無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

路傍の石は叫ぶ〜いわゆる「わがまま」な障害者について〜

体や心のどこかにハンディキャップを抱える人々が、適切な配慮やサービスを受けられていないことを訴えると、「わがまま」として、たびたびバッシングを受けることがあります。



障害者を配慮する側だって余裕があるわけではなく、限られた時間と人材しかないわけだから、こちらの都合も考えずに要求と批判を言われても困る、というわけです。もちろん、障害者の人々からお礼や感謝の気持ちの表明がないわけではないが、配慮やサービスが当然であるかのように振る舞われては困る、と。



しかし、物事を考える場合には、個別の判断の是非を問うだけではなく、それらの判断が普遍的に一般化された場合、未来にどのような社会がなされうるのかまで考えなければならない。そして、私たちは本当にそのような社会を望むのかまで考えなければならない。



障害者が、健常者と等しい選択の数のサービスや配慮を受けるために、スタッフに普段より多くの負担をかけてしまうことから、障害者をサポートする同伴者や介護者との同行を求める場合や、事前に予約の連絡を求める場合、または追加料金を求めることは、たしかにお互いとって気持ちのよい関係を続けるために望ましいのかもしれないが、障害者にとっては介護者を手配したり、あらかじめ連絡を入れたり、料金の相談や交渉のような、サービスを受けるまでのハードルが増えれば増えるほど、「迷惑かな…」と遠慮して躊躇することや、「こんなに面倒で大変なら、何もしないほうがマシだ…」と諦めてしまうこともあるかもしれない。



このように、障害者と社会との間に心理的、または物理的なハードルを1枚やら2枚置くことは、健常者にとってはささいなことでも、健常者のように気が向いたときにふらっと様々な場所に立ち寄れないことは、障害者にとってはやはりストレスであって、「お互いに気まずい思いをするくらいなら…」と、多くのことを諦めてしまうことになるかもしれない。



そうだとすれば、社会の公共性にとってはすでに敗北であって、障害者が健常者に気を遣い、遠慮しなければならないことが、すでに社会にとっては敗北なのだ。なぜならば、それは障害者に対する積極的な排除ではないとしても、消極的な排除であって、障害者が社会にアクセスするために乗り越えなければならないハードルを1枚2枚増やすことによって、障害者が健常者に忖度し、気を遣うことによる心労で遠慮しがちに生きるようになることによって、彼らが社会参加をはばかるようになることは、またしても彼らを日の光の当たらない暗いゲットーに押し込めてしまうことになりはしないか?



どれだけ「わがまま」と評されようとも、障害者が社会に物申さなければならないのは、自分だけが特権を享受して快適な生を生きたいからではなく、未来の障害者に対する責任を個別の判断の現場で負っているからであって、障害者という自分の身分をわきまえて、分相応に大人しくしているだけで、自分たちを取り巻く状況の改善を社会に訴えていかなければ、自分だけでなく未来の障害者をも日陰のもとから出られなくしてしまう。



歴史は今に始まったのではなく、叫び声の上がるところには、その叫びに至る社会の側からの排除や抑圧や無視の歴史があるのであって、そうした他者の歴史性を理解しようとする努力と想像力を欠いたまま、障害者の主張や指摘を「わがまま」といってしまうところに日本人の公共心の未熟さがあらわれている。



政治哲学者のジョン・ロールズによる「無知のヴェール」を理解するまでもなく、わたしたちがどのような社会階層に産まれ、どのような親のもとに、どのような体で産まれてくるかは、わたしたちの選択によるのではない。また、今は恵まれた社会階層や五体満足の健康体を享受していても、この先どのような事故や病気や老いで障害の属性を受けることなるかは未確定であり、予測不可能であって、自分の未来や家族の未来ですら、自分で自由に選択できるわけではない。



だとすれば、私たちはどのような属性で産まれて、また、これからどのような属性を負うことになろうとも、誰もが等しく自由で幸福な人生を生きるべく存在しており、また、日陰のもとに隠れながら生きている人がおれば、等しく陽の光のもとで暮らせるように配慮することは、持てる者の恩恵ではなく、この社会で暮らすすべての者の受けられるべき権利であり、配慮する義務である。



