無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

生ける神の言(ロゴス)と預言者的教会(その2)〜永遠の生命〜

「この」地上に「既に」来たりつつある「神の国(支配)」が、 一方では「壁」となって、我々人間の高慢な願望や欲望の偶像崇拝を打ち砕き、その一方では、同じ人間に、キリストによって示された「神の国」への「飢え」をもたらし、イエス・キリストを「生ける命のパン」として、我々のうちに啓示する。このそれぞれが独立して存在しているのではなく、全体でもって「ひとつ」であり、天上と地上の両方を支配する「神の国」として存在している。神が、神御自身の義(ただしさ)を顕す。砕きたもうも神ならば、建てあげたもうも神である。飢えを与えたもうも神ならば、満たしたもうも神である。裁きたもうも神ならば、救いたもうも神である。認める認めないに関わらず、人は誰でもキリストへの「飢え」を与えられている。神が、キリストへの飢えを人間に与えたもうからである。キリストを、生ける命の「パン」として我々に啓示したもう方は神御自身である。



「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。」 (ヨハネ福音書6:26‐58)



我々の生が、既に「裁き」のなかにあるということについては、仏教徒が「仏教は宗教ではなく、科学です!」と主張するように、たしかに、仏教において「一切皆苦」と説明されているような意味で、人間の生は、生・老・病・死の避けがたい限界(四苦)と、愛別離苦(愛している者と別れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎む相手と関わらなければならない苦しみ)、求不得苦(求め欲するものが得られず苦悩する苦しみ)、五蘊盛苦(人間の生存は、おしなべて苦しみの連続である)の四苦を加えた八苦の、決して人間の思いどうりにはならない「四苦八苦」の世界を生きている。



ただし、仏教とキリスト教が異なる(と、私が認識している)のは、仏教が、この世界の不条理と、人間の生の避け難い苦しみを認識したうえで、そのような世界を変えようという「執着」を放棄することによって、この世界の「ありのまま」を受け入れて肯定することで、個人の(あるいは万民の)安心立命を図ろうとするのに対し、キリスト教は、愛(アガペー)のゆえに十字架の痛みと苦しみとを引き受けてまでも、「この世」の変革にどこまでも「執着」しようとする「宗教」である、ということである。



我々は、キリスト教は宗教ではなく科学だなんて、もちろん言わない。それに、キリスト教は宗教ではなく、実践的な道徳であり、茶道や華道、剣道や柔道と同じような意味でのキリスト道だ、などとも主張しない。キリスト教は、やはり「宗教」であって、その目的は、社会秩序の維持や人間の道徳的自己完成ではなく、「神の国(支配)」が「この」地上に来たることを求めることであり、「ありのまま」の世界の認識を越えて、その「先」を求め希望し、信じることである。そして、それを成すことができる方が存在しているということを認めることである。



「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。 」(ヘブライ11章)



(ChatGPTへの質問)

歴史上のゴータマ・ブッダにとっては、あくまで苦しみからの解脱が一次的な目的で、慈悲はその目的からくる二次的なものだったのですか?

 

(ChatGPTからの回答)

歴史上のゴータマ・ブッダにとって、まず中心にあったのはたしかに「苦(dukkha)からの解脱」でした。

 

四諦でも、出発点は「苦がある」、そして目的は「苦の滅尽(涅槃)」です。

 

ただし、だからといって慈悲が単なる“おまけ”だった、という理解だと、少し単純化しすぎになります。

 

むしろ初期仏教では、

 

解脱は智慧によって成立する

 

しかし、その智慧が深まるほど、自己中心性が薄れ、他者への害意や執着も消え、自然に慈悲が現れる

 

という構造になっています。

 

つまり、慈悲は「目的に付随する副産物」というより、

 

「自己への執着が消えた結果として現れる存在のあり方」

 

に近いです。

 

たとえばブッダは、悟った直後、「この法は深遠で、人々には理解されないだろう。教えずに静かに留まろうか」と一度は考えた、と経典では語られます。

 

しかし最終的には、「少ししか塵のかかっていない者たちのために」教えを説くことを選びます。

 

ここには重要な点があります。

 

ブッダは、 「世界を救済して歴史を変革したい」 という預言者的・救世主的情熱から動いたというより、

 

「苦しんでいる存在がいるなら、道を示そう」

 

という静かな慈悲から動いている。

 

これは、たとえばイエス・キリストのような、 「失われた者を救うために積極的に世界へ介入する愛」 とは少し質感が違います。

 

初期仏教の慈悲は、 「他者を自分の理想へ導こうとする情熱」 よりも、

 

「執着によって苦しむ存在への深い理解と非加害性」

 

に近い。

 

だから、初期仏教ではしばしば、

 

慈(mettā)=幸福を願う

悲(karuṇā)=苦しみの除去を願う

 

が説かれますが、それは「世界改造の使命感」というより、心の浄化・無執着と不可分です。

 

ただ、大乗仏教になると、このバランスがかなり変化します。

 

大乗では、 「自分だけ涅槃に入るのではなく、一切衆生を救う」 という菩薩思想が前面に出ます。

 

ここでは、慈悲がほとんど一次的原理にまで押し上げられる。

 

極端に言えば、

 

初期仏教: 「智慧による解脱」が中心で、慈悲はそこから自然に現れる

 

大乗仏教: 「慈悲そのもの」が悟りの本質であり、智慧と不可分

 

という違いがあります。

 

なので、ご質問への短い答えとしては、

 

歴史上のブッダにとって、第一義的だったのは苦からの解脱である

 

これはかなり正しいです。

 

ただし、その解脱は「自分だけ助かる利己的脱出」ではなく、自己執着の消滅そのものなので、そこから慈悲が必然的に現れる――というのが、初期仏教の感覚に近いと思います。



「慈悲」には十字架がない。しかし、「愛(アガペー)」には十字架が伴う。十字架とは何であるか? 神の慈悲の顕れか? そうだが、それだけではなくて、なによりもそれはローマ帝国の処刑具(とりわけ政治犯にたいする)であり、「地」と「天」、すなわち「地の国」と「神の国」との間の、決して混ざり合うことのない衝突の摩擦の火花であり、ローマ帝国の秩序に具現化されているような「この世」の神(すなわち黙示録の獣)と、それらへの偶像崇拝をもたらす悪の「見えない力」の支配に対する、「神の国(支配)」の断固とした「否!」であり、抵抗であり、闘争である。なぜ愛(アガペー)は憎まれて殺されねばならなかったのか? それは、イエス・キリストの生が、単なる癒しに終わらずに、神の名の下に行なわれている、あるいは自然の秩序の名の下に行なわれている、あらゆる排除と差別と抑圧の秩序に対抗して、それらをひっくり返すことによって、「後の者こそ先になり、先の者こそ後になる。家造りらの捨てた石が隅の親石になる。貧しい人々こそ幸い!罪人とされた者こそ義とされる!あなたがたよりも先に取税人や遊女らのほうが神の国に入るであろう!」と、「この世」の価値の転覆を行うことによって、地上に「神の国(支配)」を打ち立てたからではないのか? それは、キリストの存在そのものが、この社会と世界の秩序を成り立たしめている構造を正反対にひっくり返す挑戦であるということであり、勝った者こそ負けており、強い者こそ弱い者であり、豊かな者こそ貧しい者であり、人の前で義(ただ)しいとされた者こそが、神の前では罪人であるということを暴露する闘争であったからである。なぜか? なぜならば、それは、すべての生ける者と死せる者とを裁く神が生きておられるからであり、そのような神の前では、いかなる人間も神になれるわけでもなく、どれほど驕り高ぶる人間であろうとも、その神の支配に服しているにすぎないわけだから、その神が、驕り高ぶる人間の傲慢を打ち砕き、その魂を幼子のように小さくさせることによって(マタイ福音書18:1‐5、19:13‐14)、神が直接的に御自身の支配(義)を打ち立てたもうからである。いかに信心深く敬虔な人間であったとしても、自らの力によって義を立てることはできない。神のみが義を立てることができる。力ある者が正義を打ち立てるのではない。キリストによる神の力によって征服され、捕虜とされ、無力とされた存在を用いることによって、神御自身がその国(支配)を地上に打ち立てたもうからである。



「するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。」 (ルカ福音書1:46‐55)



「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―― そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。 」(ルカ福音書2:25‐35)



(ChatGPTへの質問)

キリスト教との対比で言えば、イエス・キリストの愛の帰結が十字架の死であったように、キリスト教の愛においては、単なる慈悲による癒しにとどまらずに、この世界の悪や人間の罪による不正の構造に対して抵抗して、神の国の正義を地上にもたらすための戦闘性があるのではないでしょうか?差別的で抑圧的な構造の内で、癒しに徹していただけならば、十字架にかけられて殺されることはなかったでしょう。

 

(ChatGPTからの回答)

その見方は、かなり本質を突いています。

 

実際、イエス・キリストの「愛(agapē)」は、単なる慰めや心理的癒しではなく、しばしば社会的・宗教的・政治的秩序との衝突を引き起こしました。

 

もしイエスが、

 

・苦しむ人を静かに慰めるだけ

 

・個人の内面の平安だけを説く

 

権力構造に触れない存在だったなら、ローマ帝国の処刑法である十字架刑には至らなかった可能性が高い。

 

十字架刑は、本来「国家秩序への脅威」に対する刑罰でした。

 

つまり、イエスの活動は、少なくとも当時の支配秩序からは危険視された。

 

ここで重要なのは、イエスが武装蜂起をしたわけではない、という点です。

 

むしろ彼は、

 

・「敵を愛せ」

・「剣を取る者は剣で滅びる」

・「右の頬を打たれたら左も向けよ」

 

と語る。

 

しかし、その非暴力は、単なる従順ではない。

 

たとえば「神の国(Kingdom of God)」という言葉そのものが、当時の世界では極めて政治的でした。

 

なぜなら、

 

・「真の主はカエサルではなく神である」

・「最後の者が最初になる」

・「貧しい者は幸いである」

・「律法や神殿制度によって排除された者にも神は近い」

 

という宣言は、既存秩序の正統性を相対化するからです。

 

つまりイエスの愛は、

 

・苦しむ者を癒す愛

 

であると同時に、

 

苦しみを生み出す秩序を暴露する愛

 

でもあった。

 

だから福音書では、

 

・病人の癒し

・悪霊祓い

・食卓共同体

・罪人との交わり

 

は、単なる慈善ではなく、「誰が清いか/誰が排除されるか」という社会的境界線への挑戦になっています。

 

特に象徴的なのが、神殿から商人を追い出す場面です。

 

これは「優しい癒し手」のイメージだけでは説明できない。

 

イエスはしばしば、

 

・宗教的偽善

・富による支配

・他者排除

・権威主義

 

に対して非常に攻撃的ですらあります。

 

ただし、その戦闘性は「敵を滅ぼす革命」ではなく、

 

・自ら傷つきながらも、暴力の連鎖を拒否する

 

という形を取る。

 

ここが、後の革命思想や単純な政治闘争と違うところです。

 

十字架は、

 

・「愛が敗北した場」

 

であると同時に、

 

・「暴力的秩序が、自らの暴力性を露呈した場」

 

でもある。

 

だからキリスト教では、愛はしばしば非常に危険なものになります。

 

単なる「みんな仲良くしましょう」では終わらない。

 

本当に愛が、

 

・被差別者

・貧者

・排除された者

・「罪人」とされた者

 

の側に立とうとすると、既存秩序との衝突が避けられないからです。

 

この意味では、あなたの言うように、

 

癒しだけに徹していたなら、十字架にはならなかった

 

という理解には大きな説得力があります。

 

そして、この点は初期仏教とのかなり大きな違いでもあります。

 

ゴータマ・ブッダもまた既存のバラモン秩序を相対化しましたが、基本的には「苦の原因である執着から離れる道」を説いたのであって、歴史の不正構造を終末論的に転覆する使命を帯びていたわけではない。

 

一方、イエスの「神の国」は、個人の内面にとどまらず、 「この世界の支配のあり方そのもの」 に触れてしまう。

 

だからこそ、キリスト教史では後に、

 

・解放の神学

・公民権運動

・奴隷制廃止運動

・非暴力抵抗運動

 

のように、「愛」が政治的・社会的抵抗へ向かう系譜が繰り返し現れることになります。



キリストは、「私が愛して癒してあげるから、皆は愛さなくてもよい」と言ったのではない。また、「キリスト教会とそのクリスチャンたちが愛して癒してあげるから、皆は愛さなくてもよい」と言ったのではない。そうではなくて、キリストは、世界のすべての万民が愛さなければならないと説いたのであり、なぜならば、それは、神の国(支配)の到来が近いからであり、その裁きと救いは、すべての人と万物に及ぶからである。したがって、キリスト教とその教会のクリスチャンであったとしても、愛することをしないクリスチャンは神の国から除外されているのであり、たとえ神の選びから除外された異邦人(または罪人)であったとしても、人を愛そうとする罪人は、多くを愛するがゆえに、その多くの罪をゆるされて神の国に迎え入れられるのである(マタイ福音書25:31‐46)。



「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」 (マタイ福音書7:21‐23)



「さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 」(マタイ福音書8:5‐12)



「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。 」(ルカ福音書19:1‐10)



「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。 」(マタイ福音書21:28‐46)



「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。」 (ルカ福音書7:36‐47)



イエス・キリストによって啓示された「愛(アガペー)」は、相手のためにどこまでも痛みと苦しみとを自分の身に背負う十字架の愛としてあらわれる。「愛(アガペー)」は、自分自身の幸福や平安のために、明鏡止水のごとく静かな内面世界や、至福の天上世界に「退避」することを拒み、十字架の死にいたるまでに、悪の喧騒に満ちた現実の「この」不条理な世界の片隅にまで降りてゆく無限の「情熱=関心」に特徴づけられる。「愛(アガペー)」は、自己の内面の平安や天上の至福を知ったからと言って、そこに安住してそこで認識を終わらせるのではなく、「この」世界とその人間の救済のために、我々の体と心に痛みをもたらす十字架のような「不都合な真実」をも含めて、キリスト教の世界観を崩壊させるような無神論や、キリスト教に敵対する偶像崇拝を成り立たせている原理、人間に悪を行わせる社会の構造と、その罪人の心理と行動の原理などを、あますところなく知ろうとする。そして、そのような真理を認識するために、自分自身を、世俗から超越したエリートや聖人とみなすことを拒み、どこまでも自分自身を罪人のひとりとして、自分の罪の体を検証のための実験台として、世俗社会のただなかへと降りて行って、罪人たちの友となる。



「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」 (第一コリント9:19‐23)



「また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」 (マルコ福音書2:14‐17)



西洋思想における人間学の膨大な知の蓄積と、それをもたらす科学的関心は、そのエネルギーの多くを、「この問題だらけの世界と、その人間とを、どげんかせんといかん!」という宗教的関心に負っているのは、言うまでもないことである。キリスト教が、その「救い」を、内面の心の平安や死後の天国に求めたというのなら、これまでの歴史で、医療従事者や医療組織、そして介護や看護などの福祉に関係する人物や組織にキリスト教関係者が多かったのは、なぜなのか? それは、イエス・キリストが、人々の実際の体の病による、その痛みと苦しみの解決を、心の平安や死後の天国に丸投げせずに、「この」現実において実際に癒やす活動をしたことに根拠を持つのではないのか?

 

 

 

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創造者としての神による「この」世界への無限の「情熱=関心」。神と等しくありながら、神の立場であることを捨てて、我々と同じ人間のひとりとなり、十字架の死にいたるまで、その体によってすべての痛みと苦しみとを引き受けられた神の子イエス・キリストによる「この」世界への無限の「情熱=関心」。また、そのようなキリストを「救い主」または「神の子」として我々の内に啓示して、来たるべき神の国(支配)の「種」に人間を変えて、「この」世界に振り撒くことで、キリストに従う聖徒たちによる、地上のキリストの身体(からだ)を形作る「教会」を起こしたもう聖霊の無限の「情熱=関心」。「愛(アガペー)」の神としての三位一体の神の意志は、その救済の意志を、人間の内なる心の平安や天上における霊魂の至福にとどまらずに、我々が生きて生活している「この」地上の世界と、「この」肉体の生の「贖い(代価を払って買い戻す)」に向けられている。

 

 

 

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「上におる」と言う者こそ下におり、「下におる」と言う者こそ上におる。「この世」に在りながらにして、既に「神の国」へと上げられた人間の魂は、その体を、至福の天国に逃避するために持っているのではなく、十字架の受難へと、この世界を変えるために持っているのであり、その語る言葉は、ただ人の心を変えるためではなく、この世界に義の支配による変化をもたらすためである。



 

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「わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(第二コリント12:1‐10)



「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。 」(第二コリント4:6‐12)



「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」 (ローマ8:18‐24)



「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。 」(フィリピ3:18‐21)



「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。」 (フィリピ1:21‐25)



「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。」 (第一コリント14:1‐6)



「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。」 (第二コリント5:13)



こうして、キリスト教の「関心」は、内面としての心の平安や、死後の天国への関心ではなく、現に我々が生きて生活している「この」地上への無限の「情熱=関心」であり、「この」罪の体への無限の「情熱=関心」である。かくして、「神の国」は霊が行くものではなく、地上に「来る」ものであり、贖われるのは、我々の霊ではなく体である。なぜならば、我々の内なる霊は常に義を望むが、その体には義を成し遂げる力がないからである。アダムの堕罪に由来する罪の体から、新しいアダムとしてのキリストから来る「神の子」としての義の体へ変えられる。



「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」 (ローマ7:14‐25)



まことに、キリスト教の神は、聖書にあるように、取られたものは必ず取り返す「ねたむ」神であり、熱情の神である。それは、過ぎ去りゆくものを過ぎ去りゆくがままにまかせる仏教の観点からすれば、そのつどの激情に駆られる聖書の神は、執着にとらわれ続ける「煩悩具足の凡夫」ということになるのであろう。また、「賢者の不動心(アパテイア)」を美徳とするストア哲学からすれば、聖書の神は洗練されていない野卑な人格ということになるのであろう。さらにまた、哲学者のバートランド・ラッセルが、「イエス・キリストは、道徳的な人間ではなかった」と言うように、お上品(?)な大学人である彼ら無神論的ヒューマニストからすれば、笑ったり泣いたり怒ったり不機嫌になったりなどし、時に弱音をはいたり、十字架上で絶望したりなどするような、理知的であるよりは、大衆と同じく迷信的であるように見えるナザレのイエスは、尊敬に値しない粗野な人格ということになるのであろう。しかし、そのような人格こそ、我々が信じる創造主としての「神」であり、救い主としての「神」であり、貴族でもなく、政治的・知的・宗教的エリートの専門人でもなく、粗野な一般の平民である我々と同じひとりとなり、我々と共にいまして生活を共にしたもう贖い主としての「インマヌエル(我々と共にいます神)マタイ福音書1:23」である。我々はそのような神に似せて創られているのである。



「神はこのすべての言葉を語って言われた。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(出エジプト記20:1‐6)



「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。」 (ヤコブ4:4‐5)



「わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。」 (第二コリント11:2‐3)



まことに、キリスト教の神は、アリストテレスやストアの哲学者、デカルトやスピノザら近代の哲学者が想定するような、感情のないロボットのように、同じ世界をいつまでも同じく変わらずに、変わらない仕方でシステマチックに淡々と運行させる自然法則の総体としての神ではない。聖書の神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として、信じる者の個々の具体的な実存に語りかけ、時に自然法則を超えた先から奇跡によって介入する人格的な神である。神は熱情の神であって、森羅万象の自然万物と、あらゆる人間を用いて世界に干渉する神であって、情熱的な救済の意志を持たない、自然法則の総体としての「哲学者の神」ではない。



「モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。 」(出エジプト記3:13‐15)



「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。 」(イザヤ書65:1‐2)



哲学者のアタマのなかの論理的規則の内にピタリとはまって、それ以外の在り方ができない神なんぞが神と呼べるだろうか? 神は唯一にして三つという三位一体の非論理的な話しは、とうてい受け入れられないって? そうだ。全能にして唯一なる神は、人間とこの世界の救済への無限の「情熱=関心」による愛(アガペー)によって三位であるのであって、自己自身に引きこもる、何にもなれない自己完結した神ではなく、愛(アガペー)のゆえに何にでも在りうる神である。自らが創造した被造物を抱きしめるために、三位の関係において手を拡げる神こそ、現実に存在し、生きて活動している全能者にして愛なる唯一の神である。



自分の思考のうちにおさまる神は、「哲学者の神」として、生命なき死せる神であって、聖書の語る神のように、現実に存在し、生きて活動する神ではない。同じ人間どうしでも、予測可能な振る舞いしかしない人間は、あらかじめプログラムされたロボットでしかないように、常に予測を外れるような振る舞いをする可能性を持つからこそ、その者は自らの意志によって活動する「生きた」人間である。それと同じように、常に人間の思考におさまらずにはみ出してゆく神こそ、現実に存在して生きて活動する「自由」な神である。



 

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「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。」

 

パスカル 「パンセ」 前田陽一・由木康 訳 中公文庫

 



哲学者の考える神は、全能でありうるかもしれないが、それは愛の神ではない。スピノザの定義に従えば、神は全能である場合には愛ではなく、神が愛である場合には全能ではない。なんとなれば、「愛」は感情をあらわすものであり、感情は「欠如」をあらわすものだから。つまり、欠けているものが満たされたから「喜ぶ」のであり、満ちているものが欠けたから「悲しむ」のである。満ちたり欠けたりするものが全能であるはずがなく、神が全能である場合には、愛などの人格による意志の目的を持つはずがない。そのようなものは有限な人間の属性である。聖書が神について語るときには、有限な人間が無限なる神を理解するために、そのような有限な人間の属性を比喩的に神に当てはめて語っているだけで、神そのものは、そのような人間が考えることのできるような「愛」の感情や意志などは持たない。こうして、スピノザの神は、今、この瞬間に目の前に存在して、森羅万象を貫徹する自然法則の総体のようなものとなる。そのような神との関係は、必然的に、祈りや信仰などではなく、今、この瞬間、目に見えて存在する「この」世界のありのままを、偏見なしに観察し分析する学究的な真理の探究となろう。なぜならば、神が全能であり、かつ善であるならば、人間にとってはどれほど不条理に見えようとも、神は、「この」ありのままの世界を「完全」なものとして創造したのであり、もし、この世界が不完全で、天国に完全な世界を創造したとするならば、この世界は神の「失敗作」ということになるだろう。そうだとすれば、ミスを犯して後悔するような神(創世記6:5‐7)などは、全能ではありえないということになる。それゆえに、人間にとって「この」世界が、どれほど残酷であり、受け入れ難いものであろうとも、神は「この」ようなものとして世界を創造したのであるから、「この」世界は、「この」世界のまま、その「ありのまま」の姿において、受け入れられ、肯定されなければならない。そして、そのような世界への「適応」は、祈りや信仰などによって、この世界を「超えた」先の、「異なる」他者や、「異なる」世界へと関係するのではなく、「この」世界を成り立たしめている自然法則を研究し、理解することによって、その法則に自己を乗せて、自己の存在を向上させようとする科学技術的な態度となろう。まさに、「知は力なり(フランシス・ベーコン)」である。物理学者のアインシュタインが、「私が信じることができるのは、スピノザの神だけである」と語るときの「神」とは、このような神である。



論理的には、たしかに、そのとうりだとしても、しかし、学者は、自分の理論だけに責任を負えばよいのであって、被造物の運命には関心がない。そのゆえに、彼らは論理上の構築物で満足していられる。しかし、実在する神は、実在するがゆえに、被造物に対して責任を負わなければならない。それゆえに、神は実在しているからこそ、人の考えうる論理を逸脱せざるをえない。それは、たとえば、親は子供の前で、子供たちに対して何でも与えることができるほどに万能だとしても、しかし、それでも子供たちの成長と未来のことを考えて、あえてその万能さを行使しないように、全能の神もまた、人間のために己の全能さを縮小して、人間のひとりとなって、十字架の卑賤を選びうるほどまでに自由である。



「イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。」(マタイ福音書26:48‐54)



神の自由は、愛(アガペー)のゆえに、自己の全能さを放棄できるほどまでに自由である。そして、そのような、「十字架の卑賤」を選ばれた神の意志が、人間の理性の目には無力であり、敗北であり、悪と認識されるとしても、「千年を一日とし、一日を千年とする(第二ペトロ3:8)」神による、永遠までをも見据えた遠い未来への神の計画のうちで、今、無力に見える十字架上のキリストこそが神の全能の力であり、今、十字架における敗北こそが、復活による神の国の勝利である。ここで勝利したのは、力に任せてキリストを十字架に磔(はりつけ)た悪の力ではなく、愛(アガペー)による善のゆえに、十字架の卑賤を引き受けられた、イエス・キリストである。理性には、これらの奥義は隠されている。ただ「信仰」に対してこそ、十字架の卑賤にあらわされた神の力とその全能性、その善と勝利とを、「隠れたる神(ルター)」として啓示される。しかし、「おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない(マタイ福音書10:26)」。そして、「暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ(マタイ福音書10:27)」。たとえ、「人間が口をつぐむとしても、石が叫ぶであろう(ルカ福音書19:40)」。ここで言うところの「石」を、あえて比喩ではなく、そのままの意味で、人間を取り囲む自然万物を含む森羅万象としての「世界」として捉えよう。力に身を任せて勝利した国家や、その指導者、または革命家が、その後、どのような世界をもたらしたのか? それらは歴史によってあきらかではないか? また、名だたる名門大学を卒業した、この世の「賢い者」の代表である高学歴の政治家や官僚たちのエリートらが、愚劣なスキャンダルとデタラメな政策を連発して、この国を傾くがままに任せていることを、どう考えるか? まさに、彼らの内の「自然性」が、また、彼らを取り囲む世界の「自然性」が、彼らの「敗北」を叫んでいるのではないか? 「この世」の賢さは、善をつくりだそうとして悪をつくり、天国をつくりだそうとして地獄をつくりだす。まことに、十字架の卑賤を選ばれた全能の神による、キリストの「復活」の「勝利」は、千年を待たずとも、我々が認識しうる時間のうちに、いずれすべての人に啓示されるであろう。現に、これまでの人間の歴史において、それはすでに啓示されている。人間の歴史とはなにか? それは、人間が神になろうとして神になれなかった歴史ではないか? そして、我々が、いかんともしがたい「壁」のなかにあることを物語る歴史ではないか? 聖書が人間の歴史を照らすのではなくて、ヘーゲルとは逆の意味において、人間の「現実」の歴史こそが、その罪による堕落と、それにともなう救済の恵みとを語る聖書の真理性を照らし出すのである。



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」 (第一コリント1:18‐31)



「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。(…) 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。」 (ヨハネ福音書16:2‐16,32‐33)



「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。 」(マルコ福音書12:10‐11)



「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」 (ヨハネの黙示録1:7)



しかし、キリスト教に詳しい方からすると、私の理解している三位一体の神の理解は、あまりにも「様態論」のサベリウス的異端に傾いていると思われるかもしれない。「様態論」とは、後に異端とされた、サベリウスの主張する三位一体の教義についての説明である。すなわち、様態論においては、三位の神は、唯一の神のそれぞれの「様態」となるのであって、それは、まるで、唯一の神が、状況にあわせて父と子と聖霊の三つの仮面を付け替えているようなものである。したがって、様態論に従えば、三位一体の神は、唯一なる神の「一人芝居」という意味で三位である、ということになるだろう。



どうしてこうなるかというと、人間の言葉の限界のゆえに、シーソーのように、神の唯一性に重心をおいて語ろうとすれば様態論に傾き、三位の神の独立性に重心をおいて語ろうとすれば三神論に傾いてしまう、ということにある。たとえば、「三位一体」を、独立した三位の神の協力関係において一体だとして説明しようとする立場もあるが、そうだとしたら、やはり、「じゃあ、キリスト教っていうのは、やっぱり三神論の多神教なんじゃないの?」という疑問は、どうしても残ることになるだろう。



事実として、三位の神でなければ、人間の救済は成し遂げられず、神は愛(アガペー)ではない。だからといって、唯一の神が、仮面を付け替えるようにして、父と子と聖霊を演じ分けているのではない。全能の神は、愛のゆえに三位であることを望まれた。愛においてそう望まれたように三位において在ることが、唯一の神の全能性をあきらかにする。それ以外の言葉で語れるだろうか? 私も自分の説明が様態論に近いことを自覚している。しかし、キリスト教の「三位一体」の教義が、ユダヤ教徒やイスラム教徒にとっての躓(つまず)きの一丁目一番地である以上、「やっぱり、キリスト教というのは多神教じゃないのか?」という、彼らの疑問に対して、できる限り理性的な答えを求めざるをえないのであり、金輪際、永遠に彼らと言葉を交わさず、交流を断つことを決断するというのなら話しは別だが、そうでないなら、三位一体の神を、「キリスト教徒になったら、信仰によって理解できる神秘」として、回答を濁しているわけにはいかない。彼らが我々の回答で納得するかはともかく、それでも、我々は、彼らの疑問に対して、可能な限り理性的に説明できるよう努めなければならない。



喜怒哀楽の感情を持つ「人格」としての神の情熱は、捕虜や奴隷として敵に奪われた者を、必ず取り返すために戦う戦士の情熱である。それは、奪うための情熱ではなく、与えるための情熱であり、人を奴隷化するための情熱ではなく、人に自由を与えて解放に至らせるための情熱であり、殺すための情熱ではなく、命を与えて生(活)かすための情熱である。我々が喜怒哀楽の感情を持つ存在として創られているのだから、御自身に似せて人間を創造したその創造者もまた、同じく喜怒哀楽の感情を持つ人格として存在しているわけである。



しかし、我々人間の感情や意志が、神に似せて創造されたにしても、その感情や意志が、悪魔の誘惑によって罪に売られてしまっているので、我々が感情のままに振る舞う時には、その意志によって悪をなすことはあっても善をなすことは、まったくない。したがって、我々が、「この」罪の世界と、「この」罪の体にある限り、仏教的またはストア的な、感情を治めることを美徳とするような倫理が不要となることはないし、それらは常に必要とされて、繰り返し語られるべきである。しかし、だからといって、それで完成なのではなく、それで終わりではない。キリスト教は、その先の「完全」を求め、希望するものである。



「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 (マタイ福音書5:43‐48)



キリスト教の目的は、「無我」でもなければ、感情や欲望の抑制という意味での禁欲でもない。また、肉体の放棄でもない。キリスト教の目的は、体の「贖(あがな)い」であり、それらの「浄化」である。堕罪による最初のアダムの体から、最後のアダムとしての、神の子キリストの体が世に与えられることによって、我々もまた「神の子」となる資格と、その体を与えられる。それは、人間性(ヒューマニズム)を廃することではなく、より人間らしい人間へと「聖化」されることであり、ナザレのイエスが笑い、泣き、食べ、楽しみ、憤ったりしたように、我々もまた、自分の感情を素直に表現することが許されているのであるが、しかし、それは、堕罪の体として、自分の欲を満たすために、互いに奪い奪われなどして、奪って笑い、奪われて泣いたりするような体としてではなく、愛(アガペー)のゆえに、他者の喜びを自分の喜びとし、他者の悲しみを自分の悲しみとして、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く(ローマ12:6‐15)」ために、互いに与え与えられすることによって、笑ったり泣いたりするような、「神の子」としての体においてである。その喜びは、奪って得る喜びではなく、与えて得る喜びであり、その悲しみは、奪おうとして得られなかった無力感による悲しみではなく、与えようとして与えることができなかった無力感による悲しみである。その目的は、捕われ人に自由を与え、困窮している者を満たし、その苦しみの幾分かでも癒すべく求めて欲する「神の子」としての体において笑い泣きすることである(ヨハネ福音書11章)。



「なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。」 (マタイ福音書11:18‐19)



「その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」 (ヨハネ福音書4:31‐34)



「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。」 (マタイ福音書4:1‐4)



「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。 」(ルカ福音書19:41‐44)



「愛せよ。そして、汝の望むことをなせ。」(アウグスティヌス)

 

愛(アガペー)しているならば、たとえ感情のまま、思いのままに振る舞ったとしても、罪を犯すことはない。なぜならば、その思いも振る舞いも、すべて愛する者に命を与えて生(活)かし、自由を与えて解放に至らせることにあるからである。キリスト教が求めるものは、「無我」ではなく、「神の子」としての「我」によって、どこまでも義に「執着」することである。たとえ、その執着が、心と体に受難の苦しみをもたらそうとも、我々が求めるのは、そのような苦しみからの解脱ではなく、十字架の死から「復活」された方の勝利に照らされて、我々もまた、自分が背負うべき十字架の受難の苦しみを引き受ける力を与えられることである。



「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」 (ローマ13:8‐10)



「大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。」 (ルカ福音書14:25‐35)



「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」(フィリピ1:29)



しかし、そのような、「神の子」としての「我」や、その「体」による感情や欲望などは、本当にあるのだろうか?



ある。それは、たとえば、こういうことである。投げられたボールにとって、そのボールの意味と存在の目的は、ボールを投げた者が目指した目的の場所へと到達することであって、有名選手のホームランボールとして、飾り付けられて神棚に大事に祀られていることではない。投げられたボールの心は、投げた者の心と共にあり、投げた者のもとにある。クリスチャン(キリスト者)の場合も、それと同様である。我々もまた、地上にこの生を持ってはいるが、それは、我々を投げた者の御心(みこころ)を成すためであり、ただそのためにのみ存在する。それゆえに、我々は、「この世」に生きてはいるが、その存在と心は、我々を投げた者のうちにあり、投げた者と共にある。もし、我々をホームランボールとして、きれいに飾りたてて、名誉の玉座を与えてくれるような善意の御仁がいたとしても、我々はそのような名誉に値しないということを、我々自身が知っている。我々は、我々を投げた方の目指した目的に達するまで、ひたすら投げられるだけであり、そのことに対して飢え、渇き、もがき、欲しているのであって、富と名誉の玉座を求めているわけではない。名誉の玉座に鎮座しているほど、自惚れてもいなければ、そこで留まっているわけにもいかない。課題は山積みである。



または、こうも言えよう。「神の子」としての体とは、上から水を注ぎ続けられる器のようなものである。注がれ続ける水は、溢れ出て他を満たしてゆく。逆に、空っぽの器は、他に手を伸ばして自己を満たそうとする。満たされた器の求めるところは、溢れ出て他を満たすことであるが、空っぽの器が求めることは、逆に自己を満たすことである。自己を与えるためには、溢れ出ていなければならない。溢れるためには、上から注がれ続けていなければならない。上から注がれるものを持たない欠乏した器が、誰かに何かを与えようとしている時には警戒しなければならない。なぜならば、その器にとって、与える目的は、奪うことであり、相手を満たすことではなく、自己を満たすために相手に手を伸ばすことにあるのだから。だから、誰かが、あなたに、「私は君を愛している。だから、君のために何かを与えたくて仕方がないんだ!」と、これ見よがしに善意をアピールしてくる時には警戒しなければならない。食虫植物が、食べるによく、目に美しく、好ましい外見や香りを放って虫を招く時には、その目的は、相手を生かすことではなく、自分が生き、成長し、拡大するために、相手を食って自己に取り込むためである。溢れ出す器にとっては、善意をアピールするまでもなく、すでに、その自己を誰かのために注いでいる。



「そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。」 (ヨハネ福音書4:5‐14)



我々は、たしかに、自分のために執着するようなものは、もはや「この世」には何もない。(そもそも、我々貧者は、「この世」のものについて、何かに執着を持つことすら許されていない身分だが…)。しかし、自分のために喜ぶことはなくとも、他者のためには大いに喜ぶことがあり、自分のため流す涙は、もはや枯れ果ててないとしても、他者のためには大いに涙を流して悲しむことがある。我々の居場所は「この世」にはない。我々は、「この世」に在りながらにして、その命は「既に」天に在る。我々が「この世」において望むことは、ただ「神の国(支配)」が地上に成されることだけであり、そのことを求め、祈り、欲し、執着してやまないのであり、その存在の根拠は、自分自身を「神の道具」として、「この世」に義の支配の幾分かでももたらすことだけである。



聖書において主張されているような「永遠の生命」などは、古代人の非科学的な迷信と思われるだろうか? たしかに、そのような生命や、不滅の霊魂の存在などを科学的に証明する術はない。しかし、永遠の生命が科学的に証明されなければ自己を与えないというのであれば、彼は、たしかに、永遠の生命を「生きて」はいない。永遠の生命があるかないかにかかわらず、与える者は、そんなことに関係なく自己を与えるために、ただただ下へと降る。そして、そのように、彼が、自己を与えるべく、ただただ降るがゆえに、彼が、この世の時間性を超えて満ち満ちているもののなかに在るということを証明する。この世の何者も、彼からなにも奪うことはできないし、彼から奪えるものもなにもない。投げられた者の存在の根拠が、常に投げた者のもとに在るように、愛(アガペー)する者は、愛することにおいて、既に、「この世」において、この世ならざる「永遠」を「生きて」いる。まことに、我々を投げた者が、我々の名を呼ばれるのであるから、投げられた我々は、我々の名を呼ぶ投げた者のもとに在って、死によって終わることのない永遠の生命を「生きて」いるのである。



「また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。」 (マタイ福音書22:31‐32)

 

 

愛(アガペー)する者が死を恐れるのは、死が彼から何かを奪うからではない。死が彼から奪うものは、「この世」には何もない。ただ、彼が、死によって恐れることは、彼がそのことによって、彼を投げた者の御心(みこころ)を成すことができないからであり、もはや、それ以上、自己を与え尽くすことができないということを恐れるからである。しかし、たとえ、我々が志半ばで倒れることになろうとも、我々は落胆しないだろう。なぜならば、我々が無力のうちに打ち砕かれようとも、我々を遣わした方は生きておられるからであり、我々が成し得なかったことを、あらゆる人と万物を用いて、必ず成し遂げることができる方がおられるということを知っているからである(ローマ8:28)。そのようなキリストが生きておられるのであるから、たとえ我々の肉体が、志半ばで朽ち果てようとも、我々の心と霊は、我々を投げた者のもとに在り、彼と共に永遠に生きて、その支配に参与することができるのである。したがって、我々がこの世を去るときには、私に人生を与えたもうた神への感謝と、そして、私に先立ったすべての人々の平安と、残されたすべての人々の幸福を祈りつつ、神によって万物の完成が必ず成し遂げられることを確信して、「万歳!」と叫びながら、その霊を神に返すことができるのである。



「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」(ヨハネの黙示録20:4‐6)



「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。」(使徒言行録7:54‐60)



もとより、キリスト教にも「不動心」というものがなくはない。もちろん、それは賢者の不動心ではなく、「神の幼子」としての不動心だが。賢者の不動心だなどと主張するほど、我々は自惚れておらず、事実、私は賢くはない。我々の不動心は、我々の知識や心の働きによるのではなく、我々が存在している「場所」によるのであり、我々の存在の根拠が、我々を投げた者のもとに在るがゆえに、投げられたこの地上においては、まるで嵐の海の上に立つように、「この世」という嵐と水のただ中にあって、窒息せずに呼吸することができるのである。それは、キリストの幼子として、神に抱かれて在る者の安心立命であり、「アッバ!(お父ちゃん!)」と親しく呼びかけることができるような、神と共にある生である。「あなたの宝があるところ、そこにあなたの心もある」。投げられた我々の肉体は地上に在るが、その心と霊は投げた者のもと、すなわち天に在る。それゆえに、「この世」の人々が一喜一憂して窒息するところで、我々は呼吸することができる。これが、キリスト者の浄福といえば浄福である。



ここまで読んでこられた方は、「You Raise Me Up」という歌の歌詞を想像なさるかもしれない。この曲は、日本では2006年の冬季オリンピックにて、金メダルをとった日本人フィギュアスケーターの演技中のバックミュージックとして有名になった曲である。クリスチャンならばピンとくるように、その歌詞には聖書的モチーフがあるのは明白であって、神という言葉もキリストという言葉も使われていないから、讚美歌として分類される必要はないにしても、ある種のキリスト教信仰がその背後にあるのはあきらかである。もちろん、様々な人が、様々な意味や状況をあてはめて聴いている歌の歌詞の意味を限定するのは「野暮」というものだけれども、それでも、それがなにか恋愛ソングのように語られているとすれば、少しもったいない感じがする。ギブアンドテイクにすぎない恋人関係のために山に登ったり、嵐の海を渡る者がいるのだろうか? 闘病中の恋人や子供を勇気づけるために高い山に登ったり、海を渡ったりするという企画はテレビなどで見かけたりするけれども…。多くの日本人の間では、この曲は、先に亡くなった家族や親友を当て嵌めて、「父ちゃん…、母ちゃん…、天国から見ててくれよ。俺、がんばるからよ!」と、その存在を身近に感じて自分を勇気づける曲として親しまれているらしい。



You Raise Me Up(日本語訳)

 

心が沈み 

魂が疲れ果てたとき 

問題に押しつぶされ 

重荷を感じるとき 

私は静かに待つ 

ここでただ、じっと 

あなたが来て 

しばらくそばに座ってくれるまで 

あなたが私を支えてくれるから 

私は山の上にも立てる 

あなたが私を支えてくれるから 

嵐の海も歩いていける 

私は強くなれる 

あなたが支えてくれるとき 

あなたが私を引き上げてくれるから 

私は本来の自分以上になれる 

人生には渇きがあり 

満たされない心がある 

でもあなたが来てくれると 

私は驚きに満たされる 

時に、自分が永遠に触れているかのように 

思えるほどに 

あなたが私を支えてくれるから 

私は山の上にも立てる 

あなたが私を支えてくれるから 

嵐の海も歩いていける 

私は強くなれる 

あなたが支えてくれるとき 

あなたが私を引き上げてくれるから 

私は本来の自分以上になれる 

 

訳はChatGPTによる

 



「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。 」(マタイ福音書14:25‐31)



「それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」 (ルカ福音書12:22‐34)



「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 (フィリピ4:11‐13)



「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ローマ8:14‐15)



心は、神によって投げられることによって守られる。攻撃は防御をも兼ねる。心を守ろうとしても、心は守られない。愛(アガペー)によって、自己を投げている時にのみ、自分の心も守られる。それは、たとえば、若い頃は前髪の形に人生を賭けていて、その形がうまく整わなかっただけで、人生が終わったかのように、その日一日を憂鬱に過ごしていた少女が、母親になったとたん、美容院に通うことも忘れて、伸びた髪を後ろに括りながら子育てに邁進するように、愛することによって、今まで悩んできたコンプレックスや劣等感が、嘘のようにどうでもよくなるなんてことは、よくあることである。誤解なきように言えば、もちろん、自分の外見ばかりを気にするような母親は、母親失格だなんてことを、私は主張したいのではない。ただ、愛する時には、人生の細かいことが、それが、まるで世界の破滅ででもあるかのような重大事として思い煩うことが少なくなるということが言いたいだけである。「まず神の国とその義を求めよ。さすれば、それらのものは添えて与えられん」。まことに、自分の心を守るということにおいても、攻撃は最大の防御である。



こうして、旧いアダムに由来する体ではなく、これまで述べてきたような、キリストによって神に贖(あがな)われた、「神の子」としての「体」を、我々が「この世」の無神論的ヒューマニズムに対抗して、「人間」イエス・キリストによって啓示された、「神の人間性(ヒューマニズム)」と名付けよう。しかし、だからといって、これは旧い体を捨てることを求めるものではない。それは、旧い体の上に、神によって着せられる体である。上に着ようとするわけであるから、旧い体に由来する様々な葛藤やうめき(ローマ8:26)を伴うことがあるにしても、しかし、その体は、「この世」に在りながらにして、すでに天を生きる体であり、今の時間において、すでに永遠を生きる体である。それは携挙の体(キリストの再臨の際に、選ばれた選民を天国に引き上げる霊的な体)のことを言っていると思われるだろうか? しかし、携挙というものが、実際にあるにせよ、ないにせよ、実際、携挙に値する者は携挙について問わないし、死は彼にとって「終わり」ではなく、生けるキリストの体に連なることであるから、彼にとっての関心事は、上に昇ることではなく、「神の国(支配)」を地上にもたらすために、下へ下へと降ることである。「ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう(マタイ福音書11:23)」。「上におると言う者こそ下におり、下におると言う者こそ上におる」という聖書的逆説によれば、降ることこそ昇ることであるから、降ることもなしに、ただ昇ろうとする者は、自分たち「だけ」が、天国の平安に与(あずか)ろうとする、自己中心的な自己神化による「バベルの塔(創世記11:1‐9)」として、神の審判の前で弾かれてしまうのである。



「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」 (第二コリント5:1‐10)



「客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。」(ルカ福音書14:7‐11)



「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。」 (マタイ福音書20:25‐28)



「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。」 (ルカ福音書18:9‐14)



「そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。」 (エフェソ4:8‐10)



「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(フィリピ2:6‐11)



しかし、このように「神の人間性(ヒューマニズム)」を理論化したからといって、私自身が、すでにそのような「体」を生きている、ということが言いたいのではない。それは、私自身も追い求めているからでり、追い求めるべく私に啓(ひら)き示されたことを語っているにすぎないからである。それは、私自身もまた、キリストに捕らえられているからである。



「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。」(フィリピ3:8‐15)



しかし、ある人は言うであろう。「そのような言い方では、仏教を下げてキリスト教を上げているように思えるが、この価値相対主義と宗教多元主義の時代にあって、あなたは、まだ、キリスト教『だけ』が唯一の真理の所有者であると主張しようとするのか?」と。



もちろん、私はキリスト教以外の諸宗教にも真理の存在を認める者である。しかし、それでも、種宗教・諸哲学の中にあって、私はキリスト教が「ナンバーワン(オンリーワンではなく!)」だと確信しているからキリスト教徒なのである。仏教徒や他の諸宗教の信徒はそうではないのか? 自分の宗教が「ナンバーワン!」だという確信がないのなら、どうしてその宗教を信じるのか? しかし、私がキリスト教をナンバーワンだと考えているからといって、私が他の諸宗教の信徒に求めていることは、彼らがキリスト教に改宗することではなくて、彼らもまた、自分の宗教とその信仰を「ナンバーワン!」だと確信して、その確信によって啓(ひら)き示されたことを、私に語り聞かせてくれることである。



私は、「煎じ詰めれば、諸宗教の教えはひとつの真理に帰一する」と考えるような意味での「宗教多元主義」ではない。どうして、自分たちがいつも聞いているような教えや真理を、わざわざ他の宗教の信徒の口から聞かなければならないのか? そんなつまらないことがあるだろうか? やはり、どうせ耳を傾けるのであれば、「ウチらの宗教は、おたくらの知らない真理をもっとる!」と主張なさる方々の話しを聞きたいのであり、こと宗教に関しては、それぞれの立場がオンリーワンだという「生ぬるい」話しが聞きたいのではなくて、自分たちの宗教こそナンバーワンだという「熱い」主張が聞きたいのである。あるいは、逆に「神も仏もあるかいな!愛も正義もあるかいな!この世は所詮、弱肉強食やで!」と言うような「冷たい」主張を聞くことによって、むしろこちらが「熱く」なりたいのである。



「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」(ヨハネの黙示録3:15‐16)



もちろん、私の仏教理解についても、多くの仏教徒の方から「ツッコミ」があるであろうし、キリスト教がナンバーワンだと主張する私の理解にたいしても、あらゆる方面の立場から、「なんでやねん!そんなわけあるかい!!」と、多くの「ツッコミ」が入るであろう。もちろん、事実は、私がこれまで述べてきたほど単純ではなく、キリスト教にだって、自己の内面性に引きこもる神秘主義的な立場もあるし、社会から隔絶して教会に引きこもり、ひたすら祈りに専心して携挙を待つようなグループもある。また、仏教についても、「仏教の社会倫理」について研究しておられる方も少なくないように、特に、日蓮などの仏教者による仏教理解にあらわれているように、「この世」の不正や悪の現実に対して抵抗し、変えようと努力する「戦闘性」を示す立場だってさえある。



そういう意味で、キリスト教は「動的」だが仏教は「静的」だなどというように、きれいに白か黒かに色分けできないことも理解している。そうしたことも含めて、それぞれの立場が、それぞれの立場において自分がナンバーワンだと確信している宗教の話しを聞いて、「ぐぬぬ…」と腕を組んで考えこむところに、宗教の学びと深化(進化)がある。



以下、仏教とキリスト教との対比について、いくつかChatGPTに質問した内容とその回答とを貼り付けておきたい。AIとはいえ、私の素人目から見る限り、優秀な回答をしてくれていると思うのだけれども、「ガチ」の仏教徒や、専門的な知識を勉強、研究しておられる方から見ると、間違っていたり物足りないと思われる回答もあるかもしれない。また、ブログにChatGPTとの議論の内容を貼り付けるというのは、まだ実験段階なので、閲覧環境によってはリンク先にアクセスできないかもしれない。どのようにするのがよいかは、まだ思案中なので、現段階の不備はご容赦いただきたい。



ChatGPT「仏教とありのまま」https://chatgpt.com/share/6a3d6096-8584-83e8-8bb8-8a6982f688bf



ChatGPT「仏教の宗教改革」https://chatgpt.com/share/6a100379-3414-8320-b41b-7f222f75500c



ChatGPT「仏教とキリスト教の苦」https://chatgpt.com/share/6a3d627c-0ae0-83e8-9a4e-da3ee55bba99



ChatGPT「仏教の社会倫理」https://chatgpt.com/share/6a3d64fc-9fec-83ee-a65c-c37eac6fd2a9



ChatGPT「大乗仏教の慈悲と悟り」https://chatgpt.com/share/6a22ca5f-4c88-8324-b256-228377e1e3dc



ChatGPT「極楽浄土と天国の違い」https://chatgpt.com/share/6a3d656b-6210-83e8-a2ed-ed1899d347db



ChatGPT「仏教における仏と菩薩」https://chatgpt.com/share/6a22c979-5aec-8320-b5dc-bc302b2a3836



ChatGPT「仏教の利他行と近代」https://chatgpt.com/share/6a3d63d0-ede0-83ee-91b2-195d7f4097e5



それでは、仏教では、生存の苦しみからの解脱を目的としているのであれば、慈悲との関係はどのようなものなのだろうか? 苦しむ相手への共感・共苦による同情によって、相手の苦悩を自己の苦しみとして引き受けることは、むしろ自己の生存の苦悩を増すだけではないか? 事実、仏教には、山奥の寺院に籠もって、涅槃寂静の境地を求めるために、ひたすら煩悩を滅する修行に打ち込む立場もある(もちろん、キリスト教にだって、出家して修道院に籠り、俗世間から離れて霊的完成に専心する立場もある)。



