無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

誰が平和を語るのか

平和が大切であって、分派や党派争いはよくない。これは聖書的にも真実であるどころか、宗教に限らず普遍的な真理です。


しかし、それは平和を誰が語るかによります。


独裁者が「争いを止め、平和を求めましょう。分派や党派による分裂はよくありません」というとき、その真意は「うるせーな。おまえらは大人しく黙って従っていればいーんだよ!」という意味です。


「平和」は誰が、どのような立場で語るかによって意味が逆さまになります。


キリスト教や他のどの宗教の世界でもそれは同じであって、信徒のあいだに不満や疑問、問題提起のあるときに、それらを放置したまま平和を「強制」することは、それ自体が「支配」であり「暴力」であり、聖職・教職や聖典の権威によって逆らえないようにしているがゆえに、最も悪質なものです。


マルティン・ルター教皇庁に抗議(プロテスト)したとき、「不遜にもキリストの体である教会に分裂をもたらし、神の平和に反逆を企てた反キリスト」のレッテルを貼られました。


教会のもめ事を諌める際に引き合いにだされるのがパウロのコリント第一書簡です。この書簡ではパウロ派、ペテロ派、アポロ派、キリスト派と分かれて対立していた教会を諌めるために書かれました。


しかし、パウロは決してこの手紙で教会内での意見の対立を嘆いたのではありませんでした。「真実があきらかになるためには分派もなければなるまい(コリント第一11・19)」とパウロは言いました。パウロが嘆いていたのは教会内で対立があったとき、誰も仲裁に立たず、一致点が求められず、互いが互いを理解しようとせずに訴えあうことでした。


愛は関心です。それは相手の立場に立って相手の痛みや悲しみを我が事として関心をもつことです。しかし、関心をもつためには知られなければならず、知られるためには腹蔵なき意見や不満の表明、感情の発露が不可欠です。活発な意見の交換や語らいが不可欠です。


パウロ自身も激情の人であり、論争家でありました。パウロが理想とした教会は、無言の見せかけの平和ではなく、活発な議論と意見交換によって互いに教えあい、学びあいながら徳をたかめ、キリストの深さ高さを知るに至って、一人一人がキリストに似ていくことにありました。


キリスト教会では、クリスチャンは羊にたとえられます。それは、しばしば羊飼いに唯々諾々と従うだけの受動的で主体性のない、思想のない、反知性的な羊のイメージで語られてきました。


しかし、聖書でイエスが語った羊は、そのような従順で平和的な羊ではなく、本当の羊飼いの声を聞き分け、偽物の羊飼いを拒否する積極的で知性的な羊でした(ヨハネ福音書10・1‐18)。


いうまでもなく、本当の羊飼いとはイエスのことです。羊はイエスの声とそれ以外の羊飼いの声を聞き分けます。教会の聖職者・教職者は可能な限りイエスの代理を務めようとしますが、人間であるために時には間違いを犯します。羊飼いのふりをして羊を食い物にしようと近づく狼もいます。羊は、本当の羊飼いの声を知っているゆえ、それらの偽物の羊飼いを見極め、抗議し、拒否し、離れる自由と権利があります。


教会の聖職者・教職者が聖書を引用して「聖書には人を裁くな、許せ、愛せ、と書いてある。私に抗議する者は教会の平和を乱す者だ」といって自分を免責しようとしても無駄です。聖書には「多く与えられた者には、多くを求められる(ルカ福音書12・18)」とあるからです。多くを任された者に責任が求められるのは当然です。


そもそも、聖書には「牧師にあなたの足を洗ってもらえ」とあるのではなく、「私があなたがたの足を洗ったように、あなたがたも互いに足を洗いあえ(ヨハネ福音書13・14‐15)」とあります。聖職者といっても人間なので、信徒が多くを求めても限界があります。限界を越えてしまうと独裁となって信徒に反ってきます。それは、神でない人間に神を求める信徒の罪の結果です。偶像崇拝とは、神ではいものに神を求めることだからです。


「ひとりひとりがキリストとの関係によって互いの足を洗いあうように。」


これが福音の言葉であり、聖職者を戴かない無教会の言葉でもあります。