無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

日本は多神教だから寛容?

日本の宗教観では、「すごい」ものや「すごい」人は皆「カミ」になります。



菅原道真から織田信長豊臣秀吉徳川家康も「カミ」になり、漫画の神様、野球の神様、果ては「トイレの神様」に至るまで、人間の生活や社会に大きな影響を及ぼした存在は皆「カミ」になる。



最近では、何か突出したものがある「すごい」コンテンツを「神ゲー、神アニメ、神動画、神作品」と言って称賛し、偉大な才能や能力のある人々を「まさに神!」といって崇める。



日本では、「すごい」ものや「強い」ものは皆「カミ」になる。



これを、多様な個性を認めるおおらかな文化とみなすべきでしょうか? これもまた、八百万(やおよろず)の万物に宿る神々を尊重する「神道」であると?



しかし、万物に神々が宿っているならば、どうして山の神を無視してゴルフ場をつくり、海の神を無視して原子力発電所をつくれるのだろう?



結局、資本主義社会である日本において、最も「強い」ものは「お金(カネ)」であって、「おカネ」という最高神の前では万物の神々は道をあけねばならない、ということでしょう。



日本人がユダヤキリスト教一神教の神に対して、「ところで、キリスト教の神様は私たちをどのように幸せにしてくれて、気持ちよくしてくれるの?」と問うように、日本人にとっては「人間こそ万物の尺度(プロタゴラス)」であり、日本人を幸せにしてくれるものこそ本当の「神」であり、「おカネ様」こそ、人間に便利さと豊かさを与えて幸せにしてくれるがゆえに「最高神」であると。



イスラム原理主義者たちが欧米化を徹底的に拒否するように、日本の神道もまた、もう少し目先の利益や快楽になびかないような頑なさがあればよかったのにと私は思う。日本が、万物に宿る神々を尊重する文化であるにしても、それにしてはあまりにも聞き分けがよすぎるのではないか? 日本が八百万(やおよろず)の神を信仰する神道の国ならば、政治的な権力者や経済的な権力者が国土を私物化し、自分勝手に蹂躙してゆくのに対して、もっと怒るべきではないのか? 「自然の神々を冒涜するな!」と、もっと叫ぶべきではないか? しかし、そうしない。それは、結局、日本人にとっての 「カミ」とは、自分たちにとって都合のよいもの、気持ちいいもの、利益を与えてくれるもの以外の何ものでもない。有力な政権与党であれ、大企業であれ、大人しく従っていれば、自分たちにとって得であるならば、それらの権力者が万物の神々をどれだけ蹂躙しようが気に病むことはない。



しばしば、聖書において神が人間に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)と命じたことから、ユダヤキリスト教一神教は人間に自然の支配と侵略を許す思想であり、それに対して自然に神々を見るアニミズム多神教こそ、自然と共存しうる現代的な思想である、と語られることがあるけれども、現実においては、そう単純ではない。



たしかに、キリスト教が自然を神の被造物とし、霊魂をもつ人間と、霊魂をもたない無機質な自然とを分けることによって、科学技術によって自然に手を加え、自然を人間にとって都合のよいように再構成する動機づけを与えたのは事実であるにしても、同時に聖書は、人間の「自己神化」による傲慢をも戒めているのであって、「世界を支配しているのは神なんだから、自分たちが神になったかのように調子こいて好き勝手やってると、そのうち自然によって手痛いしっぺ返しをくらうことになるぜ!」と語るのもキリスト教であって、キリスト教は「自然を大切に!」と、自然を擬人化しない分、人間の自己神化や傲慢、被造物としての限界の再認識を促すことによって、自然に対する人間の態度を改めさせる。



他方、多神教の自然の神々といっても、人間社会と同じく権力的な上下関係があったりするのであって、戦時などの例外状況においては、太陽神である天照大御神の子孫とされる天皇ヒエラルキーの頂点とし、人権なんかどこかに吹っ飛んでまい、人間が使い捨ての人間兵器とされたように、自然の神々もまたしかりであって、現実の戦争や経済的な競争に勝つために最高神の大御稜威(おほみいつ)のもとに国土が要塞化され、見境なくビルは乱立し、木々は伐採され、海は汚染され、自然は人間の生活のゴミや廃棄物だけを押し付けられ、自然の神々はカースト制の賎民のごとくヒエラルキーの最下層へと押しやられる。



「トイレの神さま」の歌で歌われているような「トイレには女神さまがいるんやで、トイレをピカピカにしたらべっぴんさんになれるんやで」というようなおばあちゃんの教えは、どこへいったのだろう? 「ピカピカにする」という神々への敬意は消え失せ、神社で手を叩いておけば、あとは神々の存在を意識することなど、ないに等しい。日本では「カネ」こそが「カミ」であって、おカネを払って神主を雇い祭礼を施しておけば、海の神だろうが山の神だろうが、日本人の好きなように蹂躙してもよいのだから。  