聖書には、足が不自由な人、目の見えない人、ハンセン病の患者、また様々や病に悩む多くの人々がでてくる。また、それらの人々の病や障害がイエス・キリストによって癒やされるエピソードがいくつもある。当時、こうした障害や病気をもつ人々は、社会から物理的に排除されるのみならず、何かしらの罪による神の罰だと認識されて、宗教的・精神的にも排除されていた。災難を本人の怠惰(または家族や先祖の過失)による自己責任とみなして、排除することは、今も昔もどこにでもあることであって、障害や病気が神による罰であるならば、彼らに配慮することは、罪に便乗して自分も神の敵となることだから、障害者や様々な病人は、生活においても、心においても、信仰においても、社会から二重三重に差別され、排除されていた。



であればこそ、イエス・キリストにおける「罪のゆるしの福音」は、そうした障害者や病人の「癒し」とひとつとなって宣べ伝えられた。



「イエスガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。」(マタイ福音書4:23−25)



「さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。」(マタイ福音書9:1−8)



「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ福音書9:1−3)



もちろん、すべての人が癒やされたのではない。しかし、イエスによって病が癒やされた人々もまた、人生の途上で何らかの病や寿命で死んだのだし、イエスによって死から蘇らせられたベタニヤのラザロもまた、永遠に生きているわけではなく、後には死んだ。癒やされたにせよ、病のままにおるにせよ、これまで差別されて排除されていた障害者や病人が、イエスによる「罪のゆるしの福音」によって、神からも人からも再び受け入れられているという事実によって社会に再包摂されて、その尊厳を回復することで「元気」にはなった。



「また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。」(ルカ福音書14:12−14)



エスの福音宣教とは、そうした生活においても、心においても、信仰においても排除された障害者や病人の社会への再包摂の活動であって、現代の医療の基準からすれば健康になったとはいえない人も(すなわち癒しの奇跡がおこらなかった人も)、神からも人からも受け入れられたという解放感と安心感から「元気」になった、ということもありえたであろう。



「イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。」(ルカ福音書4:15−21)



障害者ばかりではなく、日本では「保育園落ちた。日本死ね!」と言った人が猛烈にバッシングを受けたり、介護業界や非正規雇用の問題を訴えたりすると、「嫌なら辞めればあ?」とか、「不満なら正社員になればあ?」とか、「選ばなければ仕事はいくらでもあるけどお?」と冷笑されるだけで終わってしまう。



もちろん、訴えている側も、探せば他に選択肢があるのは承知のうえで問題を提起しているのであって、問うているのは、個人的な選択の合理性ではなく、みんなが立っている土台としての「公共性」の是非だということが、日本では理解されていない。たとえ、自分が正社員の立場を得たり、他の業界に転職できたとしても、他の誰かは非正規で働かなくてはならないのだし、介護などの仕事は誰かが引き受けなければならない。誰もがその立場に置かれたとしても、公正で尊厳ある待遇を受けられるべく改善を訴えてゆくことは、正当な公共的関心であって、そうしたことを個人の「わがまま」としか見れないということが、日本という国を、すべての人が同じ場所に立っている共通の地盤として考えるのではなく、優勝劣敗適者生存の弱肉強食ジャングルとしか見られていないということを示している。すべての人の生活の土台という公共性をめぐる訴えや問題提起が、私的な選択の合理性の問題にすり替えられ、「善き社会」や「善き生」への観点が欠落したまま、他者を押しのけて「うまくやって生きのびる」方法への関心だけが、世間を覆っている。



「盲人とは誰か?」



「そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ福音書9:39−41)



障害者から見えている世界を「わがまま」と切り捨てて、自分たちに見えるものしか見ようしない「盲目的」な社会(レギオン)は、「私たちは見えている!」と叫びながら崖の下へとなだれ落ちてゆく。



「それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。」 (マルコ福音書5:8−13)