その答えは、おそらく仏教の「縁起」の思想にあるのだろう。ゴータマ・ブッダが、「生きとし生けるものは、みな幸福であれ!」と説いたように、自分自身の幸福、すなわち、心の幸福も、体の幸福も、自分独りだけで成し得るものではなく、それは、人間だけでなく、他の動物たちや自然万物の幸福も「共に」でしか成し得ない、ということなのだろう。正真正銘、文字どうりに山奥に自分独りだけ引き籠もって過ごす仙人においてならともかく(そのような仙人の生活もまた、彼が接している動物たちや自然の存在の福楽と無関係に在るわけではないが)、しかし、俗世間に在る以上、生老病死の苦、悪による破壊と困窮の悲惨があるなかで、自分だけで幸福に在るというわけにはいかない。それは、むしろ自分自身にとっても苦しいことである。そういうわけで、自分自身の苦からの解放を求める者は、一切衆生のうちにあって、森羅万象を含むすべての存在の幸福と、苦しみからの解放を望む慈悲となってあらわれる。



それゆえに「無我」、すなわち仏教徒が執着を滅することによる、あらゆる煩悩からの解放を求めて努力し精進する理由は、一切衆生を救わねばならぬという「こだわり(使命感)」にあるというよりも、無常を悟り、執着を滅することによる、あらゆる「こだわり」がなくなることによって、自己自身で充実しているような自由な人格が、自分に入ってくるあらゆる良きものを、困窮している他者や世界に向けて流してゆく(自分だけで充実しているのに、この上何を溜め込もうというのか?)利他的な態度となってあらわれる。すなわち、それは、何も持っていないが、それゆえにすべてのものを持っている、そのような自由自在の在り方から来て、他へ流れてゆくようなものである。



したがって、仏教においては、たとえば「愛すべきだ!」という戒律に対し、「愛さなければならない」という預言者的命令に服従しようとする意志によるのではなく、「悟る」ことによって、他を愛することの「できる」存在の状態にまで自己を高めようとすることを求めるものであり、預言者的命令よりも、無常を悟り、縁起を認識し、心を鎮めて執着を断ち、煩悩を滅することを教え導くブッダの在り方に学ぼうとする知的な営みである。その際、教える者の立場は預言者ではなく、あくまでも導士であり教師であり、その目的は、真理を伝えることではなく、真理を体現した存在の在り方を模範として示し、弟子に継承することである。声を荒げて叫ぶ一神教の押し付けがましい(?)預言者の命令と警告よりも、「悟り」によって世界を愛することが「できる」存在の状態にまで人を導くために、静かに無常を語り、縁起を教え、法(ダルマ)を説くのが仏教というわけだ。仏教徒が、仏教を宗教と区別して、哲学や科学と呼称したがる所以である。



それは、日本人のヒーロー観にもあらわれている。たとえば、日本では、自分自身の罪や悪やトラウマに対して、汗と涙と血でグチャグチャになりながら、それらを克服するために闘う「がんばる」主人公は、あまり好かれない。それらは日本人には「やせ我慢」に見える。日本人の好むヒーロー像は、映画「男はつらいよ」の「寅さん」こと車寅次郎のように、また漫画「ドラゴンボール」の孫悟空のように、そして最近では漫画「鬼滅の刃」の竈門炭治郎のように、寛容になろうとして自分のなかの罪と悪とに葛藤する主人公ではなく、もともとの性格が空のように明るく、海のように広く深いがゆえに、結果として寛容な人格、寛容になろうとして寛容になった人格ではなく、もともとの性格が寛容であるがゆえに、結果として寛容な人格、すなわち、いちいち小さく細かいことを気にしないおおらかな人格であるがゆえに、結果として寛容な(もちろん、巨悪に対しては怒り、徹底的に抵抗する)、豪放磊落な快男児がヒーローとして好まれる。



ChatGPT「寅さんのキャラクター解析」https://chatgpt.com/share/6a42a16b-a758-83e8-bfe5-c65e3fee7cb5



しかし、いかに我々が、そのようなキャラクターに惹かれようとも、我々は寅さんではないし、悟空ではないし、炭治郎でもない。我々は、そのようなキャラクターに憧れ、そのようなキャラクターを称賛しつつも、SNS上で匿名に隠れながら、嫌いな人間の悪口をネチネチと書き込んでいるような、器の小さい小さい人間である(ローマ3:9‐18)。仏教は、「愛さなければならない!」と命じるのではなく、「悟り」によって愛することが「できる」ようにと、そのような存在の状態へと自己をもっていくことであって「やせ我慢」ではない。それは、涙を流して悔い改め、血と汗を流して十字架を背負うこととは異なり、むしろ「自然体」になることを求めるものである。しかし、そうだとしても、「自然体」によって愛し「うる」ような徳の高い僧侶は、当然ながら、そう多くはないし、多くなることもない。「すべて高貴なるものは稀であるとともに困難である(スピノザ)」。ゆえに、この世界が、そのような高僧の存在に依存している限り、「この」世界は、いつまでもこの世界の「まま」である。万民がそのような高僧の境地にまで至ることを待っているわけにはいかない。



仏教は、自然体のままで愛し「うる」存在に成ることを求めるものだと言った。それに対して、キリスト教では、愛(アガペー)は絶対命令であって、人が「できる」「できない」にかかわらず、また物理的に可能か否かにかかわらず、「神の国」と「ゲヘナ(地獄)」、「この世」の救いと破滅が賭けられた神の言(ロゴス)である。キリスト教では、人が愛することが「できる」から愛さなければならないと教えるのではない。神が愛(アガペー)するから、たとえ人が愛することができないとしても、それでも愛さなければならないのである。



「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 

求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 (マタイ福音書5:20‐48)



これは、「愛すれば苦が減って気持ちいいですよ、愛すれば魅力的な人間になれますよ、愛すれば、最後にはあなたの得になり、あなたは幸福になれますよ」というレベルの話しではない。愛(アガペー)の結末は、孤独な傷だらけの十字架上の死であり、信じていた神の無言の沈黙である(マタイ福音書27:46)。そうであるにもかかわらず、愛は神の絶対命令である。愛し難きを愛し、ゆるし難きをゆるし、憎き相手でも愛さねばならぬ。誰にも認められず、評価されず、失うものだけで得るものもなく、異端者、売国奴と罵られて十字架上で死ぬことになろうとも、それでも愛さねばならぬ(ルカ福音書23:33‐34)。



「すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。 」(ルカ福音書13:23‐30)



クリスチャン(キリスト教徒)は問う、「仏教徒も救われるか?」と。問いがまったく間違っている。キリスト教徒「でも」救われ「ない」のである。



「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」 (マタイ福音書7:21‐23)



「列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。」 (ルカ福音書14:15‐35)

 

 

このように、愛(アガペー)は神の絶対命令であり、自分の財産、人生、生命を賭けて捨てることができるほどまでに愛さなければ、神の国に入ることはできないのである。それも、このような厳しい愛の要請は、長年の修行を積んで訓練された、有徳な高僧や聖人に求められているのではなく、市井を生きる素朴な一般大衆に向けられた言葉であり、すべての人に求められた言(ロゴス)である。当然ながら、有徳な、優れた仏教者は多い。しかし、優れた仏教者のみが有徳であればよいのではない。「レディ〜ス・ア〜ンド・ジェントルメ〜ン、あ〜んど、おとっつぁん、おっかさん、そして〜、おにーちゃん、おねーちゃん、おじーちゃん、おばーちゃん」。このような、そこらへんの平凡な民衆のひとりひとりが、超越的で、かつ人格的な存在のなかに在り、その存在の視線の下にあって、「恥ずかしい生き方はできないな…」と、常に裾を正すことが重要なのである。



もちろん、このような厳しい愛(アガペー)の要請を実行できる人は、この地上には、まずいない。そのうえ、実行できないくせに、無理矢理に行おうとすれば、偽善や独善に陥るのみである。まさに、それゆえに、パウロが告白するように、この地上においては、義(ただ)しいとされる義人は、ひとりもいない(ローマ3:9‐18)。しかし、「人にはできないが、神にはできる」。それゆえに、このような愛の要請を命じ、かつ行わせるのは、一方的な神の選びと恵みによるのであって、人間の力、すなわち素質や能力、そして訓練と努力によるのではない。まさに、聖書にあるように、行いによって義人となるのではなく、信(ピスティス)において、神の力によって義とされる(ガラテヤ2:15‐20)。しかし、それだからこそ、それゆえにこそ、愛(アガペー)の命令は要請として厳として存在する。信仰さえあれば、「愛せよ。死に至るまで愛せよ(ヨハネ福音書15:12‐13)。痛々しいほどに愛せよ(マタイ福音書5:38‐48)」という愛の要請が無効になるのではない。信仰によって、律法が無効になるのではない。むしろ、信仰こそが、この愛の律法を成就させる(ローマ3:31)。この点において、キリスト教は、浄土教のような大乗仏教とは異なる。キリスト教において、信(ピスティス)、すなわち「信仰」は、他力によって浄土(キリスト教では天国)に引き上げられることを目的とするものではなく、「他力」によって「神の子」とされることであり(自力によっては、天国をつくりだそうとして、逆に地獄をつくりだす)、それによって地上の「この世」に、愛(アガペー)による「神の国(支配)」をもたらすことである。



「すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。」 (マルコ福音書10:26‐27)



キリスト教における「救い」とは、「神の子」の身分を与えられることによって、神の支配に服することであり、神の国の住人とされて天に上げられることである。しかし、「神の国」すなわち天国は、行くものではなく、この地上の世界に「来る」ものであると聖書が語っているように(マタイ福音書6:10)、死後の霊魂の平安だけではなく、また、外の世界に背を向け、内面に引きこもることによって心の平安を求めるスピリチュアリズムとも異なり、天に上げられる者、もしくは上げられるに相応しい者は、むしろ、現世においては、地上の罪の世界の最も低いところへと降り、その肉体と心に十字架の受難を引き受ける愛(アガペー)となってあらわれる。すなわち、キリスト教における天国は、昇るのと同時に降ることであり、上は同時に下であり、天は同時に地でもある。降る者は、すなわち上げられている者であり、上げられている者は、すなわち降る者である。愛するために、地獄の底まで降る者は、天に上げられて在る者であり、その命を「既に」天に持っている(第一ペトロ3:18‐20)。これが、天と地の一切を包む「神の国(支配)」と、その愛(アガペー)の概念である。それは、浄土教のように、行いはすべて棚上げしたうえで、念仏と信心だけで足れりとするのとは異なるものであり、行いを放棄するためにではなく、「真実」に行うために信じるものである(ヤコブ2:14‐26)。保守派は、選ばれたクリスチャンを天国に引き上げる神の力を強調する。たしかに、人間を「上げる」のは、人間の力ではなく神の力である。しかし、それで「降る」ことが無用になるわけではない。人が天国に「上げ」られるのは、それによって、神の支配に服する神の国の臣民とされることであり、臣民とされたならば、「愛せよ!」という神の命令にもとずいて、神の意志を成し遂げるべく、万民救済のために「下へ下へ」と遣わされるということである。そのゆえに、万民救済のために願い、祈り、求め、十字架を背負って執り成すこともせず、「私たちは敬虔なクリスチャンであって、穢れた異教徒とは違う!天国はクリスチャンだけのものだ!」と、選民思想に引き籠もって「降る」ことをしない者は、天に上げられてもいないし、上げられることもないのである。「不法を行う者よ。行ってしまえ!(マタイ福音書7:21‐23)」。誤解してはいけない。天に上げられる「ため」に降るのではない。間違ってはいけない。降ることによって功績を貯めて、天国への入場チケットを買おう(!?)とするものではない。そうではなくて、上げられた者は、上げられているがゆえに、「今は」降る者であり、降る者は、降ることが「できる」がゆえに、「既に」上げられた者である(すでに上げられているのに、このうえどこに上がろうというのか? 上げられたならば、向かう方向はただひとつ、下へと降ることである)。こうして、「昇る」ことと「降る」ことは、別々に存在しているのではなく、愛(アガペー)においてひとつであり、昇らせることも降らせることも、人の力に依るのではなく神に依る。



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自分の力によって昇るのではなく、神の力によって上げられると言う。しかし、あらかじめ壁がなければ、どうして「他力」について知るというのか? どのようにして限界状況を知るというのか? 壁がなければ、ひたすら自力によって押し進もうとするのみではないか? 「他力」と言うからには、自力を粉砕する「壁」が、あらかじめ存在しているのでなければならない。なるほど、人が自分の部屋に引き籠もっているかぎり、その部屋の内においては、誰もが全能の神でいられよう。しかし、外の世界に踏み出したとたん、自分が神ではないこと、小さくて無力な、有限な被造物にすぎないことを思い知らされる。「神なんて存在しない。人間は人間の力で世界を変えられるし、変えるべきだ」と宣う御仁は、学者として研究室や書斎のなかに引き籠もっている限りは、そのように言う事ができよう。しかし、その学者が書斎に籠もって研究に没頭できる環境を与えているのは誰なのか? 自然に直接接して、彼が住む家の木材や建築資材を生産しているのは誰なのか? 大地を耕し、穀物や野菜を生産しているのは誰なのか? 海に舟で乗り出して、彼が食べる魚を獲っているのは誰なのか? また、山に猟に入り、家畜を養って、我々が食べる肉を供給しているのは誰なのか? 今でこそ、そのような農業や漁業は機械化され、そのような生産に携わっている生産者もまた、蓄積されたデータをもとにパソコン上で数字を管理するような、科学者と見紛うばかりの専門的に知的な作業となっているけれども、昔は、不確実な自然の動きに接し、山の神、海の神に祈るような、素朴な信仰を持つ農民であり、漁民であった。彼らが、学のない無知な農民だったから、迷信(?)として、そのような信仰を持っていたのではない。むしろ、彼らは、こと自然に対しては、学者の机上の空論よりも、はるかに勝る合理性を、生活知として体得し、継承していた。そのような合理的な知恵から、その合理性のゆえに、まさに、彼らが生きて生活をしている自然環境の不確実さと、そのような自然に生かされつつも、人間が神になることを許さない自然の複雑さと厳しさの前で、頭(こうべ)を垂れざるをえなかったのであり、そのような謙虚さが、自然の神々に対する彼らの信仰心をかたちづくっていたのである。「神なんかいない…」と宣うことができるのは、温室のなかで、それだけ安心安全な環境に恵まれているか、あるいは奴隷(?)たちによって、自分が神のように全能でいられるような環境を、あらかじめお膳立てしてもらっているような人々だけである。そのようなものもなく、人間が裸で外の「無限なるもの」の前に放り出されるとき、はじめて人は「祈る」のであり、自分の卑小さ、無力さ、有限性、そして罪の「壁」の前で砕かれて、そこではじめて「超越」に触れるのである。占い師にハマる芸能人や、カルト宗教に洗脳されてしまう会社の経営者がいるものだけれども、なぜ、そのような合理的経営によって百戦錬磨の競争を勝ち抜いてきた人々が、非合理な迷信に陥るかといえば、その心理を、彼らの置かれている不確実で不安定な状況に由来しているのであり、実力がモノをいう社会であればあるほど、最善を尽くしたあとに頼れるのは運頼みだけだから、こうした非合理的で神秘的な力への依存の心理が生まれるわけである。もちろん、キリスト教の信仰からすると、そのような占いや現世利益の祈願に安心を求めることは、まぎれもない偶像崇拝として、別のカタチでの自己神化であり、運命や神々さえも支配して、自分の欲望や願望に仕えさせようと試みることであり、いずれ「壁」として、「超越」の真実の前で砕かれることになるものであるけれども。



「わが民を惑わす預言者について主はこう言われる、彼らは食べ物のある時には、「平安」を叫ぶけれども、その口に何も与えない者にむかっては、宣戦を布告する。それゆえ、あなたがたには夜があっても幻がなく、暗やみがあっても占いがない。太陽はその預言者たちに没し、昼も彼らの上に暗くなる。先見者は恥をかき、占い師は顔をあからめ、彼らは皆そのくちびるをおおう。神の答がないからである。しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示すことができる。」(ミカ書3:5‐8)



あらかじめ愛そうとしないのであれば、愛せないことによる自分の無力さを嘆くこともないし、罪の前で悔い改めることもなく、「壁」にぶつかって砕けることもなければ、祈ることもない。また、それ以前に、愛そうとするためには、「愛せよ。死に至るまで愛せよ。痛々しいほどに愛せよ」と告げる神の言(ロゴス)が、生ける人の子として、あらかじめ地上に遣わされているのでなければならない。光がなければ、闇を知ることがないのと同様に、また、あらかじめ律法がなければ罪について知ることはなく、「恵み(恩寵)」についても知ることがないのと同様に、「愛せよ!」という命令が、あらかじめ「生ける神の言(ロゴス)」として、すでに我々に遣わされているのでなければ、我々は光に向かって前進することはないし、前進しないとすれば「壁」にぶつかって砕かれることもなく、今ここが闇の中であることも、自分が盲目であることも知ることもない。あくまで、律法ありきの「恵み」であって、「悔い改めよ!」と叫ぶ預言者の後に、はじめて「あなたの罪はゆるされた」と語る神の言(ロゴス)はやってくるのである。



「というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。」 (ローマ5:13)



「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」 (ローマ7:7‐25)



「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」 (ヨハネ福音書1:4‐9)



それゆえに、光は宣べ伝えられなければならない。たとえ、その光が、すべての人の目にまぶしすぎるがゆえに、その目をくらませ、たじろがせ、盲目にして、彼らが自分が何者であるかを見失うことにならせることになるとしても、それでも、光は光として宣べ伝えられなければならない。



「「兄弟たち、父たちよ、いま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきたい」。パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。わたしは、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。 」(使徒言行録22:1‐11)



「闇は光に勝たなかった」と言う。別訳では「闇は光を理解しなかった」とある。では、光が光として来ただけでは、闇のなかにおる者は光に向かって前進することはないのだろうか? 光は、闇の前で十字架にかけられて終わるだけなのだろうか? 否!そうでなく、闇が光を理解せずに、光を十字架にかけて殺したとしても、光は復活して後、万民と万物の前に顕(あらわ)れて支配する。闇を罰する裁きは、闇が闇自身であることから来るものであり、光が闇を罰するのではない。闇が闇自身を罰する。闇による盲によって、「自分が何をしているのかを理解しない(ルカ福音書23:34)」こと、そして、それが自由であり救いででもあるかのように、「とげのある鞭を蹴って自分自身を傷つける(使徒言行録26:9‐14)」こと、それらすべてが、闇が闇にとどまることによって被る「罰」であり、我々が光に向かって歩むべく砕かれるために備えられた「壁」である。 



「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」 (ヨハネ福音書12:46‐48)



光は、人々の隠れた事柄をあきらかにするがゆえに光である(ローマ2:16)。光は、「この世」の人々が、「見えている」と言い張ることが盲であり、「聞こえている」と言い張ることが聾であり、実際の肉体が盲であり、聾である人々のほうが、むしろ見えており、聞こえていることをあきらかにするがゆえに光である。五体満足の人間は、まさにそれゆえに、自分が全能の神にでもなったかのように誰かを裁き、天まで届くバベルの塔を、日々こさえ続けるがゆえに、むしろ盲である。しかし、実際に肉体が盲であり聾である人々は、愛がすべてを生(活)かし、愛がなければ誰も存在できないという「言(ロゴス)」を、その身をもって「見て」おり、「聞い」ておるから、むしろ、彼らの目と耳は啓(ひら)かれているのである。



「そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。 」(ヨハネ福音書9:39‐41)



「それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」 (マタイ福音書13:10‐17)



光は、闇が闇であることをあきらかにする。我々が義だと思っていることが罪であること。自由がむしろ奴隷状態であること。我々が愛だと思っていることが、実はエゴイズムであること。我々が天国だと思っていることが地獄であること。そして、我々が恵まれた神の祝福だと思っていることが、実は神の裁きであることをあきらかにする。愛(アガペー)さない心と、愛(アガペー)さない社会への罰は、終末の地獄の審判を待たずとも、今、この現世においてそれぞれが引き受けることになる。



「しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 」(エフェソ5:13‐14)



「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。」(第一ヨハネ1:5‐10)



「「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。 」(第一ヨハネ2:9‐11)



愛(アガペー)を認めず、十字架にかけて殺すことは、いずれその自分自身の自己をも捨てることになり、この社会と世界もまた、自己自身を捨てることになるであろう。他者の尊厳を、自分の利益のために売る者は、自分の尊厳をも売り渡すであろう。怪獣(リヴァイアサン)に人の人権を売り渡す者は、自分の人権をも二束三文で獣に売り渡すであろう。闇が闇であることの罰は、まさに、闇に留まろうとすることによって、自分で自分を傷つける罰であり、闇そのものが「罰」であり「壁」である。ゆえに、我々が自分を偽らず、正直になるならば、我々が闇のなかに在ることを認めて光へと向かわざるをえないであろう。光は、人々にそれが闇であることを認めさせ、そこから抜け出して前進させるように向かわせるからこその光である。光が光であるのは、それがあらわされたならば、人を闇のうちに留まらせないがゆえに光である。光は「この世」に来た。我々は光に向かうであろう。我々は光を求めるべく創られている。闇は光を理解せず、光を十字架にかけて殺すであろう。しかし、光は復活してのち支配する。これが、神が光によって、闇のなかにいる我々を御自身の許に引き「上げる」ということであり、我々を引き寄せたもう方に向かって歩み出す力を、我々に与えられるということである。そしてこれこそが、闇にともなう罰を警告する預言とともに、我々が宣べ伝うべき光であり、その「福音(嬉しい報せ)」である。



「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」 (ヨハネ福音書3:16‐21)



「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。 」(ヨハネ福音書12:31‐32)



 

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最後にひとつ、仏教について指摘しておきたい。大乗仏教から、自己救済を目的とするだけの、偏狭で独り善がりな小乗(誰も救われない小さい乗り物の意)と評される上座部仏教だが、たしかに、出家僧だけで構成される僧団だけを見ると、そのように見えるのだが、彼らを支える周囲の地元の在家信者のネットワークを含めると、そう単純ではない。



出家僧は、当然ながら、家業を捨て、世俗を捨て、仏道に専心するがゆえに出家僧なのだから、そのままでは食べるものもなく、町に出て托鉢に歩かなければならない。そして、そのような托鉢僧である彼らを支えるのは、地元の在家信者である。それゆえに、厳しい修行によって徳を積む出家僧は、地元の人々から尊敬され、道徳的模範となり、在家信者は、そのような彼らに食べ物を与え、様々に支えることによって、彼らの功徳に与ることができる。その「功徳」は、「僧侶を大切にしたらいいことありますよ」というようなご利益(りやく)的なものだけでなく、倫理的影響もあるのであって、托鉢僧に食べ物を与え、彼らを支える習慣が、托鉢僧ばかりではなく、食べるものがない者、宿るところのない者、身寄りのない者など、そのようなホームレスに食べ物を与え、宿るところを与え、支援することが、托鉢僧を支援することが当たり前の習慣であるように、当然の習慣として行なわれる(お布施の習慣)。彼らは、道徳的義務としてそれを行うのではなく、それが当たり前だから、そのようにするのが習慣となり、生活の一部になっているから、自然なこととしてそれを行なっている。こうして、特に東南アジアの仏教コミュニティにおいては、ひたすら仏道における解脱の道に専心する出家僧と、それを支える在家信者のネットワークの双方がひとつとなって、広くて大きい利他的コミュニティを形成している。出家僧が、出家僧であることに精進して、その純粋性を保とうと努力することによって、それを巻き込む在家信者の徳をも、同時に向上させるシステムになっているわけである。



その昔、90年代に、「進め電波少年」という、今ではコンプライアンス的に真っ赤っ赤になるであろう人気テレビ番組があった。その番組の企画で、当時新人だった芸人を、わずかなお金だけを渡して、残りはヒッチハイクだけを頼りに、ユーラシア大陸を横断させるという、これまた現在ではコンプライアンス的に真っ赤っ赤になるであろう企画があった。その過程で、東南アジアに立ち寄った際、お金がないので野宿しようとしていたところ、周辺の住民が、これでもかと、たくさんの食べ物や飲み物を運んでくる場面が記憶に残っている。もちろん、すべてのコミュニティが、このように親切なわけではないだろうし、今ではだいぶん状況は変わっているのだろう。それに、東南アジアの出家僧といっても、時には賄賂や横領、性的スキャンダルが発覚して話題になることもある。ただ、言いたいことは、大乗仏教といっても、阿弥陀仏の慈悲にあぐらをかいて、煩悩と強欲にまみれることを恥としない生臭坊主がいるのと同様に(むしろ、こちらのほうが多いのでは?)、大乗の立場から小乗と揶揄され軽蔑されている上座部仏教においても、思想上や言葉のうえでの論理におさまらないような利他の精神や実践が発揮されている場合があるのであるから、単純な思想だけで比較しないで、思想と、その思想や信仰を真剣に信じている人々が現実にもたらしている結果を含めた、広く大きな範囲において分析され、評価されなければならない。思想上は「優しい」思想でも、実社会の現実に移されると、はなはだ「残酷な」結果をもたらす思想があるのと同様に(たとえばベンサムの人格と、彼の功利主義が社会にもたらした帰結のように)、利他を至上命題に掲げている宗教が利他的であるとは限らず、自己救済を至上命題とする宗教が独善的であるとは限らない。実際は、様々な要素が複雑に絡み合って、複雑な様相を呈している。



(ChatGPTへの質問)

それでは、大乗仏教から、利他性の薄い狭量で独善的な「小乗」と揶揄される上座部仏教ですが、在家信者の「布施」の実践まで含むと、かえってコミュニティ全体で利他的実践を発揮している場合もあるということでしょうか?

 

(ChatGPTからの回答) 

はい、その点は宗教学や仏教学でもよく指摘される重要な論点です。

 

結論から言えば、「上座部仏教は利他性が薄い」というのは、かなり単純化された理解です。 むしろ、社会全体の実践を見ると、利他的な行為が非常に豊かに行われている地域も少なくありません。

 

まず、「小乗(ヒーナヤーナ)」という言葉自体が問題を含んでいます。これは大乗仏教側が、自らの理想である菩薩道と対比して付けた呼称であり、現在では学術的にも当事者間でも、現存する伝統については**「上座部仏教」**と呼ぶのが一般的です。

 

では、なぜ「利他性が弱い」と言われてきたのでしょうか。

 

大乗仏教は、菩薩を理想とし、「自らの悟りを後回しにしてでも衆生を救う」という理念を強調します。それに対して上座部仏教では、理想的人物は阿羅漢であり、自ら煩悩を滅して解脱することが中心的な目標とされます。この理念の違いから、大乗側は「自己の解脱ばかりを求める」と批判したのです。

 

しかし、これは修行者の理想像についての議論です。

 

現実の社会に目を向けると、タイやミャンマー、ラオス、スリランカなどでは、在家信者は毎日のように僧侶へ布施をし、寺院は教育・福祉・地域共同体の中心として機能してきました。また、災害時や貧困者への支援、旅人への施しなども、功徳(プンニャ)を積む実践として広く行われています。

 

つまり、

 

教義上の理想では阿羅漢を目指す。

 

社会的実践では布施や慈悲を通して共同体全体を支える。

 

この二つは両立しているのです。

 

さらに興味深いのは、大乗仏教が理念としては壮大な利他を掲げる一方で、実際の社会では必ずしも共同体の助け合いが強いとは限りません。逆に、上座部仏教圏では、菩薩思想を前面に出さなくても、布施の文化が日常生活に深く根づいているため、実践としては非常に利他的な社会が形成されることがあります。

 

ですから、「理念」と「社会実践」は区別して考える必要があります。

 

ある意味では、

 

大乗仏教は「なぜ他者を救うべきか」という理念を大きく展開した伝統、

 

上座部仏教は「日々の布施や慈悲を積み重ねる」という実践を社会の中に深く制度化した伝統、

 

という見方もできます。

 

したがって、「上座部仏教は利他性が乏しい」と一般化するのは適切ではありません。むしろ、在家信者の布施や共同体の助け合いまで視野に入れるなら、利他的実践という点では上座部仏教社会が非常に豊かな側面を持つことは十分にあり得ます。これは近年の仏教学や文化人類学でも広く認められている見方です。



そういうわけで、私が、諸宗教との間で期待したいのは、哲学者のニーチェの言うところの「星の友情」である。それは、それぞれの宗教が、同じような人間、同じような言葉、同じようなスタイル、同じような行動で「ひとつ」となることではなく、それぞれがそれぞれの異なる在り方で、自分たちの足元の宗教を掘って掘って掘りまくることであって、それによって「のみ」、我々は互いに尊敬に値するものとなり、互いに有益な友人となれるのである。宗教がそのようなものではなく、同じような人間たちと、同じような思考で交わることによって、自分たちの孤独を慰めるためだけのために群れ集まることは、それがどれほど巨大な集団と組織を形成しようとも、それは停滞と退廃の徴(しるし)であり、いずれ血液が巡らず細胞が活性化しないことによる腐敗臭を発するものである。現代人が、様々なシューキョー団体の信者たちの、判で押したような同じような顔、同じような言葉、同じ行動様式を目にして、ゾンビのような気味の悪さを感じることは、決して理由なきことではない。



 

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「星の友情―われわれは友人であった。そして疎遠になってしまった。だが、それは当然であった。われわれは、それを、恥辱と取って、お互いに隠したり曖昧にしようとは思わない。われわれは各自その目標と航路を持っている二隻の船なのだ。時にはわれわれはまた出会って、昔やったように一緒に祝祭をあげるかもしれない、―そうしたときには雄々しい二隻の船は静かに一つの港に、一つの日光を浴びて横たわり、さながらすでに目標に達し、一つの目標をもっていたように見えたかもしれない。しかしやがて、われわれの任務の全能な力はふたたびわれわれを分離させ、異なった大洋と海域に追いやった。そしてあるいはわれわれはふたたび相見えないかもしれない―あるいは、相見えることはあっても、お互いにそれとわからないであろう。さまざまな海と太陽がわれわれを別物にしてしまったのだ! われわれがお互いに疎遠にならなければならなかったということは、われわれを支配する法則だ。まさしくそのことによってわれわれはまたいっそう尊敬に値するものになるべきなのだ! おそらく、われわれの実に相異なった道や目標が、小さな行程として包含されるような、目に見えない巨大な曲線と星の軌道が存在するのだ、―こうした思想にまでわれわれは自己を高めよう! しかし、われわれが、そうした崇高な可能性の意味で、友人以上のものになりうるためには、われわれの人生はあまりに短く、われわれの視力はあまりに小さい。―だからわれわれは、われわれの星の友情を信じることにしよう。たとえわれわれが地上ではお互いの敵とならざるをえなくとも。」

 

ニーチェ 「華やぐ知恵」 白水社版ニーチェ全集 氷上英廣 訳

 

 

「生ける神の言(ロゴス)と預言者的教会(その3)」へ続く

 

 

生ける神の言(ロゴス)と預言者的教会(その1)〜「壁」として「実在」する神の国(支配)〜

「皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。彼はヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた。それは、預言者イザヤの言葉の書に書いてあるとおりである。すなわち「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』。すべての谷は埋められ、すべての山と丘とは、平らにされ、曲ったところはまっすぐに、わるい道はならされ、人はみな神の救を見るであろう」。さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。そこで群衆が彼に、「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねた。彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。取税人もバプテスマを受けにきて、彼に言った、「先生、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼らに言った、「きまっているもの以上に取り立ててはいけない」。兵卒たちもたずねて言った、「では、わたしたちは何をすればよいのですか」。彼は言った、「人をおどかしたり、だまし取ったりしてはいけない。自分の給与で満足していなさい」。民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。こうしてヨハネはほかにもなお、さまざまの勧めをして、民衆に教を説いた。」 (ルカ福音書3:1-18)



前回(「戦闘的教会〜キリスト教は『なに』と戦うか?〜」)の続き。



 

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キリスト教は「愛(アガペー)」の宗教であると言われる。そのとうりである。また、そのことによって、社会に慈善を実践する博愛の宗教だと言われる。これもまた、そのとうりである。しかし、同時に、キリスト教は、「この世」の秩序に対立する「神の国(支配)」の到来を告げる宗教であり、そのようなものとして、「この世」に対して悔い改めることを迫る「戦闘的教会」でもある。



神を信じ、キリストを信じるキリスト教徒だけが悔い改めねばならないのではない。神を信じようが信ずまいが、キリストを信じようが信ずまいが、神の恵みと裁きは全世界に及ぶのだから、「この世」と、その秩序を成り立たしめているすべての人々が、「神の国」の到来を前にして悔い改めて、その心と行いを転回しなればならないのである。そのゆえに、キリスト教の教会は、「この世」に慈善と癒やしをもたらすだけではなく、「この世」の秩序と、そのなかに生きる人々が、キリスト教とその教会によらずとも、自分たちでたがいに慈しみを施し、たがいに癒やしあうことを求めるべく要求する「預言者的教会」でもあるし、そうあらねばならない。



これは、宗教の独善的な「押し付け」だと思われるだろうか? しかし、我々は、「神を信ぜよ!」と言って、悔い改めることを要求するのではない。「キリストを信ぜよ!キリスト教徒になれ!」と言って、悔い改めることを要求するのではない。そうではなくて、まさに、「この世」が、その世を成り立たしめている力と秩序のゆえに、破滅に至ることが避けられないがゆえに、「この世」に対して転回を要求するのである。



聖書が書かれた時代の古代の人々にとっては、「神」という言葉は空気のように日常的なものだったがゆえに、ただ「神を信ぜよ!」と言うことだけによって、人々に悔い改めることを呼びかけた。そのことによって、彼らは、「神」という言葉と、その存在を信じるように呼びかけたのではなくて、この世界に実際に働いている神の力と、その支配に対して「信頼せよ!」と呼びかけたのである。



現代においては、「神」という言葉は、もはや死語であり、その言葉自体には中身がないゆえに、我々は「神を信ぜよ!」と言って呼びかけたりはしない。しかし、だからといって、言葉が語られないからといって、その力と支配が存在しない、ということにはならない。それは、悪魔だの悪霊だのという言葉が語られなくなったからといって、人間に悪を行わせる「見えない力」が存在しないということにはならないのと同様である。もちろん、古代人が悪魔だの悪霊だのと語るときには、現代人からすれば、それは医学における精神的な病の症状をあらわすものもあるだろうし、身体的な病の症状をあらわすものもあるだろう。また、オカルト的な迷信を示しているにすぎないこともあるだろう。しかし、だからといって、それらがすべてであるわけではない。



では、キリスト教倫理や道徳の「押し付け」であろうか? 我々は、人々に、「善人になれ!」と呼びかけるのだろうか? そうではなくて、我々は、人間が人間自身の欲望を神とし、この世界で神のごとく振る舞い、ありとあらゆるものを自分のために所有しようとする、人間の「自己神化」に対して悔い改めることを求め、その心と行いを転回するよう要求するのである。



「神の国(支配)は近づいた(マルコ福音書1:14‐15)」。神の支配は、すでに「この世」に介入した。神の支配、すなわち神の恵みと裁きは、この世界にすでに存在している。我々は、創世記において蛇がアダムとエバを誘惑したときの、「あなたがたは神のようになるだろう…(創世記3:1‐5)」という言葉を、おとぎ話としてではなく、実際にこの現実世界において聞くだろうし、まさにそのように振る舞うことによって、その「言葉」を繰り返し聞いてもいる。にもかかわらず、我々は神にはなれない。そこには、たしかに「壁」がある。エデン(楽園)への扉は閉ざされた。ケルビムが炎の剣によって守るその扉は、誰も近づくことはできない(創世記3:23‐24)。アダムとエバが追放され、その子供たちであるカインとアベルが「兄弟殺し」をはじめた「エデンの東」というのは、我々が実際に存在して生活している、現実の「この」世界のことである(創世記4:1‐16)。我々は、もうすでに、神の「裁き」に接しているのであり、それと同時に、神の「恵み」にもまた接している。我々は、もうすでに自分たちの罪によって互いに傷つけ、そのことによって自分自身もまた十分に傷ついているのであり、自分たちが傷負う者であることも知っている。それによって、人間が癒やしを求める者であり、癒やしを必要としていることも知っている。そして、「癒やし手」が誰であるかも「知って」いる。



「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ5:20)



「これは預言者イザヤによって言われた言が、成就するためである。「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。」(マタイ福音書4:14-17)



「それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。」 (ルカ福音書4:14-21)



聖書における「放蕩息子の譬え」にあるように、人間は、自分たちの餓えを知り、自分たちの渇きを知り、自分たちの貧しさを知り、そして、自分たちがどこから離れ、誰に向かって帰るべきなのかを、その存在の奥深くから聞こえる「声」によって既に知っている。



「また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、ひとりの僕を呼んで、『いったい、これは何事なのか』と尋ねた。僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。兄はおこって家にはいろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父にむかって言った、『わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました』。すると父は言った、『子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。しかし、このあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのはあたりまえである』」 (ルカ福音書15:11-32)



人間は、なぜ実現不可能な理想を思い描くことが「できる」にもかかわらず、そこに至ることが「できない」のだろう?



「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」(ルカ福音書17:20-21)



たしかに、「この世」は神の国の「外」にあるにもかかわらず、「神の国(支配)」は、我々の「内」にある。この「ただ中」を、個人的な人間の内面としての「内」と訳そうが、社会的な人々の「間」と訳そう(新共同訳聖書)が同じことである。なんとなれば、「神の国」と、その「救い」への餓えは、個人的なものであると同時に倫理的なものであり、また、内面的なものであると同時に社会的なものとして、「あの時、困窮していた彼に、手を差し伸べてやれたならば…」と、自分の無力さへの「後悔」としてあらわれることもあれば、逆に、「あの時、私が困窮していたときに、隣人もこの社会も、誰も救いの手を差し伸べてくれる者はいなかった…」というような「怨嗟」としてあらわれることもあるからである。それらが相俟って「神の国」への餓えは、「御国が来ますように。御心の天に成るごとく、地にも成されますように…(マタイ福音書6:9‐13)」という「癒やし」を求める祈りとなって求められるのであり、「もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもなく、すべての涙を拭う神が支配する国(ヨハネの黙示録21:1‐4)」が地上に到来することを願い、求める心となって、我々の「内」に宿るのである。そして、それらすべての餓えを満たす「パン(ヨハネ福音書6:26‐58)」として、キリストの言葉とその行いが、神の生ける言(ロゴス)となって我々に啓(ひら)き示されて、その「内」に摂取されるのであり、そうして、さらにそれが、地上にもたらさた神の国の「種(マタイ福音書13:31‐33)」として、「この世」の人々の「間」に撒かれることによって、しだいに大きく成長してゆくのである。



「『この世』に天国は存在しないって? そうだ。しかし、それならば、せめて私と君との『間』においてだけは、天国を形作ることができるよう努力しようではないか! そして、そのつど出会う人との『間』で、我々ひとりびとりが天国の『種』となれるよう祈り、かつ求め、努力しようではないか!」



「平和の祈り(アッシジのフランチェスコのものとされている)」

 

主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。

憎しみのあるところに愛を、

争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、

誤りのあるところに真理を、

絶望のあるところに希望を、

暗闇のあるところに光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらす者としてください。

主よ、慰められることよりも慰めることを、

理解されることよりも理解することを、

愛されることよりも愛することを求めさせてください。

与えることによって受け、

ゆるすことによってゆるされ、

死ぬことによって永遠の命に生きるからです。

 

(訳はChatGPTによる)   



洗礼者ヨハネによるムーヴメントで重要なのは、ヨハネが洗礼を行い、何らかの道徳を説いたことが重要だったのではない。多くの人々が洗いの水を求めてヨハネのもとに集まってきたという事実が重要なのであり、多くの人々が、今の自分が罪とその悪によって汚れているということ、今の自分は生きてはいるが、その実、「生ける屍」として既に死んでいるということ、そのゆえに、ヨハネによる洗礼によって古い自己を水に沈め、新しい自己を地上に浮かび上がらせるための水として洗礼を求めてきたこと、それら一切が重要なのであり、ヨハネによる洗礼以前に、彼らの自己が神によって「既に」砕かれていたということが重要なのである。洗礼に至る人間の心の決断がその人の罪を清めるのではなく、洗礼の水がその人の罪を洗い流すのではない。それ以前に、洗礼以前に、既に、神の支配が人間の自己を砕き、その罪を洗い流したもうのであって、洗礼の水に何らかの力があるのではない。こうして、洗礼者ヨハネの活動が示すのは、人間が神になることを許さない「神の国(支配)」が、「壁」として、それによるこの世界への「裁き」として、この地上に「既に」普遍的に存在している、ということを示していることにある。



それゆえに、洗礼の「水」が象徴するものは、旧約聖書に記されてあるノアの時代の洪水によって多くの人が死んでいることの象徴として(創世記6章-9章)、受洗か未受洗かにかかわらず、多くの人の古い自己が、神の裁きによって、既に水のなかに沈められて死んでいることを象徴するものである。「生きている」とは言うが、しかし、その実「死んでいる」のである。今を生きている人のうち、どれだけの人が、自らの生が偽りなく自己自身の真実を生きていると、心から言うことができるのだろう? お金を貯めて生活に余裕ができてから本気で生きるって? 定年退職して仕事からも家庭からも自由になってから本気で生きるって? あるいは、不本意な今生の生ではなく、次の来世に転生(?)してから本気だすって? 否!今、この瞬間から真剣に生きねばならぬ。お金が貯まるまで、自分の生命が在ることを何が証明するのか? 途中でその生命が取り去られたならば、貯めたお金はいったい誰のものになるのか? また、その場合、お金が貯まるまでと、不本意に費やしてきた人生を、いったい何が保障してくれるのか? 10年後どころか、1年後のあなたの生命が確実に在ることすら、それを証明するものは、なにもないのだから、今、この瞬間から真剣に生きねばならぬ。「われわれは死すべき者としてあらゆることを恐れ、まるで不死であるかのようにあらゆることを欲する(ラ・ロシュフコー)」。しかし、あらゆる誤魔化しを排し、真実を直視する者、偽りを拒否する者だけが、そのような生を生きている自分が、生きてはいるが、実は死んでいるということを認識する。



「群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を分けてくれるようにおっしゃってください」。彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」。それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。」 (ルカ福音書12:13‐21)



「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られている間、神が寛容をもって待っておられたに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。」 (第一ペトロ3:18-21)



しかし、「壁」があるということは、同時に壁の外があるということであり、そこには「窓」があるということであり、外への「ドア」があるということでもある。そこで、「壁」によって塞がれ、その欲望や願望がことごとく砕かれた人間の魂は、イエス・キリストの言葉と行いにおけるその人格の内に、外を眺める「窓」を見、外への解放へといたる「ドア」を見ることによって、旧い自己を捨てて新しい自己へと生まれ変わる悔い改めの「希望」へと導かれる。こうして、壁と窓が一体であるように、そして壁とドアが一体であるように、神の「裁き」と「恵み」は一体として存在して、この世界を支配している。「神の国」が、この地上においては、一方では、人間が神になることを許さない神の支配による「壁」として存在しているならば、他方では、同時に、イエス・キリストにおいて、この地上において天を見、また、入ることができるための「窓」や「入口」として存在している。人間が、裁きおいては罪人であるが、恵みにおいては義人であるという意味で、「罪人であると同時に義人」(ルター)であるという、相矛盾する事柄が同一平面上に存在している。

 

 

「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」(ヨハネ福音書14:6-12)



しかし、そのような「窓」において見ることができる「神の国(支配)」の姿は、我々が想像するような、万国の富と力をかき集めたような、絢爛豪華な国家を打ち立てる政治的な権力者としてのメシア(救世主)ではなく、それら一切のものから見捨てられた、貧しくて、弱くて、惨めな、傷だらけの死刑囚として十字架に上げられた「卑賤のキリスト」である。



「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」 (イザヤ書53章)



そのように、十字架上の卑賤のキリストの「復活」が啓示するところは、まさに、我々が通常「天国」として思い描くような、富と権力に満ちた、強力なカリスマ的指導者によって率いられる組織や集団としての国家が、それが我々の期待とは裏腹に、無辜な羊を喰い散らかす野蛮な「獣」であり、悪魔の「誘惑」であり、我々がぶつかって砕かれるべく備えられた「壁」であることを啓示する。そして、我々が通常「挫折」であり、敗北の「壁」として認識するような、十字架にかけられた「卑賤のキリスト」こそが、「神の国(支配)」への道であり、入り口であり、神の力としての「強さ」であり、ご自身の羊に生命を与えて養う大牧者(ヨハネ福音書10:1‐18)による、神の義の栄光の「勝利」であることを啓示する。「獣」の栄光と勝利は、互いに喰い喰われる関係において、いずれ儚く消滅するであろう(ペンペン草も残らないような破壊と蕩尽とを我々に残しつつ!)。しかし、十字架上の「卑賤のキリスト」は、そのような枯れた大地に横たわる獣の骸(むくろ)の上から、再臨による「終わり」の時に至るまで、繰り返し我々のために「復活」するであろう。



「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。(マタイ福音書4:8‐10)



「キリストは、あなたがたに対して弱くはなく、あなたがたのうちにあって強い。すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。このように、わたしたちもキリストにあって弱い者であるが、あなたがたに対しては、神の力によって、キリストと共に生きるのである。 」(第二コリント13:3‐4)



こうして、イエス・キリストが、「この世」の終わりに来たる「神の国(支配)」の先取りであるのと同じく、終末の「裁き」もまた、今、この瞬間において「既に」先取られている。我々は、神による「この世」の全面的廃棄と、再臨のキリストによる全面的変革を、終末の「裁き」まで何事もなく待つのではなく、今、この瞬間において、様々な「終わり」に囲まれていることによって、虚無のなかで「既に」裁かれつつ、キリストにおける復活の新しい生命を生きることに招かれている。



聖書に記されてあるような、終末の天変地異が実際にあるかどうかは、さして問題にすべきことではない。また、そのような終末の裁きから、選ばれた義人を天国に引き上げる携挙が実際にあるかどうかも、さして問題にすべきことではない。既に、我々の生は崩れゆく大地に立っているのであり、日々崩壊してゆく日常のなかで、吹けば消え去るような弱々しい生命の火を、ろうそくの火のようにたゆらせながら生きている。また、我が国(日本)は、まさに実際に揺れ動く大地(地震大国)の上に、ともすれば破滅に至りうる危うい火(原子力)が灯す明かりのなかに生きてもいる。聖書に文字どうりに記されてあるような状況ではないにしても、我々は、もう「既に」、様々な「終わり」の裁きのなかを生きている。しかし、それと同時に、そのような裁きによって、永遠の生命へと至る「道」もまた、我々に啓(ひら)かれている。

 

 

なによりも、貧者にとっては、世界はすでに「終わっている」のである。「この世」で一切の希望をつなげず、ただただ「この世」に在りながらにして、すでに神の国の住人として、「この世」において、神の国(支配)を地上にもたらすための神の道具として生きる可能性「のみ」が、彼に与えられた希望である。



 

 

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「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。ペテロがイエスに言い出した、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従って参りました」。イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、もしくは畑を捨てた者は、必ずその百倍を受ける。すなわち、今この時代では家、兄弟、姉妹、母、子および畑を迫害と共に受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受ける。しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」。 」(マルコ福音書10:17‐31)



「イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。 」(マルコ福音書12:41‐44)



「そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。 」(ルカ福音書6:20)

 

 

東日本大震災の際、津波によって機能が停止した福島第一原子力発電所において、メルトダウン(炉心溶解)による放射能漏れを防ぐため、海水を注水して燃料棒を冷やすということが行われた。現場の状況がわからずに混乱している政府と東京電力本店の指示をスルーしつつ、現場の判断で海水を注水し続けた吉田所長ら東電運転員たちの判断は「英断」として讃えられ、映画にもなっている(fukushima50)。しかし、2016年9月7日に福岡県久留米市で開かれた日本原子力学会で、国際廃炉研究開発機構(IRID)によって発表された報告によると、現場の職員の決死行にもかかわらず、この時行なわれた海水の注水のうち、原子炉に届いていた量は「ほぼゼロ」だったという。すなわち、福島第一原発の事故が、チェルノブイリのような完全崩壊には至らず、水素爆発によって剥き出しとなった核燃料によって、広範囲にわたる放射能汚染による「東日本壊滅」の事態に至らなかったのは、人類の英知によるというよりも、いわば「奇跡」であった、ということである。



もちろん、現場で自分の身を危険にさらしながら、事故に対応していた職員の方々には、感謝の意をあらわしてもあらわしきれないし、今も、現場の復旧に携わっている方々には、まったく頭が上がらないわけだけれども、それでも、見過ごしてはならない厳粛な事実は、人間は自然の脅威と原子力の暴走をコントロールできなかったということであり、今回起こった「奇跡」が、次も起こるとは限らないということである。我々が自覚しなければならないのは、人間は神にはなれないということであり、これからの未来においてもそうである。現場で危機に対峙している職員または自衛隊員を「人柱(?)」として生贄に捧げて、その英霊の御霊を「神(?)」としてヤスクニに祀れば、日本はあらゆる危機を回避できるわけではない。

 

 

旧約聖書の「ヨナ書」において、神はヨナに、アッシリアの首都ニネベに行って滅びの預言を告げてまわることを命じられる。しかし、ヨナは、神が「裁くぞ!裁くぞ!」と脅すわりには、いつも裁きの手を翻す「慈悲深い」神であることに「シラケ(?)」てしまっていて、その召命を拒否して逃げようとする。しかし、神はヨナの乗る舟を難破させ、ヨナを大魚に飲み込ませて(童話「ピノキオ」の元ネタ)、ニネベに再び向かわせられる。誰であれ、いつの時代においても、人は、神の召命に背くことはできる。しかし、神は、そのように反抗する彼を、窒息の苦しみと暗黒の迷いと、虚無の孤独という黒歴史(?)を経させることで悔い改めさせて、再びその召命の自覚へと還らせられる。ヨナは命ぜられるとうりに、ニネベに行って滅びを警告するが、案の定、神は、悔い改めるニネベを見て、その裁きの手をもとに返される。それを見てヨナはふてくされる。神は、そのようなヨナを諌められる。神は慈悲深い神であって、常に破局を思いとどめられる神である。しかし、だからといって、それが破局を告げる預言をやめる理由にはならない。「審判」はいずれおとずれるであろう。たとえ、平穏、安全、無事の日常が続くとしても、預言者は、神のように振る舞おうとする人間の傲慢を戒める預言を、常に語り続けなければならない。



「ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。 」(ヨナ書4章)



「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。また、わたしたちの主の寛容は救のためであると思いなさい。このことは、わたしたちの愛する兄弟パウロが、彼に与えられた知恵によって、あなたがたに書きおくったとおりである。」 (第二ペトロ3:3‐15)

 

 

