無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

愛について〜下降するアガペー〜

前回、エロースは上昇する愛だと書きました。

 

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それに対して、アガペーは下降する愛だと言えるでしょう。エロースが下から上への上昇であるのに対して、アガペーは上から下へ向かって下降する。エロースが自己の空白(欠如)を満たすために、満ち溢れるものに手を伸ばそうとする運動であるのに対し、アガペーはすでに満ち満ちたなかから、無きに等しい貧しさへと溢れ出て、豊かに満たそうとする。



「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 」(フィリピ2:6−11)



「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(第二コリント8:9)



「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」(ヨハネ福音書1:16−17)



キリストにおける神の愛(アガペー)を信じて、天国(神の国)を受け入れた者は救いに「選ばれ」、信じないで拒絶した者は永遠の地獄の刑罰へと廃棄される、と長らく言われてきた。



地獄とは、ヘブライ語で「ゲヘナ」と言います。ゲヘナとは、「ヒンノムの谷」という意味で、実際にエルサレムの南に存在したゴミ捨て場のことです。重罪を犯したたために正式に埋葬されることのない罪人の遺体が火葬される場でもあり、昼も夜も焼却の火が絶えることはなかったといわれています。キリスト教においては、キリストを十字架にはりつけた「この世」が、見えない悪の力の支配下にあるので、神の国が「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない新しい天と地」として来たるときに、「この世」を支配する悪の力と共に「旧き世」は棄却される。この棄却を地獄(ゲヘナ)という。



しかし、無教会の提唱者であった内村鑑三は言う。「罪人の頭(かしら)である我が救われたのなら、なおさらすべての人は救われる。すべての人が救われないなら、なおさら我は救われない」と。



「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」(第一テモテ1:15−16)



内村鑑三が言うには、キリストにおける神の愛(アガペー)によって救いに「選ばれた」人というのは、「私は天国、あなたは地獄」というような選民意識に引きこもる人ではなく、神の子キリストが地上に降り、地上の最も小さき人々のもとにまで降りてこられ、そのうちの救い難き罪人のひとりである私自身をも救われたように、自分自身もまた他の罪人の平安と救済を願い、祈り、その人生のすべてを彼らと共にする人です。



天国と地獄、または救いと滅びがあるにしても、天国と救いに「選ばれた」人にとっては、万人への愛ゆえに「地獄と破滅」なんてものは、世界に存在してはいけない。彼にとっては、自分が救われたのだから、いかなる人間も救われなければいけない。地獄なんてものは存在してはいけない。そのような普遍的な万人救済の愛(アガペー)の心において、彼は救いに「選ばれている」。



「地獄と破滅はなければならない! 地獄がないと無秩序になる!」と言う人は、万人救済のためにその身を砕いたキリストとは真逆の心のゆえに、救いに「選ばれていない」。実際、彼らは救いを「知らない」。自分が救われていることを知らないから、簡単に人を「地獄いき」だなどと言えてしまう。



「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。」(ルカ福音書23:34)



「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。(エゼキエル書18:23,32)



「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。」(第一ペトロ3:18−20)



「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」(ローマ14:9)



まさに、キリストにおける神の愛(アガペー)によって自分自信が救われていることの事実と、その恵みへの感謝による応答から、地獄が空っぽであることを願い、祈る、その愛(アガペー)の心において、人は神に「選ばれている」のであって、地獄の定員割れを気にして誰かを地獄に放りこまなければ気がすまないような偏狭な心では、彼は神に「選ばれていない」。



天国と地獄があるにしても、自分が救われたように万人救済のために心と人生を捧げる「選ばれた」人の祈りと執り成しと受難において、すべての人の救済は成し遂げられる。神によるイスラエルの「選び」が、全世界の救済のための「選び」であり、また異邦人の「選び」が、神の意志に背いて悪逆非道を行うイスラエルを救うのための「選び」であるように(ローマ11章)、神の「選び」は、万人救済のための「選び」であって、「選ばれた」人々のキリストに似た愛(アガペー)によって、万人救済は成し遂げられる。