「いやいや、私たちは障害者を差別しているのではなく、彼らの安全をおもんばかっているのだ」と世間は言う。しかし、なぜ変わらなければならないのはいつも彼らだけなのか? 彼らはもう十分自分たちの安全について心を擦り減らし続けてきたのだ。結局、世間が言いたいことは、「健常者様の躓きになるような石ころは道の片隅でひっそりと暮らしておればよいのだ!」ということではなかったのか? 健常者の側は変われない、変わりたくない。変わるべきはマイノリティである障害者たちだ、と。こうして、これまでもそうであったように、健常者たちの「善意」によって、障害者を含むすべてのマイノリティたちは道の片隅へと押しやられる。



しかし、それでも、そうであるからこそ、道の片隅に蹴飛ばされた「路傍の石」は叫ぶ、「私たちは自由な者ではなかったのか! 私たちもまた、神の子ではなかったのか!」と。



「イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、「主がお入り用なのです」と答えた。そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。」(ルカ福音書19:28−40)

イスカリオテのユダ

イスカリオテのユダとは、イエス・キリストの12弟子の一人でありながら、イエスを裏切って、イエスが十字架刑へと引き渡されるきっかけをつくった人物です。



「そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。」(マタイ福音書26:21−30)



私が最初に聖書のこの言葉を読んだとき、「ずいぶん酷い言葉を言うな…」と思ったものでした。もちろん、誰だって自分を裏切って陥れる人間に対しては呪いの言葉のいくつかでも吐きたくたるものですが、「キリスト(救世主)」と呼ばれ、「神の子」と崇められ、愛(アガペー)の根源とされてきた方の言葉としては、「おまえは産まれなかったほうが、おまえにとって幸せであった!」という言葉はいくらなんでも酷すぎるのではないか…と。



聖書を読みはじめたころ、私は、ユダが産まれなかったほうがよかったのは、ユダがキリストを裏切った結果、地獄の炎で永遠に焼かれ続ける刑罰を受けることになるのだから、永遠に苦しむくらいなら、最初から産まれないほうがよかったのだ、という意味だと理解した。



しかし、聖書を読み続けていくうちに、この言葉はユダの「自殺」のことを言っているのだとわかった。



その方法や場所は、福音書記者によって異なるけれども、イスカリオテのユダは、無実の人間を死刑へと至らせたことを後悔して自殺している。



創造のはじめに「はなはだよかった!」と万物を祝福された神が、「おまえは産まれなかったほうがよかった!」なんて言うことがあるだろうか? その存在を呪ったのは、神ではなくユダ自身であった。誰でも自分の人生を祝福して自殺をする人などいない。「俺みたいな奴は、存在してはいけないんだ!」と、自己を呪って己の生を断つ。



私は、これまでキリスト教会が罪悪視してきたほどには自殺が罪だとは思わない。なぜならば、自殺は直接的には命を断つのは自分自身によるのだけれども、間接的には社会によって殺されていることだということを知っているから。社会を支配している見えない悪の力が、ある場合には子供を心理的にも肉体的にも虐待する毒親を通じて、あるいはDV夫(またはDV妻)、あるいは職場のパワハラモラハラ・セクハラ上司、あるいはカルト宗教の教祖を通じて、ひとりの人間の心に「おまえは無価値な人間だ…。おまえには何ひとつとして取り柄がない…。おまえの存在には意味がない…。」という思いを植え付けさせる。そうした外から入ってきた「呪い」が、人間の内側から働いて、自身の命に刃をつきたてさせる。



したがって、責められるべきは自殺者ではなくて、人間の外側から入ってきて、その内側から心と体を害する、そのような社会を支配する見えない力をこそ問題にしなければならない。自殺者は、被害者であって加害者ではないのだから、彼にたいして「彼はこの世では悪いものを受けたのだから、せめて神さまのところでは慰めを受けられますように…」(ルカ福音書16:25)と、彼の平安を祈るべきであって、決して呪ってはならない。



また、人を自殺へと追い込んだ間接的な原因である毒親パワハラ上司やカルト宗教の教祖などの人間の責任を問うだけでなく、なぜ彼らのような存在が生み出され、社会で権力を持つことになってしまうのかも問われなければならない。なぜ、常に誰かに干渉し、支配しコントロールしようとしなければ不安のうちに自己を保てないような、または逆に、誰かにコントロールされていなければ不安で、自分自身では何もできないような権威に盲目的に服従する惨めな魂が生まれてしまうのか? また、なぜ現行の社会が、そのような人物を歓迎し、責任あるポジションに居座り続けることを許容してしまうのかを問われなければならない。個別の人間を問題にする場合にも、最終的には、見えない力で社会を支配し、人間に悪を行わせる罪の力の「根源」を問わなければならない。