内村鑑三は、関東大震災を「天譴(罪を罰する神の裁き)」と称して顰蹙を買った(今も買っている)。もちろん、我々は東日本大震災を「天譴」だと主張するつもりは、ない。しかし、仮に、そこに天意があるにしても、生き残った我々が、震災で亡くなった方々よりも罪の負債が軽いわけではない。あの震災を生き残ったとしても、我々はそれぞれの時に従って、我々の罪によって滅びるであろう。そして、その「滅び」は、必ずしも「死」によって報いられるものとは限らない。



「ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。そこでイエスは答えて言われた、「それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサレムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう」。 」(ルカ福音書13:1‐5)



哲学者のキルケゴールが、その著作「死に至る病」で述べたように、死に至る病とは「絶望」なのだが、その絶望は、生きることの「絶望」なだけではなく、死ぬことへの「絶望」でもあるのであって、生きることもできず、かといって死ぬこともできず、生きることも死ぬことも希望にはならぬまま、ただひたすら自らの自己によってグサグサと胸を刺され続けられるだけの生である。死が救済になる場合には、それは死に至る病ではない。そうではなくて、ここでいう「死」とは、死によって無になることが叶わぬまま、自己の死を永遠に死に続ける死、すなわちグサグサと自己を責め苛み続ける死、または「消えぬ火と尽きぬ蛆」によって自己がチリチリと焼かれ続ける死、それこそ「永遠に死に続ける死」としての「死に至る病」である。キルケゴールにとって、人間の「自己」とは、ヘーゲルが描くような、どこかで完成の一致にいたるような楽観的な自己ではなく、常に分裂と緊張の避けられない自己であり、神の力によらない限り、永遠に和解による一致に至ることのない悲劇的な自己である。言うなれば、自己自身であるとは地獄であるということであり、キリスト教信仰を持つ者からすると、自己自身であるとは、自己にとって降ろすことができない、背負うべき十字架である、ということである。どれだけ多くの人が、「自分であることを辞められたならば…」と願わないことがあるだろうか? 「なんで、俺は、この俺自身なんだ? なんで、この国の、この親のもとで、この体で生まれたんだ? なんで、もっと金持ちに、もっとイケメンに、もっと健康に、生まれてこなかったんだ? もう辞めたい。いいかげん、俺は俺自身であることを辞めてしまいたい…、もしくは、この俺が、この俺のありのままの在り方を否定する世界を破壊、または抜け出して、天国でもアニメやゲームのバーチャルの世界でも、どこでもいいから、俺が俺自身のままで神になれる世界に転生(?)したい…」。これが、自己であることの病としての「絶望」である。しかし、かといって、人は自己であることを辞めることはできず、自己を抜け出すこともできず、また、神になって、この自己と、それが生きる世界を消し去ったり、服従させたりすることはできない。この、神になろうとして神になれず、「どーにもならない!」自己で在り続けなければならないということ、これが死に至る病としての「絶望」である。ただし、このような「絶望」が、常に痛みを伴いつつも、自己を強制的に自己自身に関係させる病であるがゆえに、それが正しい方向に向けられるならば、死に至る病からの「復活」による、「新しい生命」への救いの信仰に人間を飛翔させる精神の「力」ともなる。



「なぜ、私は他の時代ではなく、この時代に生を受けたのか? なぜ、他の土地ではなく、この土地で? なぜ、他の家庭ではなく、この家庭で? あるいは、国もなく、親もなく、帰るべき家とその家族もなく、あらゆる土地と人から追われる放浪者として、この世に生を受けたのか? それでは、私は、ただ苦悩するだけに生を受けたのか? ただ苦しんだ末に虚無に放擲されるべきものとして、生を受けたのか? それとも、「神の子」として、この地上に来られた方が、祖国からも人からも捨てられた、貧しき「卑賤のキリスト」として、無実の罪で十字架にかけられたように、私もまた、他でもなく「この」生において、何事かを成すべく召されるために、生を与えられたのだろうか? そうだとすれば、私は、私を「この」生に遣わした方の存在を信じてもよいのだろうか? 私が、私の「この」生を全うした果てに、私を抱きしめるべく復活された方の報いを信じてもよいのだろうか?(ルカ福音書23:39‐43

)」




青春時代が〜♪夢な〜んて〜♪あとから〜ほのぼの〜思う〜もの〜♪青春時代の〜まんなかは〜♪胸にトゲ刺す〜ことばかり〜♪

 

森田公一とトップギャラン「青春時代」の歌詞より抜粋



それでは、「絶望」は、一種の「中二病」であって、誰でも大人になるうちに自然に卒業する青春の病なのだろうか? プラトンの著作「ゴルギアス」において、ソクラテスの論争相手のカリクレスが主張するように、「哲学」なんぞにハマる奴は、青春をこじらせた若者の病なのだろうか? カリクレスの主張を現代風に言い直すと、こうである。いわく、「若いうちに哲学にハマるのはよいけれども、大人になってまで哲学なんぞをやっていてみっともないとは思わないのかね? 立派な大人の漢(おとこ)ならば、やれ真だ善だ美だなどと、実社会に役に立たない観念的なおしゃべりに時間を費やすのではなく、もっと実利的なことを求め、実学的なことを学ぶべきではないか? 実際、世の中を動かしているのは、富と名声と権力なのだから、君はそれらを追い求めることによって、直接世の中を動かす働きをするべきではないか?」と。



カリクレスのような主張をする人々は、いつの時代も、どこの場所においても、いっぱいいる。このような主張をする人々に対しては、私はこのように言うことにしよう。「君たちは哲学を中二病と言う。しかし、実際は、浮世離れしているのは君たちのほうであって、現実は、むしろ逆に、この世界は君たちが思っている以上に中二病的なのだ! この世界は、君たちが思っている以上に、見えるものよりも、見えない言(ロゴス)によって動いているのだ!」と。



たしかに、この世界は、富と権力と名声によって動いているのは事実だが、それ「だけ」ではない。むしろ、「現実」は、それら富や権力や名声「だけ」を追い求めている人々によって、白蟻が家を食い尽くすように、社会が食い尽くされているのであって、社会の中身がギッシリと詰まって、重く頑丈になって自ら立つよりは、逆に、彼らによってこの社会が穴だらけのスカスカに食い尽くされることによって、軽くなって風に吹き飛ばされるか、あるいは自ら倒れて崩壊してしまうのである。やはり、実際の「現実」は、富や権力や名声の「外」に自己の存在根拠を持つ人間、必要とあらば、いつでもそれらを捨てることのできる人間、すなわち「この世」に在りながらにして、この世界を「超えた」ものに己の存在価値を有する人間、そのような人間たちによってのみ、この社会と世界は保たれることができるのである。まさに、キリストの言葉にあるように、生きようとする者はその命を失い、逆に、神の言(ロゴス)のためにその命を捨てることができる者らによってのみ、その命は保たれるのである(マルコ福音書8:34‐35)。このような「事実」に目や耳を塞ぎ、多感な青春時代には見えており感じていた違和感や矛盾を放置したまま、「世の中そーゆーもんだ!」と割り切って「慣れて」しまうことが、「大人になる」ということではない。



もちろん、「中二病」という言葉で指摘されているのは、そのように深く真剣に思索する人間の在りようを指すのではなくて、カッコつけるために、わかるようでわからないような、カッコいい言葉をアクセサリーとしてチャラチャラさせている人間の態度のことを言うのであることは、私も知っている。しかし、多くの人の口から「中二病」のレッテル貼りがされている様子を見ると、その言葉の用法は、自己自身の違和感や、この社会と世界の矛盾を直視するような「ダルい」在り方から逃げるために、「狭い門」から入ろうと、こめかみを腫らしながら真剣に考えて取り組んでいる人間たちに対してをも「中二病」のレッテルを貼ることによって、楽な「広い門」を選ぶ自分たちの態度こそが、むしろ「普通」の常識人としての在り方として「正しい」のだと、その自分たちの「ありのまま」の現状を追認して正当化、合理化するための方便として用いられている。



「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」 (マタイ福音書7:13‐14)



まさに、キルケゴールが指摘するように、人々が、自分たちはもう中二病を卒業したいっぱしの「大人」であることを自認し、絶望とは無縁の「リア充」として、「幸せ」な人生を享受していると思い込んでいる、その時こそが「絶望」なのであって、どのような「リア充」においても、いずれ「審判」はやってくるのである。それゆえに、「私は幸せで幸せで、むしろ幸せすぎて怖い…。いずれ、この幸福な生活にも『終わり』がやってきてしまうのが怖い…」といった具合に、彼らは充実しているようでいて、その実「絶望」しているのであるが、そのような絶望を直視して、まだ「終わり」を視野に入れている分、彼らは救済に一歩近いのである。しかし、そのような「終わり」に目を閉ざし、自らの「絶望」を直視せずに、自分が神にでもなったかのように、今ある幸福が永遠に続くかのように錯覚して生きている態度こそ、まさに「絶望」なのである。



精神分析学の祖ジグムント・フロイトは、人間の「生の欲動(エロス)」には、「死への欲動(タナトス)」が付随することを指摘した。生きることは「快」である。腹が減った時に食べ、喉が渇いたときに飲み、愛する人を抱きしめることは「快」である。それゆえに、生きることは総じて「快」であり、誰であれ、人は生きることを欲する。しかし、そのような「生への欲動」には、常にノイズ(雑音)のようなザラザラした不快感もまた、共につきまとう。動物たちのように、ひたすら快感だけを追求できたならば、どれほどよかったであろうか? しかし、人間の「自己」には、それはできない。食べたり飲んだりしても、それ自体は快楽であるが、そのような行為によって存在が変わってゆく自分に嫌悪感を感じる場合がある。愛する人を抱きしめることは快であるが、愛する人を抱きしめるために、あるいは抱きしめることによって、その愛する人の存在から、胸を刺し続けられるような痛みを与えられる場合がある。人間にとって、「生への欲動(エロス)」は、その欠乏を満たすことによって自己が落ち着くどころか、その向かう先に不安、後悔、自己嫌悪を伴いつつ、快感よりも多くのノイズや痛みをもたらすことによって、むしろ、そのような「異物」の発生源としての自己の存在を抹消しようとすることを求める「死への欲動(タナトス)」ともなってあらわれる。すなわち、生への欲動から、生への欲動によって、その生への欲動を抹消する「死への欲動」が意欲(!?)される。なぜならば、快を求めるのが生への欲動であるが、その欲動によって、むしろ不安や後悔や自己嫌悪などのザラザラした不愉快なノイズがもたらされることになるからである。生物としての本性は「自己保存」であり、自由を求める「自己拡大」とその「完成」であるが、人間においては、その保存と拡大のうちに、むしろ自分の自己とその存在を否定し、抹消することをもって保存(?)または完成(?)とする「死の欲動(タナトス)」が含まれる。自己の「生」にまとわりつく一切のノイズを抹消することを意欲する意志、すなわち「無」への欲動である。そういうわけで、動物ではなく、他でもない人間の自己においては、諸種の禁欲的苦行から、自殺や自傷など極端な場合も含めて、そしてまた、「飲まなきゃやっていられるか! シラフでいても気が滅入るだけだ!」と、気絶するまで酒を求めることなど、そうした生への欲動の延長線には、その欲動そのものを弱め、時には破壊することを欲望する死への欲動が常に付随することになる。誰であれ、不安や後悔や自己嫌悪の感情で頭がぐちゃぐちゃにって、「もうイヤだ! もう耐えられない! 一度、全部リセットしてスッキリしてしまいたい…、いっそのこと無になりたい…、もう消えてしまいたい…」といったような思考や感情が湧いてくるのを経験したことがあるのではないだろうか? 第三者からは、マゾヒスティックに、自己を痛めつけているように見えても、自殺や自傷によって自分を痛めつけている彼らには、その「痛み」によって、まさに得も言われぬ「快感」を感じているわけである。



ちなみに、私自身も、小学生の頃、自分の髪の毛を頻繁に抜く抜毛症であることが一時期あった。なにがそんなにストレスだったのか、そもそもストレスが原因だったのか、今になっては思い出せないのだけれども、とにかく学校とその勉強が嫌いだったから、ドラえもんのキャラクターの「のび太くん」のように、しょっちゅう宿題を忘れたり、教科書を家に忘れてきたりして、先生に怒られてばかりだった記憶がある。そんなだから、クラスメイトに馬鹿にされて辛い思いをしたのかもしれない。なんで不登校にならなかったのだろう? それでも仲のよい友達がいたからだろうか? 不登校を主張する度胸もなく、両親を困らせたくなかったからだろうか? とにかく、なぜかは思い出せないけれども、一時期、自分の髪の毛を引っ張って抜いていた記憶がある。



90年代に、「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメが流行して社会現象にまでなった。かく言う私自身も、どストライク世代で、放送当時に主人公の碇シンジ君とほぼ同い年だったということもあって、当時の少年たちと同じく熱狂して観ていた世代である。一見、カッコイイロボットとカワイイヒロインに囲まれながら、怪獣のような敵とドンパチやる、男の子なら誰でも好みそうなシチュエーションでありながら、そのタイトルに「エヴァンゲリオン(福音)」という宗教用語を冠しているように、宗教用語と心理学用語が混ざりあいながら、登場人物の(とりわけ主人公の碇シンジ君の)内面の葛藤の変遷と世界の運命の「救済」をめぐって、汲んでも汲んでも汲み尽くせない複雑で深遠な世界観を演出して見せている、いわゆる「セカイ系」と呼ばれるジャンルの作品である。謎が謎を呼ぶ展開に、当時は、みんなこぞって作品の考察をして、友達とあれやこれやの議論をして楽しんだのだけれど、95年にテレビで放送が始まり、その後、97年に映画で完結した旧作(2000年代以降に映画で新作がつくられているが、そちらはおいといて)については、作品に流れるテーマはハッキリしていると思う。



監督は、この作品について、「これは衒学であって、哲学的な深みはまったくない」と語っていたらしいけれども、この作品に通底しているテーマは、フロイト的な「生への欲動(エロス)」と「死への欲動(タナトス)」との葛藤であって、キリスト教の用語がいたるところに散りばめられているが、それは言葉だけであって、キリスト教の世界観と救済観とは直接的な関係はない。むしろ、どこか仏教的な無常観や厭世観を感じさせる。作中で唐突に説明される「ヤマアラシのジレンマ(ヤマアラシは、お互いの温もりを求めてたがいに近づこうとするのだけど、そうすると自分のトゲでもって互いに傷つけあってしまうというジレンマ。ここから、人間も同じようなものだから、お互いに適度な距離を保つ人間関係の教訓が説明される)」や、作品のなかで、世界の救済として説明される「人類補完計画  (個体として生きている人間は、体の境界や心の境界による自我の壁によって互いに隔てられているから、人間どうしお互いに惹かれ合いつつも拒絶しあうことによって、痛みと苦悩を互いに与えあうことになる。そこで、そのような境界を取り去って、すべての人間が溶け合うことで一体になることが人類補完計画であるが、そのことによって、人間は自我を失う分、もはやいかなる痛みも悲しみも悩みもなく、また拒絶もない、あらゆる生命の元となった原初の水にまで戻ろうとする試み)」などを見ても、精神分析学的なテーマが前提になっていることは、あきらかだと思う。



ちなみに、「ヤマアラシのジレンマ」の元ネタはショーペンハウアーの哲学に由来するらしい。アルトゥール・ショーペンハウアーは、当時、ヨーロッパに入ってきた仏教や東洋哲学の知識から、キリスト教の「原罪」思想を融合し、イマヌエル・カントの「純粋理性批判」の観念論を下敷きとして、「意志と表象としての世界」を書いている。その内容は、大雑把に言えば、我々がそれぞれ生きている「世界」は、無目的で盲目的な「生きんとする意志」のあらわれ(表象)であって、決して満足して止まることのない意志のせめぎあい、ぶつかりあいによって、あらゆる生きんとする存在の本質は「苦」である。そうであるとすれば、そのような生きんとする者が志向するものは、「生きんとする意志」そのものを消し去ることであり、一時的には宗教や芸術または酒やドラッグによる陶酔(トランス状態)によって我を忘れること、そして、究極的には「無」になってしまうこと、すなわち自己の「死」による救済である。このようなショーペンハウアーの哲学はフロイトに影響を与え、ニーチェによって批判的に乗り越えられるべく継承されている。



こんな感じだから、ショーペンハウアーの哲学は「厭世主義(ペシミズム)」の哲学だと言われる。ちなみに、日本人の学生が、最初期に西洋哲学を学びはじめたころ、その学習のテッパンの流れはデカルト→カント→ショーペンハウアーの流れで「デカンショ」と呼ばれたらしい。いうまでもなく、それらの流れは、懐疑によって客観性をすべて削ぎ落としたうえで、自分の主観への世界のあらわれから、世界観を構築し直そうとする観念論の流れなのだけれども、ショーペンハウアーを経由することによって、当時の日本人が、自分たちの感性に刻みつけられている仏教的無常観や厭世観を、西洋哲学の言葉と論理を用いて概念化しようとしていたのがわかる。



他方、ショーペンハウアーは、そんな哲学を主張していたにもかかわらず、自殺を選ぶわけでもなく、愛犬を愛でながら、充実した人生を天寿を全うして死んだとして、「そんな哲学を主張していたにもかかわらず、むしろ、そんな哲学によって、ショーペンハウアーは、他ならぬ『その』生を何よりも愛していたのだ!」と、ニーチェによって皮肉られている。画家が、世界をケバケバしい極彩色に描くにせよ、真っ黒に塗り潰すにせよ、そのように描く芸術そのものによって、画家が自身の生を肯定するように、ニーチェにとっての「哲学」とは、「生きんとする意志」の受動的な発現ではなく、国家が戦争によって他国を自分色に染め上げるように(こんな比喩を用いざるをえないから、ニーチェの思想はナチスに利用されたのだけれども…)、自分の生がどれほど悲劇的な生であれ、その生に積極的に飛びかかり、襲いかかって侵略し、生きるに値するものに「創造」して変えてしまうことでもって、その生を服従させる「権力への意志」である。それは、自然のままではとうてい食えたものではない食材を、食べられるに値するものに変える「料理」が、「権力への意志」の発現形態のひとつであるように、人生に対してもまたそうであって、人生に意味があるかないかは問題ではなく、世界を明るく描くにせよ、暗く描くにせよ、そのように描くことによって、彼は、そのような世界観によって、人生を食べられるに値するものに料理しているわけである。



今でも、日本人に聖書を読ませると、多く人が、「空の空、一切は空」という言葉で始まる「伝道の書(コヘレトの言葉)がよかった!」と感想を述べるように、「ガチ」の仏教徒であるかどうかは関係なく、我々日本人の感性には仏教的無常観や厭世観がしっかりと染み付いており、それが「自然」として、あらゆる世界観の前提になっている。日本思想において「自(おの)ずから」と「自(みずか)ら」との違いとして対比され、後に政治学者の丸山眞男が、日本人の「作為の契機の不在」を指摘したように、社会とその政治も人間の「作為」によって成り立ち変化してゆくものであるにもかかわらず、日本人は、そのような社会や政治の変化を、四季の変化を眺めるように「他人事(ひとごと)」として、無関心なまま過ぎ去りゆくままに水に流してしまう。日本では、先の太平洋戦争による「敗戦」を、敗戦と呼ばず「終戦」と呼ぶように、戦争なんて人間の作為(戦争をはじめること自体が失敗というならば、これは不作為だが)によってはじまり、不作為によって敗北したのに、その失敗の原因や責任の所在が追求されぬまま、まるで台風などの自然災害が「自然に」やってきて、「自然に」通り過ぎたかのように、戦争もまた「自然に」はじまり、「自然に」終わったものであるかのように、「なるがまま」に流されてゆく。このように、あらゆるものが「自然に出て、自然に消えてゆくがままに」まかせることによって、執着の苦悩から「自由である」ことを求める無常観によって、社会とその政治のあらゆる些事にまで目を配って、その持続と変化に主体的に関わってゆく近代市民社会のエートスが、日本人にはなかなか身につかないとされる。



「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」という、キリスト教「現実」主義の神学者ラインホールド・ニーバーの祈りがいたるところで引用されるけれども、これは、どちらかというと、「変える」ことにアクセントを置いたうえで、そのうえで、足元の小石につまづかないように、遠くの理想ばかり見るのではなく、足もとの「現実」をしっかり見て歩こうという趣旨の祈りだが、これが日本的分脈に移されると、「変えられない」ことにアクセントが置かれたうえで、「世はままならぬものだから、ままならぬものに執着して、余計な苦しみを背負いこむよりも、あなたの心や世界への向き方を変えて、あなた自身が変わることによって安心立命をはかれ!」というような、仏教的な諦念へと解釈される。



私は、前回のブログで、日本でデモ活動が有効かどうか疑問だと述べたけれども、いささか自己弁護的だが、デモに参加している人々を揶揄するために述べたのではなかった。私は、デモに参加する人々のアタマがお花畑で、その民度が低いと言いたかったのではなくて、むしろ民度が低いのは、デモに参加している人々を嘲笑したり揶揄したり、バカにしたりする人々の民度が低いことを指摘したかったのであり、しかし、それでも、日本人の多くの「視線」が、そのような「民度の低い」ものである以上、デモは見られるために行うのであって、お天道様に雨乞いするために叫んだり行進したりするのではないのだから、多くの人に「どう見られ、それが反対者にどのように利用されうるか?」まで、考えて行動しなければならない。案の定、訳知り顔の議員やタレントらが、デモに参加していたなかの極端な思想の若者をゲストに呼んで、彼らを「論破(?)」するように演出された番組が、多くの人の耳目を集めることとなった。



そのような訳知り顔(?)の議員やタレントに限らず、様々な政治的なコメントで多くの人が言う事だけれども、「本気(?)で社会を変えたいのであれば、選挙に行って投票しろ! 選挙に出て政治家になれ! そして、政党をつくれ!」と語り、そのうえで、「選挙に行かなかった奴は政治を語るな! 不満を言うな!」と言う。しかし、このような言説こそ政治的にスットンキョーな発言はないのであり、政治を投票や議員活動や政党活動に限定することほど「非政治的」なことはない(政治を形式的な政治活動に限定して、政治の本質から大衆の目をそらさせるという意味では十分政治的だが…)。誰も彼もが政治に「目覚めて(?)」、選挙に行って投票したならば、今の政権とは異なる議員や政党に投票してくれると思うのだろうか? むしろ、とにもかくにも皆が選挙に行けば、資金力があり、普段から雑誌、テレビ、SNSなど、あらゆるメディア(媒体)に頻繁に顔を出すことのできる既存の政権やその政党の議員のほうが有利になることはあきらかではないか? 独裁政権下では、投票率が9割を超えたりすることがあるわけだが、だからといって、その国が「民主的」であるとは、誰も思わないであろう。中国のような独裁的な共産主義体制を野蛮だと批判する人々が、そのメンタリティにおいては、同じような権威主義メンタリティをあらわしていることが珍しくないのであって、みんなで選んだ首相で、押し付けられた権威主義ではなく、自ら選んだ権威主義ならば、権威主義は権威主義でなくなるのか? もちろん、そんなことはないのである。



やはり、「個人的なことは政治的なこと」であり、または、同じことだが、「政治的なことは個人的なこと」なのである。政治的なこととは、決して投票活動や選挙活動や政党活動に限定されるのではない。政治的なこととは、我々の普段の思考、行動、生活習慣、偏見などに関係しているのであり、憲法の問題も、国防の問題も、福祉の問題も、我々の普段の思考様式や行動様式を批判、問うことによってはじめなければならない。たとえば、死刑の問題点など、何に対して、どこまで寛容であるべきかなど、また、学校や家庭での体罰の問題などからはじめなければならない。学校や家庭などで、大人の言う事を一切聞かず、問題ばかり起こすアナーキーな「クソガキ(?)」に対しては、秩序のために体罰は容認されるべきであろうか? しかし、秩序のための一時的な暴力の容認は、それが成功を重ねれば重ねるほど、件(くだん)の暴力教師に対して誰も意見を言えず、誰も逆らえなくなるのであり、エスカレートする暴力の恒常化とその教師の偶像化を招くのである。一時的な成功例は、あらゆる場面に適用されるのであり、秩序のための暴力の容認は、家庭に波及し、いずれは精神病院などや介護施設などでの患者への態度まで波及し、ひいては憲法の軛を廃して国家権力とその暴力の神化(偶像化)にまで波及するのである。それに、自分が行った悪に対して暴力によって制裁された子供が、素直に悔い改めて、将来的に自分の配偶者とその子供、または後輩などに対して、「わからせ」るために暴力に訴えることのない寛容な人格に育つかどうかは不確実なのであり、多くの報告によれば、体罰を受けて育った子供は、やはり自分の配偶者や子供に対してをも暴力を振るう傾向にあるのである。哲学者のイマヌエル・カントが、「汝の意志の格率(行動規範)が、常に同時に普遍的な法則として妥当しうるように行為せよ」と書いているように、あらゆる場面での暴力の恒常化、暴力の偶像化を拒否するのであれば、たとえ一時的で局所的な場面においても、秩序のための暴力の行使は戒められなければならない。生徒からにせよ教師からにせよ、あらゆる暴力や人権侵害は、その秩序の安定を気まぐれな暴力教師に委ねるのではなくて、しかるべき資格を持っており、その力の行使が常に管理され、その行動に責任のもてる第三者機関(たとえばスクールポリスなど)の介入によって治められなければならない。そもそも、日本では、学校外では人を殴れば犯罪になることが、学校内では「教育」や「しつけ」の名目で、法の支配が除外されてきたのであり、人権などの普遍的な法よりも、校則などのローカルなルールのほうが絶対視されてきた。学校や家庭などにおける、そのような様々な局所的な場面における力の正当化、支配の正当化の蓄積(「しつけ」という名目における体罰教師と、肉体的または精神的に虐待するパパとママの存在の黙認)が、憲法の制約を緩めて国家権力の自由と裁量を拡大しようとする政治的意図につながっていることは明白ではないか? 日本国憲法に記されてあるように、「自由獲得のための人類の多年にわたる努力」が、力の神化(偶像化)を拒否し、あらゆる力を普遍的な法(人権)のもとに服従させてきた歴史であり、その裏には、神化された力による圧政や独裁の暴力による悲劇の記憶があるのである。こうした悲劇の記憶ひとつひとつの積み重ねによる、あらゆる力への不信感が、憲法の存在とその在り方を規定しているのであり、このような「心の習慣」のないところでは、改憲も護憲も、その議論は意味をなさないのである。憲法の問題、国防の問題、福祉の問題のような国家体制をめぐるマクロな議論は、それぞれの人間が、家庭や学校やその他局所的な生活において培ってきた「心の習慣」というミクロな問題からはじめなければならないのであり、このような「心の習慣」の涵養のないところでは、たとえ「平和主義」「平和運動」の旗を掲げているとしても、その内側では、「目的が正しければどんな行動も正当化される!」とか(いったい、無関係な高校生の命を失わせておいて正当化される大義なんてあるのか?)、「リーダーの言うことに反対するのかあ?」と、独裁的で権威主義的な「内ゲバ(内部ゲバルト)」の様相を呈することになるのである。

 

 

話しが政治に脱線してしまったので、話しを戻すとすると、精神分析学には、宗教やら思想やらで「救済」に至ろうとする人間の態度を「母胎回帰願望」から説明しようとする立場がある。すなわち、人間の「救済」は、たいてい「苦のない」状態や世界として描写されるわけだけれども、それはまさに、産まれる前の母の胎内にたゆたっていた胎児の状態で、自分と他者の区別も、自分と世界の区別もない状態、痛みも悲しみも不安も孤独もない状態、あらゆるものが一体で未分化の状態で、調和の安らぎと平和の一致のみが在る状態である。「赤子が産まれた瞬間に泣くのは、この愚かな世界に落とされたことを嘆いてのことだ」という言葉は、シェークスピアの作品「リア王」の一節だったかと思うが、そのように、母の胎内から世界に産み落とされることによって、そこから自分と世界との「壁」、自分と他者との「壁」、欠乏の苦しみと、その苦しみに他者が応じてくれない苦しみ、すなわち孤独の不安と無力感による苦しみがはじまる。幼子が母親の抱擁を求めて一直線に走ってゆくように、人が「救済」において求めていることは、そのような母の胎内への回帰を求めるものだ、というわけである。こういうわけで、人が神やら天国やらで救済を求めるのは、母を求めることと同一だということなのだが、「甘やかしてばかりだと、ダメな大人になるぞ!」とどやしつける厳しい親父(おやじ)がいるように、母胎回帰は実質的には世界への適応を諦めてゼロ状態の無へと向かう死の欲動(タナトス)のことなのだから、母を求めることを諦めさせて、厳粛なオキテや教育によって、現実世界へ適応させる「父」が立ちはだかることになる。かくして、人は、安らぎを求めて一直線に母へと向かう欲動(それは世界を諦めるという意味で実質的には死の欲動)を諦めて、教育をする父と同化(痛みと不安と苦悩を伴う現実世界への適応)することによって、間接的に母と同化しようと試みる(なぜ、救済を求める宗教に現実的な倫理や道徳が付随するのかについての説明。内面の平安や対外的な平和という救済を彼岸に求めるのではなく、此岸の現実による自己陶冶によって実現すべきものとさせること)。



こうしたエディプス・コンプレックスの観点から、日本人にとっての「父」の不在を指摘する学者は多い。たとえば、キリスト教作家としての遠藤周作は、新約聖書のイエス・キリストによって語られた神は、愛の神として「母性的」だけれども、旧約聖書の神は、厳しく掟を課し、悪い子は断罪する「親父」として「おっかなくて近づき難い」存在だと語り、そのうえで、「やっぱり、優しいお母ちゃんがいい!」と、自身のキリスト教信仰を表現する。たしかに、「地震、雷(かみなり)、火事、親父」と表現される厳格な昭和の親父に似て、旧約聖書の神もまた、地震や雷鳴とどろく火柱のなかから語りかける神であり、その様は、昭和の親父が上座にどっかりと胡座(あぐら)をかいて、拡げた新聞で顔を隠しながら、おどろおどろしい声で子供たちに語りかけるのに似ている。それに対して、新約聖書では、神は「アッバ!(お父ちゃん!)」と書かれてはいるが、見える人間としてのイエス・キリストにおいて、「お母ちゃん」のように常に共にいて(マタイ福音書1:23)、顔を見せて一緒に笑ったり、一緒に泣いてくれたりなどをして、世話をしてくれたり、癒してくれたりしてくれるというわけで「母性的」というわけである。



これは、別に日本人に限るわけではないが、やはり現代人の精神状況に普遍的に言えることは、現代人が宗教や哲学思想に、スピリチュアルな癒しや安心感、「ありのまま」の自己の肯定感を求めるわりには、その宗教に附随する倫理や道徳などは、自己を否定する「おしつけ」として拒否する傾向にある。実際、多くの日本人にとって、宗教とは、「癒し」として人間の安心・安全・便利・快適な生を促進してくれる限りにおいて存在を許されるものであって、日本人を不安にさせないこと、不快にさせないこと、困惑させないこと、おしつけないこと、うるさくないこと、ウザくないことが、日本で「シューキョー」を商う場合の第一条件である。「キリスト教の神様は〜、私たちをどれくらい気持ちよくしてくれるの〜?」というのが、日本人のあらゆる宗教に対する態度である。それは、神道に対してもそうであって、海に神様がおり、山に神様がおるならば、どうして海に原子力発電所を建て、山にゴルフ場を建てることができるのだろう? それは、日本人にとって、本当の「カミ」とは、人間に快適な生活を与えてくれる「お金様」であって、それ以外の八百万(やおよろず)の神々は、「お金様」という最高神の前では道をあけなければならない、ということなのだろう。日本人にとっての「主」とは、人間自身であり、あらゆる神々は、日本人に仕える功績によって評価されるのだ。まさに、それは、人間に現実を直視させて、悔い改めることを促す「預言者」の不在としての宗教であり、父性なしの母性である。それは、キリストによる神の愛(アガペー)は強調するが、しかしながら、その愛は、決して楽なものではなく、簡単なものではなく、快適で美しいものではないということを表現する十字架上の「卑賤のキリスト」を隠蔽するような愛である。神は、愛の神であると同時に正義の神であり、人間を肯定するためにその罪を罰して、「汚れなき神の仔羊」を罪の代価として十字架へと至らしめた神の、厳格な「父性」が隠蔽されている。愛(アガペー)による肯定には、自分が背負うべき十字架(マルコ福音書8:34‐35)としての自己否定の「痛み」が常に伴うということが隠蔽されている。まさに、人間の「ありのまま」を肯定するために、キリスト教の「贖罪論」を廃することが、昨今流行しているけれども、それは、「宗教は、悩める民衆の阿片である」とマルクスが語った意味での「阿片」であって、痛みなき、葛藤なき、苦悩なき母胎回帰への願望が、実質的には「死への欲動(タナトス)」であるのと同じく、キリスト教会とそのクリスチャンとを、痛みなき彼岸、葛藤なき彼岸、十字架なき彼岸へと引き籠もらせることによって、此岸の現実においては、むしろ無力な死に体(レームダック)と化してしまうことである。

 

 

 

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「エディプス・コンプレックス」というのは、実際にそういうコンプレックスや構造があるというよりも、ある種の「象徴」を語っているのであって、父親が厳しくしないから子供がわがままに育つとか、母子家庭で育った子供に社会性が身につかないなんてことを主張しているわけではない。それゆえに、このようなエディプス・コンプレックスの観点から、伝統的な家父長制的家族観を復活させようとすることは、当然ながら、間違っている。精神分析学が、「父」で象徴させているのは、主に戒律宗教の神であったり、その預言者であったり(時には「母」も兼ねている)するように、ここでいう「父」も「母」も、当然ながら、実際の肉親の家族ではなく、あらゆるものに代替しうる。「父なるもの」の不在とは、「超越」の不在であり、「神の言(ロゴス)」の不在であり、その「預言者」の不在である。それは、人間が自分だけで神になろう、神に至ろうとするのを制止し(実際、それは神になろうとする意図とは真逆に破滅を招くことだから)、被造物としての限界とその現実に直面させて、人間を自立に至らせようとするものである。だから、キリスト教信仰を持っているといっても、その信仰が、「癒し」としての神の愛(アガペー)の抱擁にのみ引き籠もっていて、「卑賤のキリスト」を隠蔽し、その十字架の道をたどることを放棄するものであるならば、その信仰は「父」を持っていないのであり、また、いかに厳格な原理主義グループの教会に通っているといっても、教会の親しい間柄の人間関係に満足し、教会の外の世界でおきている出来事に目と耳を閉ざし、教会のなかでのみ通じるような戒律だけを守り、ただ再臨のキリスト(母?)を迎えて天国の安寧を得るためだけを目的として、教会に引き籠もって祈っているだけであるならば、その信仰は「父」を持っていないのである。そして、そのような教会のなかで、現実とは遊離した戒律を教えている教師や聖職者もまた、信徒を自立させる「父」の役割を担っているのではなく、ただただ自分が天国の安寧(母?)を得たいがために、自分とその信徒とを現実から隔離して、ゆるやかな死の衰退へと招く未熟な「子供」にすぎない者として、彼らもまた「父」を持っていないわけである。



再び「新世紀エヴァンゲリオン」の話しに戻るとすると、この作品にも、あきらかに「父なるもの」がない。一見、主人公の碇シンジ君とその父親である碇ゲンドウとの葛藤における子供の自立の物語かと思いきや、父親の碇ゲンドウもまた、人類補完計画による亡き妻との再会という「母なるもの」との一体化に執着しており、息子を戦場へ駆り出すのも、息子を責任感のある自立した人間に成長させようというより、ただ自分の目的のために利用しようとしただけにすぎない。こうして、作中に登場する大人は、誰もが皆、「認められたい…、愛されたい…、包まれていたい…、受け入れられたい…、もう傷つきたくない…」と、それぞれが何かしらの「母なるもの」を求める「未成熟な子供」として描かれる。



1. ゲンドウは父の姿をしているが、父の機能を果たしていない

 

碇ゲンドウは表面的には、 

絶対的権力者 

命令する者 

感情を見せない家父長 

として描かれます。これは典型的な「父の姿」です。 

しかし内面では、彼は成熟した父ではなく、喪失した妻碇ユイへの執着に支配された人物です。 

つまり彼は、 

子を導く者ではなく 

妻を取り戻したい者であり 

欠如を埋めたい者です。 

精神分析的に言えば、ゲンドウ自身が欲望する主体であり、秩序を媒介する「父の名」の位置に立てていません。 

 

2. シンジにとって致命的なのは「父の不在」 

 

碇シンジが苦しむのは、強い父に抑圧されるからだけではなく、 

父が本当に父として存在していないからです。 

愛してくれない 

ルールだけ押しつける 

承認しない 

しかし完全には見捨てもしない 

この曖昧さが、シンジの自我形成を停止させます。 

古典的エディプス構造では、父は子を母から切り離し、社会へ導く媒介者です。 

しかしゲンドウは子を切り離すだけで、どこにも導かない。 

 

3. エヴァ世界の大人たち全体も「父になれない」 

 

ゲンドウだけでなく、 

葛城ミサトは保護者になりきれず恋愛とトラウマに揺れる 

加持リョウジは一時的な導き手だが不在になる 

NERVは制度であって養育者ではない 

つまり大人たち全体が、子どもを支える象徴的父性を失っています。 

 

4. だから補完計画が出てくる 

 

父が不在で、個として生きる支えがない世界では、人は他者との境界に耐えられません。 

そこで現れるのが、人と人の境界を消してしまう人類補完計画です。 

これは成熟した社会の代わりに、巨大な母胎へ回帰しようとする願望として読めます。 

 

5. 結論 

 

はい、かなり厳密に言えば、 

『エヴァ』の世界には「父の姿」はあるが、「父」はいない。 ゲンドウは父の衣装をまとっているが、実際には喪失した母性に取り憑かれた子どもでもあります。 

そのため『エヴァ』は、父殺しの物語というより、父不在の世界で、子どもが自分で生まれ直す物語として読むほうが深いです。 

 

ChatGPTによる分析「エヴァンゲリオンとエディプス・コンプレックスとの関係について」



旧作完結編の劇場映画「新世紀エヴァンゲリオン劇場版Air/まごころを、君に」において、結局、最終的に人類補完計画が発動して、すべての人間は溶け合ってひとつとなってしまう。それは、この「エヴァ」というアニメの世界においては、例外なくすべての人が、現実の苦悩と喪失の葛藤のなかで、「個」としての「自己自身である(キルケゴール)」ことを選ぶよりも、あらゆる自他の境界が消滅して、「自己自身である」ことから逃れられる「無」への一致へと「消えて」しまうことを望んでいた、ということである。人類補完計画では、それが「人間のあるべき姿への完成」とされてはいるが、その際に流れる劇中歌のタイトルが「甘き死よ来たれ」であるように、要は「人類総心中化計画」であるわけである。



しかし、すべての人が溶けて原始の水となり、ひとつの海を形成している世界で、主人公の碇シンジと、ヒロインのうちのひとりで、その強烈な自己意識のゆえに互いに惹かれ合いつつもいつも反目しあっていた少女(いまやツンデレの御本尊的キャラクターだが!)だけが、自我と肉体の形を保って浜辺にたたずんでいる。そこで、二人が新しい世界のアダムとエバとして、手を取り合いながら歩んでゆくのかと思いきや、シンジが少女の首を絞め、少女が「気持ち悪い…」とつぶやいたところで映画が終わるという衝撃のラストで完結する。



このラストの展開をめぐって、公式からの答えはないし、多くの解説や考察があるわけだけれども、「気持ち悪い…」という言葉があらわしているのは、まさに「気持ちいい…」世界である補完の世界、すなわち、母の胎内にたゆたう胎児のように、自分と他者、自分と世界の境界がなくなり、欠乏の苦しみのない自他未分の「無」の一致による平和の安らぎ「のみ」が在る世界、そのような世界を拒否して、たとえ自分と他者、自分と世界との間の「壁」の前で、欠乏と無力感に苛まれつつ、互いに惹かれあいながらも憎みあい相克する、そのようなザラザラベトベトドロドロした「気持ち悪い…」世界で、互いに傷つき傷つけあい、殺し殺されあう世界であっても、しかし、それでも、他でもない「この自己自身である」ことを選ぶということ、そして、拒絶しあいつつも誰かと「共に」歩むことを選ぶということ、その意味で、このラストの展開は、新しい世界のアダムとエバによる、積極的な「失楽園(Paradise Lost)」の神話だということである。



「積極的な…」と言うのは、旧来、旧約聖書におけるアダムとエバの楽園追放の物語が、罪を犯してしまったがゆえに、その罰として神から楽園を追放される消極的な「失楽園(Paradise Lost)」の物語なのに対し、ここではむしろ積極的に楽園を拒否して、苦役に満ちた荒野を自ら選ぶという意味で「積極的」という意味である。



「失楽園(Paradise Lost)」で有名なのは、イギリスの詩人のジョン・ミルトンの長編叙事詩だけれども(日本の同名タイトルの不倫小説とその映画ではなく!)、この詩においてミルトンは、創世記の楽園追放物語を、もともと天使だったサタンが悪魔軍団を引き連れて神に反逆するエピソードからはじめる。そこでは、サタンと悪魔軍団が、まるで自由を求めて圧政に反抗する革命家かロックスターのように描かれる。ちなみに、このような次第であるから、サタンが神に反逆する前半部分は、日本人の中二病的(?)イマジネーションに常に刺激を与えてきた作品であって、漫画やアニメやゲームなどで、その影響を指摘できる作品は多い。一神教の神が、独裁的な暴君として描かれ、その配下である天使の軍団が、意味不明な規則を守ることを要求してくる頭でっかちな官僚として描かれ、そのような圧政から自由と尊厳を取り戻そうと戦う才気煥発な革命家(ルシファー様?)としてのサタンとその同志たちというイメージは、聖書ではなく、このミルトンの「失楽園」が元ネタである(とはいえ、「失楽園」においては神や天使の描写はあまりないので、天国が独裁的な共産主義国家であるかのようなイメージは、敵対側のサタンとその軍勢の態度や主張があまりにもカッコイイので、そちらに引っ張られて読者が勝手に読み込んだものである)。



では、ミルトンは、なぜこのようにサタンを反逆のヒーローとして描いたのだろう? もちろん、ミルトンは悪魔崇拝者ではなく、終生、敬虔なピューリタン的な信仰を持ち続けた人物であった。おまけに、ミルトンはピューリタン革命の思想的担い手として、王政を打倒するクロムウェルの共和政を支持し続けたのであった。しかし、そのピューリタン革命は、クロムウェルの独裁となって失敗し、結果として王政復古を招いて終わる。



もちろん、クロムウェルは、政権を個人的に私物化したのではなく、神の秩序を現世にもたらすことを目的とするその厳格なピューリタン的理想主義のゆき過ぎのゆえに独裁化してしまったのである。我が国においても、「〇〇をぶっ壊す!」と言って拍手喝采を受けた人物が、権力を握るやいなや暴君として独裁者化してしまうなんてことは、よくあることである。保守の右派が、改革の左派を批判して言う際に、「ぶっ壊すのはよいとして、では、あなたはその後どのような世界を築こうとするのか?」と問うように、新しい世界とその秩序を築こうとするなら、既存の世界とその否定だけでは成り立たない。「あの人が嫌い!この人が嫌い!これも嫌い!あれも嫌い!全部大っ嫌い!」という恨みと妬み(ルサンチマン)による復讐心だけでは、新しい世界とその社会は築けない。「否定」だけでは、壊すことはできても、建てることはできない。そこには、新しい秩序の形成の「痛み」に耐える価値が必要とされる。「壊す」ことは常にスッキリ!気持ちいい!が、「建てる」ということは、決してスッキリ!気持ちいい!ものではなく、何事もスムーズに運ばず、過酷でもどかしく、時間と労力もかかる、痛々しくて気持ち悪い、不完全な人間の弱さの十字架をも背負ってゆく大変なものである。「ぶっ壊す」ことは、恨みによる復讐心によって可能だが、新しい世界の秩序の形成のためには、恨みではダメで、理想とはほど遠い不完全な人間の弱さをも担う「十字架の愛」が必要とされる。人は常に、改革に「即効性」を求める。「今すぐ私の困窮を解決してくれ!」と。しかし、「壊す」ことではなく「建てる」ことを目的とするならば、「即効性」ではなく、我々の子供や孫の世代をも見据えた長期的な視野で行なわれなければならない。たとえ、自分とその世代は改革の過程の「痛み」だけを与えられて、その「果実」を享受することはないとしても、それでも子子孫孫の未来までをも考えて、十字架の「痛み」を担うことができるような精神的な態度があるところにおいてこそ、新しい世界を「建て」あげることができる。その逆に、我々が「改革」と呼んでいるところものは、たいてい自分とその世代の自由と快楽のために、未来世代への遺産を食い潰すことによって、未来を食って今を生きるようなものである。神を否定し、他者を否定し、あらゆる権威を否定し、あらゆる超越的な価値を否定し、その理解や服従を否定し、ただひたすら個人的な自由と快楽のみを追求する悪魔的反抗では、旧世界を「ぶっ壊す」ことができたとしても、自らもまた、未来を道連れに、地獄の虚無へと「ぶっ壊れる」ことになる。



かくして、旧世界とその体制への恨みや復讐という否定、また、この世界や人間への愛からではなく、妬みや憎しみによる反抗という意味での革命は、それが、どれほど威勢がよくてカッコイイものであったとしても、やはりサタン(悪魔)の反逆であって、そのことのうちにすでに「敗北」は予定されている。



こういうわけで、サタンとその軍勢によるクーデターは、常に敗北に終わるわけだけれども、最後の手段として、神がご自身の似姿として愛によって創造された人間、すなわち楽園(エデン)のアダムとエバを罪に誘惑し、堕落させることでもって、神の寵愛の対象を神から引き離すことで復讐を果たそうとする。そして、それはまんまと成功する。罪を犯したアダムとエバは、楽園から去らねばならない。天使ミカエルは、アダムとエバに対し、楽園の外で彼らの子供たちとその子孫たちが被ることになる苦役と死について語り、妬み憎むことによって殺し殺され争う支配の抑圧と侵略の破壊の悲劇について予告する。他方、そのような悲劇のなかにあっても、神の言(ロゴス)の介入があること、そして、罪を犯した女の末裔(すえ)から、人類の罪を贖う罪なき神の御子が誕生して、誘惑する蛇(サタン)の頭を踏み砕き(創世記3:15)、すべてを回復させる「救済史」の希望があることを語る。そして最後に、天使であったサタンの堕天と反逆も、そのサタンの誘惑によって罪に堕ちたアダムとエバが楽園を去ることも、これらすべての悪の出来事を善へと変えて(創世記50:20)救済を完成させる神の摂理が称揚される。こうして、アダムとエバは、希望を胸に、手を取り合って、楽園の外の寂寞とした荒野に「自(みずか)ら」歩み出すことを決める。



「彼らは、ふりかえり、ほんの今先まで自分たち二人の幸福な住処(すまい)の地であった楽園(パラダイス)の東にあたるあたりをじっと見つめた。その一帯の上方では、神のあの焔の剣がふられており、門には天使たちの恐ろしい顔や燃えさかる武器の類が、みちみちていた。彼らの眼からはおのずから涙があふれ落ちた。しかし、すぐにそれを拭った。世界が、―そうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や彼らの眼前に広々と横たわっていた。そして、摂理が彼らの導き手であった。二人は手に手をとって、漂泊(さすらい)の足どりも緩やかに、エデンを通って二人だけの寂しい路を辿っていった。」

 

ジョン・ミルトン「失楽園」 平井正穂 訳



このような、ミルトンの「失楽園」におけるアダムとエバのような人間観には、自分たちに何が起きたのかわからぬまま一方的に楽園を追放されたというよりも、すべてを理解したうえで、自(みずか)ら楽園を去るという意味で、社会学者のマックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のなかで分析していたピューリタンの信仰が反映されている。それは、この苦難に満ちた現世において、自ら神の道具となって、その栄光を顕すべく、「祈り、かつ働け」の精神で荒地を耕す信仰であり(ミルトンの「失楽園」においては、楽園においてすら、アダムとエバは労働している!もちろん、それは苦役としての労働ではなく、どちらかというと芸術としての活動だが)、収穫の感謝を神に捧げつつ、アメリカの不毛の大地を開拓し耕し続けたピルグリム・ファーザーズ(宗教的迫害を逃れてアメリカに渡ってきたピューリタン)の信仰である。彼らの国籍はこの世ならざる天に在るにもかかわらず、現世においては運命の荒波に身を委ねるのではなく、彼らの積極的な活動と労働の勤勉さによって、世界を改造することで、人間のために実を結ぶ豊かな大地とその社会を築き上げてきたのである。その際の収穫の成果や事業の成果は、彼らの活動の成果にもかかわらず、神の祝福と恩寵として受けとめることができたのであり、日々生きて活動できていることを神に感謝するピューリタン的謙虚さが失われるにつれて、強い者=神に祝福された者、勝った者=神に祝福された者、豊かな者=神に祝福された者、金持ち=神に祝福された者、強くて豊かで金持ちの国アメリカ=神に選ばれた国アメリカ(God Bless America!)、「天は自ら助くる者を助く!」という露骨な「繁栄の神学」へとシフトしてゆく。もとより、聖書は、「金持ちが天国に入るよりは、駱駝が針の穴を通るほうが容易い」と語っているのであり、であればこそ、初期のピューリタンは、自分の懐を富ますためではなく(それは滅びのしるしだから)、自分自身は質素倹約して、その富を投資して社会を富ますために懸命に働いたのであり、その社会への富の蓄積が資本主義的発展の原資となったというのが、ウェーバーの見方だが、富に名前がついているわけではなく、色があるわけではないのだから、富を相続した者が、必ずしもそのようなピューリタン的信仰と世界観を継承しているわけではない以上、富の用い方は相続した者の自由なので、ピューリタン的な信仰と精神が失われてゆくにつれて、金儲けや戦争をまるでスポーツとみなすかのような、アメリカという国の、ある意味傲慢(?)で鼻持ちならならない拝金主義の体質となって、現在に残っている。



最後に、蛇足ついでにアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に再び触れるとすると、このアニメは、97年の劇場映画で一応完結しているのだけれど、2008年から劇場映画でリメイクが始まり、旧作とは異なる展開を経て、2021年に4部作の完結編でもって完結している。この、最後の完結編についての内容については、比較的最近の作品であるし、個々の新しい登場人物や新しい設定や専門用語などについては、いろいろな人がいろいろな考察をしており、正直、私もよくわからないでいる。私自身は、この作品こそ「衒学」であって、哲学的な深みはあまりないと思うのだが、それでも作品のテーマははっきりしている。すなわち、旧作から衝撃を受けて、約30年の時間を「エヴァ」という世界とそのキャラクターの運命に自己同一し続けて囚われている古参のファンを成仏(?)させるためであり、「新世紀エヴァンゲリオン」というコンテンツとその作品世界という「楽園」からの卒業の物語であり、「失楽園(Paradise Lost)」の物語である、ということである。まさに、最後の最後の展開は、それをあらわしていると思うのだが、「エヴァのキャラクターたちは、今、『現実』を生きているから、君も、たとえそれがザラザラベトベトドロドロとした過酷な世界であったとしても、君は君自身の世界を生きてくれ」というメッセージなのだと思う。



しかし、とはいえ、まあ、そうだとしても、「エヴァ」という作品は、監督の個人的な内面をあらわしている作品だと言われているし、旧作をつくっているときは監督は鬱状態だったので、それが旧作の陰鬱とした空気となってあらわれていると言われている。その監督も歳を重ねて、結婚して家庭を持ち、社会的にも巨匠としての立場を確固とさせて、たとえ無理難題を言っても目をキラキラとさせながらついてきてくれる部下や後輩にも恵まれて、一緒に笑い、一緒に泣き、一緒に眉をしかめながら自分を理解しようとしてくれる他者にも恵まれて、それが新作の「明るさ」となってあらわれているのかもしれない。しかし、監督自身はそれでよいとしても、多くの人の「現実」は、「いまだ」決して明るいものであったりはしないのだろう。たとえば、インターネット上でこの作品の考察や解説をしているのを見ても、この作品を「卒業」として肯定的に受けとめることができている方は、実生活でも家庭を持ち、しかるべき社会的立場も得て、実質的には、すでに「エヴァ」という作品を卒業することができる受け皿をあらかじめ持つことができている方々のようにお見受けすることができる。要は、作品を鏡(かがみ)として、今の自分を見ているだけなのだ。そうだとすると、ヘーゲルの哲学のように、旧作を過程として、新作を完成として、一連の作品の流れを進化論的に位置づけるとすると、「君は、まだそんなところで足踏みをして停滞しているのかい? いいかげん一歩踏み出してみたら?」と、「いまだ」卒業を受け入れることのできない一群の人々にとっては、この作品は、はなはだ「残酷(!)な天使のテーゼ(テレビアニメ版の主題歌のタイトル)」ということになるのだろう。そういうわけで、「いまだ」こじらせておられる方はこちら(旧劇場版)へ、もう「すでに」卒業しておられる方はこちら(新劇場版)へと、棲み分けるのがよろしいということになるのであろう。私は、先に書いたように、「現実」は人が思っている以上に中二病的だと信じているので、「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増す(コヘレトの言葉1:18)」とあるように、人間を研究すればするほど、共にいてくれる他者と共に現実「へ」卒業するというのは、あまりにも現実を楽観視して、そこに停滞し続けているように思われる。私には、やはり現実の世界は、神の「裁き」の世界であり、同時に「憐れみ」の世界でもあるのであって、卒業に値する現実も、常に不安定であり、有限であり、永遠ではない。それゆえに、明るく晴れやかな日常への回帰というテーマよりも(日常はたいてい明るくもなければ、晴れやかでもないし、アニメや漫画よりもカタストロフであったりもする)、暗く陰鬱な寂寞とした荒野を、神の言(ロゴス)と共に単独的(孤独にとは言うまい)に歩んでゆくというテーマにリアリティを感じる。しかるに、聖書という神話(フィクション)を卒業して現実へ帰れというのは適当ではない。なぜならば、キリスト教的には、現実こそが神話的(フィクション)であり、そこでは常に何かをごまかし、また隠蔽されているのであって、むしろ逆に、聖書の「物語」こそが、人間の「真実」をあきらかにし、ごまかさずに照らしだそうとしているからである。もちろん、聖書の記述が、歴史的にも科学的にも考古学的にも「事実」であることを主張しようというのではない。その真理性は別の言語ゲーム(ヴィトゲンシュタイン)のうちにある。宗教にしろ何にしろ、それ自体で自存しているものはないのだから、いったい、それがどのような戦略的布置のうちにあるのか、抑圧の分脈にあるのか、解放の分脈にあるのか、それの実際的な分脈のうちにおける「使用」の実態において分析しなければならない。ウェーバーの宗教社会学が画期的であったのは、マルクス主義が、宗教的神話を、支配階級が大衆の目を現実からそらさせるという目的の分脈からしか見ようとしなかったのに対し、ウェーバーは、宗教的神話が、それを信じる者にとって、現実に介入し、現実に積極的に関わり、現実を変えるための心理的エンジンにもなりうるということを示したことにあったのであった。ある種の神話(フィクション)にとっては、現実に戻ることこそ視野を狭くすることであり、むしろ現実から神話(フィクション)へ帰ることによって視野が広くなる、ということもあるのである。現実を捨てるためではなく、現実を歩むためにも、人は神話(フィクション)を必要とする。だとすれば、そのような神話とは、いったいいかなる神話であろうか?

