも、カタチのうえでは対等な「自由意志による契約」となっているため奴隷的な境遇は隠蔽されている。しかし、たとえ制度としての奴隷制が廃止されており、カタチのうえでは対等な自由意志による契約となっているとしても、契約を拒否できるほどの多くの選択肢がなければ自由な選択とはいえない。「条件を受け入れないなら、ホームレスになるか飢え死にするしかないかもだけど、それでもNOと言うのぉ?」と(無言の空気で)圧迫されることができるような不均等な力関係のうえでの契約では選択肢はないに等しい。それは契約ではなく、実質的には脅迫であり、奴隷化である。「仕事を選ぶなんて贅沢だ。条件を問わなければ仕事はいっぱいある」と人々は言う。かくして、劣悪な待遇の奴隷状態が社会的に最も弱い立場の人々に押しつけられる。誰にとっても必用不可欠だが、誰もが嫌がる仕事は、逃げ場をもたない貧者に押しつけるのではなく、待遇と社会的評価を上げて、誰にとっても重要な選択肢のひとつとなるようにすべきだ。


ひたすら人間から痛みや苦しみを取り去り、安心、安全、便利、快適な純粋な「幸福」を追求ことは、一見正しく聞こえる。「みんなを幸せにしたい!」と表明すれば、誰からも共感され、称賛される。しかし、人間の間には権力の上下関係があるため、誰もが純粋な幸福を求めれば、幸福に必要な資源は権力的に優位な「上級(または中級)国民」に独占され、権力的に劣位の人々には、上級国民が消費する幸福のための資源を生産するコストやリスクだけが押し付けられる。そして、最も弱い立場の人々とは、未来に存在することは確実なのに、今、現在に自分たちのために声をあげることのできない、これから産まれてくるであろう未来の子供たちでもある。


したがって、「みんなを幸せに!」と主張するからには、権力的に優位な上級(または中級)国民が独占している幸福のために、その幸福を支えるコストやリスクを押し付けられている弱い立場の人々の「幸せ」をも考えなければならない。そうなると、当然、万民に等しく純粋な幸福を約束するというわけにはいかない。権力的に劣位な弱く貧しい人々に社会のコストやリスクが一方的にしわ寄せさせられないように、権力的に優位な上級(または中級)国民には幸福だけではなく、幸福を支えるための痛みや苦しみをも共に背負うことを要求し、覚悟してもらわなければならない。そうでなければ正義や公正は成り立たない。


こうして、伝統的な宗教というのは、誰彼かまわず万民の幸福を保証し約束するものではなく、虐げられた貧しい人々の「幸福」のためにも、権力的に優位な上級(または中級)国民にも「痛み」を要求するものであった。


「すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイ福音書19:16‐24)


神が直接支配する「神の国」には、貧困も奴隷も存在しない。神の国(支配)が地上に来ることを願い、祈るならば( マタイ福音書6:10)、貧困や奴隷化をなくすために富者や権力者には貧しい人々のために「痛み」を負うことを要求するのは当然であって、曖昧な説教は許されない。神の子が人となって貧者のひとりとなり、十字架の死に至るまで、最も小さくされた人々に仕えたように、最も偉い人は最も下に降って、最も小さくされた人々の僕となって彼らに仕えなければならない。


「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 」(フィリピ2:6‐11)


「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ福音書10:42‐45)


「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。( マタイ福音書25:31‐46)


エスの宣教の第一声が「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」であったように、転回(悔い改め)の「痛み」をへずして神の国を受け継ぐことはありえない。神の国が貧しい人々のものであるのは、「この世」の不正によってもう十分「痛み」をへているからであって、正義の支配する神の国を待ち望むつつ、現生によってすでに神の支配のなかにいるからである(ルカ福音書16:19‐31におけるアブラハムの懐に召された乞食のラザロを見よ)。しかし、「この世」に居場所を持ち、すでに慰めを受けている富者や権力者は、福音宣教による悔い改めの要請によって、貧しい人々のために「痛み」を引き受けてもらわない限り、彼らが神の国を受け継ぐことはありえない。したがって、誰にとっても甘く耳ざわりのよい祝福や繁栄の約束や幸福の説教ばかりすることは、聖書によって啓示された真正の神ではなく、自分たちの欲望や願望のためにつくりあげたバアル(偶像)に仕えている偽預言者にすぎない。「痛み」をへずして神の国を受け継ぐことはない。十字架の痛みを伴わない罪の贖いも、愛(アガペー)も正義も公正も、「この世」には存在しない。