神に「選ばれた」人、すなわち「上(天国)」へと上げられた人は、まさに上へと上げられたその愛(アガペー)のゆえに、救い難き罪人の谷を下へ下へと降りてゆく。ちょうど、天に昇って雲となった水が、雨となって再び大地に降り注ぎ、渇いた大地にあまねく生命をもたらすために、より下へ下へと流れてゆくように。



「私は信心深い敬虔なクリスチャンであって、上にいる。下の滅ぶべき連中とは違う」と言う人は、その愛(アガペー)なき心によって神に「選ばれていない」。彼らは自分たちを「天国」に、すなわち「上」に選ばれると思っているとしても、なお彼らは「下」におり、過ぎ去りゆく「地べた」におる。



「我々は間近に迫ったキリストの再臨を迎えて天国に携挙(けいきょ)されるために、世を捨てて、教会で祈りと聖潔の敬虔な生活をおくろう…」と、ある教会は言う。しかし、彼らが世を捨てて教会に引き籠もって祈っているあいだに、「すでに」天国(神の国)へと上げられた人たちは、むしろ教会の外に出て、世の罪の汚泥で自分が汚れることを引き受けつつ、世に降っていってその十字架を背負う。



「なぜ、いつまでたっても主は再臨なされないのか? いつまで我々はこの汚れた世にとどまらなければならないのか?」と彼らは言う。しかし、彼らがそのように天に不満をぶち上げているあいだに、「すでに」上に上げられて天にその居場所を所有している者たちは、まさにそのことによって満ち満ちたなかから溢れ出て、貧しい「この世」にその富を分かつべく、下へ下へと降っていって、世に己の身体と心と魂を捧げている。



「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」(マタイ福音書24:45−47)



逆に言えば、「この世」の最も低いところに降り、そこにとどまって自己を与え尽くすような彼らの「豊かさ」のゆえに、彼が「すでに」この世ではなく、別の場所に自己の生命を所有していることを証明する。すなわち、すでに「永遠の生命」を所有しているからこそ、彼らは「この世」に自己の生命を与えることができる。たとえ、全世界が彼を圧し潰そうとも、「この世」は彼から何ものをも奪うことはできない。彼らは、この地上にありながらにして、その命は「すでに」天にある。



「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。」(第二コリント4:6−12)



「わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」(第二コリント6:8−10)



クリスチャンが「いつまで!」と歯噛みをしているあいだに、「すでに」選ばれて天国を所有している人は、下に降っていってキリストの歩いた足跡を歩んでいる。彼らが、実際に天国(神の国)に住むのは、はるか先の未来や死後のことであるにしても、キリストに従って己を捧げている彼らには、まさにその事実によって、天国に買った自分の家の手付金または頭金を聖霊によってすでに支払っている。



「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証(手付金または頭金)であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エフェソ1:13−14)



「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証(手付金または頭金)として御霊をわたしたちに賜わったのである。」 (第二コリント5:1−5)



「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。 」(ヨハネ福音書14:2−4)




クリスチャンたちが、自身の恵まれた境遇を神に感謝し、「神はまことにおられます! ハレルヤー!」と賛美歌を歌っている日に、愛(アガペー)は、理不尽な災害や戦争や犯罪で愛する人との幸福な日常生活を奪われた人々のもとに降り、彼らと共に神の沈黙、神の死、神の不在の夜を耐え忍ぶ。



「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マタイ福音書27:46)



「ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。」(ヘブライ2:9−10)



永遠の生命を所有しているかどうかは、クリスチャンとして洗礼を受けているかどうかとか、異言を話すかどうかとか、教会での礼拝における敬虔な信心深さではなく、「この世」の他者のために自己を捧げている愛(アガペー)によってはかられる。「すでに」得ているからこそ、捨てる。「この世」に属する者は、彼らには「この世」しかないからこそ、自分たちが生き、成功をするために他者のものを奪い、他者を食い物として成長と拡大を志向する。しかし、この世とは別に「すでに」天に所有している者は、まさに、すでに所有しているからこそ、「この世」においては、他者のために自分を与え、その命を捨てる。彼らは成長と拡大への「上昇」とは真逆に、より小さくなって小さき者たちの隣りへと「下降」する。



「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。」(ルカ福音書9:46−48)



「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 」(マルコ福音書10:42−45)