 

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

 




戦闘的教会〜キリスト教は「なに」と戦うのか?〜

2022年にアメリカで公開された映画「ウーマン・トーキング」を観た。



 



あらすじはこうである。馬車を駆り、羊や山羊や豚などを飼う自給自足のコミュニティでの出来事。あるひとりの女性が朝、体の痛みと共に目を覚ますと、ベッドのシーツが血で汚れていることに気がつく。どうも寝ている間に馬用の麻酔で昏睡状態にさせられたうえで、コミュニティの男から性的暴行を受けたらしい。そのことを男たちに問い詰めると、「悪霊のしわざだ!」と、はぐらかされるばかり。調べてみると、そのような事件は一件や二件ばかりではなく、自殺した者もおり、年端のいかない幼女や少女までもが被害にあっているらしい…。これにはさすがに、男尊女卑の文化のなかで忍従してきた女性たちといえど、堪忍袋の緒がブチ切れる。そこで、男たちが不在の間、コミュニティの女性たちが集まり、話し合う。物理的な暴力や性暴力で女性を虐げておきながら、悪びれることもなく差別をし続ける男たちに対し、どのような態度をとるべきか? 許して、これまでと同じようにコミュニティのなかで忍従して生きるべきか? それとも、コミュニティを脱出して新天地を目指すべきか? または、コミュニティの男たちに、彼らがどれだけ非道い悪を行っているかを思いしらせるために、武器をもって戦うべきか? しかし、文字の読み書きすら教えてもらえなかった非力な女性たちである。コミュニティの外でどのように生きればよいのか? どのように男たちと戦うというのか? 結局、また、コミュニティの伝統(?)に従って、相手を許すしかないのだろうか? そして、女性たちは文字の代わりに絵を描いて、コミュニティ史上初の「選挙」を行う。許すか、出ていくか、戦うか、それぞれ賛成する立場に票を入れてくれ…と。



その間、ある一台の車がやってくる。「Daydreambeliever」という、1960年代にアメリカで流行したロックバンドのモンキーズが歌う楽曲を流しながらやって来たその車は、2010年度の国勢調査のためにやってきたという。



なんと! 200年前のアメリカの開拓時代かと思われたそのコミュニティは、2010年の現代に存在している、キリスト教少数派のコミュニティだったのだ。モデルになっているのは「メノナイト」というキリスト教の教派のうちの、より保守的なコミュニティであり、メキシコで実際にあったメノナイトのコミュニティでの事件を参考にしているらしい。



「メノナイト」というのは、カトリックの司祭から再洗礼派に転じたメノー・シモンズの名に由来し、彼に従った人々の集まりを指す。再洗礼派というのは、カトリックにおける幼児洗礼を否定し、人が成人になってからの、自分の意志による自覚的な信仰によって受ける洗礼のみを有効とみなす立場である。彼らにとっては、カトリックによる洗礼は洗礼ではないゆえに、彼らにおける唯一の自覚的な洗礼があるのみであって、彼らにとっては「再」洗礼ではないのであるが、カトリックにとっては、教会を通じた神の賜物を彼らが拒否したことになるので、メノナイトの集まりは異端として迫害を受けることになった。その逃避の過程で多くの国に散っていったので、それぞれの土地にメノナイトのコミュニティがある。その信仰のスタイルは、主に、聖書にもとづいた共同体的な相互扶助と清貧な生活、徹底した平和主義を中心とする。



なぜ、彼らがそのような生活スタイルを選んでいるかというと、もちろん、彼らの信じているキリスト教信仰のためであり、彼らの考えているキリスト教信仰の純粋さを追い求めようとして、聖書に書かれた時代のキリストの模範と使徒たちの生活に忠実であろうと、「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り(第一ヨハネ2:15-17)」を徹底的に排除しようとする結果、周囲の文明の発展による恩恵を徹底的に拒否したことで、近世以前の生活スタイルを温存することになっているというわけである。もちろん、「メノナイト」といっても、すべてのコミュニティが、こうしたスタイルであるわけではない。日本にもメノナイトの教会があるが、いたって普通のプロテスタントの教会である。



こうした、閉鎖的で特殊なコミュニティは、現代人の感覚からすれば、例外なく差別的で、カルト的であるように思える。



ただし、こうしたスタイルのコミュニティの名誉のために弁護しておくと、こうしたコミュニティから聞こえてくる、すべての報告が悪い話しというわけではない。たとえば、同じように開拓時代のような自給自足の生活をしながら、キリスト教信仰の純粋性を守ろうとしているコミュニティのひとつにアメリカのアーミッシュがある。この「アーミッシュ」というのも、メノナイトのうちの、さらに厳格派であるアマンという人物から派性したものらしい。



2006年、アーミッシュのコミュニティで起きたひとつの事件が、全米を驚愕させた。それは、自分の娘が産まれて間もなく亡くなってしまったことに絶望したひとりの男が、「神を呪う…」とつぶやきながらアーミッシュの学校に侵入し、銃を乱射して多くの子供たち(すべて少女)を死亡させたあと、本人も自殺した事件であった。その際、多くの人を驚愕させたのが、男に銃を向けられた子供たちのうち、年長の少女たちが「撃つなら、私を撃ちなさい!」と、年少の子供たちを身を挺して庇ったという話しが伝えられたからであり、それ以上に驚愕させたのは、アーミッシュとその被害者の遺族が、犯人の男を「ゆるす」と宣言して、自殺したその男の葬儀に参加して、加害者の家族にお悔やみを述べて慰めたというのである。被害者の家族であれ、加害者の家族であれ、家族を亡くした者の悲しみには変わりがない、と。



このことは、もちろん多くの賛否の議論を巻き起こした。一方では、「すでに化石と思われていたアーミッシュの信仰のなかにキリストは生きていた!」と称賛する声があり、他方では、「美しい話しではあるが、やはりおとぎ話と大差なく、現実社会の複雑さを鑑みても、手放しで模範とするわけにはいない」といった、懐疑的な意見まで様々であった。



もちろん、アーミッシュの人々だって、愛する家族を殺されて悲しくないわけがなく、犯人への憎しみがないわけがない。しかし、伝統的なキリスト教にとって「ゆるし」が重要な教えであるように、アーミッシュにとっても「ゆるし」は重要なのだが、それが重要なのは、彼らが神の善性と全能性を信じるからであり、人間にとってどのような悪であり、不条理なことであっても、彼らの信仰においては、神は決して過ちを犯すことはなく、神にとって意味がないことはないのだから、この不条理な事態が、未来における神の計画の内で善に変えられることを信じて、無条件に受け入れて肯定しないといけないのである。それにまた、彼らにとっては、彼らの祖先である再洗礼派が、カトリック教会と政治権力から迫害されてきたにもかかわらず、敵をゆるして、非暴力と平和主義を貫いて死んでいった殉教者たちの物語を、幼少期から語り聞かされていることも影響している。



アーミッシュにとっては、「ゆるす」ことが神の意志なのであり、それが彼らの信仰であると同時に、コミュニティの意志なのだから、「ゆるさない」という選択はありえないのである。



とはいえ、それは、あくまでも彼らにとっての敵、すなわち外部の非アーミッシュからもたらせられる悪への「ゆるし」に限るのであって、身内であるアーミッシュの仲間が犯す罪に関しては、彼らはすこぶる厳しい。「アーミッシュ」としてのキリスト教信仰の純粋性や、それによる伝統や規範によるコミュニティの紐帯を壊すような人物や行為については、いわば「村八分」のような、コミュニティの相互扶助から排除するような制裁が存在する。実際、かの銃乱射事件の被害者の遺族にとって、「ゆるす」のがより困難であったのは、外部の人間による殺人という巨大な悪よりも、同じアーミッシュの身内の隣人による、事件に関わる陰口や告げ口や時宜を介さない勝手なおしゃべりという、非アーミッシュである我々にとってはささやかに思われる罪のほうが、彼らにとってはゆるすのが何倍も困難だったと語っている。



もちろん、アーミッシュに限らず、どのようなコミュニティにおいてもそうだけれども、人々とその生活を一箇所に集めて、持続的にまとまりを保ち続けている以上、そのまとまりを保つような「意志」が存在しているのであって、「意志」がなければ、そのコミュニティはまたたくまに分解してゆくのみである。その「意志」は、繰り返し伝えられた伝統による教育に由来するのかもしれないし、過去におきた悲劇の経験から、「同じ悲劇を繰り返すまい…」とする共通の負の記憶によるかもしれないし、また、我々が世界遺産文化遺産を守ろうとするように、たとえ朽ちゆくものであっても、人間の歴史と文明のために残しておくことが有益であり、意義があるとの確信からかもしれない。



そのような「意志」がある以上、そのような「意志」に背くものとして、先人たちが苦労して積み上げてきたものを壊そうとする者や、それへの負担を回避してタダ乗りしようとする者を受けいれ、そのような行為を許すことは、コミュニティそのものの自壊行為であり、自殺行為なのだから、無条件に「ゆるす」というわけにはいかない。そのようなことを許せば、アーミッシュアーミッシュではなくなってしまうからである。非アーミッシュとしての異邦人からの悪は、むしろアーミッシュとしてのアイデンティティを強化する機会となるが、逆に、身内であるアーミッシュの内側からの罪は、アーミッシュとしてのアイデンティティを毀損することになりかねないために、ゆるすことが難しいのである。こうして、アーミッシュに限らず、あらゆる共同体としての「寛容」には、どうしても限界がつきまとう。



我々もまた、様々な職場における仕事として、契約を介した自発的な結社としての会社のメンバーである場合には、会社のうちに契約を守らない者がおれば(会社自体が契約を守らない場合もあるが!)、その者は会社のうちにおいてはおけないのであり、その者に対しては解雇や減給などの負のサンクションによって応じる他はない。であればこそ、我々の社会は、会社組織に人間の生存権をあずけてしまうことにならないように、失業保障や、生活保障、その人にあった仕事の斡旋など、また、どのような人がどのような仕事に就いたとしても、人並みに最低限に豊かな生活をおくれるように、最低賃金の額を上げるなどして政治の力によって社会福祉を図ろうとする。逆にいえば、「クビを切る(切られる)」という言葉に象徴されているように、会社組織からの逸脱が、そのまま生命や生活の破綻につながる言葉として人々の間で恐れられている場合には、それは、すなわち、いまだ企業の終身雇用に人間の生存権を丸投げして、社会福祉という自らの使命を果たすことを放棄している政治の怠慢をあらわしていることになるのである。



ちなみに、日本においては、人間の生存権を保障する社会福祉を、高度経済成長期の企業共同体に丸投げしてきたため、社会保障を含む税負担を軽くすることができたのだけれども、その反作用として、税負担を万民が暮らしやすくするためのシェア (分かちあい)という意識が育たず、封建時代の年貢のように、ひたすらお上(かみ)である政府に召し上げられるだけの「収奪」としか意味しなくなってしまった。結果として、日本人の間で、自己の利害関心とその家族を超えた広い社会性や公共心が育たず、「減税!減税!自己責任!」の合唱のなかで増税の議論がタブーになってしまった。



企業活動(影響力を与えることを生業とするYouTubeなどの配信者やインフルエンサーなどの個人事業主も含む)によって、社会から自分たちに多くの利益を引き出しているがゆえに、社会に多くの責任を負うべき富裕層からして、すでに公共心が決定的に欠落しているために、彼らに多くの税を課そうとすると海外に逃げてしまうため、そのような様々な移動(逃亡?)可能性を所有している富裕層の代わりに、移動可能性も逃げ場も持つことのできない貧者からチマチマ税金を搾り取ろうとしている次第である。



自己責任論者も、日本人が餓えて死ねばよいと思っているわけではないが、彼らにとっては、人がどっかの会社の正社員に滑りこみさえすれば、生涯安泰な立場を得られるのに、その努力すらしない者は、努力を放棄した怠け者であって、公助による救済に値しないと考えているのだ。もちろん、このように一社員を生涯に渡って養えるような企業の成長力なんてものは、すでに絶えて久しいのであり、それでも正社員の安定雇用に自己の生存権を丸投げするということは、それは、決して多いとはいえない給料にもかかわらず、雇用の安定のため「だけ」のために、会社内のパワハラモラハラ・セクハラに耐えて、心と体の生活のすべてでもって会社組織に自己を捧げて奉仕する「家(社?)畜の安寧」を求めることを意味するにすぎない。このような家畜の安寧から、いつでも脱出することができるようにするために、公共財としての様々な税とその行方について議論しているのに、日本ではまだそれがきちんと理解されていないのである。



「なぜ若者は会社を3年で辞めるのか?」と問われて、かれこれ20年経つけれども、現在の会社役員の高給を保つために、新人が身を粉にして働いたところで、その新人が会社の役員に就く頃には、その報酬は現在の三分の二か、下手したら半分も満たない可能性があるのに、そんな会社のためにマジメに働くのが馬鹿馬鹿しくてやってられないのである。



話しが逸れてしまったので、アーミッシュの話しに戻るとすると、アーミッシュのこうしたコミュニティの意志として、禁欲的なムラの「オキテ」によって非暴力で平和主義であることは、その裏面として、「オキテ」に従わない者を、「神の敵」とみなしてコミュニティから排除する不寛容さと同居している。



しかし、アーミッシュは、産まれたときからアーミッシュではないのか? 彼らは、自分がアーミッシュとなり、その伝統とオキテに従うという社会契約にいつ同意したのか? もちろん、彼らは、親がキリスト教徒だから、その子供もまたキリスト教徒であるという幼児洗礼を否定し、本人の自発的・自覚的な信仰による洗礼のみを有効な洗礼とみなす再洗礼派の末裔だから、親がアーミッシュだから子供も自動的にアーミッシュとはならない。彼らにもまた、アーミッシュとしてのキリスト教信仰を自発的・自覚的に選択するか否かを問う通過儀礼が存在する。



彼らは16歳になると、アーミッシュのコミュニティから離れて、彼らが「悪魔の遊園地」とみなすところの世俗社会と、その現代的な生活スタイルで一定期間暮らすことが許可される。そこにおいては、厳格なアーミッシュのコミュニティとその「オキテ」を離れて、それこそアルコール、セックス、ドラッグ、ロックンロールなどのような、あらゆる世俗的な文化を楽しむことが許される。とはいえ、そこでアーミッシュに追っかけられることはないとしても、まだ彼らは未成年であったりするものだから、違法にアルコールやドラッグに触れたりなどして世俗の警察に追っかけられたりすることはある…。



こうして、自由な生活と時間を享受したあとで、アーミッシュに戻るか、それとも、このまま世俗社会で生きてゆくかの選択を迫られる。もし、アーミッシュを離れて世俗社会で生きてゆくことを決断した場合には、彼らはもはやアーミッシュではない以上、違う世界の人間となるのだから、それは親兄弟や親類を含めたコミュニティのすべてのヒトや環境からの絶縁を意味することになり、世俗社会でなんの後ろ盾もなく、孤高に生きてゆかねばならない。



そういうわけで、大多数のアーミッシュは、そのような世俗での生活を経たあとでも、再びアーミッシュの伝統とオキテを守ることを決断してコミュニティに帰ってゆく。それは、自由のためとはいえ、家族との絆や故郷の思い出を捨てることの決断を彼らに要求することは、十代の若者には荷が重いということもあろう。しかし、世俗社会は、たしかに選択肢の多さという意味では、アーミッシュよりもはるかに自由があるだろうが、その自由でもって互いに傷つけあい、罵りあっては互いを利用して捨ててゆくような、道徳的に退廃しきった獣じみた社会だから、自由を与えられながらも自由であるわけではなく、誰も彼もが「寂しい…」とつぶやきながらも、永続的に豊かな人間関係を築くことができずに、いつまでも人々が孤立しているような社会である。そのような自由(?)な現代社会の実相を目にして、アーミッシュの伝統とそのコミュニティこそ「堕落した地上に残された最後のエデン(楽園)」であるとの確信を増して、自覚的・自発的な信仰で積極的にアーミッシュに戻ってゆく場合がある。他方、世俗社会の自由な生活を羨望しながらも、アーミッシュアーミッシュの独自な文化と生活スタイルと教育を受けて育ってきているから、世俗社会の正規の教育を受けていない以上、世俗社会でそのことを馬鹿にされたり、揶揄されたり、いじめられる場合もある。そうして、世俗社会の人間関係に適応できずに、「結局、僕の居場所はココにはなく、アーミッシュに戻る他はない…」と、なかば諦め半分に、仕方なく渋々と、消極的にアーミッシュを選択する場合もある。



こうして、積極的にしても消極的にしても、多くのアーミッシュは、アーミッシュの伝統とそのコミュニティを担う主体となることを自覚的に選択して帰ってゆく。



しかし、それでも、自分が属するコミュニティ全体の意志と、自分自身の個人としての意志とは別のものであるはずである。自分が属するコミュニティへの愛(エロースまたはフィリア)のゆえに、コミュニティの伝統やオキテに服従するカタチで敵を「ゆるす」のと、自分自身からの敵への愛(アガペー)のゆえに敵を「ゆるす」ことは、まったく別の事柄である。



習慣によって「ゆるす」ことと、愛(アガペー)によって「ゆるす」こととは別の事柄である。コミュニティの意志の体現としての神との関係のゆえに「ゆるす」ことは、教育の力ではあったとしても、それは福音の力ではない。アーミッシュのように幼少期から単一的な価値によって教育されることのない現代人は、たしかにアーミッシュのような行動力というのは発揮しづらいかもしれない。しかし、愛(アガペー)は行動を伴うにしても、行動力そのものが愛(アガペー)なのではない。なぜ敵をゆるすのかを、自分の良心において明確に意識して理解したうえで「ゆるす」のと、コミュニティとの関係や育ってきた環境、教えられてきた習慣に従順であるがゆえに「ゆるす」こととは別の問題である。敵への愛(アガペー)のゆえに「ゆるす」のと、コミュニティへの愛慕や親密さからの愛(エロースまたはフィリア)のゆえに、コミュニティのオキテに服従するかたちで敵を「ゆるす」ことは違う事柄である。



それゆえに、以下の問いがつきまとう。「コミュニティの伝統とそのオキテとしての意志が、君に『ゆるす』ことを命じるならば、もし、仮に、同じ意志が『殺せ!』と命じるならば、君は殺すのだろうか?」と。



意地悪な問いである。「ゆるせ!」と命じる意志が、「殺せ!」と命じるに至ることは、必ずしも必然ではない。しかし、2011年にアーミッシュのなかで、以下の事件が起こった。アーミッシュのうちの、一部のグループの指導者が、グループの内のメンバーを扇動して、敵対するメンバーの家に押し入り、彼らの髭を剃り、髪を切り、その姿を写真に撮って、アーミッシュ内で公開したというのである。「髭を剃って髪を切っただけなのか!?」と、アーミッシュではない現代人の我々の感覚からすると、実に微笑ましいかぎりではあるが、伸びた髭や髪を誇りとするアーミッシュにとっては、それを切り落とし、同じアーミッシュ内で公開することは、この上ない侮辱であり、公開処刑に等しい。そのゆえに、それら加害行為を行ったアーミッシュの指導者と実行犯は、ヘイトクライム憎悪犯罪)として、アメリカで禁固刑の判決を受けている。



もちろん、このような事件があったからといって、アーミッシュの全体が、この指導者やメンバーのような人間ばかりだということにはならない。アーミッシュといっても、指導者別にグループがあり、あらゆる宗教コミュニティがそうであるように、アーミッシュにおいても、それぞれのグループには、より保守的だとか、より改革的だとかのカラーがあるのであり、このグループの指導者とそのメンバーが、より過激でカルト的なグループだったというだけにすぎないかもしれない。実際、その指導者の支配に反発して、いくつかの家族がそのグループを抜けているし、後にアーミッシュの合同会議によって、その指導者の決定が恣意的であることが認められて、その指導者によって言い渡された破門が撤回されている。



しかし、そうだとしても、このようなコミュニティ全体主義に抗う独立した「個」が存在する余地が、アーミッシュに普遍的に存在することはありうるのだろうか? という疑問は残る。最近、アーミッシュ内においても、性暴力による性被害や性的虐待が長らく存在し、隠蔽されてきたとする証言が聞かれるようになった。そもそも、コミュニティ全体主義による教育においては、自分の身体や自分の性が、不可侵の権利として自己の所有に属するということが教えられないゆえに、自分が被害を受けているという意識に至りにくいというのもあるし、アーミッシュの非暴力や平和主義の美徳が、この場合には、現状肯定の理屈として、最悪の犯罪を許し、免責してしまい、コミュニティ内の悪を増長させるという、真逆の結果となってしまう。加害者は、いつもこのように言って被害者から被害の意識を忘れさせようとする。すなわち、「さあ、そのような被害者意識による悲しみや苦しみは、君の心と体を憎悪の感情で汚して、君自身の人生を後ろ向きに停滞させてしまうだけだから、さっさと相手を許して否定的な感情を水に流し、君のこれからの未来を前向きに生きようではないか!」と。

 

 

キリスト教の「ゆるし」を、このように、一種の精神衛生方法として、「あなたの心の健康のために許せ!」と、個人の心と体の健康と安定を維持し促進させるためのテクニックとして、現代風(?)に解釈して主張するクリスチャンは、とても多い。それは、宗教の個人主義化とともに、宗教から社会性が失われつつあるにもかかわらず、福音における「ゆるし」の命令が、妥協なき絶対性を帯びているように思われるため、現代社会においては、「なぜ、ゆるすのか?」を個人主義的に根拠付けせざるをえないということに一因している。



しかし、聖書のなかで、キリストによって語られた「ゆるし」は、当然ながら、精神衛生法ではないし、単純に個人の安心立命を求めるものでもない。いわんや、絶対平和のために悪の行為を許して免責するものでもない。



キリスト教における「ゆるし」は、イエス・キリストの宣教にて語られているように、来たる「神の国(支配)」と関連づけられているのであり、この世界に生きる一人一人の人間を支配している見えない「悪」の力に対する、神の支配の対決をあらわしている。それは、個人の負の感情の処理に尽きるものではなく、社会悪として、この世界のあらゆる人間を支配している見えない悪の力への闘争であり、まさに、そのようなものとして、「この世」に介入する「神の国(支配)」がもたらす抵抗の摩擦の火花である。それは、いまだ来たらざる神の王としての全面的支配が全世界を覆う前に、その先駆けに「天国」の種(マタイ福音書13:31−33、ヨハネ福音書12:23-24)として、地上に遣わされた神のひとり子イエス・キリストの生が、汗と血と苦悩の痛みからの解放ではなく、むしろ、「この世」を支配する見えない悪の力と対決することによって、それらを十字架の受難として、その身に引き受けられたことに、あきらかにされている。



「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(ルカ福音書11:20)



「それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。」(マタイ福音書26:36-39)




「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。」ヘブライ5:7-10)



なぜ「ゆるす」のか? それは、「神の国」が、神の王としての支配として、この世に来たる以上、裁きは、王たる神の業(わざ)であり、人の業ではないからだ。人を罪に定めて罰するのは、神のすることであり、人にはその権限は与えられていない。では、「神の国」が来るまで、この世の悪に対して無抵抗に忍従していろと言うのか? もちろん、そうではなく、人間には人を罰する権限は与えられていないが、悪に抵抗し、この世界の悪を減少させるべく最善を尽くすことが求められている。それは、加害行為をする者がもたらす悪だけではなく、それらの悪に対して、復讐または逆襲として、返り討ちのために用いられる「悪」の増幅に対する抵抗をも含まれる。悪を罰するために悪を用いること、悪を制するために悪を用いること、そのようにして、人はこの世界に悪の支配を増幅させるのであり、人は、平和のため、安全のため、安心のため、正義のためにと、そのつど悪魔に対して、「裁きたい!裁かずにおられるものか!力が欲しい!私にもっと力をくれ!」と懇願して、悪魔と契約を交わすのである。



「その人にとっては、多数の者から受けたあの処罰でもう十分なのだから、あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。そこでわたしは、彼に対して愛を示すように、あなたがたに勧める。わたしが書きおくったのも、あなたがたがすべての事について従順であるかどうかを、ためすためにほかならなかった。もしあなたがたが、何かのことについて人をゆるすなら、わたしもまたゆるそう。そして、もしわたしが何かのことでゆるしたとすれば、それは、あなたがたのためにキリストのみまえでゆるしたのである。そうするのは、サタンに欺かれることのないためである。わたしたちは、彼の策略を知らないわけではない。」(第二コリント2:6-11)



「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エフェソ6:11-12)



それゆえに、「なぜ『ゆるす』のか?」といえば、来たるべき「神の国(支配)」が、この地上に来るまでの間、「この世」の悪に抵抗し、成しうる限り悪を減少させて、善を増幅させるためであり、悪に対して悪でもって報いず、善でもって悪の力に勝利するためである。キリストにおいて「神の国(支配)」を目にした者として、キリストに倣いて「天国の種」となるべく「この世」に遣わされたクリスチャンと、来たるべき「神の国(支配)」の先駆けとして、先んず「この世」に立てられた教会は、まさに、地上における「神の国」として、成しうる限り悪を抑え、善を増やすべく召されているのであって、与えられたタラントを地に隠しておいて、増やすことをしなかった怠惰な下僕は、主人の帰宅の際に、不埒な輩と共に罰せられるのである。」(マタイ福音書25:14-30)



「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:17-21)



「右の頬を叩かれたら、左の頬を向けよ」とは、このこと(悪に対して悪でもって報いず、善でもって勝利すべし)を象徴的に述べているのであって、悪に対してなされるがままになって、悪を増長させよという意味ではない。



「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ福音書5:38-48)



盗む者を罰したところで、社会の貧困問題を解決しなければ、何をも罰したことにはならない。テロリストを罰したところで、テロリストを生み出すような差別や、抑圧された人々の窮状や怨恨を癒さなければ、何をも罰したことにはならない。「敵を利するつもりか!」と、怒号と罵声が飛び交うなかで、それでも我々が戦わなければならないのは、個々の犯罪者や悪人ではなく(もちろん被害が増えないように、犯罪を犯した者の自由を制限し、時には拘束しておくことは必要だとしても)、個々の人間に悪を行わせる「見えない力」であって、個々の犯罪者と関わることによって、そのような「見えない力」を可視化するための努力を放棄して、彼らを死刑に放り込んでしまえば、気分は「スカッと!」するにしても、人間に悪を行わせる「見えない力」は、無傷のまま隠蔽されてしまう。



このように、私の信ずるところによれば、キリスト教と死刑は相容れない。人間は、人間社会の悪を減らすために努力することは命じられているにしても、神になり代わって人間を罰することはできない。それは、人間の能力の限界のゆえに、冤罪をもたらしてしまう可能性もあり、そうなれば、失われた命に対して、「やっぱり、まちがってました!スンマセン!!」では済まないのであり、取り返しがつかないからであり、国家そのものが、無辜の命を奪った殺人国家となるからである。



死刑については多くの異論があろうし、被害者遺族の感情の問題もあろう。しかし、自分が被害者でもないくせに、「被害者の感情も考えろ!」と喚きたてる御仁は、被害者の味方のふりをして、その実、不愉快な悪人が酷い目にあっているのを見て「スカッと!」溜飲を下げたいだけなのであり、日々の現実のニュースを、時代劇の水戸黄門を視聴するように、勧善懲悪の「物語」として消費したいだけなのであって、自分にとって好ましい、強くてマッチョな頼り甲斐のある国家観や社会観を求めるために、被害者の存在を利用しているにすぎないのである。



もちろん、被害者遺族は極刑を求めるであろう。そのような遺族の訴えに対して、私とて、上に述べた死刑反対の論を滔々と述べることはできない。しかし、加害者への死刑が執行されたあとでも、被害者の遺族は生きてゆかねばならないのであり、被害者も加害者もいなくなった虚空のなかで、「なぜ? なぜこんなことが? なぜ、彼(または彼女)は死ななければならなかったのか?」という問いだけが残るのである。そして、被害者とは無関係な外野から、「死刑を執行せよ!殺せ!もっと殺せ!今すぐ殺せ!」と連呼する連中がそこで満足してしまうように、「加害者がモンスターだったから」という単純な答えでは回収できない問いが残るのである。



もとより、犯罪を、その根から根本からなくそうという意志は、通常の国家理性にはない。富裕層や支配階級の特権層が犯す悪から、民衆の目をそらさせるために、あえて、モグラ叩きのように、個々の軽薄な犯罪が次々に湧いてくるがままにしているほうが、彼らにとって都合がよいのであり、民衆が、そのような個々の身近な犯罪への不安や恐怖からモグラ叩きに興じている間に、支配階級は民衆の目が回らないところでやりたい放題できるのである。犯罪に大きいも小さいもないのは、そのとうりだけれども、数百円から数千円の被害のために万引き犯への憎悪を煽り、プロの監視員を雇い、店員が息を切らして走りながら、万引き犯を追いかけるのに、労働者を不当に搾取して利益をあげている経営者や、何千万から何億の巨額の公金を私物化し、自分たちの利益のために流用しているような政治家や議員については、その追求が手ぬるいのは、まことに民衆がよくよく飼い慣らされているから、という他はない。 



そうしておいて、政権与党への支持が陰ってきたときに、個々の軽犯罪を罰するべく、「犯罪撲滅!」の大鉈を振るって、現政権のマッチョさを民衆にアピールすることができるのである。国民の8割が死刑を支持するこの国で、死刑囚が長らくその刑を執行されず、拘置所に留めおかれているのも、いざという時には、強くて頼り甲斐のあるマッチョな政権であることを民衆にアピールするための政略的なカードとして、彼らは留めおかれているのであり、彼らの刑を執行することによって、時の政権は、「ウチらだって、ヤる時はしっかりヤりますぜ!」と、民衆にそのマッチョさをアピールすることができるである。



それゆえに、「神の国(支配)」がたたかう相手は、個々の悪人や罪人や犯罪者ではない。キリスト教がたたかわなければならない対象は、そのような人間に悪を行わせる見えない力であり、その力が支配している「この世」の秩序そのものである。個々の悪人や罪人や犯罪者は、そのような「力」から解放され、癒やされるべく関わらなければならないのであって、無論、そこには対話によって対面するために、その生命と存在が生かされなければならない。彼らの語る言葉が、どれだけ荒唐無稽な詭弁だとしても、それでも彼らに語らせなければならないのであって、彼らの口を死の永遠の虚無に放擲することは、彼らの後ろに存在する大きな見えない悪の力を可視化する可能性を放棄することであり、モグラ叩きよろしく、その時その場所で、終わりなく湧いてくる個々の犯罪者をプチプチと無限に叩き続けるだけで(無限の社会的労力とコストを浪費することを伴いつつ!)、その悪を吐き出す根源を可視化することを放棄することである。



「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。(…)わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」(エゼキエル書18:23-32)



「また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」(マルコ福音書2:14-17)



「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」」(ルカ福音書23:3)



もとより、旧約聖書で命じられている「目には目を、歯には歯を((レビ記24:17-22)」ではじまる律法も、これを同害復讐法といって、加害に対する復讐を助長するものではなく、むしろ、復讐を制限するものであった。つまり、目を潰された者にとっては、その憎しみが相手の目を潰すだけで満足するわけはないのであって、自分の恨みが晴れるまで、目だけにとどまらず、半殺しか、その生命を絶つまでエスカレートする。人類の歴史上、身内のひとりが殺されれば、加害者の命でもって満足するどころか、見せしめも含めて、加害者の家族を含む一族郎党皆殺しということを、人間はそれぞれの部族間抗争のなかでやってきたのであって、それゆえに、「目には、目を!歯には、歯を!」という律法は、自分が目を潰されて、さぞかし相手が憎かろうとも、それでも、報復は相手の目を潰すことにとどめて、相手の命を奪うことまでしてはならない、ということである。たとえ、身内のひとりが殺されて、加害者がさぞかし憎かろうとも、報復は加害者の命でもって報いるにとどめて、その他の一族郎党には手を下してならない、ということである。それゆえに、この律法は、一見、復讐を推奨しているように見えるが、その実、私刑を制限し、それを法の枠内におさめようとする「法の支配」を求めるものである。



そうであるがゆえに、現実の国家としてのイスラエルが、「万倍返しだ!」とばかりに、テロリストから受けた悪に対して、パレスチナのガザの住民を虐殺に至らしめていることは、少なくとも旧約聖書の「律法と預言者」とはなんの関わりもないのである。



復讐が正義とはならないことは、言うまでもないことである。自分が天使になったつもりで、悪人を罰して回っているうちに、ふと鏡を見ると、ケタケタと笑う悪魔の姿が映っており、その顔は、自分が罰してきた犯罪者とまったく同じ顔をしていた…というような寓話は、世界のどの時代、どの場所においてもあるものである。



「人間は、天使でも、獣(けだもの)でもない。

そして、不幸なことには、天使のまねをしようと思うと、獣になってしまう。」

 

パスカル 「パンセ」 中公文庫 前田陽一・由木康 訳



人は、他人が犯す悪についてはよく目につくけれども、もちろん自分だって悪を犯しうる可能性がないわけではない。「神の国」として、神の王としての支配が、この地上に来るというのは、そのような他人の悪を罰するために神が来られるだけではなく、自分自身の悪をも罰するために来られるのであって、誰も自分自身だけを例外化することはできない。



「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ福音書7:1-5)



「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。」(ローマ3:9,10-18)



「そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。」(マタイ福音書18:21-35)



こう言うと、ある人は反論する。「聖書を読むと、キリストだって悪人や偽善者に対して怒っていたじゃないか? パリサイ派や律法学者を公然と批判し、神殿で商売をして、神の賜物を利用して私服を肥やしていた商人を鞭を振るって追い出したじゃないか?(ヨハネ福音書2:13-17)」と。それならば、キリストを信じ、その足跡に従うクリスチャンも、悪に対しては怒り、時には武力をも用いて彼らに毅然と振る舞うべきじゃないか?」と。



しかし、それでは、「人の怒りは神の義をまっとうせず」という聖書の言葉をどう理解するか? よもやよもや、神を信じる者のうちで、自分の感情は神の感情そのものであり、自分の義憤は神の怒りと等しいと豪語できる御仁がいるというのか? いないと思いたいが、そのような御仁がいるとすれば、自分の感情と神の意志とを同一視するような彼の信仰は、最も危険なものであり、その信仰がもたらす帰結が破滅であることが明白であるために、彼から遠ざかることを人々に訴えざるをえないのである。



「愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義を全うするものではないからである。」(ヤコブ1:19-20)



仮に、彼の怒りが、聖書に根拠を持つものだとしても、聖書に沿っていれば怒ってもよいのか? 裁いてもよいのか? 神は生きて働いておられる霊なのであって、神は「死せる文字」には宿らない。「死せる文字」は、死んでいるがゆえに人間の邪心を正当化するために利用されるが、神の言(ロゴス)たるキリストは生きておられるのであるから、何人(なんぴと)にも所有されたり、正当化されたりはしない。神の言(ロゴス)そのものが道となり、また壁となって、驕り高ぶる人間が直面する限界となって、彼を砕くのである。それゆえに、キリストの代理となって、聖書の言葉で人を裁くことは誰にもできない。聖書の言葉を振り回して怒り猛るような御仁の言葉は信用されてはならず、そのような御仁からは遠ざかることが、最も賢明なことである。彼は、自分の怒りに聖書の言葉を引き出すことによって、そのことによって義をたてるのではなく、その身に裁きを引き寄せているのである。



「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。」(第二コリント3:6)



 

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まさに、「この世」の終わりに、キリストが救い主としてではなく、審き主として再び来たりたもう時に、廃棄されるのは、個々の悪人や罪人ではなくて、「この世」そのものであり、人間に悪を行わせる見えない力の支配と共に「この世」そのものが廃棄され、「義のやどる新しい天と地(ヨハネの黙示録21章)」がそれに代わるのである。それゆえに、そのような悪の力を根本的に廃棄できるのはキリストのみであって、人間の力によるのではない。そうであればこそ、我々は「マラナ・タ(主よ、来たりませ」と祈るのであり、そう祈りつつ、再びキリストが来たりたもうまでの間、キリストによって与えられたタラントを増やすべく、個々の悪人や罪人を罰するのではなく、彼らを生かして、彼らを支配する見えない悪の力に抵抗して、悪に対して悪でもって報いず、できるかぎり「この世」の悪を減らし、善を増やして生きるべく召されているのである。



それを忘れて、自分が神になったかのように勘違いし、個々の悪人や罪人を裁き、罰するために、「この世」の悪に、さらに悪を増し加えていると、キリストが来たりたもう時に、我々が裁き罰している悪人らと、その「誘惑者(創世記3:1-7、マタイ福音書4:1-11、ヨハネの黙示録20章)」と共に、我々もまた、共に「この世」もろとも廃棄されることになるのである。



「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。」(マタイ福音書25:31-46)



では、あれこれと述べてきたけれども、結局どっちなのか? キリスト教は、悪に対して抵抗せよと命じているのか? それとも、愛のゆえに忍従せよと命じているのか? キリスト教は、カイザル(この世の悪に直接対峙する政治的権力)に与すべきなのか? それとも、神に与して、悪に対しても耐え忍んで、彼らに自己を与え尽くすべきなのか?



もちろん、悪に対しては抵抗すべきである。むざむざ自分を野獣の餌にして、悪人を増長させ、その悪を肥え太らさせなければならない道理はない。



もとより、聖書は、自衛のための武装を禁じていない。

 

「そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」。」(ルカ福音書22:35-38)



キリストを十字架にはりつけた暗黒の力が支配する「この世」において、キリストが不在の間、我々は自衛のための武装が禁じられているわけではない。今、我々が日本という国で安心して安全に暮らせているのも、武力による庇護のもとにあるということを忘れてはならない。いかにある人が、絶対平和主義を主張しているとしても、彼やその家族が何かしらの犯罪に巻き込まれた場合には、彼とて警察に通報するであろう。しかし、「警察に通報する」ということは、自分が直接武力を行使しないにしても、警察権力を介して間接的に武力を行使しているのであり、それは、あくまでも、法の支配の内にある管理された力であって、暴力ではないにしても、やはり力は力である。もし、この世界が、国家もなく、そのゆえに国防のための軍事力もなければ、治安のための警察権力もないような、漫画「北斗の拳」で描かれるような、世紀末無法状態であったならば、そのような世界の「牧師」は、小脇に聖書を抱えた痩身の男ではなく、キリストから預かった羊である信徒たちの生命と生活を守るため、きっと、映画「コマンドー」のアーノルド・シュワルツェネッガー(古い!)のような出で立ちであろうから。



 



キリスト教が主流の宗教なのにもかかわらず、アメリカ人が銃を大好きなのは、土地が広大であるがゆえに、警察に通報しても到着するまで時間がかかるという事情もあるけれども、自分たちの命と家族と家畜(財産)の安全は自分たちの手で守るというカウボーイ(開拓民)・スピリッツが、その底流にあるのは言うまでもない。他方、「刀狩り・廃刀令」の国である我が日本は、サムライ・スピリッツなるものは絶えて久しくあり、「日本人は水と安全はタダだと思っている…」と、揶揄されるように、安全と安心は、お上(かみ)である政府が勝手になんとかしてくれるものだと思っている。



だからこそ、キリストが再び地上に来たりて「神の国(支配)」を完全に成し遂げるまでの間、カイザル(悪に直接対峙する政治的権力)を廃することはできないのであり、キリスト教徒の教会だけで足れりとして、カイザルなしで済ますことができるように錯覚するのは、地を天とし、天を地として、天と地を混同することである。



「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは、善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。だから、ただ怒りをのがれるためだけではなく、良心のためにも従うべきである。あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者として、もっぱらこの務に携わっているのである。あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果しなさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)



しかし、とはいえ、それと同時に、聖書は、「剣をとる者は、剣にて滅ぶ」とも語ることによって、まるで武力がすべてであるかのように、人が「力」に頼ることを戒めることも忘れない。



「そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。」(マタイ福音書26:47-52)



であればこそ、クリスチャン(キリスト教徒)とその教会は、カイザルに対して果たすべき義務と責任がある。それは、単に、カイザルを支援し、その力の源泉である、納めるべき税を納めるということだけではなく、カイザルの「力」が「この世」の悪を減少させるため「だけ」に用いられ、その力が、逆に悪を増加させる結果となっていないかを監視し、その暴走を食い止めるべく配慮することが命じられているのであり、その責任から逃れることはできないのである。



現実の政治的課題を、神風(?)が吹くの待つように、奇跡をアテにして、カイザルのなすべきことを神に任せてはならず、また、逆に、人を裁く権威を政治権力に委ね、政治権力にあらゆる決定の自由を与えるようにして、神のなすべきことをカイザルになさしめてはならない。カイザルに神の役割を期待することはできないが、逆に、神にカイザルの役割を期待することもしてはならない。まさに、両者を混同せずに、「神のものを神に」帰することによって、逆説的にカイザルの権力の肥大化を防ぎ、その悪ではなく善を増加させるべく抵抗し、カイザルに本来の「使命」をなさしめるべく介入することによって、はじめて「カイザルのものをカイザルに」帰することができるのである。



「さて、人々はパリサイ人やヘロデ党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。彼らはきてイエスに言った、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。イエスは彼らの偽善を見抜いて言われた、「なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せなさい」。彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。」(マルコ福音書12:13-17)



「人に従うよりは、神に従え(使徒言行録5:29)」 まさに、そうすることで、神のものを神に帰することによって、カイザルの本来の「使命」をカイザルに帰することができるのであり、カイザルの未来と栄光のために、人は仕えることができるのである。そのようにせずに、カイザルのものを神に帰して、再臨のキリストによる全面的変革に一切を委ねて、世捨て人として教会や修道院に引きこもることは、その敬虔さににもかかわらず、この世界や社会で苦しむ隣人を放棄することであり、逆説的に、神のものを神に帰することを放棄していることになるのである。また、その逆に、神のものをカイザルに帰して、「もはや、悲しみも、苦しみも、痛みもなく、一切の涙が拭われる理想社会(ヨハネの黙示録)」の実現をカイザルに委ねることは、その現実的必要や要請にもかかわらず、カイザルを誰にもコントロール不可能な「獣」または「怪獣」とすることであり、人々がカイザルに寄せる希望や期待とは裏腹に、その終局は両者の破滅となるのである。カイザルの「使命」は、殺人、暴力、搾取、奴隷化などのような個々の悪の抑制と、それに伴う安全、安心、平和、自由などのような個々の善を増加させ、維持させるための「手段」としてあるのであり、その目的は、あくまで「治安」にあるのであって、それに「のみ」に治められるべきである。カイザルが人間を「善く」し、カイザルが社会を「善く」するわけではない。人間を「善く」し、社会を「善く」することは、神による業(わざ)であって、カイザルの成し得る業ではない。そのことを忘れて、カイザルに人間の内面に干渉することを要請し、人間そのものを向上させるための精神的指導を要請して、人間の思想信条に干渉することを許して、神のごとく人間の善悪を決定して裁く全権を与えることは、カイザルを神として神格化し、カイザルにとっては不当な「神のもの」をカイザルに帰する不法行為のとなるのである。今日、あなたの涙を拭ったカイザルの手は、明日にはあなたの首を斬り落とす手となるであろう。「獣」とそれを拝する者とは禍いである(ヨハネの黙示録13章)。



 

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それゆえに、実際的には、以下のように言うことができる。たとえば、キリスト教が、いかに愛(アガペー)による絶対的包摂を主張しようとも、地は、あくまでも地であって天ではないのだから、この地上の人間社会の性質上、一つの人間の集まりが、あらゆるどんな性質の人間をも包摂するというわけにはいかない。仕事であれば仕事で、礼拝ならば礼拝で、ひとつの目的に従って人は集まっているのだから、そのような目的を阻害し、乱し、進行を遅らせるような人間をも包摂することは、仕事やら礼拝やらの目的の達成が不可能になるだけでなく、集まっている他のメンバーもまた、「結局、俺たちは何のために集まってるんだっけ?」と、目標を見失うことによって、その集まりは自然と解散にいたってしまう。そうであれば、やはり、どうしても、問題のある人に対して、「申し訳ないが、あなたはこの場にふさわしくないので、お引き取り願いたい」と言わざるをえない状況も存在する。そういうわけで、会社であれば、問題のある社員を解雇したり、減給処分にしたりすることはありうるし、そうしてもよい。しかし、それと同時に、どのような性質の人間も、彼を獣のようなものとみなして追い出すのではなく、尊重すべき隣人として、彼が、彼にとって望ましい居場所を得て、人並みに豊かに生活してゆけるよう配慮されるよう、政治的に働きかけてゆかねばならない。



人間は、実に多様であるのであって、この複雑な人間社会の労働に、どうしても適応できない人は、一定数いる。このような人々を自己責任だからと貧困に放置すれば、反社会勢力の犯罪組織が、居場所もなく困窮してゆく彼らを自らの組織の内に取り込んでゆくのであり、そうなれば、仮に福祉に関わる歳出を節約できたとしても、その逆に、セキュリティのために、さらに余分なコストが、個人と社会に乗しかかることになるのである。問題は、「恵まれない人々に救済を!」というような慈善だけの問題だけではなく、「人が、誰であれ、本来受けるべき正当な権利を彼に帰属させる」という福祉だけの問題だけではなく、社会の「公安」に関わる問題でもあるのであって、社会に適応できない者らを見捨てて排除すれば、行き場所をなくした彼らが、獣となって自分たちのもとに返ってくるのであり、そのために、防犯のための莫大なコストがそれぞれの個人や家庭、社会に降りかかるのである。そうして、その際の社会的不安を利用して、人々の人心不安を煽り、社会に相互不信と憎悪の分断をもたらす排外主義勢力が幅を利かせるようになる。その終局は、「力」の崇拝による「怪獣」の独裁と、それによる社会の衰退と破滅である。これら全てによって、我々が支払わされるコストは、福祉に関わるそれの比ではない。



困窮による罪人には、防犯によるセキュリティの強化も必要かもしれないが、それ以上に、貧困問題の解決が先決なのであり、「罰」よりも「癒やし」が先行しなければならない。また、「人生が嫌になった…死刑になりたかった…殺すのは誰でもよかった…」と犯人がつぶやくような自暴自棄による道連れ型の犯罪は、どのようにセキュリティすればよいというのか? 結局、そのような犯罪者を吐き出すような社会状態が問題となるのではないのか? 無論、抑圧のない社会はないし、排除のない社会はない。しかし、そのような社会においても、誰もが犯罪を犯すわけではない。ゆえに、犯罪の原因を犯人の異常な性質やパーソナリティに帰したくもなる。しかし、そうだとしても、やはりそれでも、たえず人間にコンプレックスや劣等感を植え付けてこそ回るような社会の構造が問題なのであって、テレビやスマホに映るのはキラキラとしたセレブの成功者ばかりであり、それ以外の多くの人間も、自分が「負け組」とみなされないために、一生懸命キラキラを演じ、キラキラを演出するばかりで、自分の「弱さ」を人に見せることを恐れている。そうであるがゆえに、ある一定数の人間にとっては、「みんなキラキラしているのに、自分だけは取り残されている…見捨てられている…」という孤独感を一方的に募らせてゆく。そのような人々に、「違う! 君だけじゃないのだ! みんなキラキラなんてしていないのだ! 君は、独りではないのだ!」ということを、彼らが知ることができるように、社会の多くの人が自分の「弱さ」を見せて告白し、たがいに「助けて!」と言いあえるような開放的な「空気」が社会にあって、彼らがそのようなコミュニケーションに接することができていたならば、結末は少しは違ったのではないだろうか?