「わたしはだれに語り、だれを戒めて、聞かせようか。見よ、彼らの耳は閉ざされて、聞くことができない。見よ、彼らは主の言葉をあざけり、それを喜ばない。それゆえ、わたしの身には主の怒りが満ち、それを忍ぶのに、うみつかれている。「それをちまたにいる子供らと、集まっている若い人々とに漏らせ。夫も妻も、老いた人も、年のひじょうに進んだ人も捕えられ、彼らの家と畑と妻とは共に他人に渡る。わたしが手を伸ばして、この地に住む者を撃つからである」と主は言われる。「それは彼らが、小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている。 」(エレミヤ書6:10‐14)


「そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。」(ルカ福音書6:20‐26)


本当に幸福な社会には、人が十字架の痛みを互いに背負うことが避けられない。しかし、同じく神を信じ、キリスト教を名乗っているにもかかわらず、十字架を否定する宗教がある。元首相を暗殺した青年の家庭を破滅に至らせ、暗殺された元首相を含めた政治家の権力を利用して勢力拡大を狙う、昨今問題になっている某キリスト教系カルト宗教がそれである。


かの宗教は、教理としてはナザレのイエスの十字架の救済の否定によって特徴づけられる。いわく、ナザレのイエスは人間を霊的には解放したけれども、「この世」の肉における生の解放は十字架の死によって挫折した。したがって、キリスト教における十字架の贖いは、完成ではなく途上であって不完全。そこで、再臨のメシアである文鮮明(と彼らは主張する)がキリストによって「この世」の肉の生の救済と解放を委ねられた(とされている)。だからこそ、伝統的なキリスト教が富や権力の誘惑に対して常に警戒すべきことを主張してきたのとは真逆に、地上天国の実現のためならば富も政治権力も利用できるものは見境なくかき集める。


霊的な命が救われるのならば、肉における「この世」の生も救われなければならない。もちろん、貧しいよりは豊かなほうがよいし、涙よりは笑顔のほうがよいにきまっている。しかし、誰かの豊かさや笑顔が、他の誰かの貧しさや涙のうえに成り立つならば、そんな幸福や肉の救いなるものはあってはならない。事実として、「この世」では肉の救い、すなわち現世利益における幸福を求めることは、別の誰かに貧しさと涙と不幸を押し付けることになってしまうという「この世」の悪についての現実性の認識がまったく欠けている。それもこれも、彼らが救いについて十字架の「痛み」を拒否し、イエスの生涯を失敗、不完全、中途半端とみなすことに原因をもっている。


伝統的なキリスト教が「この世」における繁栄、成功、肉の救いよりも、来るべき神の国や、「この世」や肉体を越えた価値に重きをおいてきたのは理由がある。「この世」は悪魔の支配下にあるので、「この世」での成功や繁栄を求めれば求めるほど、最も小さき人々を生け贄にし、犠牲を強いることになる。「この世」の幸福は誰かの涙や痛み、奴隷化のうえに成り立つ。だから、神が自分たち(だけ)の神だけでなく、彼ら「最も小さき人々」の神でもあるならば、彼らの幸福のためにも十字架を負うことは避けられない。十字架による贖い、十字架による救いの完成の否定は、聖書による真正の神ではなく、生け贄を求めて人を喰いものとする偶像崇拝の主張となる。神の命令は、最も小さくされた人々のためにも、互いの十字架を負うことを命じられる。決して自分の十字架を捨てて幸せになることではない。十字架を不完全な救いとみなし、「この世」での肉の救いを完成させる再臨のメシア。それは、結局、彼(文鮮明)の意図が、純粋に人間を救いたいという善意のものであったとしても、結果として最も小さき人々を生け贄とするバアルの信仰となる。


「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」 (フィリピ1:29)

 

「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」(ガラテヤ6:2) 


したがって、キリスト教は、人々が目を背け、聞くのを嫌がる十字架上のキリストと、その血、汗、痛みを伝えざるおえない。そして、キリストに従うということは、そうしたキリストの十字架へと至る足跡をたどり、共に十字架の痛みを負うことだということを伝えざるおえない。もちろん、多くの人々は痛みを嫌う。キリストが命じられたように他者のために「痛み」を負うことも、キリストと共に十字架を負うことも嫌う。だからこそ、キリストがそうであったように、十字架の言葉を宣べ伝えるクリスチャンもまた受難は避けられない。クリスチャンの「この世」における受難は必定であって、霊的な命のみならず「この世」における肉の生の成功や繁栄などの両立などありえない。「あれか、これか」のいずれかであって、「あれも、これも(統一!)」はありえない。あるとしたら、悪魔の前で何かを妥協したということである(マタイ福音書4:1‐11)。虐げられた最も小さき人々が「この世」いるかぎり、人は神と富とに同時に仕えることはありえず(マタイ福音書6:24)、キリストとベリアルとの間の調和はない。