イエス・キリストを裏切り、見捨てたということなら、ユダだけではなく、12弟子の男たちはみなそうした。イエスの捕縛の際に、蜘蛛の子を散らすように男たちはみな一目散に逃げ出した。「俺こそイエスさまの一番弟子だ!」と、たがいに威張りあい、その席次を競いあっていた男たちが、イエスを見捨てて逃げだしたのに対し、十字架の最期までイエスのそばで寄り添っていたのは、差別のなかで無きにひとしいものとされ、無力なものとされてきた女性たちであった。イエスの死後、空となった墓で天使の言葉を聞いたのも女性たちだし、復活したイエスの顕現に最初に接したのもマグダラのマリヤであった。威勢のよかった男たちは、肝心なときにはみな隠れていた。



ペテロはキリストを三度否認し、パウロにいたっては、キリストとその教会の迫害者であった。彼らとユダとの違いとはなんだったのか? ペテロとパウロは、自分が一度捨てたキリストを再び拾い上げることによって自己の命を得た。命の主であるキリストを拾い上げるということは、キリストによって自己が拾い上げられるということであり、一度死んだ自己が再び生き返らせられる、ということにほかならない。キリストを捨てる者は、それ自体が己の自己を捨てるということであり、キリストを再び見出して拾い上げることは、失われた自己を再び見出して拾い上げるということにほかならない。どれだけ情けなく、不甲斐ない自分であったとしても、キリストを拾い上げたならば、復活のキリストが彼の萎えた足を立ち上がらせ、閉じた目を開き、死から蘇らせ、罪人に義を与える。



「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」(ヨハネ福音書11:25)



ユダがキリストを裏切った確たる理由はわからない。聖書には、経済的な野心がユダをしてイエスを裏切りせしめたかのように書かれている。また、別の説によれば、ユダの政治的な野心がイエスへの失望に変わったとされている。本当のところは、わからない。決して快適な旅ではないイエスの道程にここまでついてきたのだから、イエスに対して、何かしら愛しさあまって憎さ百倍のような複雑な感情があったのかもしれない。



ただし、ユダが真実な目でイエスを見ていたことがなかったのは確かで、ユダは、経済的な野心であれ、政治的な野心であれ、あるいは個人的な理想であれ、それらの野心や理想という目的のための「手段」としかイエスを眺めていなかった。他者を自己の目的のための「手段」としか見れない者は、自己自身ですら、そのような目的のための「手段」としか見ることができない。他者に対して「なんだよ、この人なら俺の経済的な問題、政治的な問題、罪とか不安とかの実存的な問題をきれいさっぱり解決してくれるかもと期待したのに…、役にたたねぇな…」と品定めし、期待はずれだからと、廃棄してゆく心が、いつしか自分自身にたいしても「こんな駄目人間の私が生きていても、みんなにとって迷惑です。私は私を処分します…」といって、自己自身を廃棄に至らせてしまう。



ユダは、人間が互いを品定めしては、一方的に利用して捨ててゆくような愛なき「この世」を代表する存在であった。そうであればこそ、キリストは12弟子のひとりとして、ユダを常に御自身のそばにおいておかれた。「この世」は、ユダによってキリストに愛され、またユダによって「この世」はキリストを十字架の死へといたらせる。その意味で、たしかにユダは、ありとあらゆる時代と場所でキリストに愛され、またキリストを十字架にはりつける「我々」そのものであった。



「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。 」(マルコ福音書2:17)



キリストはユダを極みまで愛された。キリストは、ユダの思いも、ユダが自身を裏切ろうとしていることも知っておられた。そのうえで、キリストはユダを聖晩餐にあずからせ、ユダの足元に跪いてその足を洗った。



過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、「祭のために必要なものを買え」と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。」(ヨハネ福音書13:1−32)