キリスト教の「教会」を含む、諸種の宗教組織(宗教に限るわけではないが)、の問題に関して言えば、パワハラ・セクハラ・モラハラ等の問題や、暴力や性加害の「疑惑」があれば、その聖職者や教職者は、許されるのではなく、嫌疑が晴れるまで、彼らの教職は停止されるべきだし、被害を訴える人との接触は禁じられなければならない。問題が疑われる教職者を制する上位権力が存在しなければ(または、あったとしても機能していなければ)、警察に通報されるべき案件であれば警察に通報し、そうでなければ、嫌疑が晴れるまで、その教会(または集団)からの脱出が促されなければならない。



「平和主義」もまた、別種の「闘争」である。キング牧師らによるアフリカ系アメリカ人の非暴力非服従による「無抵抗主義」もまた、まったくなんの「力」も行使していなかったわけではなく、ちょうどテレビなどの映像メディアの黎明期において、一方的に迫害を加える行政権力と、それに対して、平和主義的に耐えて行進するアフリカ系アメリカ人たちを映す映像が国内と世界を駆け巡るなかで、一州の行政権力を超えた国際世論の「力」に訴えることができたのであり、当事者たちが、そこまで計算して実行していたかはともかく、結果として、彼らの運動が政治的に事態を打開するきっかけとなったのである。



それゆえに、「平和主義」もまた、様々な力の配分と行方を考えて「闘争(?)」しないといけないのであり、どのような状況においても、無抵抗主義が良い結果をもたらすわけではない。非暴力と無抵抗を貫けば、いつも、どのような状況においても、敵が良心に恥じて暴力を退けてくれるわけではない。人間のなかには、良心をドブに捨ててきたような連中もいるのであって、そのような者らに対しては、非暴力と無抵抗は、かえって獣に餌をくれてやるようなものなのであって、善を増やすどころか、逆に悪を増長させる結果となるのである。



「平和主義」という「闘争」は、なによりもまず、復讐や逆襲による悪の増加に対する「闘争」なのであり、ひとたび銃に対する銃で、核兵器に対する核兵器で、戦争に対する戦争で、暴力に対する暴力で、憎しみに対する憎しみで報いる前列をつくってしまえば、なし崩し的に世界全体が、相互不信による軍拡競争、そして戦争状態に傾くのであり、そうなれば、お互いが破滅によって疲弊するまで止まることはないのである。要は、暴力を用いなくても、相手の決定や行動を、一時的にでも「フリーズ」させることができればよいのであり、そのための「力」の性質が精査され、模索されなければならない。そのうえで、そのような平和主義を有効ならしめるためにも様々な「戦略」があるのであり、いわゆる「左翼オジサン」たちが、いつでもどこでも「デモ」を計画するけれども、欧米のようなデモンストレーションの社会的伝統とその地盤が希薄な日本社会で、はたして「デモ」が有効なのかどうかは疑問である。「デモ」に限らず、日本人の感性と社会的地盤において有効な「戦略」が模索されるべきであり、SNSをも含めて様々に交差する「力」の影響力とその配分から、新しい「抵抗」と「闘争」のスタイルが企画されなければならない。とはいえ、そのためにも、いざというときには暴走した「力」をフリーズさせることができるために、そのような力の暴走を許さないような平和主義的な道徳や倫理の規範と、それによる社会の「空気」の厚みをあらかじめ社会に醸成しておくことが必要なのであって、ある「力」が暴走した場合、それをたじろがせるほどの、平和を求める世論による「民衆の力」が常にあるかがどうかが問題である。しかし、そのような道徳的規範の「力」の厚みを醸成するためにも、宗教や倫理についてのコミュニケーションや議論が普段の日常から不可欠なのであり、そのようなものもなく、得か損か、強いか弱いか、勝ちか負けかの結果がすべてを支配するコミュニケーションにおいては、いずれ、そのようなコミュニケーションによる野放図な「力」の礼賛によって、暴走した「力」の勝ち馬に乗って勝利の分け前にあずかろうとする輩の増加を止められないばかりでなく、武力に対して武力で、暴力に対して暴力で応じることによって、「殺れー!殺っちまえー!ぶっ殺せー!」と、人々の間にもはや架橋不可能な壁と溝を打ち立てて、その心に修復不可能な傷を残すことになるのである。

 

 

たとえば、日本においては、「右」と「左」の政治的対立を止揚する決定的なモーメントとして、やはり「天皇」の存在があるのであり、日本のクリスチャンがアレルギー的に嫌悪する戦前の「現人神(あらひとがみ)」としての国家元首天皇とは異なり、戦後の昭和天皇から平成の天皇(現上皇)による「国民統合の象徴」としての天皇の在り方が模索されるなかで、戦前と戦中による日本の過ちと、戦後の日本の平和主義を体現しつつ、国民に寄り添う「天皇」像が構築されてきたのであって、日本において象徴天皇は、リベラルにおいても保守においても崇敬され、両者の壁を越えて対話・接続可能な社会的地盤となっている。



日本のクリスチャンの多くは知らないけれども、先代の天皇であった明仁上皇の家庭教師はクエーカー教徒のクリスチャンだったのであり、先代の皇后であった美智子上皇后の実家はカトリックで、結婚するまでキリスト教系の学校で教育を受けてこられたのである。震災による被災地に天皇が訪れた際、まるでキリストが跪いて弟子たちの足を洗うように、天皇が体育館の冷たい床に跪いて、被災した国民と目線を合わせて柔和に語りかけられたのは、美智子皇后の影響だといわれている。もちろん、天皇は国民の象徴なので、自分が信じる宗教を選べない。生まれたときから、皇室神道の祭司となるべく定められている。キリスト教からすれば、まぎれもない偶像崇拝である。しかし、その人となりは、クリスチャンよりもクリスチャンらしい。そうした天皇としての在り方を、令和の現在の天皇も引き継ごうとしておられるのである。



日本のクリスチャンは、このことを知ってか知らずか、安易に「天皇制廃止」を叫ぶけれども、天皇制を廃したところで、日本でキリスト教徒が増えるわけではないし、日本人に自律した近代的自我が芽生えるわけではない。むしろ、日本人の霊性の地盤が失われることによって、余計に即物的なアトム化(利己的個人主義化)に拍車がかかることになる。日本にキリスト教が根付かないのは、日本のクリスチャンがだらしないだけであって、日本に天皇制が存在するからではない。日本の過去の過ちをその一身に引き受けられ、その人格と行いにおいてリベラルな価値を体現し続けておられる天皇に凝縮している歴史の重みを廃して、日本の歴史と伝統とも国民との繋がりとも切り離されたぽっと出のクリスチャンを、それがどれだけ偉大な人物であれ、「教皇」のようなものとして天皇の位置にすげ替えたところで、日本にキリスト教は根付かず、誰もキリスト教徒にはならず、何も善きものをもたらさぬまま、今ある善きものをすら水に流してしまうことになるのである。神の愛(アガペー)の名の下に日本を愛し、日本人を愛しているのならば、日本人の大切にしている「善きもの」を大切にすることは当然である。日本人の歴史であり、日本人がたがいのポジションの壁を越えて対話と共存が可能な「場」であり、誰彼の差別なく日本人のひとりひとりの平安を祈り、その絆であろうと努めておられる天皇を廃そうとすることは、あまりにも乱暴であり、かつての過激な宣教師に扇動されたキリシタンが、民衆の霊性の地盤である神社仏閣を焼き払おうとした暴挙と同じく暴論である。



実際の肉体が生活している「大地」であれ、民衆の心の拠り所となっている精神的「大地」であれ、そのような、その民衆が根を下ろしている生活の場である「大地」を奪い、破壊し、切り崩し、私物化することは、まさにそれこそ植民地支配であり、侵略であり、暴虐のなかの最たるものである。日本人の絆とコミュニケーションの基底となっており、分断の際には和解の絆ともなりえる精神的な大地と伝統を切り崩すことは、日本も日本人をも愛していないことを示している。



もちろん、戦前と戦中のように、天皇を「現人神(あらひとがみ)」として神格化し、天皇を、明治の大日本帝国憲法にあるような国家元首として担ぎ上げようとする動きに対しては、徹底的に反対し、抵抗しなければならない。したがって、「闘争」の焦点は、天皇制を残すか廃するかにあるのではなく、そのような天皇の国民との親和性に目をつけて、天皇を利用して国民を都合よくコントロールするために、天皇を戦前の国家元首の地位に戻そうとする、戦前回帰の「極右」との闘争でなければならない。それは、リベラルか保守かの対立ではなく、一方では過激なクリスチャンが天皇制廃止を主張するのと同じく、天皇制を戦前に回帰させることを目論む極右の主張もまた、日本人がそれぞれの壁を越えて相まみえ、和解へと至りうる共通の「場」である天皇を廃し、天皇を私物化して自分たちに都合のよい存在に仕立て上げようとする勢力であり、そのような勢力に意のままにされることがないように抵抗しなければならない。天皇ご自身がそう望まれているように、一部の政治家や知識人たちの虚栄心やプライド、偏見や野望の玩弄物たることから天皇を守り、天皇を民衆のもとに送り返さなければならない。日本人のために、日本人と共に歩もうとするならば、日本の過去の過ちを一身に引き受けられ、日本人ひとりひとりの平安を祈られ、その苦難に共にしようと努めておられる、国民統合の「象徴」としての天皇とも共に歩まなければならない。



またまた、例のごとく、いつものように、話しが右に左にとずいぶん遠回りしてしまったけれども、最後に、冒頭に紹介した映画(ウーマン・トーキング)の話しに戻ろう。



映画において、女性たちは選挙を行う。男たちを許すか、出ていくか、戦うか、それぞれ賛成する立場に票を入れてくれ…と。



結果を言うと、女性たちは「脱出」を選ぶ。もちろん、すべての女性が出ていくのではない。コミュニティに残る選択をする女性もいれば、徹底抗戦を主張する女性もいる。しかし、抗戦派の女性は、話し合いの末に、最終的には皆と共に脱出することを選ぶ。こうして、大半の女性たちは、大半の男たちをコミュニティに残して(男たちの男尊女卑の文化に染まっていない十歳以下の男の子たちは連れてゆく)、コミュニティを脱出する。



私が、この映画のことを知ったのは、ある映画評論YouTuberのレビューを見たのがきっかけであった。おそらく、多くの日本人が、この映画の初見に抱く感想がそうであろうように、その配信者も、この映画を、どちかかというと、キリスト教という宗教にたいする批判的な意図でつくられたものだと考えているようであった。その動画のコメント欄には、ある人が自身をクリスチャン(キリスト教徒)であると紹介したうえで、「それでも、私はこの映画を観たほうがよいでしょうか…?」と怖ず怖ずとコメントしているのに対して、その配信者は、「すべてのキリスト教と、その信者の方を否定する映画ではありませんが、それでも信者の方は、この映画を観るとショックを受けるかもしれませんね」と返事を返していた。



そこで、私は、どれだけ辛辣な映画なのだろうと思って、この映画を観てみた。そうすると、私の観方では、この映画は、キリスト教を批判する映画であるどころか、まさにキリスト教「そのもの」をポジティブに表現している映画であると思えた。



まず、第一に、コミュニティを脱出する女性たちは、決して信仰を捨てたわけではない。女性たちは、聖歌と祈りでもって話しあいを始め、話しあいのなかで、聖書の言葉を含むコミュニティの信仰の言葉を精査しつつ、「許しは、時には悪にたいする許可をも意味してしまう…」として、脱出すべき理由を紡いでゆく。話しあいの途中で体調を崩す者がいれば、皆が手をおいて癒やしの祈りを唱える。



たしかに、キリスト教は、多くの場所や、多くの歴史において、抑圧者の宗教であったかもしれない。しかし、そのなかで抑圧されてきた者たちは、抑圧者の宗教の「言(ロゴス)」から、逆に自分たちの解放の言葉をも紡いできたのであって、アメリカ人がこの映画を観たときに想起するのは、まず旧約聖書出エジプトに描かれるような、エジプトの圧政から「脱出」するユダヤ人たちの歴史であり、1世紀のユダヤ教教団主流派の形骸化した偽善的な信仰から「脱出」する、ナザレのイエスをキリスト(メシア)として信じる初期のキリスト教会であり、腐敗したカトリックから「脱出」するプロテスタント宗教改革であり、英国国教会の迫害から信仰の自由を求めて「脱出」してきたピルグリム・ファーザーズ(アメリカに渡ってきたピューリタン)であり、人種差別から「脱出」して、公民権運動として新しい政治的領野を切り拓こうとするアフリカ系アメリカ人の「歴史」であろうと思う。まさに、それをあらわすかのように、コミュニティから脱出する女性たちが集まり、馬車が列をなして出発しようとする瞬間を映す映像は、そのアングルやカメラの動かし方まで含めて、映画の「十戒」や、ディズニーの映画「プリンス・オブ・エジプト」のユダヤ人脱出のシーンを彷彿させるものとなっている。



すなわち、この映画は、あるキリスト教の抑圧的で閉鎖的なコミュニティから脱出しようとする女性たちの話しあいというミクロな出来事を通して、マクロなキリスト教の「歴史」そのものを表現しようとするものであり、差別されてきた有色人種の「脱出」から、同じく差別されてきた性的少数者の「脱出」を経て、現在においても抑圧され、時には差別の中にある、あらゆる女性たちに対して、「さあ、次は、あなた方の番ですよ…」と、その「脱出」を促すものなのだ。



こうして、映画は終わるわけだけれども、しかし、すっきりとしたハッピーエンドだけで終わるわけではない。女性たちのうち、徹底抗戦派だったサロメという女性が、コミュニティを去る際に、どうしても残してゆくことのできない十代半ばの息子に共に行くこと求めるのだけれど、それを拒絶する息子に対して、自分たちがレイプされる際に用いられた馬用の麻酔薬を吹きかけて眠らせることによって、強制的に連れてゆこうとする。こうして、たとえ善き目的のためであれ、目的が正しければ、他者の意志に反して強権的に自分の目的を遂行しようとする「悪しき」手段を用いることは、本当に正しいのか? という問いを残しつつ、一抹の暗雲を漂わせながら、映画は終わる。

 

 

14歳からの現代哲学〜ルッキズムについて。その社会的地盤〜

君は今年で14歳になる。ちょうど子供から大人への過渡期にあたる時期で、日々変化する体にとまどうこともあるだろうし、自分が他人からどのように見られているか、自分はどのような存在かが気になりはじめる時期でもあるだろう。



君は、友達のあいだで話題にされる芸能人のアイドルや、SNS上のインフルエンサーと自分を比べて、劣等感やコンプレックスを感じたりすることもあるだろう。また、友達や同級生が、君をスクールカーストにランク付けして話題のネタにしていることを知って、深く心が傷つくこともあるだろう。



人は、社会によって生(活)かされもすれば、殺されもする。君も、友達によって希望を与えられることもあれば、友達によって絶望を与えられることもあるだろう。



現代哲学は、このような個人と社会との間の葛藤を主題とする。近代哲学では、社会というものは、まだ善なるものとして前提されていた。人は独りでは生きられず、必ず社会を形成し、社会のなかで生きる。人は独りでは無力だが、子供じみた自己中心性を捨て、倫理と社会性を身につけて共同体に属することによって自分の居場所をもち、国家という巨大な社会的身体を形成することによって安全を得て、その巨大な生産力で自然に働きかけることによって膨大な生産物を獲得し、精神的にも物質的にも充実して豊かに生きることができる。



誰かに認められ、誰かに必要とされて、自分の責任を全うすることで、豊かに幸せに生きることが人間の理想であることは変わりがない。しかし、そのような善きものであるはずの社会が最凶の悪を行うことがある。現代哲学は、そのような近代において理想化された社会で引き起こされた2度の世界大戦、そして、個人の自由や幸福を抹消する全体主義、科学者による優生主義、ナチスによるホロコーストユダヤ人虐殺)への反省から生まれた。



話しが大きくなりすぎたかな? 君の話しに戻ろう。君は自分自身が好きになれないようだ。君が一重まぶただからだろうか? 君が少しふくよかな体をしているからだろうか? 身長がみんなより少し低いだからだろうか? または、君が自分自身のセンスが「ダサい」と思っているからだろうか? または、勉強がうまくできなくて成績が悪く、何もかもが平凡で、友達やクラスメイトから一目置かれるような美点がないからだろうか?



もちろん、昔からどんな時代、どんな社会においても美醜の概念はあった。「美人」として噂される人はいつの時代もいたし、様々な能力において「優れている」、または「劣っている」と評価されるような事柄は存在した。しかし、そこには多様な「美しさ」や、「優秀さ」が存在したのであって、現代のような、誰もが比較してそこにコンプレックスを感じるような画一化された価値が存在したわけではない。



考えてもみれば、「あばたもえくぼ」という言葉があるように、美しいから好きになるというよりも、好きになったからこそ、客観的には様々な欠点も含めて可愛らしく、美しく見えるということもあるのではないか? どれだけ顔や体が整っている美人だとしても、いつも不機嫌で、不満に顔を歪めながら、言葉や態度で毒を吐くようなお人とは、誰もお近づきになりたがらないように、逆に、顔かたちのどこかが崩れているとしても、自信に満ち溢れていて、いつも笑顔で、言葉や態度が柔らかい朗らかな人とは、いつまでも一緒にいたくなるのではないか?



美女と野獣(!?)」と言われるように、「なんで、あんなのと付き合ってるの? あんたのレベルなら、もっと釣り合いのとれる相手がいるでしょう?」と噂されるようなカップルがいるものだけれども、美しさも魅力も多様であって、客観的には「野獣」に見えていても、付き合っている者同士の間では、高貴な王子様(またはお姫様)に見えているのだろう。それは、付き合っている者同士の間でしか知り得ないものだ。

   

 

「だから…」と、私たちオジサンは、お説教を垂れたくなる。「コンプレックスなんて気にする必要ないよ! 君には、まだ君自身もわかっていない魅力があるんだから。だから、下を向いてウジウジと縮こまっていたら、誰も君を見てくれないよ。もっと、顔を上げて、自信をもって前に出てみよう。誰にでも笑顔を絶やさず、やさしい言葉と態度で人に接していれば、君の心の美しさに惹かれて、人が集まってくるよ!」と。



しかし、君にとっては、そんなことが問題ではないのだろう。周りの人間が実際どう思っているかが問題ではなく、君が君自身を受け入れられないのであり、鏡のなかの君が変わらない限り、君は自身を肯定できないのだろう。たとえ、私たちオジサンが君の魅力を数え上げても、それは本音ではなく建前で、同情からくる気休めとしか思えないのだろう。



では、何が君のなかで、君がそのように自分を肯定することを妨げるのだろう? これは、単に君自身の心の持ち様の問題ではなく、君が生きているこの社会と世界全体に関わる問題だ。



1960年代、ベトナム戦争への反戦運動を起点として、全世界に広がった学生運動などによって、若者たちによる旧世代や旧体制への異議申し立てが叫ばれると共に、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンが、彼らによって掲げられた。それは、個人の「生きづらさ」の問題を、個人の問題としてではなく、社会全体の構造の問題として考えようという試みであった。社会の構造の問題を、個人の性格の問題や道徳性の問題、心の持ち様の問題に矮小化して、旧体制の既得権とアイデンティティに安住したまま、変化を受け入れることを拒む「大人たち」への抗議(プロテスト)として、若者たちや女性たち、また様々なマイノリティたちによって主張された。



「いつも何か不安だ…」「とにかく、何をするにしても窮屈で、自由に生きている実感がない…」「自分がどうしても好きになれず、自分らしく生きている感じがしない…」「いつもイライラして心が不安定だ…」「生きているという実感に乏しく、とにかく生きづらい…」 このような、個人の実存的な問題を、個人の心の持ち様の問題、宗教的な罪の問題、身体的または精神的な病の問題、発達の遅れや進み方の問題として、既存の社会のほうを不動の実体としたまま、そのなかで生きる個人を、医学や精神医学、カウンセラー、聖職者で囲いこんで、「治療」という名のもとに、実質的には「矯正」というカタチで、社会の枠組みに個人を押し込める介入が行われた。



働けない男は異常であり病気。夫と子供たちを愛することができず、家庭に馴染めない女は異常であり病気。同性愛者ももちろん病気。社会の「普通」に適応できない者らも、何らかの精神的な病として病気。常に悪いのは、既存の社会システムや常識などではなく、そこに適応できずにはみ出してゆく「個人」であって、そのような個人を「病人」や「障害者」として、医学や精神医学の知と技術を用いて、外科手術または薬漬けにすることによって、なんとか社会に適応させなければならない、と。社会は常に変わらない、変えられない、変わる必要がない、だから、個人のほうが変わればよい…と。



もちろん、多くの人々の生活は常に逼迫しているのであり、社会が変わることを待っているような余裕はないのだから、適応できてもできなくても、人は社会で生きてゆかねばならない。そのため、応急的にカウンセリングを受けたり、医学的な治療を受けたり、薬の処方を受けたりすることは、当然ありうるし、そうすべきである。しかし、そうだとしても、最終的に問われなければならないのは、ある一定の人間類型を排除(そして治療という名のもとの矯正による包摂)することによって、同質的な社会を維持し、回転させている、この社会の構造と力を問題としなければならない。



医者や精神科医、カウンセラーや聖職者として社会に従事する人間、またそのような仕事を志す人々の、「苦しんでいる人々に寄り添いたい…」という志は、まことに立派なものだけれども、それと同時に、自分たちが誰に、どのような目的で、どのような力に仕えさせられているのかをも問わねばならない。苦しんでいる人々の「癒し」と「治療」が目的なのか? それとも、社会の秩序を維持するために、社会の枠組みからはみ出してゆく人間たちを「大人しく」させるための「調教」と「矯正」という「管理」の役割が割り当てられているのか? もちろん、彼らの仕事の「公共性」には、その両面が割り当てられているのであり、そのことによって、彼らはこの社会のなかで立場を得て報酬を得ているのである。



しかし、社会で苦しむ人々の「癒し」や「治療」だけでなく「解放」をも目的とするならば、彼らの「個人性」に視線を集中するのではなくて、そのような人々を吐き出す社会の構造の問題と、その狭さをも問題としなければならない。なぜ、我々の社会は、あるパターンの人間の言葉や振る舞い、体型、性、思考を「異常」として吐き出そうとするのか? そもそも、この社会において、なぜ我々はこれほどまでに健康を維持し、健康を追い求めるべく迫られているのか? そして、なぜ、かくも我々は精神的にも健康で、現実に対して一切の不安や不満を持たないような「リア充」たることが理想とされているのか? 人類の歴史において、優れた宗教性や芸術性は、現実では満たされない人間の不安や不満や絶望の感情に、その爆発力を得ているのではなかったのか? そうであるとすれば、この社会が「健康」という名のもとに人間に求めていることは、現実に対して、一切の不安や不満を持たず、何も考えず、何も憂えず、何も思い煩うこともなく、ただ社会という機械を間断なく回すために回転し続ける「歯車」であるということではないのか? チャップリンの映画「モダンタイムス」において、チャップリン演じる主人公の工場労働者が、無心になってがむしゃらに機械をまわしているうちに、しまいには自分が機械の一部となり、機械そのものになってゆくように、そのような「歯車」が、歯車を  回すこと以外に、余計なことを考えて、不安や不満で思い煩っていては、歯車のかみ合わせがガタついて、社会という機械全体の運行に支障を来たすというわけだ。それゆえに、医者、精神科医、カウンセラー、聖職者らは、常に「歯車」をメンテナンスすることによって、歯車のガタつきをなおし、常に社会がスムーズに回るようにしなくてはならない、と。



社会が、そのなかで生きる個人に対し、彼らが常に健康で、幸福であり、何も思い煩うことなく充実して生きることを求めていることは本当であろう。しかし、そこで求められていることは、あくまでも「歯車」としての健康であり、幸福であり、充実であって、たしかに不安も不満もないが、同時に何も生み出さず、何も変えず、何も創造することもなく、いつもニコニコとしてハッピーに社会を回し続けるだけの機械であるということだけである。



極論を言えば、そのような、心身共に健康で、不安や不満もなく、何も思い煩うことのない幸福な人間を「人工的(?)」につくりだすことは可能であろう。犬や猫を去勢して大人しくさせるように、人間の脳の一部に加工を加えれば、仏教でいうところのニルヴァーナの境地や、キリスト教でいうところの神との神秘的合一の感情を「科学的(?)」に人間にもたらすことは可能ではあろう。また、過去に、民衆の不満が社会の支配階級に向かないように、現実の悲惨による痛みを民衆から忘れさせるため、「阿片としての宗教(カール・マルクス)」が、民衆にあてがわれたように、現代においても、貧困層や抑圧された階級の人々の不満が現実社会に向かないように、彼らにはバーチャルな生活空間(「陰キャのオタクにはアニメとゲームだけを与えとけ!」)による幸福や充実があてがわれることによって、「リアル」な幸福や充実は、支配階級の富裕層が思う存分に独占する、ということもありうるかもしれない。しかし、そのように、人工的に生産され、誰かにあてがわれた「充実」が、果たして本当に人間の「幸福」であろうか?



人間にとっての「救い」とは、単に、ある感情の状態や、欲望が存在しない状態を意味するのではない。ヘーゲルの哲学が示すように、人間の「救い」とは「歴史性」であって、「何から何へ」といった具合に、比較や移行を含む動的なものである。「過去の私は、感情のまま欲望のままに振る舞い、ひどい言葉や態度で多くの人を傷つけた。しかし、それは間違っていた。今後、私は決してそのような在り方をすまい…」と、悪とその罪の存在を前提としたうえで、それを「否定(アンチテーゼ)」することによって、新しい自己を「肯定(ジンテーゼ)」するという弁証法的なものである。その際、過去は否定されるのではあるが、しかし、なくなるのではなく、次の段階へと飛翔するためのバネであり、また、土台として、「歴史(自分史)」の地層に刻まれてゆくのである。



犬や猫を去勢するように、人間の脳の一部に加工を加えることによって、様々な宗教でいうところの、無我や無欲の状態を科学的につくりあげることは可能であろうが、そのような状態の人間は、たしかに悪を意欲するとはないかもしれないが、同時に、善を意欲することもまた、ないのである。それは、魂の抜けたロボットのようなものに人間を変えてしまうことである。高い所から堕ちたボールほど、バウンドした際には、より高く打ち上がるのであり、落下の距離がなければ、飛翔する力もまたないのである。



犬や猫を含む動物たちは「歴史」を持たない。彼らは「瞬間」を生きている。人間は、過去を顧み、後悔し、未来の可能性に今の自分を投げる「歴史(自分史)」を持つ。それゆえに、動物たちは「幸福」という概念も「充実」という概念ももたないが、人間はそれらをもつ。そうであれば、彼ら(犬や猫の動物)が人間と共に生きるうえで、彼らをそのつどの瞬間ごとに突き上げる衝動のうめきから、去勢によって彼らを解放することは、人間の独善による動物虐待とは、必ずしも言えない。実際、「さかり」による衝動に常に突き上げられることによって、落ち着きもなく、苦しそうにうめいている彼らに、そのうえ、彼らがペット化して、もはや野生では生きられず、人間社会で人間と共にしか生きることしかできないのに、繁殖の機会をあてがってやることすらできないとすれば、去勢によって彼らを苦しみから解放させてあげることは、彼らのためにありうることだと思う。去勢するかしないか、どちらが彼らにとって幸福かは、人間の主観でしかないが、去勢によって、彼らが楽そうになることは事実である。しかし、それは、動物たちの「幸福」のためというよりも、人間の都合のために、その生態を改変させられてきた、動物たちに対する人間の責任のためである。同じような理屈で、食肉用の家畜として飼育される動物たちが、できるだけ苦しみや痛みを感じないように配慮することは人間の責任である。



しかし、犬や猫にとってはそうであっても、人間にとってはそうではない。人間は、そのような動物たちとは違って、そのつどの瞬間の感情や欲望の状態を生きているのではない。人間は「歴史(自分史)」を生きているのであって、未来の可能性に開かれたその全体のなかには、過去の過ちとその罪や、現在の欲望と感情などが、複雑にからみあいながら編み上げられているのであって、人間の幸福や充実にとっては、そのような過去の罪や、現在の欲望や感情などが、消え去っているのではなく、土台としてしっかり残っていて、全体を支えている。人間にとっての人生とは、一枚の絵画のようなものであり、それは明るい色だけで成り立つものではなく、暗い色も含めた全体のコントラストでもって、ひとつの「芸術作品」として完成する。



私たちは、好きな異性を暴力的に蹂躙して自分の意のままにしたいとか、ムカつく奴をぶん殴り、憎い奴を殺してしまいたいとか、そのような感情や欲望が自分の内にわき上がってくるからといって、その感情や欲望のままに実行したりはしない。もちろん、そこには、そのように勝手に振る舞うことによって、後に被ることになる制裁のリスクやコストを計算して自制するという「計算高さ」もあろうが、何より、自分が憧れて尊敬する人間像に照らして、「そんなことは、やっぱり間違っている…」と、感情や欲望の奴隷になっている自分自身を尊敬できず、認めることができないというような「良心」による自己統治によっても生きている。



「感情や欲望のままに振る舞いたい!」という欲求に対し、「自分が、自分にとって尊敬に値する美しい人間でありたい!」という、さらに高階の欲求が乗り上げるというかたちで、人間の人格はかたちづくられている。しかし、だからといって下階の欲求が消え去ったというわけではなく、仏教の「無我」キリスト教の「罪の浄化」の境地も、文字どうり人間の様々な感情や欲望が消え去っているというのではなく、そのような感情や欲望の存在を前提としたうえで、より高度な高階の欲求が、上に上にと折り重なることによって、多層的に形成された人格の「歴史(自分史)」を生きている。「かつての私は〇〇であった。しかし、今の私は…」と、ひとつの「物語」として、人間の幸福や救済が語られるのであって、現在の一時点の人格の状態でもって人間の人生と、その幸福を語ることはできない。いかなる聖人や偉人も、下卑な感情や欲望がまったく消え去っているというわけではなく、より高階の欲求によって形成された「歴史」の地層として、彼らの人格の全体が「浄化」されているのである。



人間の「救済」について語る「聖書」が、哲学書思想書ではなく、歴史的な物語として語られていることは、決して偶然ではない。人間の救済について語られているのに、その登場人物はデタラメな人間しかいないと、よく笑い話として語られるけれども、それは、天の前での地、神の国を前にした現世、神の前に対峙した罪人の物語であって、聖書が、天の高みから一方的に語られる「救い主イエス様のありがたいお言葉集」だけであったならば、キリスト教の歴史はなかったのである。聖書は、それが書かれた当時の権威であり、指導者であったキリストの使徒たちの失態を隠さないばかりか、聖書が神のひとり子、世を救う救世主とし証(あかし)するイエス・キリストが口にする弱音(マルコ福音書14:34-36)や、十字架上で口にする神への抗議や絶望の言葉(マタイ福音書27:46)すら包み隠したりはしない。



それは、聖書が、「高みから低みへ」と降るものだけではなく、「低みから高みへ」と昇る歴史的過程をも記述しているからであって、その目的は、罪から義へ、死から新しい生への「復活」として、低みにあるものをすくい上げることにあるからである。「高み」から放たれる学者たちの神学理論よりも、遠藤周作三浦綾子トルストイドストエフスキーなどのような、「低み」に生きる世俗の作家たちのキリスト教文学のほうが、大衆の心を掴むのも、決して偶然ではない。そして、アウグスティヌスの「告白」や、内村鑑三の「余は如何にしてキリスト信徒となりし乎」に語られているように、人間の救済について語られる書物が、自伝的告白のかたちをとるのも、偶然ではない。抽象的な神学理論は、ただ言葉の羅列にすぎないが、苦悩のなかでキリストを発見し、悔い改めつつキリストに従って歩む、ひとりの人間の現実の歴史のドキュメントのほうが、理論以上に、キリストによる神の「救い」の力を証する。



「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである。」 (ローマ11:32)



「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」 (ローマ5:20)



こうして、人間にとっての「救済」が、その罪と悪を含めた人生の全体によって語られるように、人間の幸福や充実もまた、ひとりの人間の人生の「歴史」の全体でもって語られなければならない。人間の幸福を、一切の波風がたたないような、体や心のある一定の状態とみなし、犬や猫を去勢させるように人間を落ちつかせて、「大人しく」させることでもって、それぞれの個人に「幸福」をあてがう、善意(?)に満ちた社会の下心は、単に、社会をスムーズに回すための従順な歯車として、個人を再生産することにあるのではないのか?



人間の幸福を、「歴史」ではなく「状態」とみなすことで、この社会が個人にあてがう幸福の目的は、あくまで「去勢」にあるのであって、それは、それぞれの個人が、苦悩のなかから社会の新しいのオルタナティブを描き出し、創造する可能性を、この社会は恐れているということではないか? それは、たしかに痛みからも悩みからも解放されたハッピーな人間を、社会は提供してくれるかもしれないが、しかし、それは、それぞれの個人のためではなく、既存の古い同質的な社会を摩擦なくスムーズに回転させるための、機械としての幸福であるにすぎないのではないか?



最近、よく聞く「反出生主義(どうせ不幸になることがわかりきっているのに、どうして子供を産むのか?)」についても言えることは、どうして人間に不幸があってはいけないのか? どうして悲しみで涙を流すことがあってはいけないのか? どうして苦悩がないことが「幸福」だと言えるのか? 「不幸な子供が産まれないために、胎児に障害や病気の因子が確認されれば産むべきではない」だって? なぜ、彼らの幸福を勝手に判断するのか? もちろん、産む選択は両親に委ねられるべきであり、外野が無責任なことを要求することはできない。そして、仮に産まれたとしても、その子が自分の境遇に思い悩み、自分の存在を不幸だと感じることは、十分にありえる。しかし、そうだとしても、なぜ、普通の人のように、普通に働き、普通に結婚して、普通に家庭を成すことができなければ幸福ではないと言えるのか? 彼らが、そのような境遇を糧にして、我々が思いもよらないような幸福の概念を発明しうる可能性がないと、どうして言えるのか? そうした、反出生主義者もまた、当事者とは無関係な外野で、自分の狭い幸福観に万人を当てはめて、人を裁いているにすぎないのではないか? そして、そのような反出生主義者の幸福観の根源には、「障害や病気を抱えた人間を受け入れるために、社会は変われない、変わらない、変わりたくない、だから最初から産まれないようにしよう」という、あらゆる変化を拒み、同質的な社会を回転させること「のみ」を欲する、この社会の集合的な意志があるのではないか? 産まれてくる子供たちの「物語」は、両親の「物語」とは違う物語であり、現在を生きる我々とは違う「物語」である。



健康と病気、普通と変なもの、正常と異常との境界線は何で、何がそれを決めるのか? 医者や精神科医、カウンセラーや聖職者は、彼らが治療の対象とする患者たちと共に、このようなことも考えないといけないのだが、それは彼らにとって、社会のなかで自分たちが拠って立つ足元の権力の「場」を問うことであり、彼らが患者を見る視線そのものを問うことであり、メタ的に自分たちの使命を問い直すことにある。いったい、苦しむ人々の「解放」を目的とするならば、社会を「是」としたうえで、個人に「病い」を診ているだけでよいのか? むしろ、異常であり、病んでいるのは、この社会のほうではないのか?



先ほどの、1960年代から始まった「個人的なことは政治的なこと」というスローガンが、「働けない(または働かない)男」「家庭と子育てに馴染めない女」「生産性がない(?)とされた同性愛者」などに関わっていることに見られるように、そこでは、主に工場労働などに代表されるような「生産」を中心とした、資本主義的「近代家族」からの個人の「解放」を目的としていた。

 

 

このような「生産」を中心とした資本主義社会に対して、「ルッキズム」は、「消費」を中心とした資本主義社会の問題に関わる。



まず、私たちが生きている社会は、資本主義の社会であり、需要と供給によって成り立っている社会だ。それは、つまり、誰かが必要とし、欲しいと思っているもの(需要)を、他の誰かが仕事として生産し、そのように生産された商品やサービスを社会に供給することによって、生産者は金銭的な利益を得て、そのような利益の一部から、また必要なものを購入し、労働者を雇い、それを生産に充てることで、さらに多くの多様な財やサービスを社会に供給して、その必要を満たすことで、社会をより豊かに、そして便利にしてゆく社会のことだ。



しかし、生産といっても、産業革命以降、工業機械の発展によって、膨大な量の商品を短時間に生産できるようになると、どのような精巧な商品も、安価になってすべての人々へとゆきわたることができるようになる。こうして、当初は希少で高価だったテレビ、冷蔵庫、洗濯機や自動車などが、あらゆる個人や家庭が所有できるようになる。



では、それらのような商品が万人にゆきわたったならば、生産をやめるべきだろうか? 修理や買い替え需要に応えられる技術者だけを残して、他の労働者はすべて解雇して、また新しい商品やサービスの生産を担える技術者や労働者に入れ替えるべきだろうか?



もちろん、労働者にも生活がある。必要なくなったからといって、そのつどクビにされていては、社会に失業者が溢れて、貧困が進み、生産された商品を買う者が減って、逆説的に、労働者のクビを切った会社自身の利益が減ることによって、経営が立ち行かなくなる。



そこで、そのようなテレビ、冷蔵庫、洗濯機や自動車などを、すでに万人が所有している状態だとしても、そのうえで、企業はそれらの「新商品」を生産して、売り続けていかなければならない。そこで、ひとつの可能性としては、従来の商品をより効率化、小型化、軽量化、多機能化して、既製品との差別化を図ることがある。他方では、機能としては、過去の既製品と大して差はないとしても、雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットなどのメディアの広告によるマーケティングを利用して、デザインやブランドイメージという「記号」による差異化によって、商品を販売するということがある。



すなわち、後者について言えば、それは、たとえば自動車についてわかりやすいように、自動車としての機能は、既製品として大して変わらないとしても、あるメーカーの、あるブランドの、あるデザインの自動車を所有し、それを乗りまわすことは、「クールでカッコイイですよ!」というわけだ。この場合、「消費」されているのは、遠くの場所へ短時間で走れるという自動車の「機能」ではなく、あるブランドの、ある流行の車を所有して乗りまわすという「オシャレな自分」、「クールな自分」、「パンピー一般ピープル)とは違うハイクラスな自分」という「社会的ステイタス」を消費しているのであり、他者の注目を集め、他者から一目置かれるような、他とは際立った自己をあらわす「記号」を消費しているのである。



私自身は、車に乗らない人間であり、世代的には就職氷河期の最後の世代であるため、バブル時代の車についてはまったく疎いのだけれども、かつては、年功序列で生活水準が年功と共に上がるのに合わせて、自家用車を「カローラ」→「コロナ」→「マークII」→「クラウン」と出世魚のように買い替えるパターンがあったらしい。その際のキャッチコピーが、「いつかはクラウン」というものであった。



すなわち、ここで「消費」されているのは、車の機能ではなくて、「社会的ステイタス」であり、古い車がまだ十分使えるにもかかわらず、いつまでも同じ車に乗っていては「みっともない」のであって、出世して「デキる男」になったならば、デキる男にふさわしいハイクラスな車に乗って、自分の社会的階級と優秀さを表現しないといけないのである。そのために、いかにもデキそうな男を演じる俳優たちが車を運車するコマーシャルを流して、「あなたも、いつかは、このダンディな男性のようになってクラウンへ!」と宣伝して、購入を促すのである。ここで売られているのは、車というよりも、その車に意味づけられた「威信」であって、かつての武士にとっての刀と同じく、人々は、車を買うことよって、自分が属する社会的階級を表現する「記号」を買うのである。



現代の資本主義社会は、もうすでに、細部の末端に至るまで、商品が供給された飽和状態の社会であり、先進国に限っていえば、この社会のどのような貧しい人も、中世の貴族や王族たちよりもはるかに勝る豊かな生活を手にしている。しかし、そのうえでも、人は働いて生産をし、報酬を得て生活をしてゆかなければならない。そうだとすれば、さらに商品やサービスを生産して供給し続けてゆくにはどうすればよいか? すでに、あらゆる人が、あらゆるモノを所有しているなかで、どのようにして、新しく生産した商品やサービスを消費者に購入させるのか?



かつて、90年代に「24時間、たたかえますか?」という、栄養剤を宣伝するコマーシャルがテレビで流れていた。「わが社の栄養ドリンクを飲んで、疲れた体を奮起させ、24時間たたかうように仕事を頑張りましょう!」という、いかにも私生活を投げうって(家族をも?)、会社に全身全霊をかけて奉仕する、日本的ビジネスマンのモーレツ社員を象徴する言葉だけれども、誰もかれもが24時間働いていたら、その仕事によって生産された商品やサービスは、いったい誰が、いつ消費するのか? どれだけ多く働いて生産したとしても、買う者がいなければ、大量の在庫を抱えて倒産してしまうだけである。そこで、労働者に商品を生産させるだけでなく、生産された商品を購入させるために、労働者に休み(余暇)を与えなければならない。こうして、勤労者の体をいたわり、家族と過ごす時間を増やすという名目のもと、週休二日または三日と休暇を増やし、残業を減らして労働時間を減らしてゆくことになるわけだけれども、もちろん、この社会は資本主義社会なのだから、ただ休ませるという、そんな「非生産的(?)」なことはしない。労働者を職場から解放した分、彼らを雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットを通じて宣伝される「広告」漬けにしたうえで、広告された商品やサービスを、その余暇によって購入する「消費者」に仕立てあげたうえで、彼らを休ませる(?)のである。



そこで、労働者は、仕事を休む場合も、今度は「消費者」として、再び社会の富を循環させる歯車として「休む」のであり、いつも仕事をがんばっている「自分へのご褒美」として、また、外見的にも内面的にも、より美しい自分になるための「自分磨き」として、また、いつも寂しい思いをさせている子供たちへの家族サービスとしての「体験学習」や「思い出づくり」などのために「休む」ことで忙しい(!?)のである。その際、雑誌やテレビやインターネットを通じた広告にしたがい、おいしいグルメやスイーツの食べ歩きツアー、化粧品や美容ケア、知的な教養書や講演イベント、家族で楽しめるディズニーランドなどのレジャーツアーが、「商品カタログ」のなかから選択されるのである。



なるほど、私たちは、生産の仕事としては、自分が好んで選んだわけではない仕事を、日々生きるために仕方なく働いている。それに対して、仕事を離れた余暇は自由な時間であり、自由に振る舞うことができると思っている。しかし、そのような「自由」もまた、様々なメディアを介した広告によって条件付けられた「カタログ」のなかから選ばさせられているにすぎず、私たちの需要や欲望そのものが、私たちの自由から発したものではなくて、あらかじめ社会によって方向づけられた選択のなかから選ばせられているにすぎない。私たちの自由は、あくまでも「買う自由」だけであり、それ以外の自由は、はじめから存在していないかのごとくである。それゆえに、お金がなくて「買う自由」がないと、それだけで惨めな気持ちになり、何もできないような不自由な気持ちになるのである。少し想像力を働かせれば、お金をかけずに楽しめる方法など、いくらでもあるはずなのに、である。とはいえ、そう言うと、今度は、「お金をかけずに楽しむためのノウハウ」というハウツー本が、「商品」として、万民が選択する「カタログ」のなかに追加されるのである。結局、我々は自分の自由ですら「買う」という消費行動のうちに縛られたまま、その外の可能性をについて考えることができないでいるのである。



こうして、極限にまで発達した資本主義社会においては、商品やサービスを生産するだけでなく、そのような商品やサービスを求め欲望する「消費者」もまた、様々な広告やマーケティングによって「生産」されるのである。かつては、「今よりもお腹いっぱいになりたい」とか、「今よりも便利な生活をしたい」とか、そのような自然で素朴な需要に応えるかたちで、資本主義は発達してきたのだけれども、現代においては、そのような欲求はおおむね満たされている以上、資本主義社会の生産力自身が、人間の新たな欲望や需要を創造し、開拓して生産してゆくことによって、そのうえから新たな商品やサービスを売りつけるのである。もともと欲望のあるところに供給をもたらすのではなく、欲望のないところに、新たに欲望を創造し、欲望を生産することによって、それに合わせた商品やサービスを売りつけるのである。つまり、商品やサービスの生産以前に、欲望の生産、必要の生産、需要の生産、「消費者」そのものの生産、「買う」人間と、その行為そのものの生産がある。自分が欲望して、自分の意志から買っているとしても、その欲望そのものが、あらかじめ売る側によってつくられたものでありうるのである。



こうして、現代の資本主義社会においては、商品やサービスの生産以前に、まず「ライフスタイル」の生産がある。「バレンタインにはチョコレートを…」や「クリスマスには恋人と…」なんてことは言わずもがなだが、最近では「ハロウィンには…」が追加され、それを彩る市場が形成される。そのような大きなイベントだけではなく、映画、ドラマ、アニメ、漫画、ゲームなどの文化産業によって表現される「ライフスタイル」が、影響力のある人気俳優、人気声優、インフルエンサー、または、最近では二次元のキャラクターやバーチャルアイドルなどを起用することによって、一定の期間の時代を覆う流行のスタイルを形成する。そして、それに合わせて様々な市場もまた形成される。



芸能人は、人々に夢を売る仕事? そうだが、それは、同時に、多くの人にコンプレックスや劣等感、欠乏感を植え付けることによって、そうするのである。特に、彼らが俳優としての演技よりも、CMキャラクターとして、企業の商品広告やアイドル性が強いこの国においては、なおさらそうである。日本の文化産業においては、キャラクターのイメージ先行で作品があてがわれるのであり、どの作品を観ても、いつも見ている顔や、聞いている声ばかりである。多くの人は、作品そのものよりも、その作品に出演している推しの俳優やアイドルが、イケメン枠にもかかわらずコメディな役を演じたり、逆に、コメディ枠の人間がシリアスな役を演じたりするギャップに「萌える」のであって、その様は、仲の良いクラスメイトが出演している舞台を観て盛り上がる、高校の文化祭のごとくである。日本の文化産業が、世界的視野を持たず、ファンの盛り上がりと国内需要だけを意識した「ガラパゴス」と呼ばれるゆえんである。



こうして、彼ら芸能人や、最近ではインターネット上で活躍しているインフルエンサーも含めて、彼らの影響力にに乗せて、美、ファッション、生活様式、主義思想の「ライフスタイル」が、企業の商品やサービスの広告と合わせて宣伝される。



「みなさん! この人(俳優、アイドル、タレント、インフルエンサー)を見てください。なんて美しいのでしょう! それに比べて、あなたは……ああ! なんて洗練されていないことでしょう!! さあ、わが社の商品を買い、わが社のコンサルティングを受けなさい! そうすれば、あなたは、この人のように美しい洗練された人間になることができるのです…。」



このように、消費を中心とした資本主義社会においては、多くの人にコンプレックスや劣等感、不足感、欠乏感を与えることによって社会が回るのであり、多くの人が、「もう十分だ。すでに満ち足りた。私は幸福だ…」と言って、勝手に満足されては困るのである。誰もが満足して、商品を買わなくなれば、売り上げが滞り、生産性が減って、社会が回らなくなる以上、この資本主義社会が存在するためには、常に人間に不足感や欠乏感、コンプレックス、不満を植え付けて、生産と消費の車輪を絶え間なく回転させ続けなければならない。資本主義社会は、常に人間の「不幸の意識」を糧にして回るのであり、誰も彼もが幸福になってしまったならば、逆に、この社会自身が痩せ衰えることになってしまうのである。だから、この社会は、「不幸の意識」を人間に植え付けたうえで、そのうえで、幸福な人間像、幸福な家庭像、幸福なライフスタイルを「商品(?)」として新たに生産し、たえず各人に売りつけることが宿命づけられているのである。



それは、まるで、ニーチェが喝破したように、「あなたのなかには罪があります! あなたは罪人です! それゆえに、あなたは教会によって、常に洗い浄(きよ)めてもらわなければなりません!」と言って、罪責感を人間に植え付けたうえで、そのうえから宗教とその救いを人間に「売りつける(?)」、かつてのキリスト教会のごとくである。かつての宗教の、このような欺瞞性を批判しておきながら、なぜ、現代の資本主義の、このような「宗教性(?)」については、無批判的に受け入れているのか? 現代哲学の哲学者の多くが、ニーチェの思想の継承者であることは、決して偶然ではない。



消費を中心とした、この現代の資本主義社会においては、人と人との間に絶え間なく「差異」を生み出してゆくことによって回るのであり、多くの人と違う者に対しては、「君のスタイルは古いね! 今の流行はコレだよ!」と言って、商品やサービスを宣伝するのであり、多くの人と同じ者に対しては、「人と同じことをしているのはダサいね! みんなとは違う個性的な人間になろう!」と、真逆のことを言って、商品やサービスを宣伝するのである。こうして、人々をくっつけるにしても、離れさせるにしても、提示されたモデルとの比較における新旧の差異、美醜の差異、優劣の差異をもたらすことによって、商品やサービスを売りつけることによってそうするのである。



では、メディアによる様々な広告によって、そのように人間の欲望が方向づけられているにしても、世事に無頓着で、雑誌やテレビも見ず、インターネットも必要以外のことには使わないような人間は、そのような力から自由でいられるのだろうか? しかし、彼はそうであったとしても、他の多くの人が、彼と同じであるはずがなく、彼の周りの人間たちは、そのようなメディアに接している。そうだとすれば、いかに朴念仁といえども、社会で生きている以上は、彼らとコミュニケーションをとらざるおえないのであり、そのようなコミュニケーションのなかで、まさに彼が朴念仁であること、世間知らずであること、洗練されていないこと、ダサいことが通告されるのである。すでに、メディアを介した広告によって、あらゆる人間のコミュニケーションが囲い込まれている以上、友達や恋人や家族とのコミュニケーションのなかで、たえずコンプレックスや劣等感や不足感を植え付けて、消費をうながす力が、各人の意識へと侵入するのである。



