無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

2021-01-01から1ヶ月間の記事一覧

キリスト教と民主主義~神の絶対性~

私たちが知っている民主主義は西欧から始まりました。それも、とりわけ「神の絶対性」を強調するカルヴァン派の流れから始まりました。 なぜ、「神の絶対性」という「唯一神の独裁」を思わせるようなことが、民主主義を押し進めてきたのでしょう? これは歴…

キリスト教と民主主義~聖霊の口を封ずるなかれ~

「すべての人は平等」というのは、私たちにとって当たり前の真理であり、規範です。しかし、これはキリスト教の歴史のなかで生まれ、育てられてきました。 もちろん、歴史をみればキリスト教の国や文化のなかでは人種差別、性差別、奴隷制があったことは事実…

キリスト教と同性愛

同性愛に否定的なクリスチャンは、その根拠を主にパウロの手紙と旧約聖書の一部から引用します。聖書が神の言葉だからという信念からでしょう。 たしかに、パウロの手紙には男色への批判がいくつかみられますし、ユダヤの伝統では同性愛は禁じられていました…

民衆のアヘン

「資本論」を書いたカール・マルクスが「ヘーゲル法哲学批判・序説」という本のなかで「宗教は民衆のアヘン」という有名な言葉を残しています。 「アヘン」というのは、いうまでもなく麻薬のアヘンですが、ここでいうアヘンとは、重に鎮痛剤という意味でのア…

「GOD」が偶像となるとき

唯一の神を信じるクリスチャンは偶像崇拝と無縁なのでしょうか? そうではありません。 キリスト教は、厳密には神を信じる宗教ではなく、神の言はナザレのイエスによって啓示された、ということを信じる信仰です。 それゆえ、キリスト教はナザレのイエスの言…

自分を愛するために自分を捨てる

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分…