無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

神の存在は証明されず要請される

神の存在や死後生の存在は証明できません。それは検証できないからです。


言葉の理屈の上では説得力のあるように神の存在や死後生の存在を「もっともらしく」語ることもできます。しかし、逆に神が存在しないこと、死後何もないこともまた理屈で「もっともらしく」語ることができる。


これは、神も死後生も見えず、触れることもできないため感覚で検証することができず、検証できない事柄は言葉の上では「何とでも言える」からです。


もちろん、これは宗教だけの話しではありません。科学や経済学、哲学の多くの学説は検証されておらず、場合によっては検証不可能にも関わらず、膨大に編み上げられた言葉の理屈によって、さも実在しているかのように流通しているからです。


「納得できる」ということは物事の実在を証明しません。実際に検証できない事柄は信仰に属する。科学と神学の境界は、人が思っているほどハッキリしたものではないのです。


神の存在や死後生の存在は証明されず、信仰に属す。では、信仰とは何でしょう? それはありもしないものを、話術で「あるかのように」見せかけるペテンなのでしょうか?


ここで、哲学者のイマヌエル・カントに倣って「神の存在も死後生も、証明されず要請される」としてみましょう。


この世には、あまりに酷く、理不尽な人生を強いられた人々がたくさんいます。世界には、「乞食のラザロ」(ルカ16・19‐31)のような人々がたくさんいます。もっと酷い仕打ちを受けている人もいます。彼らの人生が、酷い仕打ちを受けた「この世」だけで終わるなら、一体何が彼らを慰めるのでしょう?


この世で何ひとつよいことを経験しないまま、孤独と貧しさのなかで死んだ彼らを何が慰めるのでしょう?


幼くして病や事故のゆえに死ななければならなかった子供たちや、産まれることも許されなかった子供たちは、何が慰めるのでしょう?


ムスリムの人々のために仕えながら、ISISのテロリストに殺害され、祖国からも「自己責任だ。売国奴だ。」と 言われ見捨てられた人々を、何が慰めるのでしょう?


「神もいない。死後の慰めもない。この世が全て。」という言葉は、恵まれた人間の独善になってしまうことはないでしょうか?


神や死後生をアテにせず、人間の力でこの世の悲劇を解決すべきだと、言われるかもしれません。しかし、この世の生活が全てであるなら、どうして自分の財産や人生を犠牲にして他者を思い遣ることができるのでしょうか?


実際、「人を助けるべきだ。ただし、私の生活が損を被らない限りでね。」と考える多くの人によって難民が追い出され、偏狭な差別的ナショナリズムが拡大しているではありませんか。


神も死後生も関係なく、善を行う人はいます。しかし、パウロが指摘するように、多くの人にとっては「死後の復活がないなら、食べたり飲んだりして人生を楽しもう。人生は一回きりなのだから」となるほうが自然でしょう。人生が一回しかないなら、他者を押しのけ、弱者を奴隷としてこきつかっても、楽しんだほうが勝ちであり、「得」ということになるでしょう。


こういうと、「神はなぜこの世の悲劇を放置しているのか?」と問う人もいましょう。これは日本的な問いです。日本の神観では人間に御利益(ごりやく)を与える神が「よいカミさま」で、主人は人間だからです。


しかし、一神教では主人は神であって、人間は「お客さま」として安楽椅子に座らせてもらうためにこの世に呼ばれるのではなく、この世の悲劇や自分自身の悪に立ち向かう使命(ミッション)を帯びてこの世に呼ばれるからです。ナザレのイエスは「神の子」でありましたが、この世に立ち向かい十字架にかけられ殺されました。しかし、イエスは「復活した」。これが、神の人間への態度です。


私たち人間が悪であり、この世に悲劇が存在する限り、神も死後の慰めへの希望も、なくなることはないでしょう。