「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(第一コリント1:18‐25)


「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブライ12:2)


政治学者のトマス・ホッブズの著作に「リヴァイアサン」という著作があります。リヴァイアサンとは、旧約聖書ヨブ記41章に書かれている怪獣の名前です(訳によってはワニと訳されている)。ホッブズは、このリヴァイアサンという怪獣の名前によって、比類のない超権力としての絶対君主の国家を想定している。たとえば、日本の戦国時代のように、大小の権力者が群雄割拠するところでは、絶え間のない戦争状態であって、平和や庶民の安心した生活はないに等しい。しかし、徳川幕府による超権力による支配が貫徹しているところでは、実質的には戦争状態の一時停止による冷戦状態だとしても、超権力による恐怖の統制によって平和は実現している。諸藩の多くの武士にとっては不本意服従であったとしても、庶民には安定した生活の保証であって、まさに徳川の治世は「天下太平」の世として実現した。


徳川の治世は庶民にとっては降って湧いてきたものだとしても、ホッブズリヴァイアサン(超権力を持つ絶対君主)は、幸福で平和な日常生活を求める民衆による契約によってたてられる。インテリにとっては独裁者の恐怖政治よりも個人の自由を求めるものだけれども、自由を求めて内乱・内紛による戦争状態になれば、疲弊し犠牲になるのは一般庶民であって、庶民にとっては自由よりも安定した生活のルーティンが守られることのほうが大事であって、自由をめぐる絶え間のない権力の相対化による内紛・内乱よりも、絶対的な権力を持つ絶対君主による絶対平和による安定・安心を求める。


リヴァイアサン(超権力)の怪獣を生み、養うのは、静かに安定した幸福な生活を続けたいという民衆の願いであって、多く人々が現状の既得権益をまもりたいと思うほど、既存の権力は超巨大な権力として肥大化してゆく。たしかに、ホッブズが言うように、人々が超権力の庇護にあるうちは、超権力はまぎれもなき「地上の神」であるけれども、気まぐれな超権力は、まさに超権力であるがゆえに庇護の対象を自分で決めてしまう。当然、超権力にとって都合のよい一部の上級国民(オトモダチ)に庇護は限定され、それ以外の人々にとって超権力は、いつ自分たちに牙を向けるかわからないリヴァイアサン(怪獣)としてたち現れる。かくして、超権力の庇護を失い、見捨てられ、抑圧されて虐げられることになる人々は、超権力としてのリヴァイアサンと、そのような怪獣に餌をやり養いつつ庇護を独占する上級(または中級)国民に対して復讐するために、自分の命も含めたあらゆる手段を用いる怨嗟の「怪物」となる。


超権力によって一度は平定された戦争状態の再開、すなわち「怪獣大戦争」の始まりである。


人々が平和や安定を願い、少なくとも自分たち(だけ)は幸福で安全な生活を守ろうとするほど、超権力としての怪獣リヴァイアサンと、その権力の恣意性と、恣意的であるがゆえに庇護から外されて餌食になるだけの虐げられた人々を生み出す。そして、そのように見捨てられた人々が復讐の「怪物」として社会に牙を向ける。


私は何の話しをしているのだろう? 私は、私たちが生きている日本を含むこの世界と、この社会について話している。十字架を否定し、十字架を負う「痛み」を拒否し、十字架の贖いによる完成を否定した先は、霊と肉の「統一」による地上天国ではなく、ヨハネの黙示録で象徴されているような怪獣や獣たちが互いを喰いあう「怪獣大戦争」である! それこそ私たちの住む世界の赤裸な姿である。


悪魔の支配する「この世」では、神の国は十字架の「痛み」とともにある。それ以外の在り方はない。それ以外の純粋な幸福の国は、「この世」では、悪魔やバアルの国となる。純粋な幸福を得ようとしてむしろ、怪物たちの怪獣大戦争を「この世」にもたらす。


聖書でキリストが語ったように、自分(たち)の命(だけ)を救おうとする者は、それを失い。キリストに従うことで命を失う者は、それを得る。

「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。 (マルコ福音書8:34‐38)


人々が自分の十字架を捨てて「イマだけ、カネだけ、ジブンだけ」で幸福に生きることを求めることによって始まる「怪獣大戦争」。逆に、その牙が生きようとする彼らの胸を刺し貫くことになりましょう。そして、そのあとで、世界は十字架の死による救いの完成者、勝利者、復活者として神の右の座で支配するキリストに出会うことになるのです。


「またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。 」(マタイ福音書24:3‐14)