「互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。」(ローマ12:16)



天において宝をすでに所有しているというのに、「この世」にこれ以上何を望むというのか? 天において貧しい者は、「この世」で上昇を志向する。しかし、天において豊かな者は、その富を分かつべく「この世」で下降を志向する。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」からである。たとえ「この世」からゴミクズのように扱われようとも、「この世」は彼から何をも奪うことはできない。たとえ、彼は「この世」からすべてを奪われたとしても、それでも、彼はただただ「この世」のすべての人のために、その幸せと平安を祈る。



「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ福音書6:19−21)



「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(第一コリント4:9−13)

 

 

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 」(ヨハネ福音書16:33)



天国を獲得するために、天国へと上昇するためにキリストを信じるのではない。「すでに」上にあげられた者が、愛(アガペー)によって自己を与えるために下へと降る。たとえ、今の自分がどれほど不完全であろうとも、キリストに惹かれ、認めて従うことによって、キリストの歩んだ道に己の生命と人生を見出すことにおいて、復活したキリストのうちに己の新しい生命を所有している。彼はキリストだけを見ている。それゆえに、「この世」という荒波うずまく嵐の海に溺れて絶望で窒息することなく、海の上にキリストと同じ生命を所有している。彼が「この世」で、どれほど貧しく孤独だとしても窒息することなく呼吸することができるのは、まさにキリストと共に海の「上」にその命を所有しているからに他ならない。しかし、もし、彼がキリストを見失うことがあるとしたら、そのときには、世の人が貧しさと孤独で絶望のなかに窒息するように、海の「下」で溺れることになる。



「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。」(マタイ福音書14:25−31)



「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:1−3)



神に「選ばれた」人、天国(神の国)へと「聖別」された人は、まさに、「分けられた」という言葉とは真逆に、「この世」へと降り、「この世」へと混ざる。教会のなかで、「この世」に対して線を引き、壁を建てるのではなく、むしろ十字架を負うべく「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになる」ために、「この世」に降っていって、彼らの間に混ざる。彼らは、クリスチャンが理想とするようなクリスチャンではないかもしれない。神の子が人となって、人の間に混ざったように、ユダヤ人のためにはユダヤ人のようになり、異邦人のためには異邦人のようになるために、この世の前で自身をクリスチャンだと言わないかもしれないし、そもそも実際にクリスチャンでないこともありうる。それほどまでに、愛(アガペー)は、すべての人を救うために一切の壁を取り除いて相手と等しくなろうとする。



「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 」(第一コリント9:19−23)



「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27)



いつの時代も、自分たちの宗教的な聖潔さに引き籠もり、壁をたて、自分たちを「この世」とは区別して軽蔑するパリサイ派は、その「パリサイ(分けられた者)」という名称とは真逆に、いまだ「この世」としての地べたにおる。逆に、愛(アガペー)のゆえに罪の汚泥で汚れることを引きうけて、十字架を負うべく世に降る者こそ天に「分けられて」いる。愛(アガペー)は、「この世」の汚れに染まらずに「この世」に混ざり、「この世」を歩む。愛(アガペー)のゆえに大地にとどまることにおいて、彼はすでに「上」にいる。



「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。」(ルカ福音書18:10−14)



「客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 」(ルカ福音書14:7−11)



「私は上におる」という者こそ下におり、「私は下におる」という者こそ上におる。「すでに」上へとあげられている者は、まさに上である天国(神の国)の光を知っているがゆえに、その光に照らされて自分自身の汚れをも知り、自分が義人だとみなさない。それは、真実に自分の子供を愛する親が、「私はもう十分お前を愛してやった!」とはいわず、むしろ「お前にこれもしてやれなかった…、あれもしてやれなかった…、不甲斐ない親である私をゆるしてくれ!」と嘆くように、愛(アガペー)は、いつも愛することにおいて飢え渇いており、常に愛することにおいて貧しい。そのような、渇きと貧しさのゆえに、彼はより下へ下へと降る。その愛(アガペー)の貪欲さのゆえに、彼は自己義認とは無縁であり、常に目を「下」に向けてうつむきながら胸を打つ。そのような自己の至らなさの自覚ゆえに、それが、むしろ彼が「上」の光のなかにあることを証明する。



「イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」(ヨハネ福音書4:34)



「そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。」(ヨハネ福音書19:28)



「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」(ルカ福音書17:7−10)



「こころ(霊において)の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ福音書5:3)



上が下に、下が上に。先の者が後に、後の者が先に。このような聖書的逆説は、「大乗」をとなえる仏教徒上座部の出家主義を「小乗」として批判したときに、クリスチャンよりも的確に理解していた。いわく、「自己の救済を目指して世から隔絶された山奥の寺院に、同じ志を持つ同志たちと引き籠もり、また世俗の煩わしさを離れて煩悩の波ひとつない精神世界の涅槃に安らうことは、それがどれほど高度な禁欲的実践をともなっているとしても、それは、やはりいまだ『敬虔な利己主義』、または『洗練されたエゴイズム』であって、まだ『自己』に囚われていることではないか? 本当の覚者(ブッダ)は、他者の救済のために、あらゆる下界へと降り、世俗の煩わしさをその身に引き受けてまでもその自己を与えつくすほどに『自己』から解放されている者のことではないか?」



浄土教において、阿弥陀仏の前身であった法蔵菩薩が「すべての人が救われないなら、私は仏にならない」と誓願をたてたように、また、そのような誓願をもとに親鸞が「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、万人の救済を説いたように、神に「選ばれた」人もまた、「すべての人が救われていないなら、私なんかはなおさら救われていない。すべての人が救われるまで、私の救済はない!」と言う。



マルティン・ルターもまた、修道院改革の提言として、「もし、キリストが邪悪な世のただなかに入っていって十字架へと向かうこともなく、薔薇と百合(善良なキリスト信徒)に囲まれて、平安な余生のうちにその生涯を閉じたならば、我々のうちいったい誰が救われたというのか?」と問うて、クリスチャンが世俗を離れて、修道院に引き籠もったまま、同じ信仰を持つ信仰の兄弟と霊的完成を目指すことに安らうよりも、世俗のただなかで、世人と同じく自己の職業労働によって社会に貢献して社会を豊かにし、家庭を成し、他者のために十字架を背負って生きる隣人愛の実践こそ、キリストの足跡をたどる本当のクリスチャンの在り方であると説いた。



愛(アガペー)の究極とは、他者のために自分の命を与えることです。

 

「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ福音書15:12−15)



しかし、愛(アガペー)による殉教とは、かならずしも肉体的な生命を犠牲にすることではない。それ(殉教)は、「自己に死ぬ」ことであって、天国へキリストのもとに逝ける機会があるとしても、肉体が生きることが隣り人としての他者を生かすことであるならば、「生きる」こともまた、愛(アガペー)による殉教でありうる。その意味で、キリスト教における「殉教」とは、「ナントカは死ぬこととみつけたり…」という言葉であらわされるような、あらゆる生の欲求や恐怖を克服する自己の力や万能さを、他者にも自分にも証明して誇りを感じるための、異教的な「死の美学」とは異なる。



「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。」(フィリピ1:21−25)



「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。」(第二コリント5:13)



遠藤周作の小説「沈黙」のラストにおいて、宣教師のロドリゴは、拷問にかけられて苦しんでいるキリシタンの解放と引き換えに踏み絵を踏んで「ころぶ(棄教)」ことを選ぶ。もし、賭けられているのが自分の生命であったなら、彼は喜んで殉教に臨んだであろう。しかし、賭けられているのが隣りで苦しむキリシタンの人々の生命であったので、ロドリゴは踏み絵を踏んだ。たしかにロドリゴは死ななかった。しかし、「自己には死んだ」。ロドリゴは苦しむ隣り人のために、長年憧れ続けた殉教ヒロイズムと、これからもクリスチャンを名乗り続ける誇りという彼にとって最も大切なものを愛(アガペー)のゆえに捨てた。「正統的」なキリスト教の教義に照らせば、信仰を捨てたロドリゴは、結果として地獄いきになるのだろうか? 



しかり、隣り人を救うために、霊的な生命までをも与え、地獄の底まで降ることを選ぶ、そのような愛(アガペー)のゆえに、彼はすでに上(天国)にいる。 



「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ福音書16:24−25)