キリストはユダをたえずゆるした。しかし、キリストを裏切って十字架へと引き渡したユダが、そのことについて自分自身をゆるせなくなるだろうということも知っておられた。命の主であるキリストを廃棄することは、自分自身をも廃棄することである。暖かくて明るい聖晩餐の席を離れて、キリストを背に冷たく暗い夜の闇へと消えたユダが、自分自身の生を呪って、その身を捨てることになるだろうことは目に見えていた。「夜」というのは、そのようなキリストの愛の外の世界、愛なき「この世」を象徴している。だからこそ、キリストは「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」と言ったのである。



ユダは自分をゆるせなかった。キリストは彼をゆるしたのに。ユダはキリストを真実に見たことがなかった。キリストを自分の理想の手段としかみていなかったから、自分自身が自分の理想の手段として結果をのこせないと判断したとき、ユダは自分自身を廃棄した。キリストはユダを拾い上げようとしたのに、ユダは自分自身を廃棄してしまった。ユダは、自身の命の主人を捨てることによって、自己の命を捨ててしまった。



「しようとしていることを、今すぐするがよい」



なぜ、キリストはユダのしようとするがままに任せられるのか? 言葉を尽くして丁寧に諭せばユダの思いは変わったのだろうか? あるいは、「愛している…」と言って抱きしめさえすれば、ユダの思いは変わったのだろうか? 否、人の内なる思いはそんなことで変わりはしない。だとすれば、ユダを救いうる道はひとつしかない。



「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。」(第一コリント5:5)



キリストがユダを救いうる道は、ただひとつ。ユダをして、サタンにゆだねることでもって、自身に十字架の死を引き受けて、その死を経てあらゆる時間と空間を超越した「命を与える霊」に復活することでもって、ユダの肉体は滅びても、その霊を救うに至ることである。肉は肉であって、どれほどの言葉を尽くしたとしても、その思いはとどかない。ユダの肉は破滅しても、その心と霊を救うために、イエスは十字架の死を引き受けて命を与える霊となられる。



「聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」(第一コリント15:45)



「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。」(第一ペトロ3:18−20)



「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」(ローマ14:9)



ちょうど、合気道のように、ユダを奪ってこちらを倒そうとするサタンの力を逆手にとり、敵の力を利用することでもって、逆に神の救済の計画を成就してサタンの策略を挫かんとする。それも、ユダを贖う(贖うのギリシャ語のアポリュトローシスは、借金のせいで奴隷となっている者を身代金を払って解放するという意味)だけのみならず、幸福を約束しておきながら不幸をもたらし、平和を約束しておきながら争乱をもたらし、自由を約束しておきながら隷属を、救済を約束して自滅に至らしめる悪魔の支配から、生ける者と死せる者のすべてを贖うためである。



「すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ福音書12:23−24)

愛について〜下降するアガペー〜

前回、エロースは上昇する愛だと書きました。

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

それに対して、アガペーは下降する愛だと言えるでしょう。エロースが下から上への上昇であるのに対して、アガペーは上から下へ向かって下降する。エロースが自己の空白(欠如)を満たすために、満ち溢れるものに手を伸ばそうとする運動であるのに対し、アガペーはすでに満ち満ちたなかから、無きに等しい貧しさへと溢れ出て、豊かに満たそうとする。



「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 」(フィリピ2:6−11)



「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」(第二コリント8:9)



「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。」(ヨハネ福音書1:16−17)



キリストにおける神の愛(アガペー)を信じて、天国(神の国)を受け入れた者は救いに「選ばれ」、信じないで拒絶した者は永遠の地獄の刑罰へと廃棄される、と長らく言われてきた。



地獄とは、ヘブライ語で「ゲヘナ」と言います。ゲヘナとは、「ヒンノムの谷」という意味で、実際にエルサレムの南に存在したゴミ捨て場のことです。重罪を犯したたために正式に埋葬されることのない罪人の遺体が火葬される場でもあり、昼も夜も焼却の火が絶えることはなかったといわれています。キリスト教においては、キリストを十字架にはりつけた「この世」が、見えない悪の力の支配下にあるので、神の国が「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない新しい天と地」として来たるときに、「この世」を支配する悪の力と共に「旧き世」は棄却される。この棄却を地獄(ゲヘナ)という。