「パパ! そんなだらしないカッコウで外をウロウロしないでよ! 友達に見られたら恥ずかしいでしょう! せめて、『人並み』には、ファッションや身だしなみにも気を使ってよ!」



こうして、私たちが、自由で自発的であり、自分のものと思っている欲望や感覚までもが、社会によって外部から刷り込まれたものとして、ある一定の方向へ向かうよう秩序づけられている。



現代人が(特に都市部の人間が)、異常なまでに潔癖であるのも、もともとは、都市生活で最も危険な災害が伝染病であるために、都市生活者の感受性としては、少し潔癖なくらいがちょうどよいというのもあるけれど、そのような感受性に便乗して、商品やサービスを購入させるために、少しの菌や少しの汚れの存在でも不安を煽るような広告で、除菌剤や、塵ひとつない清潔な空間で過ごすライフスタイルが、標準的な感性として、植え付けられる。「ここにも菌!あそこにも菌!不潔!不潔!除菌!除菌!」と、見えない存在(菌)のために、常に不安を感じ、除菌スプレーをぶちまかなければ、安心して公共施設のものに手を触れられないような(これは極端な例だとしても、公共施設の便座に座ることや、共用のスリッパを履くことに抵抗を感じるひとは、少なからずいる)感性が植え付けられるのと同時に、そのような需要に応えるカタチで、さらに多様な商品やサービスが生産され、広告される。そして、また、そのような潔癖な感性が、より深く、また広く、多くの人の感性にきざまれてゆく。とはいえ、生物としての人間は、これまで様々な菌と共に生きてきたのであり、そのような菌に接することによって、様々な免疫を獲得してきたのであるから、健康のための無菌志向が、かえってアレルギーなどの免疫疾患を引き起こすことになるという、皮肉な結果をもたらすことになるのである。



いったい、誰のための健康であり、何のための健康なのか? 実際の体の健康状態よりも、精神的な健康「不安」を落ちつかせるために、マトモな食事をとらず、サプリメントばかりをかき込むような、「健康のための健康」という、実に不合理な行動が、客観的には、かえって健康を害することになるにもかかわらず、雑誌やテレビやインターネットの広告に煽られるままに、紹介された特定の処方ばかりを繰り返すのである。言うまでもなく、そのような「健康」は、特定の商品やサービスを売るために極端に強調された、幻としての「健康」であり、そのような抽象的な健康「不安」を植え付けたうえで、商品やサービスを常に欲望する(たとえ健康を害しても!)消費者に仕立てあげるのである。



昔に流行った「脳トレーニング」もまた、「人の脳には年齢があって、若さを保つことによって、将来の認知症予防に効果があるのです!」と謳い、健康「不安」を植え付けることによって、書籍やゲーム、健康グッズを売りつけるのである。脳には年齢があって、ゲームをすることによって回復するなんて、よくよく考えれば胡散臭いことこの上ないのだけれど、宗教については頭から否定するくせに、「某有名大学の脳科学教授監修!」という「科学」の「教授」という「権威」のキャッチコピーがあれば、多くの人は無批判的に信じてしまうのである。もちろん、ゲームを買う多くの人は、胡散臭いのは承知のうえで、健康のためではなく、ただゲームとして楽しむためだけに買うのだろうけれども。



万事がこのとうりであって、「美のための美」という、蜃気楼のように、どこまで行ってもたどりつかない「美」が、様々な商品やサービスの広告と合わせて、芸能人やインフルエンサーの存在を利用して喧伝される。もともと、「美」というものが、人によっても変われば、場所によっても変わり、時代によっても変わるのは、周知の事実であり、誰もがそれにあわせて自分や他者を比較するような、単一で画一的な「美」が、産業的に生産されて強調されたものであることは、間違いないことである(パッチリ二重!控え目に小さくまとまってツンとした鼻!ぽってりとした唇!)。しかし、それらは、芸能産業が流布したから、巷(ちまた)で、そのような美が流行しているのか、それとも、巷で、すでにあるそのような美がバズっているから、その評判を見込んで彼らをスカウトして芸能産業に引き入れているのかは、鶏が先か卵が先かの問題だけれども、実際は、それぞれが、互いの波に乗って自分を上昇させようとして、結果としてお互いを増幅させあっているのが真実だと思われる。たとえ、これまでの美とは趣が異なる新しい美が、巷でバズっているとしても、芸能産業が彼または彼女らを特集し、抱き込んで、またはコラボレーションすることによって、そのような美を「標準的な美」として、様々な商品やサービスとあわせて売り出すのである。



かつては、ハリウッドスターのような欧米的な彫りの深い顔が、美の標準とされていたけれども、男性に限っていえば、韓流ブームと共に、どちらかというと華奢で、フェミニンな、一重まぶたでもあっさりとしたアジア的な顔が美の標準となりつつあるし、実際、そのような俳優やアイドルが売り出されることによって、美の幅が広がりつつあるように思える。しかし、日本人というのは、もともと、アイヌ人の写真を見ればわかるように、また、沖縄や九州の方々が毛深くて顔が濃いと言われるように、どちらかというと毛深い、北方と南方から移動してきた民族(縄文系)と、中国あたりから朝鮮半島を通ってやってきた民族(弥生系)との混合であって、アジア人としては体毛が濃いほうであるのに、もともとツルツルのうえに、さらに美容的にツルツルスベスベになった韓流スターや韓流アイドルと比較されては、負け戦でしかないのであるが、そのような理不尽な差異を強調して、コンプレックスや劣等感を植え付けることによって、美肌やメンズ脱毛などの美容産業が社会に拡大してゆくのである。



ルッキズム」を批判すると、「では、誰かを美しいと感じる自然な感情まで否定するのか?」と問う方がおられるけれども、もちろん、誰かを美しいと感じ、魅力を感じることは自然な感情としてあるだろうし、二人きりのコミュニケーションおいては、「世界で君が一番美しい…」と、その美を称賛することも、あってよいと思う(もちろん、そのようなコミュニケーションを不快に感じないような親しい間柄においてではあるが)。しかしながら、多くの人がいるなかで、多くの人が見ている前で、「君!カワイイね!」と、特定の人のその容姿を褒めることは、明確に、ある価値序列的なメッセージを発していることになるのであり、その他の多くの人に対して、「君? 君もカワイイけど…、この人ほどじゃないね!」というメッセージを、暗に発していることになるのである。それゆえに、そのようなメッセージを発することによる社会的影響と、美のランク付けによる価値序列的に下位とされた者や、ランク外とされた者たちが、どのように感じ、どのような心理的影響を受けるかをも考えなければならない。「ミスコン」などは、その典型だけれども、「女子アナ」として、ある企業が、ある特定の年齢の、ある特定のパターンの容姿の人ばかりを採用したり、雇用したりすることもまた、それによって明確なメッセージを表現していることになるのであり、「わが社は、この人のような美を、美人として、優れた美の所有者であることを宣言します!」と主張しているに等しいのである。そして、そのようなメッセージにを発することによって、その会社は、多くの人がいるなかで、人々の気持ちも考えぬまま、場所や時も考慮せずに、「君!カワイイね!」と口走ってしまうような、節度を欠いた、「下品」で「キモい」、不適切にもほどがある「オッサン」たちが権力を持ち、支配している会社であることを証明してしまうのである。



子供を持つ親たちは、その子供たちに対し、兄弟姉妹のひとりにだけ、プレゼントを与えたり、褒め言葉を与えたりすることは、誤ったメッセージを与えることになってしまうことを知っている。子供たちは、無垢なようでいて、自分が他の兄弟と比較されたり、常に後回しにされて、自分が「いらない子」にされてしまったのではないかと、愛情が公平に分配されていないことを鋭敏に感じ取っているのであり、そのことが、その子供たちの将来と、兄弟間の関係における未来に、深刻な禍根を残してしまうことになる。したがって、子供たちの全員に与えることができなければ、誰にも与えないほうがマシなのであり、兄弟のうちの特定の誰かに与えるならば、他の子供たちにも別の機会に必ず与えることを説明しないといけないのである。



しかし、それは、子供の話しであって、人はいつまでも子供ではないのだから、大人の世界は比較と選別と廃棄の世界であり、それを理解して、人は大人になってゆくのではないか? と問われる方もあろう。しかしながら、社会は、そのような比較と選別だけによって成り立っているのではない。そのような比較と選別による最良の果実のみを享受できる特権的な支配階級ならば、そのような社会を是とし、そのままでよいと思うのだろうけれども、多くの人は、比較し選別する主体であると同時に、自分自身もまた、比較され選別される対象であって、そのような社会のなかで、捨てては捨てられてを繰り返すなかで、この社会が、誰もが取り替えのきかない存在として、その尊厳が大切にされるような「愛のある」社会であることを望んでいる(「そこに、愛は、あるんか?」)。まさに、社会の効率性や合理性による豊かさだけではなく、非効率的で、非合理的ではあっても、それぞれの個人を「手段」としてではなく「目的」として扱うような(イマヌエル・カント)、美しい人間の振る舞いが「道徳」として求められ、美談とした語られてもいる。



フランスの哲学者アンドレ・コント=スポンヴィルが、その著作「ささやかながら、徳について(邦訳 紀伊国屋書店)」のなかで書いているように、様々な諸徳(礼儀正しさ、誠実さ、やさしさ、正義など)は、人間社会に愛(アガペー)が欠けている場合に、それでも、愛している「かのように」振る舞おうと意志することであり、愛があればすべてを満たすところを、愛が欠けているので、徳(モラル)によって補完しようとするものである。イマヌエル・カントが論じているように、「善意志」を欠いた道徳は、簡単に、その逆の悪徳に転じるのであり、礼儀正しい卑劣漢(漫画ドラゴンボールのキャラクターのフリーザのような)というのも存在しうるし、忠誠心や誠実さは、それがヤクザの親分への忠誠心や誠実さならば、その徳は反社会的勢力の悪を増やしはしても減らしはしない。また、相手の立場や将来も考慮せず、ただ相手が望むがままにするやさしさは、単に相手に自分が嫌われたくないだけの、性格の柔弱さをあらわすこともある。そして、常に状況が転変する、複雑な人間社会においては、いかなる法も完全ではない以上、正義は、ただ法を順守して強制すればよいというわけではない。悪政によって制定された、あらゆる公正を欠いた法も、法は法であろうが、正義を欠いた法であれば、それは正しい法ではない。法を正義たらしめる正しさは、万民のいかなる人間もとりこぼさず、彼らが受けるべき権利を平等に保証しようとする公正さを求める意志に由来する。したがって、いかなる法も、愛(アガペー)によって、万民の公正を求めるために、法解釈による例外や変更の可能性をも含む。愛を欠いた人間にとって法は、ただ人を罰して自分がスッキリしたいがために、法を不動の実体として語り、法を持ちだすのであり、そのように用いられた法は、合法性という正義の実現の名目のもと、あらゆる暴力や虐殺をも正当化する憎悪の道具になり下がる。こうして、愛(アガペー)こそが、いかなる徳をも満たし、いかなる徳をも引きつけるものではあるが、人間にはたいてい愛が欠けているため、徳を必要としない社会は存在しない。しかし、それら一切の徳は、愛を求め、愛に近づこうとして、愛があれば誰に命じられることもなく自然に行おうとすることを、愛の模倣として、愛している「かのように」意志する行為として行うときにのみ意味があるのである。



「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。 」(第一コリント13:4-7)

 

 

「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 」(マタイ福音書7:9,10-12)



したがって、徳(モラル)とは、子供たちに愛情のある親ならば、自然に子供たちに配慮するようなことを、愛(アガペー)の模倣として、「意志」として万民に配慮されるように働きかけ、主張し訴えてゆくことである。楽しければ何でもよいというわけではないし、おもしろければ何でもよいというわけではない。コンプラコンプライアンス)独裁主義だろうか? たしかに、「そこまでやる!?」と思わずにはいられないような、コンプライアンスの潔癖主義というのも、なくはないが(そうした潔癖主義を「律法(!?)」として焚き付けているのは、コンプライアンスをネタに商品やサービスを売ろうとする企業文化自身だが!)、しかし、多くの人がお楽しみの所、水をさすようで申し訳ないが、それでも配慮されねばならぬことは、配慮しなければならぬのである。



私が、このようなことを、資本主義の問題として語っているから、私がマルクス主義者であり、私が共産主義社会を理想として目指しているかのように思われる方もおられるかもしれない。しかし、最近流行っている新進気鋭のマルクス主義哲学者による「脱成長コミュニズム」もまた、この資本主義社会のなかでは「商品」として、資本主義システムには何の変更や修正も加えぬまま、多くの人にとっては、自分を最先端の流行の思想に造詣の深い知的な人間として演出するためのアクセサリーとして、また、YouTubeなどの自分のチャンネルで、知的な教養として流行の思想を紹介する配信者らの話題のネタとして、知的なファーストフードとして「消費」されるだけなのであり、当のマルクス主義の学者とその出版社だけが、資本主義的に(!?)成功して終わるだけである。



「そこのあなた! まだ『脱成長』の理論についてご存知ないのですか? この資本主義の限界についてご存知ないなんて…、なんて遅れていることでしょう! さあ、わが社の本を買い、わが社のコンサルティングを受けなさい。そうすれば…(以下省略)」



「資本主義」というのは、実体を持たない。資本主義を実体として問題視し、それに変更を加え、それの解体を思考したり予言したりする言説もまた、資本主義は取り込んで成長してゆくのであり、資本主義の糧にならない反資本主義的な要素は存在しない。すべてを食らって成長してゆくのが資本主義であり、もはや自然を餌食にすることができなければ、人間の体や心を餌食にして拡大してゆくのである。理論的には、資本主義を爆破するダイナマイトとしてのあらゆる要素も、その腹にはいると、逆に、資本主義を肥え太らせる栄養素へと変えてしまうのである。



平等で自由な共産主義革命を夢見た、かつての学生運動世代も、学生時代はノリと時代の空気でマルクスの本を読み、議論し、プラカードを掲げて学内や学外の路上を闊歩したのではあるが、就職となると、末端の労働者のひとりとなって、汗と油にまみれるよりも、一流企業の正社員となり、霞が関の官僚となり、銀行マンとなって、資本主義システムをより強固にして支える立場にスマートに「転向」していったのである。そのような世代が、老後の余暇に青春時代を取り戻し、青春時代を懐かしむためのツールとして、「脱成長」を謳う商品を「消費」しているのであり、風車に突撃するドン・キホーテのように、資本主義に立ち向かっているようで、自分たちが何と戦っているのかわからぬまま、逆に資本主義社会を肥え太らせる結果になっているのである。ちょうど、ドン・キホーテの「騎士道」のように、彼らのマルクス主義共産主義などの脱・資本主義思想もまた、自分たちが資本主義に立ち向かっている騎士であるという「物語」を、資本主義社会自身から「商品」として安価な価格で与えられているのであり、人生を充実して閉じるための老後の余暇の慰みとして、また、やりがいを失った孤独な老人に見せるつかのまの夢として、逆説的に、資本主義社会そのものから善意によって与えられているようなものである。このように、あらかじめお膳立てされた相撲として、また、親に見守られる子供たちのお遊戯として、本人たちの真剣な抗議や抵抗にもかかわらず、資本主義の懐に抱擁されたまま、その外に出ることはできないのである。



この社会には、ロールプレイングゲームの大魔王のように、「コイツさえ倒せば、世界はハッピーになれるのに…」といったラスボスは存在しない。自民党を倒せば…、あるいは共産党を倒せば…、日本はハッピーになれるのか? 世界を裏で牛耳るユダヤ資本(?)やディープステート(?)を倒せば…、世界はハッピーになれるのか? たとえ、ある社会体制の抑圧を廃したとしても、待っているのは別の抑圧体制だけであり、20世紀の社会主義国家の失敗を見ればわかるように、理論的には資本主義の抑圧を克服したことになっているどのような国家体制においても、抑圧のない社会はないし、一見、平等で、誰もが満足して自由に生きているようでも、その裏でどれほどの監視と処罰、密告による相互不信、拷問と粛清による恐怖が支配していたかは、誰もが知るところである。



飴(インセンティブ)を用いるのであれ、鞭(サンクション)を用いるのであれ、国家などのような巨大な社会集団の構成員を、そのまとまりを保ちつつ、一定の方向へ動かそうと試みれば、各個人の行動の可能性に何らかの制限が加えられるのは避けられないことであり、社会の秩序の維持とその力の発展に貢献する人間とその振る舞いを優遇し、貢献度の弱い人間たちを後回しにして排除してゆく力が働くの必然である。それは、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、同じことであり、仮に、共産主義社会というものが実現したとしても同じことである。共産主義の理論においては、資本主義的経済体制から共産主義的経済体制に下部構造が変われば、上部構造である人間の精神、道徳、価値観、常識などのイデオロギーも、自動的(?)に変化するので、社会体制と、その構成員との利害対立はおこらないはずであるが、もちろん、そんな単純なことにはならない。結局、自由で平等な共産主義社会の「見せかけ」を守るために、全体よりも個を優先して社会の富を自分のもとにかき集めるような、そのような「ブルジョア的」な意識や行動を排除するために、強権的な監視や管理、矯正と粛清が伴うようになるのは必然である。それに、資本主義体制下で抑圧され、搾取されていたプロレタリアート(労働者階級)が、革命によって権力を奪取すれば、抑圧のない自由な社会を築くはずだと、素朴に信じられていたけれども、人間はそんな単純ではないのであり、革命に関わる者のうち、あらゆる人間の全体的な解放の理想を本気で目指しているのは、ごく一部の人間だけにすぎない。その他の多くの者は、単に金持ちが羨ましくて妬ましくて憎らしいというルサンチマンの感情ひとつで動いているだけだから、そのような連中が権力を握れば、革命の理想はどこへやら、社会の富を自分たちのもとに集中させ、自分の身内と、政治的利害関係者(オトモダチ)との間で山分けするだけで、結局、封建社会や資本主義社会とは比べものにならないくらいの貧富の格差と奴隷的隷従を社会にもたらすことになる。かつてのいじめられっ子が力を得れば、いじめのない社会を創造するというのは、仮定にすぎない。その逆に、蓄積された復讐心と怨恨が、さらにひどいサディスティックな行動を引き起こすということもありうるのである。



どのような社会においても、抑圧はあるのであり、抑圧のない社会など存在しないのだから、人間の自由を求めるたたかいに終わりはない。誰もが例外なく自由で平等な社会を享受できる共産主義のような、歴史の終末としての「大きな物語」はもはや存在しない。しかし、抑圧のあるところには、必ず抵抗があるのであり、抵抗のあるところには自由がある。そして、自由のあるところには、新しいフロンティア(開拓地)がある。たとえば、ガチガチに厳しく制限された校則のある学校では、生徒たちが、制約のなかから個性を表現しようとして、独特な制服の着こなし方やスタイルを発明することによって、独創的で洗練されたスクール文化が形成されてゆくように、また、差別のなかで貧しい生活を強いられている人々が、ゴミとして捨てられてた廃材から楽器をつくりだしたり、捨てられた楽器や、中古で安く売られている楽器を手直ししてJAZZなどの新しい音楽を発展させてきたように、何よりもイギリスで抑圧されたピューリタン清教徒)たちが、アメリカに自由を求めて、生活の新しい領野と、権力の一箇所への集中を防ぐような民主的な社会体制を形成してきたように、それぞれの抑圧や排除に対して、それぞれの抵抗と自由のスタイルがあるのであり、それぞれの新しい文化の開拓と創造という「小さな物語」がある。そして、それらの「小さな物語」が影響を受け、影響を与えあうことによる共振によって、社会に新しい大きな流れをつくりだすこともある。



さて、またずいぶん遠回りをしてしまったけれども、最後に君(14歳)の話しに戻ろう。君は、鏡に映る君の顔や体の姿かたちが受け入れられないようだ。そこで、君は、テレビやインターネットによって映し出されているような特定の「美」のパターンに合わせて、君自身の顔かたちを変えてゆこうとするのだろうか? もちろん、それもまた、君の選択肢のひとつではあろう。しかし、君は、多くの人に、そのように特定の美のパターンとの比較によるコンプレックスや劣等感を植え付けることによって拡大してゆく、この社会の「資本」という名の神(!?)の使徒となり、その宣教者となることによって、君もまた、君以外の誰かにコンプレックスや劣等感を植え付けて、資本に取り込もうとする力の一部となるのだろうか? たしかに、そのようにすれば、この「資本」という名の神の恩寵を受けて、場合によっては経済的に成功したり、多くのフォロワーがついて自分の美を拡散してくれることによって、富と名声にあずかれる機会に恵まれるかもしれない。しかし、君が望んでいることは、本当にそのようなことなのだろうか? 



むしろ、君は、そのようなコンプレックスや劣等感を抱えた多くの人が、自分自身を肯定し、自分自身を誇れるような、新しい「美」の領野を切り拓いてみたくはないか? 君は、多くの人を閉じ込めている監獄の鉄格子の一本となって成功するよりも、そのような格子を外してゆくことによって、多くの人々が、より自由になって広い世界に生きられるような、新しいフロンティアを開拓してみたくはないか? いったい、一重まぶたには美がないのか? ふくよかな体には美がないのか? 体毛が濃く、また、逆に、頭髪が薄かったりしたら美はないのか? 低い身長には美がないのか? 手や足や体の一部が欠損していたら美がないというのか? そんなことはないはずだ。そのような要素を隠すのではなく、積極的に表にあらわして、欠点としてではなく、自分に属する美点として、自信に満ちた表情で写真に写っている方を見ることがあるけれど、それは、とてもカッコイイものだ。重要なことは「洗練さ」であって、髭ひとつとっても多くの見せ方があるように、胸毛も、ただ無精によって生えているならば不潔でしかないかもしれないが、手入れの仕方によって、本人のこだわりの形式として、ある種の美学があるならば、ダンディズムとなって、独創的な美の表現となることもありうる。問題なのは、与えられた素材の良し悪しではなく、素材の組み合わせであり、見せ方であり、こだわりであり、ダンディズムであり、それによる本人の「美学」の表出である。素材がどのようなものであれ、それが単なる寄せ集めではなく、そこに本人の「哲学」が認められるならば、それはガラクタではなく芸術(アート)になる。



こうして、君が、どうせ同じく成功を目指すならば、多くの人にコンプレックスや劣等感という不自由を与えて成功するよりも、それらを取り去り、彼らが自分に与えられた素材を駆使して、様々な「美」を創造し、発明し、開発し、表現してゆくような、自由な芸術(アート)の「場」を、社会に切り拓くことによって、成功してみたくはないか? 



もちろん、この資本主義社会はしたたかだから、君のそのような試みが「バズって」、多くの人に影響を与えるようになった場合には、その成功に目をつけて、君の試みや、それによる美を、標準的な不動の美として宣伝することによって、また多くの人にコンプレックスや劣等感を与えて商品やサービスを売りつけようとするかもしれない。



「みなさん! この方を見てください。なんと美しく、そして洗練おり、魅力的なんでしょう! それに比べて、あなたはなんと…(以下省略)」



あらゆる外部を内部にとりこんで成長してゆくのが資本主義社会であり、管理教育への抵抗の結実であった学生たちのスクール文化が、「今どきのオシャレな若者文化」として、まったくトゲを抜かれたマイルドなファッションとして消費され、貧困層や被差別階級のマイノリティたちの文化であり、彼らの表現手段であり居場所であった音楽が、マジョリティのお気楽な趣味として骨抜きにされたうえで、商品として消費され、社会に一般化される。



たとえば、抑圧された貧困層や、マイノリティの声を代弁することによって有名になり、成功したロックバンドが、成功して売れたとたんに「アッチ側」の人間となり、彼らが「アイドル」として売り出されることによって、様々な企業の商品やサービスのアイコンとなって、多くの人にコンプレックスや劣等感を植え付けさせる役割を担うようになるだけでなく、そして、また、彼らに、その優れた才能によって、麻薬のように陶酔的でキャッチーな音楽をつくらせることによって、貧困層やマイノリティたちの痛みを麻痺させて、彼らの不満や怒りと悲しみの感情が、富裕層や社会の支配階級に向かないようにさせる。かくして、彼らが社会的に成功することによる、そのようなロックバンドの、本来の結成動機からの「堕落」による方向性の違いから、内部で分裂して解散に至ることは、あらゆるロックバンドの「あるある」ではある。



自由をめぐるたたかいにゴールはなく、終わりはない。私たちが自由のために切り拓いた領野を、資本は再領有化によって、たえずそこに「金のなる木」を植え付けようとする。しかし、それでも、居場所のない者たちが、自由を求めて、彼らの自由のフロンティアの「場」を、自分たちで開拓し、発明し、創造してゆく過程に、人間の自由の本質と尊厳がある。はたして、君は、資本という名の「神」の恩寵としての「成功」の誘惑に惑わされることなく、たとえ不安と貧しさと孤独のなかにあっても、貧しき者たちや、居場所なき者たちと共に、自由のフロンティアの「場」を切り拓き続けられるような、「ROCK!」な人間たりうるだろうか?

 

 

信仰の義〜「無」教会としての「教会」における〜

キリスト教徒になった者、または、これからキリスト教徒になろうとしている者にとっては、以下のように考えるのが一般的だと思います。



クリスチャンになったのだから、教会のイベントに漏れなく参加して、熱く祈り、神を讃美して、敬虔な気持ちに満たされたい…。また、聖書を何度も通読し、聖書に詳しくなって、未だキリスト教のことを知らない多くの人に、イエス・キリストによる救いを宣べ伝えたい…。また、イエス・キリストを信じたのだから、その言葉と行いに聞き従い、その御足の跡をたどる者として、愛(アガペー)に満ちた生き方をしたい…。そして、マザー・テレサのように、戦場や被災地やスラム街へ行って、この世界や、この社会のただなかで見捨てられて苦しんでいる多くの人々、貧者やホームレスや障害者や被差別階級の人々のもとに行って、彼らの隣り人となり、ボランティアなどの奉仕によって彼らに仕えたい…。



もちろん、このように志高くあることは、まことに立派なことです。しかし、現実においては、いつもこのように立派に振る舞えるわけではない。教会にだっていつも通えるわけではないし、聖書も、一度は通読しようと思いつつも、途中で挫折して本棚で埃をかぶっているし、「地の塩、世の光」として、世のため人のために生きて神の栄光をあらわそうとしても、日々の仕事と生活に忙殺され、ふと我にかえってみると、クリスチャンになったにもかかわらず、その生活は信仰を持つ前の非信者としての世俗的な生活とまったく変わらないことに気づく。



キリストが、十字架の受難を受ける前に、ゲッセマネにおいて、「どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください…」と、切実に神に祈っているときに、共に従ってきた弟子たちは疲れて眠りこけているように、「心は熱すれども、肉体が弱い」ので、体が情熱に追いつかない(マタイ福音書26:36ー41)。



では、多くの人がため息をついているように、教会に通わず、聖書も十分に読めず、その生活も職場と家庭の往復だけで、食べて、風呂に入って、寝るだけの生活でも、クリスチャン(キリスト教徒)と言えるのだろうか? 日曜日にも教会に行かないから、サンデー・クリスチャンですらないとしても、それでもキリスト教的な「生」と言えるのだろうか?



それでも、そのような生活でも、ひとたびイエス・キリストを信じ、その言葉と行いを認めて、自分の内に受け入れたならば、彼は紛れもないクリスチャン(キリスト教徒)であり、その「生」は、キリスト教的なものであると「言える」。



宗教改革者のマルティン・ルターの著作に「善きわざについて」があります。よく知られているように、ルターが主張したのは、人が神に義とされて救われるのは、行いのわざによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰による、という「信仰義認」を主張したのですが、当然、「それならば、聖書において実行するように勧められている行いはどうなるのか? 聖書の命じていることを行わず、むしろ、反対のことを行っているとしても、キリストを信じているだけで救われているというのか?」という反論がありうる。そのような反論に弁明するかたちで、この小著は書かれた。



ルターは、このような反論に対し、ヨハネによる福音書6:28ー29を引用する。

 

「そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。」(ヨハネ福音書6:28ー29)



神が遣わされた者、すなわちイエス・キリストを信じることが「神のわざ」である。私たちが、わざを行うのではなく、神がキリストにおいて、御自身のわざを行う。そのキリストを信じることにおいて、私たちが神のわざに参与する。キリストを信じて、キリストを認めて従い、自分の内に受け入れることによって、キリストが私たちの内から、そのわざを行う。私たちが行うのではない。神が私たちを征服し、私たちをキリストに服従せしめて、キリストが私たちの主権を奪うことによって、私たちによって神のわざを行う。神が、キリストによって私たちを屈服させ、私たちの内に神への「信仰」をもたらすことで、神の国(支配)の勝利に私たちを捕虜として引き渡すことによって、神が私たちを支配する王となる。人間には神のわざは行えない。ただ、キリストのみが、神のわざを行いえる。



「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(ルカ福音書11:20)



「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ福音書15:3ー5)



したがって、「信仰の義」においては、神がキリストによって、私たちの王とり、また父(アッバ)となって支配するのであるから、あれこれの「わざ」によって神に仕えるのではなく、その全「生活」でもって神に仕えるのであり、神によってそうなるように在らしめられる。



あれこれの「わざ」によって仕えるのは僕(しもべ)であり、使用人のすることである。僕は命じられたことにのみ仕える。それに対して、家(神の国)の相続人(神の子)は、家長である父(神)の心を知っているがゆえに相続人なのであるから、家のことは彼自身のことであり、「公」と「私」の区別はそこにはない。彼のすべての心と、すべての存在と、すべての生活でもって神に仕える。



「イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。」(マルコ福音書12:29ー31)



「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ福音書15:12ー15)



ルターは、「信仰の義」を男女の関係性に譬えて、こう言う。



 

「このことは、外的な生活の卑近な例についてみてもわかる。ひとりの男または女が、相手の愛と好意とを期待し、それを堅く信じている場合には、どんなにふるまったらよいか、どんなことをし、またしないがよいか、どんなことを言い、また言わないでいたらよいか、どんな考え方をしたらよいか、などということを誰が教える必要があろう。信頼だけでけっこうで、それが万事を、それどころか必要以上のことを、教えてくれる。その際彼にとっては、もろもろのわざの間に区別などはない。大きいわざ、長いわざ、多いわざを行うときも、小さいわざ、短いわざ、少ないわざを行うときと全く同じように喜んでこれを行うし、その反対の場合も同じである。その上、歓喜と確信とにみちた心で行うのであるから、全く自由な間がらである。けれども、そこに疑いの心があると、どうしたらいちばんよかろうかとさぐり求める。そして相手の愛顧を得るために、わざの間にはっきりと区別を設けはじめる。けれども、その実行は心 重く、ひどく不快である。そしてたちまち心の自由を失い、ほとんど望みも絶えて、そのためにしばしば愚人にさえなりはてる。キリスト者の場合も同様で神に対するこうした信頼に生きるキリスト者は、すべてのことを知り、 すべてのことをなすことができ、 おおよそなすべき事柄に対しては、いっさいに自信があり、しかもいっさいのことは喜びにみちた自由な気持ちからなすのである。それは決して多くの善い功績やわざを集め、たくわえるためではなく、このようにして神のみこころにかなうことが、自分の喜びだからである。だから全く純粋になんの報いも望まずに神に仕え、それが神のみこころにかなうということだけで満足なのである。ところが反対に、神と一致していなかったり、あるいは 疑念を抱いている者は、なんとかして満足のゆくようにしたいものだと思い、 多くのわざを行うことによって神を動かそうと試み、千々に心を砕く。…しかも平安は見いだされない。そして、これらすべてのわざの実行には、大きな心の負担、絶望、不快の念がつきまとう。」

ルター 「善きわざについて」 福山四郎 訳 聖文舎



こうして、ルターに倣って、「信仰の義」を熟年夫婦の信頼関係に譬え、「わざによる律法の義」を昨日付き合い始めたばかりの恋人同士の関係性に譬えることができよう。



付き合い始めたばかりの恋人同士においては、互いに相手のことがまだよくわかっていないため、互いの誠実さを確認しあうために、信仰者が犠牲(いけにえ)の山羊をもって神殿へ拝礼するように、年に何回かの特別なイベントの日に、特別なプレゼントとサプライズを携えて拝礼(?)する。また、目的は相手の好意を獲得することであり、胸の内に秘めておいても意味がないのであるから、自分が信頼に足る愛すべき人物であることを証明するために、これ見よがしにおおげさな求愛の言葉や態度が必要とされる(くどくどとした祈り!これ見よがしな善行と献金!そして、聖地巡礼!マタイ福音書6:1ー8)。また、念願叶って結婚生活を始めたとしても、ひとつ屋根の下で共に生活する以上、お互いの気分を害さないように、しばらくは数多(あまた)のルール(律法!)を必要とする。



それに対して、長い年月の生活を共にしてきた熟年夫婦においては、互いの信頼関係だけで十分であって、それがすべてを満たす。もはや、書かれたルール(成文律法)も、伝えられたルール(口伝律法)も用することはなく、意図した行いであれ、意図しない行いであれ、何気ない日常の生活のすべての一挙手一投足が、相手の必要や欠けたところを補うために行われる。すでに、彼らは2人でひとつであり、ひとつの体であるからである(創世記2:18ー24)。



「自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。」(エフェソ5:29ー32)



したがって、「信仰の義」においては、ただ食べるときも、ただ寝るときも、職場で仕事をするときも、家庭で子育てや介護をするときも、そのすべてがキリストによる神の支配のなかで行われるのだから、それら素朴な日常の生活の一切が神の「わざ」であり、また、「神の義」である。私たちが生き、また生活をするのではなく、私たちの内で、キリストが生き、生活をするのである。



それゆえに、キリストを信じ、自分の内に受け入れた者にとっては、その場所が「教会」であり、その生活そのものが「礼拝」である。



神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」(ルカ福音書17:20ー21)



「女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。」(ヨハネ福音書4:19,20ー24)



「イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。」(ヨハネ福音書2:19ー22)



誰でも、キリストを信じる者にとっては、自分のために生きる者も、自分のために死ぬ者もいない。生きるにしても、死ぬにしても、彼はキリストにあって神のものだからである。だから、食べるだけにしても、寝るだけにしても、自分のために行われるのではなく、キリストによる神のものとして、その召命を全うするために行われる。彼にとっては、些細な日常の振る舞いの一挙手一投足に至るまで、神に仕えることの一部として、神の支配のもとにある。そうであるがゆえに、彼の生活のすべてにおいては、もはや霊的と肉的、信仰的と世俗的、キリスト教的と非キリスト教的の「区別」は一切なく、その生活のすべてにおいて、無駄なことは一切ない。



「日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」(ローマ14:6ー8)



「もしわたしが感謝して食べる場合、その感謝する物について、どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである。」(第一コリント10:30ー31)



「なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。(マタイ福音書11:18ー19)



たとえ、何らかの怪我や病のせいで、病床で多くの時間を過ごさなければならないとして、絶望のうちに座りこんでいる時でさえも、それでも、彼はキリストにおいて神のものである。多くの人を勇気づける器として、神は彼を用いられる。



大きなことを成し遂げる為に、 強さを求めたのに 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった

 

偉大なことをできるようにと 健康を求めたのに より良きことをするようにと病気を賜った 

 

幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 

 

世の人々の賞賛を得ようと 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった 

 

人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに あらゆるものを慈しむために 人生を賜った 

 

求めたものは一つとして与えられなかったが 願いは全て聞き届けられた 私は もっとも豊かに祝福されたのだ

 

作者不詳の詩(南北戦争で負傷した南軍兵士の祈りとされている)



「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(第二コリント12:7ー10)



「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。…そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ福音書9:1ー3,39ー41)



しかし、ただ怠惰のゆえに、食べるだけ、寝てるだけの生活を送ることもあろう。しかし、たとえそうであったとしても、あなたはそれで満足しないだろう。キリストがあなたの内で語り、また働くので、蝶が羽化しようと内側から蛹を押し開くように、また、胎児が、母親のお腹を内側から蹴って、自分が生きていることを訴えるように、キリストは、あなたの内で、あなたによって生き、語り、働こうと、あなたのかたくなった、その頑なな心と体を押し開こうとするであろう。そして、そのようなキリストの愛に迫られて、無為に生きようとしても、全身全霊がムズムズとウズウズとして、じっとしてはおられず、必ず何事かをしないではおれないであろう。



「なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか。」(第二コリント11:28ー29)



「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。 」(第二コリント5:14)



申し訳ないと思うだろうか? その思いと言葉だけで十分である。キリストは、そのようなあなたに、「起きよ!床をとりあげて歩け!」とは言わず、「あなたの罪はゆるされた」と宣言される。そして、キリストがあなたを立ち上がらせることができるという信仰によって、あなたは再び歩みだすであろう。キリストは、あなたの閉じた目を啓(ひら)き、萎えた足を立ち上がらせ、墓を突き破らさせて、死からの新しい生へと甦(よみがえ)らせられるであろう。



「幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。」(マルコ福音書2:1ー12)



「もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」 (ローマ8:10ー11)



キリストは、神の恵みである。それは 高価な恵みであり、畑に隠された宝である。人が、ひとたびそれを発見したならば、過去の古い自己を成り立たせていた一切のものを売り払って、その宝を買うのである。誰かが、神の国(支配)への服従を命じなくとも、キリストは、それを発見した者に、その人が過去の古い自己に無為に寝転んでいることをゆるさず、そのことに耐えられないように、必ず何事かを成さざるをえないように働かれる。それは、「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるから(マタイ福音書6:21)」である。



「天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」(マタイ福音書13:44ー46)



たとえ、彼が、キリストを知ったうえで、そのうえで、キリストに反抗して生きようとしても、同じことである。聖書における「放蕩息子の譬え(ルカ福音書15:11ー32)」の放蕩息子のように、私たちはキリストを拒否して自由の荒野に逃げ出すこともできる。しかし、そのような場合でも、私たちは砂漠での飢えと渇きのゆえに、また、自分の罪と有限性による限界状況にぶつかることによって、放蕩息子が父親と共にいた生活を思いだすように、私たちもまた、私たちと共にしたもうキリストを思いだす。そして、また、再びキリストの御前に立つことになる。



こうして、生きているのはキリスト「のみ」であって、我々が生きているのではない。キリストは私たちの内に生きており、そしてまた、私たちの外にも生きているのであって、私たちはその外に出ることはできない。こうして、キリストを無視し、キリストに反抗して生きるとしても、私たちは、「とげのある鞭を蹴る」という仕方で、自分で自分を傷つけつつ、キリストにおける神の国(支配)の内にある。それは、天に向けて唾を吐き捨てれば、重力の法則に従って自分の顔に落ちてくるのと同様に、創造主を汚すことは、被造物たる自分自身をも汚すことであり、また、救済者を見捨てることは、自分自身を虚無に見捨てることでもあるからである。



 

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「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 」(ガラテヤ2:20)



「わたし自身も、以前には、ナザレ人イエスの名に逆らって反対の行動をすべきだと、思っていました。そしてわたしは、それをエルサレムで敢行し、祭司長たちから権限を与えられて、多くの聖徒たちを獄に閉じ込め、彼らが殺される時には、それに賛成の意を表しました。それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。こうして、わたしは、祭司長たちから権限と委任とを受けて、ダマスコに行ったのですが、王よ、その途中、真昼に、光が天からさして来るのを見ました。それは、太陽よりも、もっと光り輝いて、わたしと同行者たちとをめぐり照しました。わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。』」(使徒言行録26:9ー15)



したがって、多くのクリスチャンが誤解していることとして、偶像崇拝者が、その信者を偶像のもとに連れて行って、偶像の前にかしずかせることによって、その宗教の信仰告白とみなすように、イエス・キリストを、特定の場所で玉座に鎮座している王様のようにみなして、未信者を教会に連れて行って、キリストの名で「主よ!主よ!」と叫ばせて、信仰告白に至らせることがキリスト教の「伝道」なのではない。



「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 」(マタイ福音書7:21ー23)



イエス・キリストは、私たちがキリストを信じようと信じまいと、また、その存在を認める認めないに関わらず、私たちが常に呼吸している空気のように常に存在しており、私たちがその存在を忘れて、当たり前のように自分たちの力で生きているかのように思い込んでいるときにも、空気が私たちを生かし続けているように、私たちに生命を与えて生かし続ける「プネウマ(聖霊の風、生命を与える息吹)」として、そこに在る。



「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記2:7)



「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。」 ヨハネ福音書20:21ー22)



「あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」(ヨハネ福音書3:7ー8)



「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」(エフェソ4:5ー13)



「神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」(エフェソ1:20ー23)



したがって、キリスト教の「伝道」とは、無神論者や未信者などをキリスト教徒に改宗させようとして、「無い」ものから「在る」もののところへと導くようなものではない。そうではなくて、「伝道」とは、私たちが意識していなくても、すでにそこにある空気のように、私たちの信仰心や決断に関わりなく、すでにそこにあって「存在している」ものに目を向けさせるものでなくてはならない。



それは、窒息して苦しんでいる者に向かって、「さあ、大きく口を開けて! 深く息を吸い込んでみよう!」とうながすようものとして、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」と、説き明かすものでなくてはならない。「伝道」とは、遠くに離れたイエス・キリストのもとに人を連れて行くということではなくて、すでに生きて働いているキリストのもとで、我々が生(活)かされており、そして生(活)きるであろう、という「福音(嬉しい報せ)」を伝えるものである。



「そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、『われわれも、確かにその子孫である』。このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。 」(使徒言行録17:22ー29)

 

 

こうして、神によって、あらゆる時と場所でキリストが生きて働いている以上、キリストの支配が及ばない場所はないのであるから、私が「教会」と呼ぶときには、建物の壁や牧師の所在によって区切られた教会ではなく、全世界が「教会」なのである。頭(かしら)なるキリストが生きて遍在しておられるのであるから、その体である「教会」もまた、生きて遍在しているものでなければならない。それゆえに、キリストが宣べ伝えられるところでは、どこであろうとも、誰に命じられるまでもなく、必ず、教える者や奉仕する者として、キリストに従おうとする「聖徒たち」が建てられる。その際、私たちが通常使う意味での教会として、牧師が立てられることもあろうが、その際の「牧師」は、必ずしも公的な肩書きを持つ職業牧師とは限らない。



もちろん、初代教会にも偽使徒や偽教師が存在したように、公的な管理を不要とみなすからには、偽牧師が存在する可能性がありうる。しかし、デタラメな牧師や教師が存在するからといって、公式の教会の牧師と信徒たちがマトモだということにはならない。誰かを、異端だとか、カルトだとかと、そのデタラメさを指摘したところで、自分がマトモであることの証明にはならない。誰かの「目の塵」を指摘したからといって、自分の目には梁(はり)がぶっ刺さっていないことの証明にはならない。



「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ福音書7:1ー5)



こうして、普遍的に遍在するキリストの肢体(からだ)として、普遍的(カトリコス)な「教会」を主張するにしても、そこおいても、たしかに聖書に記されてあるような「麦」と「毒麦」は存在する。そして、誰がマトモな「麦」であり、誰がデタラメな「毒麦」であるかは、簡単には判別することはできない。イエスの時代のパリサイ派や律法学者にとっては、ナザレのイエスは「毒麦」以外の何物でもなかったし、宗教改革の時代のカトリックにとっては、ルターは「毒麦」以外の何物でもなかった。また、それとは逆に、キリストから「天国の鍵(マタイ福音書16:13ー19)」を授けられたペテロの後継として、地上における神の国の正統な継承者としての「麦」であり、「異端」を認定する権威を持つはずの公式の教会が、国家の植民地支配の尖兵となったり、企業による労働者の搾取を宗教の言葉で正当化したり、聖職者による性犯罪を隠蔽したりと、この社会と世界に「毒」をもたらす存在になることもありうる。あるカルト宗教において、高額な献金による信徒の搾取と、支配的なヒエラルキーの構造が問題になっているけれども、そのカルト宗教は、そのような「献金」のシステムや、聖職者や教職者に信徒を服従させる「ヒエラルキー」のシステムを、どこから学んできたのか? それらは、他でもない、「正統的」な公式の教会のシステムから取り入れたものではなかったのか?