もはや日本の神道は、日本人を律するものではなく、風に吹かれて揺らぐ葦(あし)のように、とにかく強いものに媚びへつらい、長いものにまかれることを正当化するような日本的ナルシシズム(自己愛)のご都合主義に堕してしまった。



神道は宗教としての性質はまったく失われてしまい、日本人の自己賛美、自己神化の意識でしかない。こうした意識のゆえに日本人は没落すべくして没落し、破滅すべくして破滅する。「赤信号みんなで渡ればこわくない」日本人は、聖書に書かれている悪霊に憑かれた豚の群れ(マルコ福音書5:1‐13)のように、崖からなだれ落ちてゆくのを止める宗教性を持たない。自分たちの欲望や願望の神化を偶像崇拝というのならば、これもまた偶像崇拝といえるでしょう。



こういうと、反論があるでしょう。「いやいや、一神教文化、とりわけキリスト教文化の社会ほどデタラメなものがあるだろうか。世界史の悪の半分はキリスト教文化圏によるものではないか?」と。



そのとうりである。しかし、日本国憲法において、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって…」とあるように、社会や国家、宗教が悪であるのは世の常であるけれども、そのなかから常に問題提起や改革などの抵抗運動が起こることが重要なのであって、たしかにキリスト教文化の歴史には多くの問題があったが、その分、抵抗や改革の歴史の厚みもそれ以上にあるのであって、ここまで人間の平等や公正、正義、自由のような普遍的価値をめぐって現状維持を許さない努力を積み重ねてきたのは、やはりキリスト教の影響なくしてはありえないと思う。



キリスト教では、「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地でも成させたまえ」(マタイ福音書6:10)というキリストの祈りにあるように、この世がこの世のままであることを許さず、この世としての「地の国」は、「神の国」へ向けての旅の途上にある巡礼者として、義の支配する「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない神の国」(ヨハネの黙示録21:1‐4)へと向かう灼熱の情熱に生きる。こうした「神の国」と「地の国」との間の交わることのない緊張状態から、現状の社会への抵抗と改革への動機づけがうまれたことは間違いない。



すなわち、キリスト教文化では、社会や国家や宗教の「内部」から常に改革の声が上がるのに対して、日本の社会組織は内部の自浄作用には期待できず、常に「外圧」によってしか変わらない。太平洋戦争中に日本を敗戦に追いやった軍の指導者といい、カリスマ経営者の性暴力や企業の不祥事を知りながら、上に横に「忖度」して、なかったことにしようとし続けた業界人といい、誰もが心では「このままではヤバい…、いずれ破滅する…」と頭でわかっていながらも「やめられない…、止まらない…、いまさら中止なんて言える空気じゃない…」とズルズル問題を先延ばしにして崩壊へと至らせてしまう。使い古された言い方によれば、日本人は常に組織人として集に埋没してしまい、「個」がなく「良心」がないと言われてきた。しかし、より的確に言えば、日本人には「超越」がないといえる。



「超越」とは、自分や自分が所属する集団の快/不快の気分や利害損得を超えた価値のことです。それは、自分たちにとって得なことであっても、やってはいけないことがあるということであり、自分たちに損なことであっても成さなければならないことがある、ということです。



「超越」とは、無教会キリスト教の提唱者である内村鑑三の墓碑に刻まれている言葉、「I for Japan,Japan for the World,The World for Christ,And All for God.(私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして、すべては神のため)」ということであり、自分や自分が所属する集団を超えた価値の審級によって自己を律するということであり、自己は国の栄光のために、国は世界の栄光のために、世界は神の栄光のために己を律することだということです。逆に、その場の気分といった雰囲気や、利害損得に従ってしか行動しないことを「超越」を欠いているという。



日本人の多くが、自分がどのような仕事を通して社会に貢献しようかという公共的関心によって考えるのではなく、単なる身分の安定や勝ち組に入るためというような私的関心によって仕事を選ぶように、自分の身分の安定が保たれているならば、自分の会社の経営者や国の指導者がどんな不正をしていても、口をつぐんでしまう。こうして、私的利害に閉じこもる個人によって会社の不祥事は隠蔽され、会社の不祥事が隠蔽された結果、国益は損なわれ、国家が自己の国益にのみ閉じこもる結果、国際秩序は損なわれる。こうして、個人も会社も国家も世界も、自己が何のために存在しているかの「超越」を忘れた結果、全体が沈んでゆく。