しかし、無教会の提唱者であった内村鑑三は言う。「罪人の頭(かしら)である我が救われたのなら、なおさらすべての人は救われる。すべての人が救われないなら、なおさら我は救われない」と。



「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。しかし、わたしがあわれみをこうむったのは、キリスト・イエスが、まずわたしに対して限りない寛容を示し、そして、わたしが今後、彼を信じて永遠のいのちを受ける者の模範となるためである。」(第一テモテ1:15−16)



内村鑑三が言うには、キリストにおける神の愛(アガペー)によって救いに「選ばれた」人というのは、「私は天国、あなたは地獄」というような選民意識に引きこもる人ではなく、神の子キリストが地上に降り、地上の最も小さき人々のもとにまで降りてこられ、そのうちの救い難き罪人のひとりである私自身をも救われたように、自分自身もまた他の罪人の平安と救済を願い、祈り、その人生のすべてを彼らと共にする人です。



天国と地獄、または救いと滅びがあるにしても、天国と救いに「選ばれた」人にとっては、万人への愛ゆえに「地獄と破滅」なんてものは、世界に存在してはいけない。彼にとっては、自分が救われたのだから、いかなる人間も救われなければいけない。地獄なんてものは存在してはいけない。そのような普遍的な万人救済の愛(アガペー)の心において、彼は救いに「選ばれている」。



「地獄と破滅はなければならない! 地獄がないと無秩序になる!」と言う人は、万人救済のためにその身を砕いたキリストとは真逆の心のゆえに、救いに「選ばれていない」。実際、彼らは救いを「知らない」。自分が救われていることを知らないから、簡単に人を「地獄いき」だなどと言えてしまう。



「そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです』。」(ルカ福音書23:34)



「主なる神は言われる、わたしは悪人の死を好むであろうか。むしろ彼がそのおこないを離れて生きることを好んでいるではないか。わたしは何人との死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。(エゼキエル書18:23,32)



「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。」(第一ペトロ3:18−20)



「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」(ローマ14:9)



まさに、キリストにおける神の愛(アガペー)によって自分自信が救われていることの事実と、その恵みへの感謝による応答から、地獄が空っぽであることを願い、祈る、その愛(アガペー)の心において、人は神に「選ばれている」のであって、地獄の定員割れを気にして誰かを地獄に放りこまなければ気がすまないような偏狭な心では、彼は神に「選ばれていない」。



天国と地獄があるにしても、自分が救われたように万人救済のために心と人生を捧げる「選ばれた」人の祈りと執り成しと受難において、すべての人の救済は成し遂げられる。神によるイスラエルの「選び」が、全世界の救済のための「選び」であり、また異邦人の「選び」が、神の意志に背いて悪逆非道を行うイスラエルを救うのための「選び」であるように(ローマ11章)、神の「選び」は、万人救済のための「選び」であって、「選ばれた」人々のキリストに似た愛(アガペー)によって、万人救済は成し遂げられる。



神に「選ばれた」人、すなわち「上(天国)」へと上げられた人は、まさに上へと上げられたその愛(アガペー)のゆえに、救い難き罪人の谷を下へ下へと降りてゆく。ちょうど、天に昇って雲となった水が、雨となって再び大地に降り注ぎ、渇いた大地にあまねく生命をもたらすために、より下へ下へと流れてゆくように。



「私は信心深い敬虔なクリスチャンであって、上にいる。下の滅ぶべき連中とは違う」と言う人は、その愛(アガペー)なき心によって神に「選ばれていない」。彼らは自分たちを「天国」に、すなわち「上」に選ばれると思っているとしても、なお彼らは「下」におり、過ぎ去りゆく「地べた」におる。



「我々は間近に迫ったキリストの再臨を迎えて天国に携挙(けいきょ)されるために、世を捨てて、教会で祈りと聖潔の敬虔な生活をおくろう…」と、ある教会は言う。しかし、彼らが世を捨てて教会に引き籠もって祈っているあいだに、「すでに」天国(神の国)へと上げられた人たちは、むしろ教会の外に出て、世の罪の汚泥で自分が汚れることを引き受けつつ、世に降っていってその十字架を背負う。