「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。 」(マタイ福音書13:24ー30)



「この世の子らは、光の子らよりも利口である」。人を食い物とみなすような獣にとっては、教会のシステムのあらゆるものが、獲物を捕獲するための網として利用される。公式の教会と、そのクリスチャンは、その管理を外れる独立系のクリスチャンとその集会を、カルトの温床のようにみなしているけれども、実際は、逆に、そのような、人を食い物とみなすようなカルト宗教の教祖と、その幹部らに、人をコントロールするのに都合のよいようなシステムを提供する隙を与えているのは、正統を謳う公式の教会のほうである。その証拠に、そのカルト宗教が問題を指摘されると、彼らは「このようなことは、普通の教会だってやっている!」と居直るのである。そして、彼らは、既存の公式の教会に対して、「我々のしていることを否定するならば、あなたがたの教会で行われているような、献金や奉仕による信仰の表現の自由に対しても、公権力の介入を許すことになりますよ!」と脅すのである。



公式の教会を否定する、独立系のクリスチャンと、その集まりも、彼らが、既存の教会に対して、自分たちのほうがマトモであり、自分たちのほうが「正しい教会」を実現できると考えているとすれば、危うい黄色信号のうちにある。教会からの「独立」の正当性は、既存の教会への憎悪によるのではなく、公式の教会であれ、無教会の集まりであれ、あるいは他のどんなスタイルの教会であれ、どんなクリスチャンとその集まりも「罪」を免れうるものではないこと、それゆえに、いかに正統を謳う公式の教会と、その牧師といえど、信徒の魂を管理するというタテマエで、個人を私物化する権限は彼らにはないこと、その帰結として、万人が、キリストにおける神の前で唯一の人格として、人からの「自立」と、神の前への「独立」として主張されなければならない。



 

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公式の教会に比べて自分が(または自分たちが)「マトモ」だから、独立して賛同者をつのるようでは、それもまた、彼が指摘している公式の教会と同じ過ちを犯すことになる。マトモなクリスチャンなど存在しないし、マトモな教会など存在しない。そして、何より、マトモな信仰など、この地上に存在しない。マトモでありうるのは「神の国」のみであり、それに比べて自分たちが「デタラメ」であることを認めて告白することを「信仰」と言うのである。この地上には「神の国」は存在しない。ただ、キリストによる神の国の光に照らされて、悔い改めつつ歩む、地上の寄留者であり、旅人としてのクリスチャンと、その集まりとしての「教会」があるのみ。神に示された約束の地に向かう信仰の祖アブラハムのように、神の国を前として歩み、自己を後ろに置いて行くところに「信仰」はあるのであり、自分を「是」とするところには、キリストも神も、その御国もなく、ただ、自分を神とする自己神化と自己義認があるのみ。我々は、「悪魔の策略を知らないわけではない(第二コリント2:11)」。



「イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。」(ヨハネ福音書18:36)



「この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。」(ヘブライ13:14)



「すると、どうなるのか。わたしたちには何かまさったところがあるのか。絶対にない。ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。次のように書いてある、「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」。」(ローマ3:9ー18)



「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。 」(エフェソ6:11ー18)



二種の人々があるだけである。

 

一は、自分を罪びとだと思っている義人、

 

他は、自分を義人だと思っている罪びと。

 

パスカル 「パンセ」 前田陽一・由木康 訳 中公文庫

 



したがって、この地上において「信仰」とは、光があるところに付き従う影のようなものである。そして、「信仰の義」とは、神の国の光が地上を照らして映した影のようなものである。光が主体であり、影が客体なのである。影が自分で独立して存在しているものではないように、「信仰」もまた、キリストによる「神の国(支配)」の光に照らされて、はじめて存在しうるものである。それは、人間の自己主張ではなく、神によって自己が砕かれた者としての「無」であり、その言葉と行いにおいて、「自分の義」と「わざによる義」ではなく、ただ、「透明」にされた者として、キリストにおける「神の国(支配)の義」を地上に映すものとして在る。それゆえに、「信仰」の内にある人間は、「私は!、私たちは!」と、自己を主語にして語ることがしだいに少なくなり、キリストにおける「神の国(支配)」について語ることが多くなる。



「そうしなければならない!」というのではない。自分の義を極限にまで押し通した末に、壁にぶつかって砕かれた魂が、まるで飢えた者に差し出されたパンにかぶりつくように(ヨハネ福音書6:26ー58)、キリストの言葉と行いにかぶりつくのである。そしてまた、誰も雇ってくれる者もなく、空っぽの財布と空きっ腹を抱えたまま、途方に暮れて日暮れまで市場に立っていた日雇い労働者を雇うぶどう園の主人のように、孤独と憂いの中で一日中待っていた労働者の悲哀をくんで、一日分の働きがなくても、「働きがない者を義とする(ローマ4:4ー8)」主人によって、全き賃金が支払われる「神の国(支配)」として、キリストが発見されるのである。「多くをゆるされた者は、多く愛するものであり、多く愛する者は、多くをゆるされた者である」。雇ってもらえるはずのないところを、雇ってもらえたのであるから、主人に感謝して、短い時間でも愛の真心(まごころ)でもって一生懸命働いてくれたのだから、彼らは一日分の賃金にふさわしいのである。



「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。」(マタイ福音書20:1ー16)



「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。 」(ルカ福音書7:36ー50)



自分で自分の自己を砕かねばならない、というのではない(そんなことは誰にもできはしない)。ただ、神のみが砕き、神のみが建て上げるのである。「私は罪人です! 私は罪人です!!」と叫ぶような(または叫ばせるような)、これ見よがしな自己卑下は、自分で自分を砕いているのではなく、彼自身が、人の前と神の前で安住できるような「自己」の城を新たに建てあげようとしているだけである。狂信のゆえに、神を「是」とするのではなく、自分自身の「是」が神の前で砕かれたことの事実と体験のゆえに、神を「是」とするのである。本当に砕かれた者は、静かに、誰にも知られることもなく、自分とその仲間たちの信仰について語ることが少なくなり、ただ、キリストにおける「神の国(支配)」について語りだすようになる。



「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。」(詩編34:18)



「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。 」(詩編51:16ー17)



「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。 」(イザヤ書57:15)



「こころ(霊において)の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ福音書5:3)



死後の地獄の裁きを待つまでもなく、私たちは、すでに神の「裁き」の世界に生きているのであり、神によってアダムとエバが追放されたエデンの東の地というのは、私たちが生きている、この世界のことである。それゆえに、私たち人間は、「この世」を生きるなかで、その罪によってすでにズタボロに傷ついているのであり、もうすでに罰は受けているのである。したがって、残されているのは、放蕩息子の帰還(ルカ福音書15:11ー32)のみであり、神はキリストによって、私たちの傷を癒しつつ、諸手を広げて、私たちが神の国(支配)を求めて帰ってくるように招いておられるのである。



 

「それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」(マタイ福音書9:10ー13)



「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」 ヨハネ福音書3:17ー21)



 

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「無教会」の主張は、自分たちがマトモであるがゆえに独立を主張するのではない。今も生きて働いておられ、天地にあまねく存在しているキリストの力の前では、人間たちの「わざ」と、その教会の「壁(見えない壁も含む)」なぞ存在しないがゆえに、独立を主張するのである。それは、神によって砕かれて、幼子のように小さくされた魂が、キリストに近づこうとするのを制止する、玄人(くろうと)ぶった「マトモ」な信仰の大人(?)たちから、幼子たちを解放し、あらゆる魂をキリストに委ねて、彼らが自由にキリストの御前に近づけるようにするためである。そして、そのような、罪人を義とし、死からの新しい命へと甦(よみがえ)らせたもうキリストにおける神の力への「信頼」のゆえに、すべての人の神の前での平安と、人との間の平安のために、教会からの(または教会の中での)独立を促すのである。頭(かしら)なるキリストが、独立して生きておられるのだから、その肢体(からだ)である教会もまた、生きて独立しているものでなければならない。



「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」(マルコ福音書10:13ー16)



「しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」 (ローマ10:6ー7)



生きている者の責務は、生ける者に対して「神の国」を宣べ伝えることにあるのであり、死せる者は死者が葬るのである(マタイ福音書8:22)。生きている者は、人を生かすべく、神の言(ロゴス)たるキリストを宣べ伝えるべきであって、わざわざ「宗教警察(?)」として、異端の処刑執行人をかってでてはならない。そうである以上、公式な教会であれ、非公式な集まりであれ、公式な牧師であれ、非公式な教師であれ、両者に対して等しい「裁き」であり、等しい「否!」でもあると同時に、また、両者にとって等しく参照されるべく、実際に追い求められている「イエス・キリスト」の言葉と行いを互いに宣べ伝え、また再確認することでもって「宗教裁判(?)」は足れりとすべきである。自分が救いを所有していると言えるものは誰もおらず、生けるキリストは誰にも所有されたりはしないのであるから、自分たちとは異なるというだけで、自分を是とし、相手を非とするような論争は戒められなければならない。ただ、「その木は、その実によって知られうる」のであり、生命や財産や自由に直接的に被害が及ぶ場合や、その可能性がある場合にのみ、その教会(または集まり)からの脱出がうながされるべきであるし、要求されねばならない。そして、その教会(または集まり)が、そのままエスカレートして、もはや話しの通じないモンスターとして、社会に深刻な被害を及ぼす場合には、その時には、政治的権力としての「この世の剣(ローマ13:3ー4)」の召喚に頼らざるをえない事態も存在する。

 

 

「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。」(ユダ1:9)

 

 

「にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 」(マタイ福音書7:15ー20)



かくして、「無教会」は、生きて遍在して働く「イエス・キリスト」を信じ、宣べ伝えることにおいて「無」教会であり、その裏面は、そのようなキリストの肢体(からだ)として、あらゆる時と場所を超えて遍在する「普遍的(カトリコス)教会」の謂いである。したがって、これまで、公式な教会から、キリストの肢体を否定し、分裂をうながす存在とみなされてきた「無教会」であるけれども、普遍的教会という視点から見れば、キリストの肢体に分裂をもたらしているのは、「教会の外に救いなし!」と言わんばかりに、「コッチからは教会だけど、アッチからは教会ではない!」と、「教会」に線を引き、壁を打ち立てている一切の教会(または集まり)であって、各教会が、そのような壁を打ち壊し、あらゆる線引きを廃して、生きて働いているキリストに委ねる時にのみ、「無教会」から「無」の文字が消え去り、使徒信条にて宣言されているような、本来の意味での「公同の教会」のみが残るのである。



「わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。」(第一コリント1:11ー13)

 

 

 

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それゆえに、このように言わなければならない。教会によらなければ礼拝できないわけではなく、讃美歌によらなけれは神を讃美できないわけではない。また、戦場や被災地やスラム街でなければ隣人愛を行えないわけでもない。



高価な楽器や、訓練された美声がなければ、神を讃美する讃美歌を歌えないというのだろうか? たとえ、産まれた間もない赤ちゃんが、両親の顔を見ながら、手足をバタつかせて、笑顔で「アウアウ〜」と声を発しているだけだとしても、ただそれだけで、小さくか弱い命を守り、保護すべく人間を創造された神の御業(みわざ)を褒め称えているのである。たとえ、高価な楽器や美しいメロディがなくとも、大昔の青春ドラマのごとく、夕日に向かって絶叫しながら走り出して、言葉にならない言葉を叫んで、全身でとびわまって生きる喜びを表現するだけでも、ただそれだけで、生命を創られた創造者と、また、心と魂と霊を救われた救済者を讃美するに十分である。



「しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。」(マタイ福音書21:15ー16)



主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。」(詩編8:1ー2)



そして、「小事に忠実な者は大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な者は大事にも不忠実である」(ルカ福音書16:10)。自分が目立つため、自分が敬虔なクリスチャンであることを、SNSのフォロワーや自分自身の良心に宣伝(!?)して自己満足を得るため、わざわざ戦場や被災地やスラム街へ行って、これ見よがしにボランティアにいそしむことは、周りの益になるどころか、その独善のゆえに迷惑をかけることになるのがオチであり、また、これだけ頑張って奉仕したのに、感謝もないどころか、悔い改めてキリスト教を受け入れないことに腹をたてて、「日本人には、罪を悔い改めて救われるための霊的資質がまったくない!」と、差別的な言葉を吐き捨てたうえに、しまいには、キリスト教宣教に成果をもたらすことや、自分の活動に有益を見込めるボランティアや奉仕だけを選り好みし始めることは必定である。



誰にもわかるような、目に見えて「大きなわざ」によってでなく、普段からの生活において、その時、そのつどの細かい状況において、隠れたところ(マタイ福音書,6:1ー4)で「隣人」に仕えている者のみが、本当の危機の時にも、隣人に仕えることができる。その際、彼は、普段当たり前のことを、当たり前のように行っているだけであって、相手からの感謝やフォロワーからの「イイネ!」がないことを不満に思ったりはしない。むしろ、自分の配慮や気遣いが足りないことを詫びたり、反省したりする。



「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」(ルカ福音書17:7ー10)



そしてまた、聖書をどれだけ読んでおり、聖書にどれだけ通じているかは、その人の信仰の成熟度と必ずしもイコールではない。



聖書を何十何百と通読し、何十年も聖書の研究に費やしてきたことを豪語する御仁の口から、「なんで、そーなるの!?」と思わず首を傾けざるをえないようなトンデモな結論を耳にしたり、そのような文を目にしたりすることが少なくない。これは、私の信仰理解が浅く、彼の信仰理解があまりにも深いがゆえに、私が彼のレベルにまで至っていないということだろうか?



しかし、語られていることに、本当に真理があるならば、深淵を思わせるような曇りのなかにあっても、誰もが手を突っ込めば手応えを感じるような「底」があるものであって、どこまで手を突っ込んでも何も掴めないようでは、結局、そこには何もなく、「何もない」ということを誤魔化して、自分の「学」を演出するためだけに、ただ無益に言葉を重ねているだけにすぎない。



聖書を何十何百と通読し、何十年も聖書を研究しておきながら、イエス・キリストの言葉と行いにおける「福音」の真理とは真逆の、差別的で排他的で抑圧的な結論を導きだして主張する御仁がいるものだけれども、どうしてこうなるのだろう?



彼らの深い(?)研究によれば、現代人がイエス・キリストに当て込んでいるような、優しくて愛に満ちた、寛容なヒューマニストとしてのキリストは、近代的な価値観によって捏造された「偶像」であって、当時のユダヤ社会やユダヤ教の伝統を踏まえて理解すれば、むしろ、逆に、ナザレのイエスは、原理的なゴリゴリのユダヤ主義者だった。そのようなイエスを、後代の教会が、ギリシャ的なヘレニズム世界に適応するために、博愛的なヒューマニストとして捏造したのだ、と。そして、我々が、そのような「本来のイエス」である歴史的イエスを、再び現代に甦(よみがえ)らせなければならない、と。



しかし、こうした、「信仰上のイエス」を相対化したうえで、「歴史的イエス」から「本来のイエス」を発掘しようという試みは、同じように仏教において、「信仰上のゴータマ・ブッダ」から、「歴史上のゴータマ・シッダールタ」を抽出しようという試みが、ことごとく失敗しているのと同様に失敗しているのであって、当時の歴史的状況や生活様式、また、一般的な言語の用法を理解したからといって、ナザレのイエスゴータマ・シッダールタも、同じような様式や用法で言葉を用いていたかどうかはわからない。現に、私たちも、家族や友達の間というような狭い関係においては、一般的な言葉の使い方とは異なる独特な表現を用いたりするのであって(ギャル語の生成過程と用法を見よ!)、ある特殊な信仰を共有する狭い間柄で交わされたコミュニケーションが、その当時の一般的な言語の用法と同じとは限らない。



そのように、ナザレのイエスの語った教えが、以前のユダヤ教のラビたちによって、すでに語られていたことだからといって、イエスが、このようなラビたちと同じ意図で、同じ用法で、同じ意味で語っていたわけではない。現に、イエスは、ユダヤの教えに依拠しつつも、ユダヤ教の壁を超えて行動することによって、パリサイ派や律法学者ら厳格派の目を丸くさせているし、激怒させている。キリストの光のもとで、聖書が照らされているがゆえに、我々は、キリスト以前の聖書を「旧約聖書」と呼ぶのであり、ユダヤ的伝統とは異なる光のもとに聖書を読むのである。ユダヤ的伝統から、歴史上の「ナザレのイエス」があきらかにされるのではなく、律法と預言者によって約束され、使徒たちによって証言された、信仰上の「イエス・キリスト」の生涯によって、ユダヤの律法と預言者によって語られてはいたが、ユダヤ教の枠組みを超えて聖書を完成させるものとして、「世の初めから隠されていたもの」としての父(アッバ)なる神の愛(アガペー)が、その「ひとり子」なる神によってあきらかにされるのである。



「イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。これは預言者によって言われたことが、成就するためである、「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」。」 (マタイ福音書13:34ー35)



「わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである。それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった。しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった。このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。したがって、あなたがたはもはや僕ではなく、子である。子である以上、また神による相続人である。」(ガラテヤ4:1ー7)



「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。もし罪を宣告する務が栄光あるものだとすれば、義を宣告する務は、はるかに栄光に満ちたものである。そして、すでに栄光を受けたものも、この場合、はるかにまさった栄光のまえに、その栄光を失ったのである。もし消え去るべきものが栄光をもって現れたのなら、まして永存すべきものは、もっと栄光のあるべきものである。こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 」(第二コリント3:6ー18)



「神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(フィリピ3:3ー12)



「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ福音書5:39)



「わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。しかし、モーセの書いたものを信じないならば、どうしてわたしの言葉を信じるだろうか」。 」(ヨハネ福音書5:45ー47)



「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」(マタイ福音書13:16ー17)



結局、「歴史的イエス」を発掘するために、それぞれの研究者が引っ張ってくる当時の歴史的資料とその解釈もさまざまであって、ある研究者は、「歴史的イエスは、聖書に書かれているよりも、もっと原理的なユダヤ主義者だった  」と言い、また、別の研究者は、「歴史的イエスは、ユダヤ教にとっては異端のヒューマニストだったけれども、教会のユダヤ主義者によって、ユダヤ寄りのメシアとして表現されたのだ」と、まったく逆の主張を導きだし、「ナザレのイエスは、ユダヤ教の中で産まれ、ユダヤ教の教えのなかで生きていたから、ユダヤ教の言葉を用いていただけで、もし、イエスが現代に産まれていたとしたら、イエス共産主義の闘士になっていたに違いない!」と結論するのである。



こうして、「歴史的イエス」から「本来のイエス」を発掘しようという試みもまた、それぞれの研究者が、それぞれの研究者にとって、そうあって欲しいイエスを導きだすために、資料を探っているだけで、「それぞれの教派に、それぞれのイエスがいる」と揶揄されるような「信仰のイエス」をめぐる混乱以上に、「歴史的イエス」をめぐる研究も混沌としているのであって、誰もが同意するような「歴史的イエス」をめぐる統一的見解というのは、いまだ成功していない。



某推理漫画の主人公の少年探偵の決め台詞のように、「真実はいつもひとつ!」とは限らない。漫画やアニメでは、最後には予定調和的に「ひとつ」の真実や解決に帰着して、メデタシメデタシとなるものだけれども、残念ながら、現実はそう単純ではない。それぞれが、一生懸命に深く研究したからといって、現象の背後に隠された「唯一の真実」に至れるわけではない。歴史学もまた、タイムマシンがない以上、この時代にまで残ることができている資料にその限界を持つうえに、資料を扱う人間もまた、真理の使徒というわけでは必ずしもなく、資料の選び方、関わり方、観方、解釈の仕方もまた、観察者の人格、信念、関心、知識、偏見または野心による視点(パースペクティブ)から自由であるわけではない。できるかぎり主観を排して客観的たろうと努力しているときでさえも、それでも、あらゆる学問は「人間的、あまりに人間的(ニーチェ)」な営みであり、人は、自分に見えるものしか見ないし、見たいものしか見ることしかできない。だからこそ、あらゆる学は、個人のわざではなく、研究者同士が、それぞれの主観を擦り合わせることによってコンセンサス(合意)を導き出そうとする共同体的な営みである。しかし、それでも、新しく発見された資料による新事実によっては、今まで「定説」とされてきたコンセンサスが、ガラガラと根底から崩れさることもある。



そうだとすれば、哲学における「現象学」の試みに倣い、背後に隠された真実としての「歴史的イエス」をめぐる探求をいったんエポケー(判断停止)して、「現象」として私たちに伝えられている「信仰のイエス」を率直に受け取ることによって、そのような「信仰のイエス」が、それぞれの時代と場所で、人々にどのように受け取られ、どのように人間を変容させてきたか、また、現代人である我々にどのように受け取られることができ、現れうる可能性があるかを記述してゆくことによって、キリスト教の本質を探ることのほうが有益ではないだろうか?



「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」(第二コリント5:16)



もちろん、歴史的イエスをめぐる探求が無益というわけではなく、そこから学ぶことも多いけれども、しかし、そうだとしても、玉ねぎの皮を剥いてゆくように、一枚一枚と「信仰のイエス」の皮を剥いていったところで、どこかで「歴史的イエス」が現れるのではなく、どの皮も「信仰のイエス」を表現するものとして、最後には何もなくなってしまうのである。「何もない」といっても、歴史的イエスが存在しなかったというわけではなく、その存在は、「信仰のイエス」として、二千年の歴史のなかにキリスト教を「発火」させた人物として、その火種として実在した人物「X」として知られうるのみである。しかし、実際に燃えている以上、その燃え方によって、いかなる火をもたらした存在であったかを知るのである。そして、「信仰のイエス」をめぐる像が、教派によってどれだけ異なるとしても、ナザレのイエスが、その言葉と行いの全生涯において、神の愛(アガペー)を体現して生きたということは、誤魔化しようのない真実であると思われる。



「わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。 」(マタイ福音書3:11)



「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。 」(ルカ福音書12:49ー50)



「わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。」(ヘブライ12:29)



聖書によってキリスト教が理解されるのではない。逆である。キリストによって、聖書があきらかにされるのである。イエス・キリストとの邂逅によって、「畑に隠された宝(マタイ福音書13:44ー46)」としての神の国の真理が、聖書のなかで発見されるのである。無論、聖書によらねばキリストを知ることはできないことは事実だとしても、何十何百何千という聖書の通読とその研究が、キリストにおける神の国の真理を啓(ひら)き示すわけではない。たとえ、まだ一読も聖書を読めたことがないとしても、宣教者によって伝えられたキリストや、キリストを信じる者によって語られた証(あかし)によって、今まで無味乾燥な文字の羅列であった聖書の言葉のひとつひとつが、意味を帯びて彼に迫ってくることもある。そうして、今まで彼にとって疎遠であった聖書が、宝の宝物庫となって、もう一度、聖書を深く読みこんでみようという思いを彼に呼び起こすことになるのである。



「そこでピリポが駆けて行くと、預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞えたので、「あなたは、読んでいることが、おわかりですか」と尋ねた。彼は「だれかが、手びきをしてくれなければ、どうしてわかりましょう」と答えた。そして、馬車に乗って一緒にすわるようにと、ピリポにすすめた。彼が読んでいた聖書の箇所は、これであった、「彼は、ほふり場に引かれて行く羊のように、また、黙々として、毛を刈る者の前に立つ小羊のように、口を開かない。彼は、いやしめられて、そのさばきも行われなかった。だれが、彼の子孫のことを語ることができようか、彼の命が地上から取り去られているからには」。宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。 」(使徒言行録8:30ー35)



「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。そういうわけで、彼らのうちの多くの者が信者になった。また、ギリシヤの貴婦人や男子で信じた者も、少なくなかった。」(使徒言行録17:11ー12)



「そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。 」(マタイ福音書3:52)

 

 

言わずもがなだが、二千年前にキリストに従った弟子たちは、現代の私たちが持っているような聖書は持っていなかったのであり、安息日シナゴーグで朗読される聖書(律法と預言書)を断片的に知っているのみであった。毎日、聖書の巻物を開いて研究していたのは、キリストを迫害し、十字架へと追いやったパリサイ派や律法学者たちのような宗教的エリートたちであり、キリストに従っていたのは、彼らから「無知で無学な愚か者」とされた、巷(ちまた)の漁師などのような一般労働者や、取税人など罪人とされた人、病人、女性たちであった。彼らは、ただ、イエス・キリストを見て聞いた「信」だけを持っていたのであり、それ以外のものは持っていなかったのである。しかし、その「信」が、彼らに聖書における神の真理のあらゆることを教える「油」を与えたのである。



「そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。」 ヨハネ福音書4:41ー42)



「わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」 (ガラテヤ3:2)



「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」(第一ヨハネ2:27)



「あなたがたは自分で気をつけていなさい。あなたがたは、わたしのために、衆議所に引きわたされ、会堂で打たれ、長官たちや王たちの前に立たされ、彼らに対してあかしをさせられるであろう。こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。」 (マルコ福音書13:9ー11)



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」(使徒言行録4:13)



「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」 (第一コリント1:26ー29)



「そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。 」(マタイ福音書11:25ー26)



よもや、これらのキリストの弟子や使徒たちに対し、現代人の持っている聖書を持ってきて、「あなたがたも知ることのできなかったキリスト教についての最先端の知識を教えてさしあげましょう!」と宣(のたま)う人はいないだろう(と思う)。



聖書をたくさん読んだ者に、神は真理を啓示なさるのではない。あらかじめキリストによって備えられた者に、神は聖書によって真理を啓示なさるのである。神が目を閉ざしておられる者には、たとえ彼が何百何千と聖書を通読しようとも、彼が最後に壁にぶつかって砕かれるべく、彼を迷いの道へと導びかれる。その目にキリストが隠されている者(そのなかにはキリストを「主よ!主よ!❲マタイ福音書7:21ー23❳」と叫ぶ敬虔なクリスチャンも含まれる)には、聖書は真理の書ではなく偽りの書であり、救いの書ではなく裁きの書であり、命の書ではなく破滅の書である。彼らが「聖書のみ!」を掲げて主張することによって、自分自身のみならず、多くの人を破滅へと至らせる。



「それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。 」(マタイ福音書13:10ー15)



創造の目的と秩序がどーのこーの、霊と魂と精神と肉体の区別がどーのこーの、天国とパラダイスの区別がどーのこーの、ゲヘナとハデスの区別がどーのこーの、携挙の時期や方法がどーのこーの、義認と聖化がどーのこーの、宣義と成義がどーのこーのと、そうした「救い」の段階にも位階序列や等級があって、キリスト以前に死んだ者とキリスト以後に死んだ者、キリストを知らずに死んだ者と知って死んだ者、キリストを拒否して死んだ者と受け入れて死んだ者との間には、厳密に細かく規定された区別(差別?)が存在するだのなんだのと、彼らの深い(?)聖書研究によって、福音のシンプルさが覆い隠されることによって、かえって彼らの敬虔な信仰心によって、自分たちも天国に入らないし、入ろうとする人をも入らせない。誰にも益をもたらさず、自分たちの自己満足に終始した、その複雑怪奇な主張や振る舞いのゆえに、「聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」(ローマ2:24)ことになるのである。

 

 

「彼はだれに知識を教えようとするのか。だれにおとずれを説きあかそうとするのか。乳をやめ、乳ぶさを離れた者にするのだろうか。それは教訓に教訓、教訓に教訓、規則に規則、規則に規則。ここにも少し、そこにも少し教えるのだ」。」 イザヤ書28:9ー10)



「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」(マタイ福音書23:13)



「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。」(マタイ福音書23:15)

 

 

 

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キリスト教は人間を道徳的にするか?〜光に照らされた者の人間学〜

素朴な問い。はたしてキリスト教は人間を道徳的にするか?



結論から言えば、答えは「NO」である。キリスト教の歴史を見てもそうであるし、身近なキリスト教徒を見てもそうである。何より自分自身を振り返ってみても、私は自分自身の道徳性を誇れるような人間では、もちろんない。



しかし、だとしたら、キリスト教の「効用」とはなんであるか? 何も効用がないとしたら、何のためにキリスト教を信じ、他者に教え、勧めようとするのか?



人間にとってのキリスト教の「効用」。それは、人間が人間自身を「問題化」することであり、人間の存在とその歴史を「問題」として、常に徹底的に追求してやまないことにある。人間が、人間にとって常に深刻な「問題」の対象となること、それがキリスト教が人間世界にもたらす「効用」である。



日本人で、西洋思想や西洋哲学に触れたことのある者なら、誰しもその膨大な量の言葉の密度に圧倒されるものだけれども、日本人が「人間とは〇〇である!」と、格言として単文的に述べるにとどめるところで、彼らは同じ結論に至るために、何百ページに至る辞書並みの分厚さの紙幅と文字を説明に費やすのである。



それで、哲学思想に関心のある多くの若者は、哲学書を数ページ開いてみたところで、「あ………やっぱりやめよう」ということになる。文章の硬さについては翻訳の問題もあるけれども、そのような西洋思想に触れた多くの日本人は、素朴な問いとして、こう思う。「なぜ、彼らにとっては、人間とその社会が、これほどまでに問題となるのだろう? 日本人にとっては、彼ら(西洋人)が、問題のないところにわざわざ問題を掘り起こして、あえて問題をつくりだして追求しているように思える。どうして、人間というものに、彼らはそんなに関心を寄せるのだろう? 日常が、何の問題もなく、滞りなく過ぎておれば、それでいいじゃないか。それとも、そんな役にもたたないような『哲学』なるもので退屈をしのがなければならないほど、彼らは暇なのだろうか?」と。



なぜ、「なにも無い」のではなく、そこに「無」が「在る」のか? なぜ、多くの人が、何事もなく通り過ぎてゆくなかで、そこに「問題」を見出し、問おうとする者がいるのか?



闇のなかでは、なにも見えないし、なにも存在しない。スポットライトに照らされたところにだけ、「存在」があらわになるように、ただ、光が当てられるところにだけ、「存在」は可視化される。ただ可視化されるだけではなく、その陰影によるゴツゴツとした質感を含め、「これは何であるか?」といった問いによる観察と分析の対象ともなる。



「なにも無い」と言葉にするまでもなく、多くの人がただ通り過ぎてゆくなかで、「これは何であるか?」と問うて立ち止まる者には、他の人には見えない「存在」が見えており、そこを照らす光が彼には「在る」。多くの人にとって、彼は狂っているように見えているとしても、彼は多くの人を照らす光とは、別の光のなかに生きており、それによって、別の「存在」と別の「世界」のもとにも生きている。科学者と信仰者は、どちらかが狂っているのではなく、それぞれが、異なる光のもとに、異なる「存在」に関わりを持ち、異なる「世界」を生きている



もともと存在しているものを私たちが認識するのではない。そうではなくて、光によって照らし出されることによって、私たちが認識し、問い、関わる対象が「在る」ようになるのである。



闇のなかでは、自分の体は見えない。ただ、光に照らされた者のみが、自分自身の体を見、その汚れを見ることができる。光こそが、人間の罪と悪とを可視化する。光に照らされた者のみが、自分自身に関心を持ち、自分の罪と正しさについて問うことができる。自己の、自己自身による、自己自身に対する関心と配慮、そして、人間の、人間自身による、人間存在そのものに対する関心と配慮の強度は、照らされた光の強度に比例する。



「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」(ヨハネ福音書1:1ー9)



「イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。」 ヨハネ福音書8:12)



「イエスは大声で言われた、「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく、わたしをつかわされたかたを信じるのであり、また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。 わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」 ヨハネ福音書12:44ー48)



なぜ、道徳や法がそつなく履行されて、社会秩序が保たれているだけではダメなのか? なぜ、外面的な行いだけではダメで、道徳や法を行う際の人間の心が偽善ではなく、真心からの愛の「真実」でなければならないのか? なぜ、人間とその世界が、「中庸」によって、そのつどの状況をのらりくらりと、「うまく」かわして生きのびるだけではダメで、絶対的な「善」を目指さなければならないのか? なぜ、人間の歴史が、一時の安定と現状肯定に満足することなく、常に「完全」を目指して、神の国を「前」とし、地の国を「後ろ」として、たえず前進してゆかなければならないのか? まさに、それは、人間の「外面(そとづら)」の正しさを貫いて、隠された内面のグロテスクな情念を「可視化」して、その「偽善」を「問題化」するような光がそうさせる。



「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。」(第一ヨハネ1:5ー10)



「「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。」(第一ヨハネ2:9,10ー11)



彼ら(西洋人)の、人間存在の追求に対する、その具体性の関心の強度は、キリストによる「神の国」の光に照らされた、「地の国」の自己自身への関係として、「神の国」と「地の国」との間の落差のなかで、くっつくことも離れることもできない緊張状態にその淵源をもつ。



「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」 ヨハネ福音書3:17ー21)



「そこでイエスは彼らに言われた、「もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。」(ヨハネ福音書12:35ー36)



「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。」(第二コリント4:6ー7)



パラノイア(偏執病)が、客観的には何の問題もないにもかかわらず、自分の外見や振る舞いについて、常に問題を感じて、不安で生活が立ち行かなくなるように、一面では、西洋のキリスト教文化による、人間に対する徹底的な関心と追求も、そのようなパラノイアに比較することもできる。実際、キリスト教に批判的なニーチェなどは、自然としての人間を「罪人」として徹底的に問題化する、そのようなキリスト教の態度を「パラノイア的」と表現していた。



しかし、あくまでも、キリスト教においては、人間の「自由」のために、人間の存在を「問題化」するのであって、宗教や道徳のゆえに、生活が立ち行かなくなるような病的な「潔癖さ」をも含めて、人間自身を「問題化」する。「自由」は、所与のものではなく、キリストにおいて啓示された「神の国」に属するものであるから、神の国の「自由」をキリストにおいて見た人間は、「律法」による裁きの恐怖という鎖を纏うためではなく、それらを脱ぎ去るために、自由の「福音(嬉しい知らせ)」によって、道徳や宗教による隷従をも「問題化」する。



「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイ福音書11:28ー30)



「イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。」 ヨハネ福音書8:31ー36)



「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。…キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。…兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤ5:1ー6,13ー24)



まことに、愛(アガペー)こそ自由なものである。愛こそ、自分の意志に反してではなく、自分の意志によって他者に自由を与えて平和をはかるものであり、自分の意志と他者の意志とを、宗教や法や道徳で縛り上げて、それぞれの自由を否定することで、嫌々ながら共存をはかることとは、真逆のものである。



ホッブズスピノザやロックなどのような、社会契約の哲学が主張しているように、人間の自然性の行使と拡大による自由だけでは、その自由のうちに他者の生命や自由や所有物を奪って自由を拡大することが含まれるゆえに、それだけでは他者との間で「万人の万人に対する闘争」は避けられず、結果として、平和のために必ず法や道徳の拘束を必要とする。しかし、嫌々ながら、仕方なくその拘束を受け入れている間は不自由である。そうではなく、法や道徳による拘束と、それによる裁きの恐怖によってではなく、愛によって、自分の意志から、他者の生命や自由と幸福を願うときに、「自由」による共存と平和が実現される。法や道徳は、常に刑罰の「否定」を伴うが、愛は、自分の意志から他者の意志を「肯定」するがゆえに「自由」である。しかし、もちろん、長い人類史を見ても、そのような「愛」による「自由」が人間の本性なのではない。そのような「自由」は、「ご自身の自由において善である方」によって、歴史の上で啓示された「愛(アガペー)」に、その存在の起源と力とをもつ。



アウグスティヌスによる「原罪」の概念にはじまり、ルターによる「奴隷意志」、スピノザによる「コナトゥス(自己保存力)」、ショーペンハウアーによる「生きんとする意志」、フロイトによる「イド(欲動)」、ニーチェによる「権力への意志」など、人間の「自由意志」を否定して、人間が自由にコントロールできない、そのような自己本位な欲望や利己心やエゴを、「人間本性」として、あらゆる文化の基礎とするような人間観は、どのような文化にもあるようなものではなく、ただ「ご自身の自由において善である方」によって啓示された「神の国」の光のもとにおいてのみ、そのような「不自由な意志」が「可視化」、または「言語化」されて「問題化」される。



慧眼なニーチェは、そのことを自覚していたし、人間の「自然性」にからみつく、キリスト教による「光」を、弱者のルサンチマンによる「人工的なもの」として否定して、赤裸な「権力への意志」を肯定しようとする自分の哲学が、そもそもキリスト教の「光」を前提としなければ、ありえないものであり、最初から人間の「自然性」のままが肯定されているような文化では、人間の自由意志なるものが問われることもなく、「権力への意志」なる概念そのものが生まれてくることはないし、可視化、言語化されることがない、ということを自覚していた。



その意味で、ニーチェ自身もまた、自身がヨーロッパ文化の子であり、二千年に渡るキリスト教文化の末子として、自分の親であるキリスト教最後に墓の下に葬られるところを、何の感情もなく冷めた目で見つめる異形の鬼子であることを自覚していた(むしろ、その死によって、新しい曙光の到来を待望してもいた)。



ニーチェは、自身とその哲学が、西洋文化の果てに、ヨーロッパ文化によって必然的に生み出されるに至った運命であり、ヨーロッパ文化自身の「自己超克」として、必然的に生まれるべくして生まれた運命の子であることを自覚していた。



二千年のキリスト教の歴史がなければ、彼も彼の哲学も、生まれてくることはなかったのであり、それゆえに、彼は、「キリスト教が存在しなかった世界」なるものを夢想することはなく、彼と彼自身の哲学を肯定するのであれば、彼が吐き気をもよおすほど嫌悪する、二千年にわたるヨーロッパのキリスト教の歴史と文化をも、共に無限回に渡って肯定しなければならない。これこそ、ニーチェの哲学における「運命愛」と呼ばれるものであり、「永劫回帰」と呼ばれるものである。



仮に、あなたの人生の99%が絶望と苦悩に占められているものだとしても、たった1%だけであっても、「こんなに嬉しいことはない! このような嬉しい事が人生にあるならば、私はもう一度、生まれ変わって全く同じ人生を生きてもよいし、一回と言わず、無限回に渡って同じ人生を生きてもよい!」と、心からの喜びを告白したことがあるならば、そのような1%の歓喜を無限回に渡って繰り返すことを欲することによって、残りの99%の絶望と苦悩をも、無限回に渡って繰り返すことを欲したのである。



人生は、「良いとこ取り」はできないのであって、渇きのなかで飲む水が、あらゆる美酒に勝って、体の隅々に渡って染み込んでゆくように、「渇き」がなければ水の「うまさ」もないのである。絶望や苦悩のない人生は、同時に歓喜のない人生でもあるのであり、人生から歓喜だけを取り出すことはできない。歓喜から、苦悩を取り去れば、それは、何の感情ももたらさない、平凡な日常の出来事として消化されてしまうだけである。たとえ人生の汚点だとしても、あなたの人生から、ささやかな出来事の一片でも差し引いたならば、その人生の「あなた」は、今のあなたとは別の「あなた」である。こうして、あなたが、あなた自身を無限回に渡って肯定するならば、あなたが、できることならば無かったことにしたいと思っている人生の諸々の絶望や苦悩の汚点をも、無限回に渡って繰り返して肯定することになるのである。99%の人生の苦悩は、たった1%の、たった一回における人生の絶対的な歓喜によって、無限回に渡って肯定され、無限回に渡って救済される。これが、ニーチェの「永劫回帰」の思想と呼ばれるものである。



さて、私たち日本人も、欧米化により、多くの西洋的な文化や生活様式に触れることによって、無自覚のうちに、このようなキリスト教に由来するような「光」に浴している。我々もまた、他者を批判するときに、「この偽善者め!」と罵ったりするものだけど、そもそも、なぜ、行為の動機は「純粋」でなければならないのか? なぜ、外面だけではダメで、中身までしっかり伴っていることが求められるのか? そもそも、こうした「純粋性」への要求が、あらゆる文化に普遍的なものではない。



私たち日本人は、戦前は西洋列強に対抗するために、また戦後は、戦争に負けた立場から、教化のために西洋的な文化が「普遍的」で、アジア的なものがローカルだと思い込まされてきたけれども、長い人類史から見れば、むしろキリスト教的な西洋文化のほうが「例外的」だということがわかる。人間の内面の純粋性を問い、たえず完全へ向けて自己を批判し、観察し、分析して問題化するようなこと自体が、そもそも「特殊」なことであり、そのままで充実しているような自然としての人間を、家畜のように飼い慣らし、その心と体を「奇形化」させた悪しき文化として、西洋文化自己批判(この自己批判すら、何らかの光のもとでなければ、できないことだが!)を行うニーチェのような思想家たちによって指摘されてきたところである。もちろん、特殊だからといって、普遍性がないわけではないし、歴史が短いからといって、正しくないわけではない。



西洋文化中心主義だ!」と指摘なさる学者たちも、その西洋批判とローカリズムの尊重のために用いる理論的道具立て自体が、西洋由来のものであったりするのであって、彼らもまた、その出自はローカルであっても、学者となるために西洋の大学と、その学問の薫陶を受けていたりもする。「西洋ではない私たちの土地や文化や伝統にも、西洋に負けないヒューマニズムがあるぞ!」と言うけれど、そうした発見を促す視点そのものが「西洋的」であるのであって、当の文化の現地人にとっては、自身の文化がヒューマニスティックであるかどうかは、彼らの関わり知らぬことである。それに、自らの意志から、意図的にヒューマニズムであろうとすることと、文化の慣習のうちに、ヒューマニスティックな言説や行動がレールとして敷かれているがゆえに、意図せざる結果として無意識的にヒューマニズムであることとは、まったく別の問題である。



それゆえ、最近では、私たち日本人の「自然性(?)」からの揺り戻しとして、「実行されない善よりも、実行される偽善」といった主張が巷(ちまた)で、ちらほらと聞かれるようになった。行為の動機の純粋性に躊躇して、なにも善い事が成されずに、困っている人が放置されているようならば、むしろ、不純な動機だとしても、困っている人のために善い事が成されるほうが、結果として善い、というわけだ。



こうしたことは、ドイツの社会学マックス・ウェーバーが、政治家を志望する学生たちに対し、行為の道徳的純粋性を求めるキリスト教的な「心情倫理」よりも、たとえ、その動機は不純で、道徳的には悪しき行為だとしても、行為の結果が善ければそれでよいとして、行為の性質やその動機よりも、結果に責任をもつ「責任倫理」として強調したことでもある。



もちろん、政治家の使命は、自分の霊魂が天国に行くことではなく、国民の生命と自由と安全な生活を守ることであるから、自分さえ正しければよいというわけにはいかない。自分が宗教的に敬虔で、道徳的に正しくても、それで国が滅びてしまっては意味がない。それゆえに、政治家は、国民の安全のために、時には嘘、暗殺、戦争といった「悪」を行使する決断をすることができなければならない。国民の安全と自由のために、汚れ役を引き受けて、自分の霊魂を地獄へと引き渡してもかまわないと決断できる者のみが、政治を天職とする「召命(beruf)」を持つ。



もちろん、ウェーバーは、そのような責任倫理がすべてで、心情倫理などどうでもいいと言いたいのではない。行為の道徳的な純粋性や是非は別として、結果がよければすべてを善しとする責任倫理は、心情倫理の側からの「悔い改め」の監視や批判や矯正の要求がなければ、無際限な「力」の追求と崇拝に陥るのであり、必然的に、聖書においてキリストを誘惑した悪魔との契約を交わすことになる(マタイ福音書4:8ー10)。やはり、権力というのは悪魔的なものであって、当初は国民のために求められた力の追求も、それが大きくなるにつれて自己目的化し、国民の安全を守るという「使命」は忘れさられて、自国民にも他国民にも、恣意的に権力を行使する、野蛮な「怪獣(リヴァイアサン)」へと成り下がる。まさに、20世紀は、そのようなキリストの「光」をかなぐり捨てて、人間の自然性による「力」の追求を絶対的に肯定しようとするファシズム全体主義によって、破滅的な戦争の世紀をもたらすことになった(ちなみに、ニーチェの著作はヒトラーの愛読書でもあった)。



言われるところの、「実行されない善よりも、実行される偽善」という言説も、短期的に見れば、その善によって利益を受ける人がいるのだから、誰にも難癖をつけられる筋合いはないように思われるけれども、長期的に見れば、そのような偽善を是とし、偽善者の望むままに称賛や報奨や承認を与えてやることは、社会の道徳的な規範に深刻な影響をもたらす。



ごくごく普通に考えて、ありあまる富や力を持っているなら、それらを世のため人のために用いるのは「当たり前」のことであって、称賛や承認と引き換えでなければ、そのような富や力を引き出さないことのほうが「おかしい」のであり、むしろ「恥ずべきこと」なのである。



「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」(ルカ福音書17:7ー10)



ありあまる富や力を持ちながら、自分の私益の殻に引きこもり、承認や称賛と引き換えでなければ、その富や力を社会のために行使しないのは、「ダサく」て、「カッコ悪い」。そういった規範や社会の空気をつくってゆかねばならないのであって、「実行しない善よりも、実行する偽善」だからと、彼らにホイホイと承認を与えて甘やかすことで、彼らを増長させ、また、そのような人間を持ち上げることによって、多くのカネを稼いでいるがゆえに、自分は偉いと勘違いする男(または女)を社会に増産させることになる。



「誰の稼ぎのおかげで食っていけてると思ってんだあ?」と呟くモラハラ男(またはモラハラ女)といい、超売れっ子の有名人で、会社や社会への貢献度によっては、パワハラやセクハラが押し通ると思い込んでいる勘違い野郎(または勘違いアマ)といい、すべて同じ根から発するものである。



高額納税者だからいって、政治に口出しできる「特権」を求めることが馬鹿げているように、稼いでいるがゆえに、人を私物化し、家庭を私物化し、会社を私物化し、国家を私物化することができると考えることができてしまうことが、そもそも「おかしい」のである。持てる者が、社会を支えのは当然であり、それを見返りを与えられるべきサービスだと考えていることが、もうすでにカッコ悪くて、みっともなく、そしてダサい。多くの富や力を持ちながら、自分自身のことに汲々としており、人からプライドをくすぐられなければ、自分自身を公共のために与えないということが、もうすでにダサい。合法だとか違法だとか、道徳的に正しいとか間違っているとかではなく、尊敬に値する美しい人間の在り方としての「美学」として、そうした規範や空気を社会に醸成していくことができなければ、「稼いでいる者が偉い! 強い者が偉い! 人気のある者が偉い!」と、いずれ野放図な「力」の礼賛へと、社会は傾いてゆく。



「金(カネ)こそ力!」というのは 赤裸な真実であるけれども、そのような露骨な力に手綱をかけるのが、道徳や宗教であり、また文明の役割。そして、武力や権力などのような野放図な力の肯定に手綱をかけてコントロールするのが政治であり、政治がそのような使命を怠ることがないように手綱をかけるのが、市民の文化であり、その成熟度としての民度である。キリストの「光」に照らして、人間の道徳的行為の「純粋性」を問う「心情倫理」は、まさに、このような市民の「民度」の成熟を促すことに関わっている。政治の腐敗は、社会の腐敗の結果であり、社会の腐敗は、文化の腐敗の結果であり、文化の腐敗は、市民の民度の未成熟の結果である。



まさに、「責任倫理」によって、地を這う蛇のように、人間は大地の現実に賢くなければならないが、また、同時に、「心情倫理」によって、天を飛ぶ鳩のように、人間はキリストによって照らされた「神の国」の光に素直でなければならない。このふたつのうち、どちらを欠いたとしても、人間の世界は破滅である。



「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。」(マタイ福音書10:16)



したがって、どのような政治的主張も、彼らの反対派の存在を認めなければ、自分たちが野蛮な「怪獣」になり得るということを認めなければならない。とりわけ、現実主義者による大地の論理も、彼らが理想主義者の批判や監視を「アタマがお花畑のパヨク!」と一蹴すれば、世界が彼らの思うようにスムーズに進行するわけではない。現実には必要だからと、露骨な「力」の追求と依存に傾けば、気付かないうちに、自分たちが、自分たちでもコントロール不可能な「怪獣(リヴァイアサン)」へと変貌しているという可能性を排除できない。他方、理想主義者も、彼らの理想のために必要な現実的なリソースの分析を欠けば、遠くばかりを眺めて歩いているがゆえに、足元の石ころに躓いて倒れることになる。「思いは必ず実現する…」と、一足飛びに人間が「神の国(支配)」へと至れると考えてはいけない。「神は天におり、あなた地におるから(コヘレトの言葉5:2)」である。この地上においては、「神の国」の在り方は、十字架の痛みと血と敗北の姿以外のものではありえないということを認めなければならない。復活の勝利は、その後で「来る」のである。



こうして、野党のない与党はありえないし、平和主義者または非戦主義者の介入を伴わない軍事路線もまた、ありえない。どちらも、一方を欠けば破滅である。「こんな人たちに負けるわけにはいかないんですよ!」と政治的対立を「敵」と「味方」に分けるのではなく、イギリスの議会において、その議員たちが、自分たちの政治的主張が通ることを喜ぶよりも、反対派に元気がなく、鋭い反論もなく議論が深まらないまま、なあなあのうちにすんなりと自分たちの主張が通ってしまうことを嘆くように、野党の存在や反対派の批判があることを嘆くのではなく、野党が鈍感で、その批判の切れ味が鈍くて、議論が深まらないことを嘆かなければならない。議会制民主主義の目的は、絶対的な真理の確保ではなく、そのための勝った負けたの領土の争いではないのだから、人間社会における諸問題の可視化、透明化、問題化を担う「協働者」として、また、一方を「神」として絶対化することを防ぐための必要不可欠の存在として、反対派の存在を常に必要とし、また認めなければならない。



民主主義は、多数派の独裁と言われる。たしかに、数の論理が物を言い、少数派は脇に追いやられることが常であるけれども、しかし、民主主義の目的は、討議と透明性にあるのであって、たとえ、今は、少数派の主張が脇に追いやられているとしても、どのような小さい些末な主張も議題に上がり、その討議がメディアを通じて「可視化」されることのほうが重要であって、粘り強く議題に上げることによって、輿論を形成し、それによって多数の支持を得られる可能性もありうる。また、そのようにメディアによって問題が「可視化」されることで形成された世論によって、公助にまでは至らなくても、共助によって問題の解決に至ることもあり得る。そもそも、非民主的な権威主義の社会では、そのような少数派の存在が議題に上がることもないし、その主張が可視化されることもない。どんな少数派の存在と主張をも取りこぼさず、可視化することを目的とする透明性こそが、民主主義の正当性を保証する。



たしかに、民主主義は最善の制度ではないかもしれない。しかし、以下のことは確実である。すなわち、ある個人に神としての絶対的な権力を与えるような神格化や、人間集団の神格化を許さないこと。また、人間存在そのものの「神化」を認めないこと、これらのことは、人間が存在する限り、確実に正しいことである。



神に等しいとされた権力者の「お気に入り」が、社会の要職を占めるような社会が間違っていることは確実である。そして、男だとか女だとか、高貴な身分だとか卑しい身分だとか、金持ちだとか貧乏人だとか、学歴があるとか無学だとか、あらゆる属性に関わりなく、すべての人が、様々な責任を全うできる資質によって平等に評価される社会が正しいのは当然である。また、社会のなかに無限に広がる多様な需要に応えるために、万人に潜在している多様な資質や能力が等しく評価され、今はカネにならず、役に立たないからと無視されている様々な能力や資質をも含めて、そのようなポテンシャルがいつでも発揮される機会と準備があるように、最低限の文化的に豊かな生活が万人に保証されている平等な社会が正しいのは、当然である。



誰もが神の位置に置かれることのないように、キリストによる「神の国」の光によって、人間がたえず問題化され、また、その帰結として、あらゆる人間の特権を廃し、一部のエリートだけでなく、万民に活躍の機会が開かれることが正しいならば、そのように民主的であることは正しいことである。しかし、その正しさを保証するのは、人間を人間にとってたえず「問題化」する、キリストによる「神の国」の光によるのであって、そのうえで、ひとりひとりの人間を、神の国(支配)へと招いて働かせたもう聖霊の力の正しさによるのである。

 

 

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しかし、「キリスト教は、ナザレのイエスという人間を『神』としたじゃないか? それは、人間を神の位置に引き上げるということじゃないのか?」と問われるならば、こう答えよう。キリストの使徒たちは、ナザレのイエスが乙女(処女)マリヤの腹から聖霊によって産まれたことを証(あかし)することによって、それに応えたと。



ナザレのイエスは、本当に乙女(処女)マリヤの腹から産まれてきたのか? それとも、処女懐胎は、イエスが、ローマ兵によるレイプによってマリヤが身ごもった子であることを隠すために創作された話しなのか? それとも、処女懐胎は、ヘブライ語で書かれた「見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。 」(イザヤ書7:14)というイザヤ書の預言をギリシャ語に翻訳するに際して、単に若い女を意味する「おとめ(アルマー)」を「処女(パルテノス)」と訳した誤訳(七十人訳聖書)を下敷きにした結果にすぎないのだろうか? もちろん、タイムマシンでもない限り、検証は不可能であり、どのような解釈も憶測の域を出ないものであるけれど、このことは確実である。すなわち、処女懐胎は、これから後、人間の腹から出た者で、キリストの代わりを務める者はいないし、認めてはならないというキリスト教信仰者の信仰の表明であり、ナザレのイエスがキリストであり、神のひとり子として、聖三位一体の第二位格であることの唯一性の表明である。それゆえに、人間がそれによって問題化されるべき光は、イエス・キリストによって啓示された「神の国」の光のみであり、人の腹より出でたそれ以外の人間の、いかなるカリスマによる威光によるものであってはならない、ということである。



キリスト教ヒューマニズムについて。

 

ヒューマニズムは、ギリシャ由来のものであって、キリスト教のものではない! ヒューマニズムは、キリスト教ユダヤ的伝統をギリシャ化して堕落させたものだ!」と、原理主義のクリスチャンは主張する。たしかに、キリストのヒューマニズム(?)とギリシャ哲学のヒューマニズムとは別のものである。しかし、問題は逆なのであって、ギリシャ文化とその哲学によって、キリスト教が毒され、侵略されたのではなく、キリストによって「神の国」の光に照らされた初期のキリスト教徒たちが、光によって可視化された自分たちの存在への「これは何であるか?」という問題に具体的に考えて応えるために、明確に表現できる言葉や概念を必要とした、というのが正解であって、単に当時優勢であったヘレニズム文化に適応するための方便としてギリシャ哲学が参照されたのではない。彼らは、ギリシャ的な教養人を説得するためだけではなく、キリストの光に照らされて可視化された自分たち「人間」の問題を解明するために、ギリシャ哲学を用いたのであり、彼らがギリシャ哲学の言葉を用いて訴えたかった相手は、まず自分自身の良心に対してであり、その理性に対してであった。長老ヨハネの名で書かれた福音書や手紙が、グノーシス的な言葉を用いているからといって、ヨハネ福音書グノーシス主義ということにはならないし、パウロがストア的な物言いをしているからといって、パウロストア派の哲学者ということにはならない。それと同じように、初期のキリスト教徒たちがギリシャ哲学の言葉を用いたからといって、彼らが、ナザレのイエスを「パレスチナソクラテス」として証明しようとしていたわけではない。



たしかに、マルキオン(新約聖書聖典化に関わりながら、キリストにおける愛の神と、ユダヤ教の怒りの神とは相容れないとして、ルカ福音書と一部のパウロ書簡を除いて新約聖書聖典化から排除しようとした人物)のように、キリスト教からヒューマニズムだけを残してユダヤ的なものを排除しようとする試みが間違いであることは事実であり、キリスト教は単なるヒューマニズムにおさまりきるものではないにしても、それでも、キリスト教からヒューマニズムを否定しようという原理主義者が、意図的にか無意識的にか、キリストの教えから、いつも愛(アガペー)の教えの部分だけをきれいに抜いてしまっていることもまた、間違いであって、「安息日は、人間のために設けられた。人間が安息日のためにあるのではない(マルコ福音書2:23ー28)」という、ユダヤ的なものにとっては激怒するような(実際、激怒したわけだが)、キリストのヒューマニスティックな部分が見落とされている。神は、その全き自由な愛から、キリストにおいて人間のために働いておられるのであって、人間が、人間の自由において、人間の自由のために、破滅からの救済としての、新しい自由な生命を得ることを望んでおられる。キリストはご自身を信じることのみならず、ご自身に従うことをも望みたもうのであって、これをキリストの「ヒューマニズム」と言わずして何というのか? キリストを信じる者が、キリストに従うのではなく、キリストの足跡に自分の歩むべき「道」を見出した者が、キリストを信じるのである。そして、その「道」は、信じる者に啓(ひら)かれているだけではなく、キリストによって「神の国」の光が照らされたところであるならば、いかなる時と場所であろうとも、誰にとっても、その「道」は照らされているのである。

 

 

最後に、キリスト教と道徳について一言。

 

「世界を善く変えるのは、道徳や倫理などの人間の力によるのではなく、再臨のキリストによってもたらされる神の国(支配)の力よるのであって、道徳や倫理によって、人間が世界に何事かを成そうとするのは、人間の思い上がりである!」と、よく言われる。それは、まったくそのとうりであるけれども、だからといって、私たちが教会のなかで、ただ座して祈りながら、来るべきキリストの再臨を待っていることが勧められているわけではない。イエス・キリストによって、神の国の光に浴した我々は、その啓示された福音に従って、神の言を宣べ伝え、またキリストの歩んだ足跡に従うことによって「待つ」のであり、主人の不在の間、家の者の世話をし、彼らの日毎の必要のために働く「思慮深い忠実な僕」こそが、主人の帰宅の際に、主人の信頼を得て、主人の財産を管理する資格を得るのである(マタイ福音書24:45ー47)。そしてまた、主人が不在の間に、主人から預かったタラントを用いて利益を出し、その財産を増やした者が、主人の帰宅の際に喜びの宴会を共にし、主人の信頼を得て、主人の財産を管理する資格を得るのである。他方、イエス・キリストの言葉や行いを引き受けておきながら、「余計なことをして主人に怒られるのが怖いから…」と、それを教会のなかや、聖書のなか、自分の頭のなか、自分の心のなかの懐で温めておいて、神の言を用いて世界に何ももたらさず、何も増やさず、何も創造せず、何も関わろうとしなかった者は、「怠惰な僕」として主人の家から退けられるのである(マタイ福音書25:14ー30)。私たちは、「目を覚まし」て待つのであり、「備え」て待つのであるが、それは、信じることによって目を覚まし、従うことによって備えて「待つ」のである(マタイ福音書25:1ー13)。審判は突然にやってくる。その際、どれだけ備えていたか決算を求められる。主人から賜物を与えられて、何も成さないくらいならば、むしろ与えられなかったことのほうがマシである。



「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」 (ルカ福音書12:47ー48)



たしかに、「この世」を、その悪と共に根本的に廃棄して、「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない神の国」(ヨハネの黙示録21:1ー4)を来たらせるのは、神の力によるのであって、人間の努力によるのではない。それは、事実である。人間が、自分たちが神にでもなったかのように、その力で何事でも成せるかのように勘違いすれば、人間の力では如何ともし難い罪による限界の前に挫折することは確実である。しかし、すでに、キリストにおいて「神の国」は介入した。地上は「神の国」の光によって照らされた。福音は宣べ伝えられた。種はまかれた(マタイ福音書13章)。一粒の麦は十字架上で死んで、多くの実を実らせるべく復活した(ヨハネ福音書12:24)。たとえ、私たちにキリストに従いつつ備える力がないとしても、私たちの「助け主」として遣わされた聖霊が、私たちの内側からキリストにおいて働くのである。



「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。…しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。 」(ヨハネ福音書 14:16ー20、26)



文明の歴史とは、生ける神の言(ロゴス)としてのイエス・キリストそのものが生きる歴史であって、人間が生きる歴史ではない。そのキリストを啓示して、我々人間の内面と外面の全存在において、永遠に共におらせたもう聖霊の歴史である。何が私たち人間に、大地の現実に満足させず、善き世界の希望を夢見させるのか? また、何が大地の現実を問題化し、私たちに善き生に向けた努力に向かわせるのか? たえず限界状況の壁にぶつかり、神の国の理想と地上の国の現実との間の距離に「うめき」ながら、それでもなお、人間の歴史における善の可能性のために一歩でも前進し、希望を絶やさずに努力し、学び、考えて、がんばる力を与えられる、そのようにして私たちの内側から働く力とは何か?



「それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。」 (ローマ8:23ー27)



蝶が窮屈な蛹を脱ぎ捨てて羽化するように、聖霊によって私たちの内に宿りたもうイエス・キリストが、外へ出ようとして、外へ外へと内側から私たちを叩くのである。まさに、私たちの内側と外側から(内側からは外に出ようとして、外側からは内に入ろうとして)、ご自身を顕そうと叩くキリストに押されることによって、私たちは「うめき」つつ、前に向かって一歩一歩、足元の石ころに躓いて転ばぬように(転んだとしても、何度も起き上がって立ち上がるべく)、遠くの目標を目指して歩む人間の歴史が形成される。



「わたしは眠っていたが、心はさめていた。聞きなさい、わが愛する者が戸をたたいている。「わが妹、わが愛する者、わがはと、わが全き者よ、あけてください。わたしの頭は露でぬれ、わたしの髪の毛は夜露でぬれている」と言う。」(雅歌5:2)



神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。」(ルカ福音書17:20ー21)



いったい、石が「うめく」ことがあろうか? 死人が「うめく」ことがあろうか? 変化しない死せるモノは「うめく」ことはない。すべて「うめく」ものは、変化するもの、生きているもの、生命を持つものである。「うめき」は生命の生成変化と成長の徴(しるし)である。聖霊が、キリストにおいて、私たちが地の国を後ろとし、神の国を前として歩みださざるをえないように、私たちに「うめき」を与えられる。私たちが怠惰に座り込んだままでいようとしても、聖霊がそれを許さない。私たちがいてもたってもいられず動き出さざるをえないように、私たちに「うめき」を与えられる。神を汚す言葉も、キリストを汚す言葉も許される。しかし、聖霊を汚す罪が許されないのは、聖霊を汚すことは、自己を偽ることであり、自己欺瞞であるからだ。自分の深い内側から、ある事柄や言葉が真だという声が聞こえており、それが真理だと認めておきながら、自己を偽って、古い自己との間の葛藤における「違和感」や「うめき」をごまかして、ないもののようにするからだ。聖霊に対する罪は、自分自身に対して犯すのであり、すなわちそれは、「正直ではない」ということである。(マタイ福音書12:31ー32)



教会において、よく献金を渋った罪人として強調されるアナニヤとサッピラも、献金を渋ったことが問題だったのではなく、「教会を支援したい!」という聖霊の思いを欺き、「でも、ちょっともったいないな〜」という自分の本音をも欺き、自分の手元に財産を残しておきながら、使徒の前で「全財産を献金しました!」と言って使徒をも欺いたことが問題であったのであって、財産がもったいないならば、自分に正直に献金などしなければよかったのだ。それなのに、神を欺き、人を欺き、自分自身をも欺いて、誰に対しても正直ではなかったことが、アナニヤとサッピラの罪であり、聖霊に対して犯した罪であったのだ。(使徒言行録5:1ー11)



聖霊が、我々のなかにあって「うめく」。人間の文明の歴史は、人間に「うめき」を与えたもう聖霊の歴史である。それは、神の国を求め、大地の現実に満足しない心の「うめき」であり、人間の現実を照らし、それを問題化する光に晒されたことによる「うめき」である。そうした「うめき」を放棄して、人間が自己の自然性に開きなおって「スッキリ!」しようとするとき、人間は、破滅へといたる野蛮な獣性に自己を明け渡すことになるのである。



「うめき」を欺いてはいけない。「違和感」を欺いてはいけない。「葛藤」を欺いてはいけない。総じて「自己自身」を欺いてはいけない。妊婦が、お腹を蹴る胎児によって、生きている生命の躍動を実感するように、私たちの内側から扉をたたく存在による「うめき」こそが、聖霊によって生きて働くイエス・キリストの存在を表現するのである。

 

 

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足元を掘る〜宗教の可能性と危険性について〜

前回、現代社会の政治的状況と、その社会における宗教的価値の必要について書いた。

 

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私の立場は、「人権」などの近代的価値を支持しつつ、しかし、そのような「人権」が意味あるものとなるためには、その由って来たる源泉である宗教的価値からエネルギーを供給し続けなければならない、というものである。

 

 

現状維持を求めず、「新しいもの」を志向するという意味では「革新」だけれども、そのために、「古いもの」としての宗教や伝統に拠り所を求めるという意味では「保守」である。人権のために宗教を犠牲にしようというのでもなければ、宗教のために人権を犠牲にしようというのでもない。「新しいもの」だけでやっていけるほど人間は賢くないが、「古いもの」だけでやっていけるほど人間はわかりやすく単純ではない。

 

 

しかし、である。それでは、「宗教」が持つ排他性や独善性、狂信的な集団主義や、逆に、狂信的な個人主義など、それらによる暴力性はどうすればよいのか? 近代社会は、そのような宗教による文化闘争、世界観闘争を回避するために、宗教的な価値や、宗教的コミュニケーションを公共の場から廃し、個人の内面や私的な領域に封じこめてきたのではなかったのか?

 

 

とはいえ、その結果、たしかに宗教の独善的な押し付けや、宗教間の終わりのない争いから、社会が解放されたのは事実だとしても、そこで新しい問題が生ずる。人は、もはや自己の肉体や、自分が属する人間関係を「超えた」ものを持たず、また、そのような「超越」をめぐるコミュニケーションを持たないことによって、新しいかたちで分断や争いが生じる。もはや、人間にとって、生きる目的が、肉体の維持と快適な生活の維持以上のものを持たないことによって、人生の「痛み」や苦悩を徹底的に拒否する結果、より弱い立場の人間にその「痛み」を移譲することでもって、自分たちの安心、安全、便利、快適な生活空間を守ろうとする。「痛み」を伴わない正義や公正、そして平和は、この世界には存在しない。正義と公正に満ち、平和的な社会が保たれるには、それぞれが、それぞれに担える程度に応じて「痛み」を引き受けて分かち合うということを回避することはできない。誰も彼もが、そうした「痛み」を回避して、自分より弱い弱者に押し付ける結果、社会は、弱者と強者、貧しい者と豊かな者、既得権受益世代と見捨てられた世代に分断されて、終わりのない世代間闘争、階級闘争を避けられなくなる。

 

 

そのような大げさな「闘争」なんてものは、平和な日本には存在しないとおっしゃるかもしれない。しかし、目に見える暴動や暴力をともなわないとしても、すでに多くの人々が、自分の個人的な生活と、自分の家族と、その親しい間柄の人間関係にしか関心がなく、その外で、社会の片隅で困窮している人々については関心がない。そのような「赤の他人」は、そもそも視界に入らず、そのような「他人」が困窮していることを目にしたり、耳にしたりしても、「なんであんなに困ってるんだろう? あの人には、なにかだらしないところがあるんじゃないか? あの人の自己責任じゃないか?」と、他者への共感よりも、他者の落ち度の粗探しをして、他者に関心を持たない自分の薄情さを道徳的に正当化するための理屈として用いようとする。

 

 

熱い憎悪や暴力的闘争ではないとしても、冷たい「無関心」。それが、現代における「分断」であり、見えないところで静かに互いを傷つけあっている。聖書において、キリストが、「隣人愛」を、隣り人を欠いていて困っている人の隣りに「自分から」行って、彼の「隣り人」になることだと説いたように、社会の多くの人々が、積極的に他者に関心を持ち、他者の喜びや苦悩に参与して共感する愛(アガペー)を欠いている状態こそが「分断」であり、静かな戦争、冷たい闘争として存在している。

 

 

そういうわけで、宗教を社会からなくしたとしても、貧困はなくならないし、差別も、戦争も、分断も、争いもなくならない。何度も繰り返し言うけれども、困っている他者のために「痛み」を引き受けてもよいと思うことができるような心的態度(エートス)を多くの人が持つことができなければ、正義や公正は社会に実現しない。他にどんな方法があるのだろう? どうすれば、宗教的な価値に訴えずして、狭い自己と、その自己が共感可能な人間関係を「超えて」、社会の片隅で困窮する他者に関心を持ち、彼らのために「痛み」を背負いうる心を持つことができるのだろう?

 

 

「宗教」や「キリスト教」を批判する際に、よく担ぎだされるのが哲学者のニーチェだけれども、ニーチェキリスト教に対する個人的な好悪に関係なく、ニーチェが見出していたのは、キリスト教がヨーロッパにおいてすでに「オワコン(終わったコンテンツ)」となっているという「事実」であり、19世紀のキリスト教社会では、誰も彼もがクリスチャンであるが、本気で神を信じている者は誰もおらず、聖書を本気で信じている人も、もはや誰もいない。ヨーロッパにおいて、キリスト教徒であることは、公共の場におけるネクタイのように、社会のなかで自分を一人前の社会人であるように「見せる」ためのアクセサリー以上のものではなく、ヨーロッパにおいては誰もがクリスチャンであるにもかかわらず、キリスト教の神は人々のなかからもうすでに死んでいるという「事実」であった。



ニーチェが問題にしたのは、ヨーロッパにおいてキリスト教がもうすでに力を失っているということであり、キリスト教は、個々の人間に対して自己を「超え」させる力をもはや持たず、社会での馴れ合いの状況から個人を引き離して、「単独的」な創造者として新しい価値を創造させる力をもはや持たないということであった(むしろ、ヨーロッパのキリスト教国においてキリスト教徒であることは、社会に首尾よく適応し、何事もなく安全無事な地位と生活を確保するための処世術以上のものではなかった)。



そこで、そのような「神の死」というニヒリズム虚無主義)の既成事実のなかで、どのように人間は自己を「超える」ことができるのか? と、ニーチェは問うた。



ニーチェが最も嫌悪したのは、人間が、もはや自己を「超える」ことなく、「ありのまま」の馴れ親しんだ自己に引きこもり、同じ感性、同じ趣味、同じ思想を持つ親しい間柄の人間たちと、羊の群れのように互いに寄り添って温もりあっている畜群感した近代人であった。馴れ親しんだ温かい家に引きこもったまま、もはや何も産み出さず、創造せず、何も冒険せず、何も憧れを抱かず、外に飛び出すこともない、そのような、ひたすらどこまでも現状の維持と肯定に徹する近代人を「末人(終わった奴ら)」として、ニーチェは軽蔑した。



他方、そんな「末人」の対極としてニーチェが示したのが「超人」であった。「超人」とは、たえず自己を「超え」出てゆくものであって、単に「ハートが強い」とか、「パワーが強い」といったような「スーパーマン」を意味するものではない。「超人」とは、冒険家が、馴れ親しんだ温かい自分の家を飛び出して、凍えるような風雪をものともせず、自分が憧れる未知の領域へと駆り出してゆくように、既存の自己や親しい間柄の人間関係を「超えて」、それによる不安や孤独をものともせず、新しい価値の創造を目指し、世界に新しいフロンティアを開き示す者のことであった。



それゆえ、「超人」とは、自分の生命、自分の安全、自分の幸福、自分の平安、自分の充実といったような、近代人の「自己保存」の原則とは真逆のものであり、「超人」もまた、他者のためや、社会や世界の運命のために自らを捧げる。しかし、それは、神が命じることを行って、神を喜ばせて天国へ行きたいがために自己を捧げるのではない。ただ、溢れんばかりに持てる者が、憐れみのゆえに貧しい者に分かち与えるように、与えたいから自己を与えるのである。彼にとっては、人生の意味そのものが冒険にあるのであって、自分が見つけたフロンティアに定住することはなく、冒険の過程で見つけた新天地は、それを必要としている者たちにくれてやるのである。モデルになっているのは、十字架上のキリストではなく、無知と未開のゆえに困窮にあえいでいる人類を見かねて、神々の禁忌に背いて文明の火を人類に与えることで、永劫の刑罰の苦しみを自身に引き受けるギリシャ神話の英雄「プロメテウス」であった。



このようなニーチェの「超人」思想が、「自分を肯定する哲学」として、馴れ親しんだ「ありのまま」の自己と、似た者同士で畜群的に寄り集まる人間関係を「肯定」するために、今の自分たちにとって疎遠であり、未知であり、常識を揺さぶるような「宗教」と、その価値と言説に対する食わず嫌い(?)の言い訳と自己正当化のために用いられているというのは、まことに笑うべきことと言う他はない。



自分にとって未知である外の世界を断固拒否し、馴れ親しんだ自己と、その人間関係に引きこもる近代人の「自己保存」と「自己肯定」という、ニーチェの意図とは真逆の目的のために、ニーチェの思想が用いられていることは、まことに哀れむべきことと言う他はない。



もともと、無神論無宗教がデフォルトである日本人が、異物である宗教やキリスト教を排除するために、ニーチェの思想を担ぎ出すことは、ニーチェの誤読以上の何物でもない。その際、ニーチェの思想によって「守ろう」としているのは、今まであった変わらない環境と、その馴れ親しんだ「ありのまま」の自己と、同じ価値観を共有する人間関係であって、未知の領域への「冒険」を拒む自分の「怠惰」「臆病」「弱さ」を、「強さ」または「賢さ」へと変換して誤魔化すための「ルサンチマン(!?)」の表現でしかない。



ヨーロッパと日本では、この意味で文脈が逆さまになるのであって、ヨーロッパにおいては、キリスト教は既存の自己を「守る」ために用いられ、ニーチェ主義はそれを「超え」ようとするものであったが、日本においては、ニーチェ主義が日本人の既存の自己を「守る」ために用いられ、かえってキリスト教が(無教会においては特に!)、日本人の古い自己を「超え」るために主張される。ヨーロッパでは、キリスト教が「保守」で、ニーチェ主義が「革新」になるが、日本ではニーチェ主義が「保守」で、キリスト教が「革新」になる。このように、ヨーロッパと日本では、すべてがあべこべになっている。日本では、保守的なナショナリストがよくニーチェを担ぎだすが、それも故なきことではない。



日本人がキリスト教をもっていないという、ただそれだけのことでもって、日本人の「ありのまま」の自己とその文化を、ニーチェの超人思想の先取りとして、西洋文化の何歩も先をゆく優秀な文化として、「日本スゴイ!」の精神的ナルシシズム、精神的自慰として「愛国者(?)」たちに愛撫されているのは、まことに笑うべきことと言う他はない。



まことに、今の「ありのまま」の自分たちを「保守」するため、キリスト教や宗教という、今の自分たちに異質で疎遠なものを拒否するため「だけ」にニーチェの思想を用いる「近代的」なニーチェ主義者こそ、ニーチェが言うところの「末人」であり、ニーチェが最も嫌悪したところのものである。



まことの「ニーチェ主義」とは、ニーチェの名や、その思想を、今の自分を守り、肯定するための盾として前面に出すのではなく、むしろ、ニーチェの言葉や思想を後ろに置いてきて、今の自分の眼前にあらわれている世界の運命のために、馴れ親しんだ自己や、その人間関係を、たえず踏み「超えて」、彼らのための新しいフロンティアを開拓しようと冒険に駆り出す者こそ、まことにニーチェの思想を継承した者だといえる。ニーチェを読む者は、ニーチェを超えて自己を超えてゆくものでなればならない。そうでなければ、ニーチェキリスト教を嫌悪したのと同じ意味で、ニーチェを偶像とすることになる。



ニーチェとほぼ同時代を生きながら、こちらは生涯キリスト者であったデンマークの哲学者キルケゴールも、彼の時代のキリスト教会への徹底的な批判者であったけれども、キルケゴールは、同じように「守り」に徹しているデンマーク国教会のキリスト教会を批判するなかで、ニーチェのようにキリスト教の「終わり」を宣言するのではなく、むしろ、そのような偽善的なキリスト教会とその社会のなかにおいてこそ、二千年前のイエス・キリストと、その周りに集う使徒たちに共有されていた真実の信仰の復活があると説いた。



それは、ひたすら現状維持と現状肯定に徹するヨーロッパのキリスト教会が、まさに二千年前にイエス・キリストが批判し、そのことによってキリストを十字架にかけて殺したユダヤ教の主流派と「同じ」ということであって、このような「同時代性」のゆえに、キリストが語った言葉や行いと、それによる十字架と復活の運命もまた、二千年の時を飛び越えて、現代の私たちに「同時代的」に迫ってくる。



すなわち、二千年前のユダヤ教の律法学者やパリサイ派が、「律法に書いてあるだろぉ?」と、旧来の慣例踏襲の無思想的な形式主義に堕していたのと同じく、現代のキリスト教会もまた、「聖書に書いてあるだろぉ?」と、無思想的な原理主義に満足して、同じところでいつまでも足踏みをしている。そしてまた、二千年前のユダヤ教徒が、割礼を受けているユダヤ人という既成事実だけで、神の救いと祝福にあずかる資格を備えていると思い、偏狭な選民主義に引きこもっていたのと同じく、現代のクリスチャンもまた、教会で洗礼を受けて、ナザレのイエスをキリスト、そして神の子として信じる信仰だけで足れりとして、それだけで救いが確定されているかのように考え、新しい自己に生まれ変わるのではなく、悔い改めなき「安価な恵み(ディートリヒ・ボンヘッファー)」によって、ひたすら古い自己に引きこもり、旧来の自己の現状維持と現状肯定の言い訳として、キリスト教信仰を利用しているだけでなく、自分たちよりも有徳な異教徒や未信者をも、彼らがキリストを神として信じないという、ただそれだけの理由のために差別して偏狭な選民主義に引きこもる。



現代のキリスト教会とその社会が、このようにキリストを十字架にはりつけた二千年前のユダヤ教社会と「同時代的」であるがゆえに、キリストの足跡に従う「真実」なキリスト者は、不可避的に「単独」たらざるをえないのであって、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛し、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛する(マルコ福音書12:28ー34)」という「真実」なユダヤ教徒であったナザレのイエスが、同じユダヤ教徒によって迫害されて殺されたように、「真実」なキリスト者もまた、同じキリスト教徒によって殺されざるをえない。このような宗教の「同時代性」のゆえに、教会や社会から迫害されてもなお、殉教をもってキリストの教えを広め、その証(あかし)を身をもって示した使徒の信仰の「復活」もまた「同時代的」にあるのであって、いかなる時代と場所においても、キリスト教は「終わる」ことはなく、二千年の歴史を飛び越えて、人は、その時代とその場所において「単独的」にキリストに出会い、その十字架を背負って、復活のキリストに従う。



キリスト教信仰においては、誰もがクリスチャンである場合には、誰もクリスチャンではない。そのような状況でクリスチャンであることは、ただ就活生のスーツのように、既存の社会に適応するためのアクセサリーにすぎず、彼らがクリスチャンであるのは、親や兄弟などの家族や親戚の期待に応えるため、また、お世話になった地域の聖職者や教会の信徒との人間関係への配慮のゆえにクリスチャンであるにすぎず、キリストに従うがゆえにクリスチャンであるのではない。彼らが従っているのは「人」であって、「神」ではない。それゆえに、誰もがクリスチャンであるキリスト教社会の信仰は、どこまでも現状追認と現状肯定となるのであり、キリスト教国家とその社会は、あらゆる固定化した自己とその人間関係を爆砕するダイナマイトとしてのキリストを拒否し、十字架にかけることによって進んでゆく。しかし、そうであればこそ、そのような教会と社会は、二千年前のユダヤ社会と同じく、キリストと共に十字架を背負い、復活のキリストに従う使徒のような「単独者」の信仰を、この時代において育てる養育係ともなりえる。



それゆえに、ただクリスチャンの数を増やすことをもってキリスト教の伝道とし、キリスト教の宣教の目的として、その成果と実績を比べて誇ったり軽蔑したりすることほど愚かなことはない。さまざまな人間的手法の手練手管で、クリスチャンの数を増やしたところで、それによって多くの人がクリスチャンである場合には、そのうちの誰ひとりとして真実なクリスチャンはいない。日本のキリスト教徒が人口の1%にも満たないことを憂い、キリスト教徒の「人口」を増やすことに努力を傾けるよりも、もっと優先すべきことは、人がキリスト教信仰を持つか持たないかに関わりなく、教会の壁を超えて、あらゆる異教徒や未信者や無神論者を含むすべての人が生きる全地に、キリストの言葉と行いの福音を宣べ伝えることのほうが先決であって、福音を宣べ伝えたならば、伝えられたキリストが生きて働いて、しかるべき時にあわせて、しかるべき人を「真実」なクリスチャンとして立ち上がらせる。



「しかし、彼に対する御告げはなんであったか、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」。それと同じように、今の時にも、恵みの選びによって残された者がいる。しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みでなくなるからである。」(ローマ11:4ー6)



まさに、逆説的ではあるが、「見える」キリスト教会の「終わり」の時こそが、実は「見えない」真実なキリスト教信仰の「はじまり」の時であって、多くのクリスチャンが、世界的な出来事としてキリスト教会の影響力が衰えて、クリスチャン人口が激減していることを憂えているいるけれども、まったく逆で、そのようなキリスト教社会の没落によって、「見える」カタチの教会や、「見える」クリスチャンたちの姿が「見えなく」なるその時こそが、隠れたところにおられる「見えない」神に従う、「隠れたるキリスト者」または「無名のキリスト者(カール・ラーナー)」の、隠されていて「見えない」真実のキリスト教信仰がはじまる時である。実在している「まこと」の神が、人には知られず、また見られることもなく「隠れて」いるように、「まこと」のクリスチャンもまた、人に知られず、また見られず、「隠れた」ところで働く。目に見えて、手で触れられるというような存在の「可視性」は、すべて「偶像」の属性であるように、あらゆるところで目につくクリスチャンの存在は、必ずしも「真実」なキリスト教信仰の存在を意味しない。



イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である。」(イザヤ書45:15)



「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」(マタイ福音書6:1ー6)



「そこで彼らにむかって言われた、「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなたがたの心をご存じである。人々の間で尊ばれるものは、神のみまえでは忌みきらわれる。」(ルカ福音書16:15)



ここにおいても、まったく逆説的に、多くの国がキリスト教国家となり、誰も彼もが洗礼を受けてクリスチャンになったというような、多くのクリスチャンが喜びそうなニュースこそ、実はバッドニュースであって、そこには「真実」なキリスト者は誰もいない。今は多くの人がクリスチャンであるにしても、風向きが変わったとたん、風に揺らぐ葦(あし)のように、またたくまに顔を背けて手のひらを返すことになることは必定である。むしろ、キリスト教国家や社会が世俗化し、「見える」教会や「見える」クリスチャンが激減しているというニュースこそ、キリスト教においてはグッドニュース(福音)であって、真実な神が隠れたところにおられるように、真実なクリスチャンもまた、隠れたところで生まれ、隠れたところで働くのである。そして、その信仰が「真実」ならば、部屋を明るくするために燭台が上にかかげられるように、隠されたものであきらかにされないものはなく、覆われたものであらわにされないものはない。下に降ろうとしても、それによって世界が暗くなるならば、むしろ万民によって上に高くかかげられる。



「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。」(ルカ福音書8:16ー17)



「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 (マタイ福音書5:14,15ー16)



このように、キリスト教信仰においては、すべてが逆説的であって、弱いときにこそ強く、隠れているときにこそあきらかにされ、低められているときこそ高められ、死ぬときにこそ生きており、十字架の敗北こそが復活の勝利である。逆に、キリスト教が、強力な国家や社会として、権力や富を意のままにして繁栄を享受しているときには、むしろ弱く、神によって隠され、高ぶった頭は低められ、生きているようであるが墓のなかで死んでおり、勝利の栄光に酔いしれているようであるが、敗北は間近である。



そこで、冒頭の問いに戻れば、近代社会が告発してきたように、「宗教」が持つ排他性や独善性などの暴力性の問題と、それによる文化闘争や世界観闘争の問題と対決したうえで、どのように現代社会に「宗教」を復活させることができるのだろうか? 近代社会がそうしてきたように、宗教という「劇薬」を世俗性という「水」で薄めることでもって、政治の場や公共の場から宗教的議論やコミュニケーションを廃し、個人の内面や家庭のプライベートな空間に封じこめることで共存をはかるべきだろうか? しかし、それはそれで問題を抱えており、世俗主義だけでは現代社会の問題を解決できないことは、すでに述べたとうりである。



たしかに、それぞれの宗教が、その信じる聖典の文字や伝統にこだわり続ける限り、和解の余地はない。しかし、それにもかかわらず、そうであればこそ、自分が信じる宗教を捨てて世俗性に染まるのではなく、むしろ、自分が拠って立つ足元の宗教を、徹底的に掘って掘って掘り下げることで、もっと深めることを私は勧める。世俗社会に適応するために、宗教へのコミットメントを軽くするようなことをせず、自分の足元の宗教を、まさに「心を尽くし、思いを尽くし、生命を尽くして」コミットすることで、徹底的に掘り進むことを私は勧める。すなわち、近代社会が、宗教は危険だから深く関わるなと言うのとは真逆に、むしろ、私はもっと宗教に積極的に関わることを勧める。



なぜ、そう言えるのか?



なぜならば、現在では、宗教の言葉は不合理で矛盾に満ちているとしても、その宗教が成立した当初、宗教の開祖が教えを宣べていた当時には、その宗教は、社会のなかの争い、貧困、差別、不公正などの問題を解決しようとする革命的な言葉だった。宗教を「掘り下げる」ということは、宗教の聖典の言葉を神聖視して、ただなぞるということではない。そんなことは、聖典の表面をなでているようなものであって、「掘る」とは言わない。「掘る」というからには、見える表面だけで満足するのではなく、その奥深くに秘められたメッセージを探して見出そうとすることでなければならない。



すなわち、それは、宗教の聖典の言葉を通して、聖典が書かれた当時の開祖や宣教者が抱いていた問題意識を現代において共有して甦(よみがえ)らせることであって、宗教の開祖との「同時代性(キルケゴール)」に潜りこんで、開祖の心を自分の心とし、開祖の目をもって現代社会の問題に対峙する、ということである。



キリスト教や仏教やイスラム教など、数千年の歴史の風雪に耐えて全世界に広がっていった宗教には、大河の真ん中で流れに逆らう大岩のように、歴史の時間の激流に耐え得る「真理」がある。先人たちが、そのような宗教を聖典として残してきたのも、その宗教の開祖の言葉や視線の先に、失われることのない「永遠」を見出したからであって、時を経て化石のように乾燥してかたくなった聖典の言葉から、井戸を堀るように、あらゆる時と場所で生命を芽吹かせる「永遠の生命へと至らせる水(ヨハネ福音書4:10ー14)」として「真理」を発掘しなければならない。



無宗教の日本で、カルト宗教のような、問題のある宗教が幅をきかせているのも、社会に宗教が濃密すぎるからではなく、むしろ、宗教についての知識もコミュニケーションも圧倒的に不足していることから生じる。それぞれの個人が、宗教の世界観や教えを聖職者や教職者に「おまかせ」するのではなく、自分自身で聖典を読み、自分自身の頭と心で、「正統とは何か?」「異端とは何か?」「救済とは?」「そもそも宗教とは?」といったことを問い、聖典の言葉の一字一句をとりあげて、互いに議論を交わすような濃密なコミュニケーションが生きている状況では、カルト宗教が入りこむ余地もなく、隙間なく張り巡らされた議論によって、またたくまにその問題点が指摘されあきらかにされる。



実際、カルト宗教の信徒と話してみても、その熱心さとは裏腹に、自分たちが信仰の土台としている宗教の聖典についての知識も理解も、まったくもって弱いのであって、彼らが熱心に主張していることも、一見理屈が通っているように見えても、空き缶を叩いたときのような軽い音のように、彼らの言葉には「中身」がなく、その応答にはどこまでも虚ろな響きがつきまとう。このことから、彼らの表面的な熱心さとは真逆に、その知識と理解は、彼らが自分自身の頭と心で検証したものではなく、彼らの宗教組織が作成した「マニュアル」を応用しているにすぎないということがわかる。



日本のような無宗教の国でなくても、キリスト教会が社会に幅広く影響力を及ぼしているにもかかわらず、カルト宗教が幅を利かせている国もあるが、そのような国のキリスト教信仰を見ても、その信仰は、個人という単位であるものではなく、教会というグループ単位であるものであって、自分が信じる宗教の信仰についての理解を、教会の聖職者や教職者に「おまかせ」している場合が多い。彼らにとって信仰とは、自分の頭と心でゼロから理解してゆくものではなく、教会組織から提示された「正解」を学んで、それを「修得」してゆくことで、教会の権威から「一人前」と認められることでもって満足する。実際、彼らの教会の聖職者や教職者もまた、「正解は、すでに教会に与えられているのだから、あなたがたは自分で考えてはならない! ただ信じて服従すべきだ!」というようなことを主張している。このように、思考や吟味や検証よりも服従が優先されるような教会では、たとえ「正統的」なキリスト教会が支配しているところであっても、その服従の対象が、カルト的な教会や宗教に何の摩擦もなく横滑りしてゆくのは自然なことである。



キリスト教だけでなく、仏教やイスラム教においても、その宗教が全体的に暴力的や搾取的になるときには、信徒の信仰は、聖職者や教職者による宗教組織に依存した「おまかせ」になっている場合が多い。宗教を飯の種にしている聖職者や教職者にとっては、信徒たちが自分自身で考えては困るのであって、信徒たちを自分たちに依存させるためにも、宗教は「新しく」なってはならず、常に「古い」ものでなくてはならない。そのように、信徒たちの頭や心とは独立して存在している「古いもの」の管理人として、宗教の教えと聖典の保護と解釈権を独占することによって、彼らは自分たちの権力と利益を独占することができる。



総じて、彼ら聖職者や教職者が、「古いもの」を守ることによって自分の生活やアイデンティティの存在の基盤を得ている以上、「古いもの」としての宗教を吟味し、検証して、自分の頭と心で「新しく」考えようとする信徒を憎悪するのは当然であって、新しく考える信徒だけでなく、自分たちが管理する宗教とは異なる可能性と世界観を示す、彼らにとっての異教や未信者などの人間をも憎悪するのは当然である。そして、彼らが、彼らに依存する、自分の頭と心で考えることを放棄した無思想・無思考の狂信者たちを都合よく扇動して、異なる立場の人間を迫害、差別、虐殺、搾取するために動員することになることは自然なことである。



イスラム原理主義の暴力性がよく指摘されるけれども(もともと原理主義という言葉はイスラムを指すものではなく、聖書の無謬性を信じるキリスト教会を指すものだが!)、実際、クルアーンシャリーアの細かい戒律を熟知して、それを実社会に適用しようとしているのは、他の宗教と同じく、聖典の解釈権を独占する教職者たちであって、動員されるムスリムたちは、自分でクルアーンシャリーアを隅々まで学ぶ余裕なんかない市井の素朴な人々で、たとえ自分たちでクルアーンを読むとしても、教職者たちが指示した方法や理解でしか読むことを許されていないような人々である。



しかし、クルアーンの読み方にしても、その解釈の幅も多様なのであって、聖書原理主義のクリスチャンが、聖書の一字一句をそのまま信じて実行するのと同じようなやりかたで、クルアーンの一字一句を法律や規則として、実際に社会に適用しようとする在り方だけがすべてなのではない。



たとえば、クルアーンを、人間が実行すべき法律書という観点からではなく、神の言葉を聞いた預言者ムハンマドが面していた神(アッラー)の全能性から理解しようという解釈もあるのであって、そのような解釈によれば、「アッラーは全知全能なのだから、その気になれば、全人類をムスリムにすることなど簡単なことだ。しかし、実際にそうしないのは、アッラーがそれを望まず、アッラーのご計画があるからであって、アッラーが望まないことを、人間の意志で無理に変えてはならない…」として、無理な改宗や服従を戒める立場もある。



そして、日本人がたいてい誤解しているように、イスラムは戒律主義の「窮屈」な宗教と思われているけれども、イスラムにとっては、完全なのはアッラーだけで、人間は不完全な存在だとみなされている。それゆえに、人間がアッラーの命じることに服従できないのは当然なことであって、戒律を守れば生で、守れなければ死というような厳密さが求められているわけではない。その多くは、あくまでも努力義務であって、天秤のバランスになぞらえられているように、仮に礼拝や断食がおろそかになったとしても、その分を貧しい人々への施しや喜捨の実践で埋めあわせてバランスをとるように勧められる。



それに、ムスリムの間では、たしかに厳格な部分はあるにしても、時間や約束にはルーズであったりもするのであって、全能な存在であるアッラーの「思し召し」によって、人間の状況は常に変わったりするものだから、たとえ時間に遅れてきたり、約束をすっぽかしたりしても、「まあ、アッラーの思し召しなら仕方ないね!」と、笑って流してしまうような「ゆるさ」があったりもする。



他方、戒律宗教を持たない日本は、正月は神道で、お盆は仏教、クリスマスはキリスト教といった具合に、宗教の都合のよい部分だけの「つまみ食い」が許される「ゆるい」文化だと思われているけれども、菅原道真などの歴史上の偉人をはじめ、漫画の神様、野球の神様など、「すごい」人が神になるような文化では、人間が神のような優秀さを発揮することが求められているのであって、約束に数分遅刻するだけで誠実さが欠けているとみなされたり、電車が数分遅れるだけで鉄道会社が倒産するかのような大騒ぎになったり、メールやLINEに即レスしないと機嫌を損ねる人は、けっこう多い。そして、半人前で社会に出ることは許されず、上司からの怒号や罵声が飛び交うような新人研修によって一人前になってはじめて、社会で「お客様」の前に立つことが許される。最低賃金で働くアルバイトや派遣に対してさえ、笑顔を絶やさず、大きな声で挨拶し、店の商品やサービスに熟知しているような「高級ホテルマン」のような「おもてなし」が求められることもある。この国(日本)では、常に誰かが、誰かにとっての「神(神対応!)」であることが求められる(お客様は神様です!)。いったい、「窮屈」なのは、どっちなのだろう? 完全な神がいるぶん、不完全な人間の「弱さ」を認められるところと、神がいないぶん、人間が常に誰かにとっての神であるかのように、誰にも迷惑をかけない「完全」さが求められるところでは、どっちが「窮屈」なのだろう? 日本では、自分のことで誰かに手間をかけさせると、「ありがとう!」とお礼を言うよりも、どうして「すいません…」と謝ってしまうのだろう? まるで、あらゆることを一人で万能にできなければならないかのように…。これでも、日本人が一神教文化から学ぶものは何もないと言うのだろうか?



いかなる宗教であれ、あらゆる宗教「原理主義」者が責められるべきなのは、彼らのマジメさや熱心さではなくて、むしろ、彼らの「怠惰」こそが責められなければならない。仲間たちの「みんな」と同じものを見、同じ方向を見、互いに顔と視線を見合わせて同じ言葉を語りあえることの喜びに満足して、それ以上足元を下に掘り進むことをしなくなった、あらゆる宗教信者の「怠惰」をこそ責められなければならない。



実際、個人としての彼らのひとりひとりとしては、聖書の文字の一字一句が神の霊感によって書かれたものとして、科学的にも歴史的にも真実であると、「本気」で信じている人は少ない。彼らが実際に守りたいものは、神の意志ではなくて、信徒としての(牧師であれば牧師としての)自分の立場と、お世話になった教会の人間関係と、その教会生活における自分の思い出などであって、それらを守る殻として、宗教にこだわっているだけで、その動機は利己的なものである。そのような、利己的な動機に満足して、神とその言葉としての聖典に、それ以上深く聞こうとしないこと、それが、彼らの「怠惰」。彼らの関心は、人間関係への適応であって、神の意志が実際にどのようなものであるかではないこと、それが彼らの「不誠実」。



自分の足元の宗教を、掘って掘って掘り下げてゆくと、当然、深い穴の中へ入ってゆくのであるから、周りの人間の視線と合わなくなり、彼らから自分が見えなくなって、彼らの話す言葉も聞こえづらくなっていって、あなたは孤独を感じるだろう。あなたの姿が見えなくなるのだから、今までの仲間たちから、あなたが信仰を捨てた、または死んだとみなされるだろう。しかし、深く掘り下げることで、あなたは、新しい仲間たちを「発見」するだろう。すなわち、海の上に多くの島があるように、この世に多くの宗教があり、それぞれが海に囲まれて外部と断絶した孤島であると思われていたけれども、足元を掘り下げることによって、その島々は別々に存在しているのではなく、実はひとつの同じ地盤の上にあり、共通の大地の上にあるということを知るだろう。そのことによって、交流も対話も不可能と考えられていた、海を隔てた遠くの島の住人たちと交わせる言葉をも発見するであろう。



もともと、イスラエルの排他的な「民族神」からはじまったヤハウェ信仰であるが、ユダヤ人たちによって「掘り下げ」られることによって、イスラエルの一民族だけを顧みる神ではなく、世界のあらゆる国と人間を顧みて統治する「唯一神」としてのヤハウェが、彼らによって「発見」された。神が「ひとつ」であるならば、当然、その神はイスラエルだけの神ではなくて、世界のすべての人の神であって、そうであれば、イスラエルが神によって選ばれたのは、「民族神ヤハウェ」によって、イスラエルのあらゆる自己愛とわがままが肯定されるためではなく、全世界を統治している「唯一神ヤハウェ」の世界史的な救済計画を実現するための「使命」としてイスラエルが選ばれたのであって、その神は、啓示した「律法」の精神に基づいた高い倫理性によって、イスラエルにたえず「悔い改め」ることをせまることで、世界に神の栄光をあらわすことを要求する神である。こうして、ヤハウェ信仰は、単にイスラエルという一民族の集団的利己心の表現(イデオロギー!)の枠を超えて、全世界のあらゆるものを「超越」して、世界のために働きかける「唯一神ヤハウェ」として、キリスト教の土台となってゆく。



カルト宗教の場合も、カルト宗教といえど、教祖が無から新しいものを創造できない以上、その教えの土台は既存の普遍宗教から取り入れているのであって、カルト宗教の信徒が、その宗教の教えを「掘り下げ」ることで、教祖によって私物化された部分を取り除き、隠蔽された土台の普遍宗教の「真理」に至ることは、ありうることである。しかし、その場合も、必要なのは足元を掘り下げる「勇気」であって、結果として、彼は、その宗教における自分の立場と人間関係の思い出を失い、「異端」として別の道を歩みはじめることによって、「教祖」のカリスマを利用して自分たちの利益を最大化しようとする幹部たちとのコンフリクト(闘争)は避けられないだろうけれども。



よく、宗教の肯定的な要素として、「コミュニティ」の重要性が強調される。あらゆる地域・血縁関係が崩壊し、個人が何の社会的繋がりもなく、それぞれがばらばらに原子的に孤立していることによって、それぞれの個人が何のケアもなく、孤立したまま弱って孤独死してゆく社会において、かつての教会のような、老若男女が一堂に会して近況を語り、安否を確認しあうようなコミュニティが必要ではないか、と。



それはそのとうりであるけれども、そのコミュニティが善であることを何が保証するのか? 「孤独で寂しいあなたに、私たちが居場所を提供します!」と言って、孤立した人間の寂しさにつけこんで、そのコミュニティの集団的利己心、または幹部の個人的利己心のために、孤立した人間を集めて、彼らを自分たちの「駒」として利用し、搾取しようとするところもある。カルト宗教といい、「アットホームな職場」を強調するブラック企業といい、貧困層を食い物とする貧困ビジネス業者といい、コンプレックスを抱えた侘びしい男女を食い物とするホストやパパ活女子といい、この手の例には事欠かかない。アットホームな人間関係があればよいわけではないし、寂しくなければよいわけではない。社会に深刻な問題を引き起こしたカルト宗教も、集団としては破壊的カルトだとしても、そのなかの信徒のひとりひとりとしては、人懐っこくて気のいい「いい人」であったりするのであって、彼らは職場ではよき上司であり、家庭ではよき父であり母であったりもする。そんな「いい人」である彼らのひとりひとりが、破壊的カルトとしての宗教や国家が行う暴力や搾取の一要素を担い、その構造を支えいていたりもする。



「いい人」たちが世界を滅ぼす。世界を滅ぼすのは、獣のような一匹狼の、血に飢えた犯罪者の個人的な悪ではない。そうではなく、世界を破壊するのは、宗教組織や国家権力の暴力などのような巨大な社会悪・集団的悪であり、そのような集団的悪に「NO!」と拒否を突きつけることができず、大人しく適応して、悪の構造を再生産し続ける巷(ちまた)の大人しくて素朴な「いい人」たちである。



さらに、深刻な問題なのは、そのような「いい人」である彼らが、自分が所属している宗教や国家の集団的悪を自覚しており、その「駒」として自分が都合よく利用され、搾取されていることを自覚しているにもかかわらず、自分がコミュニティに所属していることの利益と、良好な人間関係と、そこでの思い出を守ることが優先されてしまうことにある。



たとえば、カトリックの神父による性的虐待の事実を取材して暴きだした新聞記者たちの実話を描いた「スポットライトー世紀のスクープー」という映画があるのだけど、この映画のなかで、紆余曲折の末、ようやく記事の出版にこぎつけた記者たちが、安堵のなかで事件をふりかえるなかで、どうしてこのような、あきらかな性的虐待の事実とその組織的隠蔽が、こんなにも長い間放置されてきたのかと自問して、皆一様に沈黙してしまう場面がある。実際、カトリック系の住民が多く住むその土地にとって「異邦人」であるユダヤ系の新しい編集長が赴任してくるまで、個々の細かな情報が耳に入ってくることはあっても、局全体として全面的にとりあげられて取材が進められるということはなかった。そこには、もちろん、カトリック系の住民が多い土地で、カトリック教会を批判することによる反発の強さを恐れて萎縮したこともあるだろうけれども、何より記者たち自身もまた、幼いときからカトリックの教会とその文化のなかで育ってきた地元民たちで、そうである以上、地元の記者たちにとっても、パパやママやおじいちゃんおばあちゃんに連れられて毎週教会に通った思い出、優しい神父様の思い出、教会のイベントで配られたキャンディやお菓子を友達と食べた思い出など、それらは彼らにとってかけがえのない美しい思い出であり、そのような美しい思い出を「汚す」ような情報には、無意識的に自分の視野から外してしまう認知的なバイアスが働いてしまう。彼らの家族のなかにも、毎週教会に通う敬虔なカトリックがいるのであって、そのような家族を悲しませて落胆させてしまうような「残酷な」真実には、無意識的に目をそらしてしまうバイアスが働いてしまう。自分たちが子供のころ、笑顔でキャンディを配ってくれた優しい神父様が、同じ手で子供たちに性的虐待を加えていたなどという残酷な事実に目を向けるには、自分自身の体の一部がもぎとられるような、相当な「痛み」を引き受ける覚悟を必要とする。



こうして、「コミュニティ」が生きているという事実だけでは、その宗教の健全性は保証されない。よく言われるように、聖書のなかで最も重要な戒めとして、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ(申命記6:4ー5)」と、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ(レビ記19:18)」という二つの戒めがあるけれども、この二つは別々に存在しているのではなく、一枚のコインの表と裏のような関係として、二つでひとつであり、一方を欠いている他方はなく、一方は他方をふくめて完成する。神への愛を欠いた隣人愛は完全ではなく、真実に隣人を愛していることにはならない。また、逆に、隣人愛を欠いた神への愛は、そもそも真実な神への愛ではなく、それは偽物の神への愛か、まことの神の愛(アガペー)に触れたこともない愛であるかの、いずれかである。



「ひとりの律法学者がきて、彼らが互に論じ合っているのを聞き、またイエスが巧みに答えられたのを認めて、イエスに質問した、「すべてのいましめの中で、どれが第一のものですか」。イエスは答えられた、「第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これより大事ないましめは、ほかにない」。そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。」(マルコ福音書12:28ー34)



こうして、聖書のなかで最も重要な、この二つの戒めは、地上に向けた隣人愛を横の棒とし、天上へ向けた神への愛を縦の棒として、二つの棒がひとつに交わる「十字架」として、イエス・キリストの人格と、その生涯を表現する。そのようにして、イエス・キリストは、肉体をもって生きて働く神の言(ロゴス)として、聖書そのものであり、あらゆる律法の「完成」である。こうして、仮に聖書のすべての言葉と戒律を、その字義どうりに実践したとしても、イエス・キリストによって啓示された愛(アガペー)の戒めに反しているならば、キリストに反対しているだけではなく、彼らが頼りにしている神の言葉としての聖書そのものに反対していることになる。



「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ福音書5:39)



「わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。」 (ヨハネ福音書5:45ー46)



「隣人を愛せよ」という戒めに反対する人はいない。それは一般的な倫理として、どのような宗教や文化においても認められるところである。ならばなぜ、そのうえ神までをも愛さなければならないのか? 単なる隣人愛だけでは、集団的悪は乗り越えられない。むしろ、素朴で情緒的な隣人愛は、そのような集団的悪の一番の構成要素となって、その悪を支えていたりするのであって、人は、隣りの人を愛することによって、深刻な犯罪や加害に加担することになる場合もある。いじめを行い、それに加担する者も、「いじめ」という加害行為に加わっているという意識よりも、むしろ、普段から親しくしており、お世話になっているいじめっ子グループの「隣人」へ配慮しているだけであり、そのなかの人間で、いじめられている者に直接的に憎しみなど負の感情を持つ者は、実は少ない。ただ、仲良しグループの「ノリ」を壊して雰囲気を悪くすることで、みんなに不愉快な思いをさせたくないという、個々人のそのような隣人への配慮が、集団としては、ひとりの個人を凄惨なまでに追いつめて虐待する「いじめ」となって顕現する。



いったい、「隣人とは誰か?」。それは、「おまえも、一緒にやるだろぉ?」と誘う、普段から仲良くしている友達のいじめっ子であるか? それとも、「君も、僕を殴ろうとするのか…?」と、無言の眼差しで問う、名も知らぬいじめられっ子であろうか?



「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 」(ルカ福音書10:29ー37)



かくして、コミュニティと、それを支える隣人愛だけでは、そのコミュニティが最凶最悪の集団的悪を行う破壊的カルトに変貌する可能を排除できない。そのコミュニティが、破壊的カルトとして、深刻な悪を行っている場合、隣人愛だけでは、そのコミュニティの成員の絆を強化することはあっても、彼らが敵とみなし、搾取して食い物とするような、コミュニティの「外」の人々には、その隣人愛は及ばない。そのようなコミュニティの枠を超えることができるのは、あらゆる「壁」を超えて偏在する神のみであり、そのような神に従う「神の国(支配)」の住人としての「神の子」のみ。



「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ福音書5:43ー48)



コミュニティが重要であると言い、コミュニティの復活と言っても、そのコミュニティが健全なものであるためには、逆説的に、そのコミュニティの成員は、集団にベッタリと埋没していてはならず、むしろ、コミュニティのなかにあって、独立していなければならない。神の前の「単独者」として、神の前で、ただ独りで立ち得る者だけが、「地の塩、世の光(マタイ福音書5:13ー16)」として、コミュニティの腐敗を防ぎ、そのコミュニティが健全なものとして、世界に益となるために、たえず働きかけることができる。コミュニティの成員が、集団に埋没しない、普遍と直結した確固たる「個」である場合にのみ、そのコミュニティは健全である。普遍に直結した不動の「個」としての成員だけが、コミュニティの集団的悪に、成員が流されてゆく流れに逆らう錨(いかり)となって、そのコミュニティが立ち上げられた本来の善き目的に繋ぎ止めることができる。



カトリックであれ、プロテスタントであれ、その他何の宗教であれ、また、日本人であれ、他の何人であれ、地上のあらゆる人間集団が健全なものであるためには、その人間集団の成員である前に、人は、まず、天の「神の国(支配)」の成員として、「神の子」であらねばならない。それは、映画の「スポットライト」において、カトリック教会の性的虐待を追及できたのが、カトリックの土地にとって「異邦人」であったユダヤ系の新編集長であったように、神の国を国籍として持つ地上の「異邦人」としての「神の子」のみが、「地の塩、世の光」として、地上の腐敗を防ぎ、この世を支配する闇の支配に抵抗してたたかうことによって、あらゆる集団的悪による世界の破滅に立ち向かうことができる。



「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。」(フィリピ3:20)