誰もが「裸の王様」の見えない着物を、手をすりゴマをすりながら褒め讃えて自分の保身をはかるばかりで、危険を顧みず「王様は裸でございます!民の前ですので、いますぐお召し物を身につけてくださいませ!」と忠言する者は少ない。日本の精神風土では、たとえ貧しさと命の危険を被ったとしても、「このままでは、我々は滅びる!今すぐ引き返せ!」と叫ぶユダヤ預言者のような存在は生まれにくい。



国家としてのイスラエルパレスチナ人に対する態度については、今も昔も語るべき言葉は同じであって、イスラエルに悔い改めることを迫ったユダヤ預言者の言葉を想起させる以外の正当性はない。

 

「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる。 」」(イザヤ書5:7−9)



日本は欧米に倣って近代化を成し遂げた。しかし、制度やシステムの上辺だけをなぞるばかりで、民主主義や人権などを西洋にもたらした思想的エネルギーの源泉を学ぼうとはしなかった。



近代化というのは、自分が属する組織集団としてのムラや人間関係の外に普遍的な価値にもとづく「公(public)」の概念が芽生えるかどうかにある。



「和魂洋才」による近代化を目指した日本は、天皇の存在で「公(public)」の役割を置き換えようとしたが、日本全体が天皇を教祖とするような新興宗教カルトのようになって自滅した。それ以降、日本人には「公(public)」の概念がなく、外側は欧米の民主主義や科学技術をとりいれても、その中身は自分が属する集団としてのムラのオキテやシキタリ、その場の人間関係への空気の忖度だけが支配する、未開の部族的メンタリティしか存在しない。



だから、税金としてお金を集めても、「公(public)」のためには使われず、お金や権力をもつ人間たちが属するムラや、その人間関係のためにしか使われない。増税をしても、政治家や官僚に食いつぶされるのが目に見えてあきらかだから、日本では国民がどんなに貧しくても、フィンランドスウェーデンのような北欧の福祉国家のシステムを築くのは難しい。政治に透明性がなく、政治への信頼が皆無に等しいものだから、誰もが困窮しているにもかかわらず、「減税!減税!自己責任!」というような、アメリカ人も驚くような我利我利(がりがり)の新自由主義的思想が幅を利かせることになる。



結局、近代化は政治の問題ではなく、文化の問題であって、明治の日本も令和の日本も「公(public)」の意識がまったく欠落していることには変わりがない。日本では、令和の現在においても、江戸時代の侍や農民がスーツを着て議員の議席に座り、会社や工場で働いているようなものにすぎない。日本人は、欧米化による近代化を成し遂げたと言われているとしても、何ひとつとして江戸時代から進歩していない。



「それでも…」と人は言うでしょう。日本は宗教がないからこそ平和じゃないか?と。日本の無宗教こそ、これからの世界の模範となるような在り方なのではないか?と。



一般的に宗教や倫理といったものは、人間にとってゆずれないもの、妥協できないものです。そうであるがゆえに、宗教や倫理の議論を公共の場にもちこむと、必ず喧嘩になる。そこで、分断を避けるために宗教や倫理は個人の私的(プライベート)な領域におさめ、公共の場では宗教や倫理の話しはひかえて、「社会人」としての共通のルールである市民道徳に置き換えて共存をはかる。たとえば、職場では各人の宗教や倫理は問わず、労働のルールにのみ従うことによって、様々な文化人種の人々が一緒に仕事ができるように。これが、私たちの社会の基本的な在り方です。



しかし、私たちの社会が資本主義の社会である以上、宗教や倫理を公共の議論から外せば、残るのはカネ儲けや成功、市場での競争や契約であり、弱肉強食のジャングル資本主義であって、共存といってもお互いの利害関係が一致しているだけのビジネスライクなものにすぎない。



そのような社会では、たしかに宗教や文化的な世界観による争いはないけれども、万人が自分たちの私的利害を最優先にする結果、違うカタチで分断や争いが起こってくる。万人が「今だけ、金だけ、自分だけ」の私的利害に閉じこもり、公共的な正義や公正への感覚がいちじるしく鈍感になる。



しかし、市民社会にだって共感や同情といったコモンセンスがあるのではないか? ところが共感や同情は当然、感情が受けとめきれる狭い範囲にしか及ばない。自分にとって疎遠な人や偏見を持っている人、嫌いな人には及ばない。



たとえば、日本人は多くの人が無宗教で、宗教や世界観をめぐる争いはないのだけれども、電車でのベビーカー問題や子供の声問題、生活保護バッシングにあらわれているように、自分たちに少しでも不快感を与えるような「迷惑」に関しては、相手が弱者であっても極端に冷たい。

 

 