「なぜ、いつまでたっても主は再臨なされないのか? いつまで我々はこの汚れた世にとどまらなければならないのか?」と彼らは言う。しかし、彼らがそのように天に不満をぶち上げているあいだに、「すでに」上に上げられて天にその居場所を所有している者たちは、まさにそのことによって満ち満ちたなかから溢れ出て、貧しい「この世」にその富を分かつべく、下へ下へと降っていって、世に己の身体と心と魂を捧げている。



「主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。」(マタイ福音書24:45−47)



逆に言えば、「この世」の最も低いところに降り、そこにとどまって自己を与え尽くすような彼らの「豊かさ」のゆえに、彼が「すでに」この世ではなく、別の場所に自己の生命を所有していることを証明する。すなわち、すでに「永遠の生命」を所有しているからこそ、彼らは「この世」に自己の生命を与えることができる。たとえ、全世界が彼を圧し潰そうとも、「この世」は彼から何ものをも奪うことはできない。彼らは、この地上にありながらにして、その命は「すでに」天にある。



「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。」(第二コリント4:6−12)



「わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」(第二コリント6:8−10)



クリスチャンが「いつまで!」と歯噛みをしているあいだに、「すでに」選ばれて天国を所有している人は、下に降っていってキリストの歩いた足跡を歩んでいる。彼らが、実際に天国(神の国)に住むのは、はるか先の未来や死後のことであるにしても、キリストに従って己を捧げている彼らには、まさにその事実によって、天国に買った自分の家の手付金または頭金を聖霊によってすでに支払っている。



「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証(手付金または頭金)であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エフェソ1:13−14)



「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証(手付金または頭金)として御霊をわたしたちに賜わったのである。」 (第二コリント5:1−5)



「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。 」(ヨハネ福音書14:2−4)




クリスチャンたちが、自身の恵まれた境遇を神に感謝し、「神はまことにおられます! ハレルヤー!」と賛美歌を歌っている日に、愛(アガペー)は、理不尽な災害や戦争や犯罪で愛する人との幸福な日常生活を奪われた人々のもとに降り、彼らと共に神の沈黙、神の死、神の不在の夜を耐え忍ぶ。



「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マタイ福音書27:46)



「ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。」(ヘブライ2:9−10)



永遠の生命を所有しているかどうかは、クリスチャンとして洗礼を受けているかどうかとか、異言を話すかどうかとか、教会での礼拝における敬虔な信心深さではなく、「この世」の他者のために自己を捧げている愛(アガペー)によってはかられる。「すでに」得ているからこそ、捨てる。「この世」に属する者は、彼らには「この世」しかないからこそ、自分たちが生き、成功をするために他者のものを奪い、他者を食い物として成長と拡大を志向する。しかし、この世とは別に「すでに」天に所有している者は、まさに、すでに所有しているからこそ、「この世」においては、他者のために自分を与え、その命を捨てる。彼らは成長と拡大への「上昇」とは真逆に、より小さくなって小さき者たちの隣りへと「下降」する。



「弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。」(ルカ福音書9:46−48)



「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。 」(マルコ福音書10:42−45)



「互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。」(ローマ12:16)



天において宝をすでに所有しているというのに、「この世」にこれ以上何を望むというのか? 天において貧しい者は、「この世」で上昇を志向する。しかし、天において豊かな者は、その富を分かつべく「この世」で下降を志向する。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」からである。たとえ「この世」からゴミクズのように扱われようとも、「この世」は彼から何をも奪うことはできない。たとえ、彼は「この世」からすべてを奪われたとしても、それでも、彼はただただ「この世」のすべての人のために、その幸せと平安を祈る。



「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。」(マタイ福音書6:19−21)



「わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(第一コリント4:9−13)

 

 

「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 」(ヨハネ福音書16:33)



天国を獲得するために、天国へと上昇するためにキリストを信じるのではない。「すでに」上にあげられた者が、愛(アガペー)によって自己を与えるために下へと降る。たとえ、今の自分がどれほど不完全であろうとも、キリストに惹かれ、認めて従うことによって、キリストの歩んだ道に己の生命と人生を見出すことにおいて、復活したキリストのうちに己の新しい生命を所有している。彼はキリストだけを見ている。それゆえに、「この世」という荒波うずまく嵐の海に溺れて絶望で窒息することなく、海の上にキリストと同じ生命を所有している。彼が「この世」で、どれほど貧しく孤独だとしても窒息することなく呼吸することができるのは、まさにキリストと共に海の「上」にその命を所有しているからに他ならない。しかし、もし、彼がキリストを見失うことがあるとしたら、そのときには、世の人が貧しさと孤独で絶望のなかに窒息するように、海の「下」で溺れることになる。