寛容とは、受け入れがたいものの存在をあえて認めるということです。日本人は寛容なのではなく、単に無関心で互いに干渉しないだけにすぎない。相手が少しでも自分に不快感を与えるようになると、またたくまに不寛容になる。



アメリカが弱者に厳しいとか言われるけれども、アメリカは国からの福祉は少ない分、寄付やNPOやボランティアが乱立しているのであって、クラウドファンディングによってまたたくまにお金が集まったりする。



アメリカは、イギリスから独立した国であって、基本的に政府というものを信用しない。なおかつ、キリスト教による喜捨の国でもあるので、貧しい人を支援するなら、自ら喜んで自発的な善意で支援しなければならないとされる。だから、お上(かみ)としての政府に無理矢理税金として召し上げられたお金で貧しい人々に再分配されるのを好まない。とはいえ、喜んで人のためにお金を援助できるような余裕のある人や、人徳のある人は稀だから、結果として貧しい人々に厳しい超格差社会となっているけれども、個人や教会や、小規模の自発的な組織単位では、様々な支援団体が存在する。



ところが日本は、2007年のアメリカのピュー・リサーチ・センターの調査で「政府は貧しい人々の面倒を見るべき」という項目に「同意する」と答えた日本人は、調査対象の47ヵ国中、最低の59%であったように、世界で最も自己責任志向が強く、弱者に厳しい。



宗教や倫理を公共の議論から遠ざけ、社会に私的利害による競争と契約だけを残した成れの果てが今の日本であって、誰もが自分と自分の家族にしか関心がなく、既得権にしがみつくだけで、社会の片隅で困窮している隣人については考えない。



好きか嫌いか、損か得かといった利害関心を超えて、自分にとって疎遠で、嫌悪感を与え、重荷となるような人間であっても、無条件で守らなければならない価値があることを教えるのは、宗教の力以外にない。



ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられ、きちんとした近代化も成されていないのにポスト近代が語られて、「キリスト教なしに西洋を乗り超えた日本人こそ、哲学者のニーチェが予言した『超人』である!」と自惚れて、「経済一流、政治三流」と揶揄されてきた日本は、いまや経済も凋落するに及んで、ありとあらゆる面で三流であることが暴露され、もはや巻き返しの見込みもないどん詰まりの様相を呈している。



キリスト教文化の国々が世俗化し、日本的な「無宗教」に近づいているにしても、そうだからといって日本が世界の歴史の頂点に位置しているわけではなく、日本の没落と破滅に世界が追随しているにすぎない。いかに世界が無宗教化しているといっても、キリスト教的伝統によって遺された「良心」が破滅へのストッパーとなっているのに比べて、日本にはそのようなストッパーすら存在しない。



では、日本人の多くがキリスト教の洗礼を受けてクリスチャンになったら、日本人は「超越」を獲得して、集に埋没しない普遍的な価値と直結した「個」としての預言者エートスを身につけることができるのだろうか?



そんなことはない。洗礼を受けたクリスチャンですら、神の前で独り立つ「単独者」というより、キリスト教会という「ムラ」の村人A、村人B、村人Cにすぎず、牧師や先輩信徒の視線を気にしてはキョロキョロと目を泳がせているだけで、お世話になった教会の人間関係の恩義から、所属団体の公式見解を右から左に流すだけのスポークスマン以上のものではなかったりする。彼らが聖書やキリスト教について語るにしても、必ずしも「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして(ルカ福音書10:27)」確信し、聖餐のパンと葡萄酒を食べるようにキリストを己の血肉として消化して体得した真理を語るわけではない。



では、クリスチャンは日本の未来について何を語るべきか? 破滅は避けられない。しかし、旧約聖書預言者たちがイスラエルの破滅と再生を叫んだように、私たちもまた、日本の破滅と再生を叫ばざるおえない。



日本の破滅は避けられない。しかし、社会も、国家も、宗教も、キリスト教会も、そして、自分自身を含めたいかなる人間の力も、すべてが壊れてアテにできなくなるその先で、日本人ははじめて「単独」で神の前に立つ。



クリスチャンの成すべきことは、カネとヒトで教会を肥やすことではなく、社会全体をひとつの教会として、「水が海をおおうように、主を知る知識を地に満( イザヤ書11:1‐9)」たすことに他ならない。「キリスト教に関心がおありなら、まず教会へおこしください」ではなく、福音を教会や聖職者の専有から開放して、社会の公共財としての水や空気のように、人々の手と耳と口に身近なものとして、社会に満たさなければならない。時がよくても悪くても(第二テモテ4:2)、人々が聞いても聞かなくても、灯台にあかりをともし続ければ、昼間は無駄なことに時間を費やす狂人とみなされようとも、夜の闇が深まる時には灯台のあかりが迷える人々の道しるべとなるでしょう。