「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。」(マタイ福音書14:25−31)



「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。」(コロサイ3:1−3)



神に「選ばれた」人、天国(神の国)へと「聖別」された人は、まさに、「分けられた」という言葉とは真逆に、「この世」へと降り、「この世」へと混ざる。教会のなかで、「この世」に対して線を引き、壁を建てるのではなく、むしろ十字架を負うべく「ユダヤ人にはユダヤ人のようになり、異邦人には異邦人のようになる」ために、「この世」に降っていって、彼らの間に混ざる。彼らは、クリスチャンが理想とするようなクリスチャンではないかもしれない。神の子が人となって、人の間に混ざったように、ユダヤ人のためにはユダヤ人のようになり、異邦人のためには異邦人のようになるために、この世の前で自身をクリスチャンだと言わないかもしれないし、そもそも実際にクリスチャンでないこともありうる。それほどまでに、愛(アガペー)は、すべての人を救うために一切の壁を取り除いて相手と等しくなろうとする。



「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。 」(第一コリント9:19−23)



「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。」(ヤコブ1:27)



いつの時代も、自分たちの宗教的な聖潔さに引き籠もり、壁をたて、自分たちを「この世」とは区別して軽蔑するパリサイ派は、その「パリサイ(分けられた者)」という名称とは真逆に、いまだ「この世」としての地べたにおる。逆に、愛(アガペー)のゆえに罪の汚泥で汚れることを引きうけて、十字架を負うべく世に降る者こそ天に「分けられて」いる。愛(アガペー)は、「この世」の汚れに染まらずに「この世」に混ざり、「この世」を歩む。愛(アガペー)のゆえに大地にとどまることにおいて、彼はすでに「上」にいる。



「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。」(ルカ福音書18:10−14)



「客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。 」(ルカ福音書14:7−11)



「私は上におる」という者こそ下におり、「私は下におる」という者こそ上におる。「すでに」上へとあげられている者は、まさに上である天国(神の国)の光を知っているがゆえに、その光に照らされて自分自身の汚れをも知り、自分が義人だとみなさない。それは、真実に自分の子供を愛する親が、「私はもう十分お前を愛してやった!」とはいわず、むしろ「お前にこれもしてやれなかった…、あれもしてやれなかった…、不甲斐ない親である私をゆるしてくれ!」と嘆くように、愛(アガペー)は、いつも愛することにおいて飢え渇いており、常に愛することにおいて貧しい。そのような、渇きと貧しさのゆえに、彼はより下へ下へと降る。その愛(アガペー)の貪欲さのゆえに、彼は自己義認とは無縁であり、常に目を「下」に向けてうつむきながら胸を打つ。そのような自己の至らなさの自覚ゆえに、それが、むしろ彼が「上」の光のなかにあることを証明する。



「イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」(ヨハネ福音書4:34)



「そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。」(ヨハネ福音書19:28)



「あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。」(ルカ福音書17:7−10)



「こころ(霊において)の貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ福音書5:3)



上が下に、下が上に。先の者が後に、後の者が先に。このような聖書的逆説は、「大乗」をとなえる仏教徒上座部の出家主義を「小乗」として批判したときに、クリスチャンよりも的確に理解していた。いわく、「自己の救済を目指して世から隔絶された山奥の寺院に、同じ志を持つ同志たちと引き籠もり、また世俗の煩わしさを離れて煩悩の波ひとつない精神世界の涅槃に安らうことは、それがどれほど高度な禁欲的実践をともなっているとしても、それは、やはりいまだ『敬虔な利己主義』、または『洗練されたエゴイズム』であって、まだ『自己』に囚われていることではないか? 本当の覚者(ブッダ)は、他者の救済のために、あらゆる下界へと降り、世俗の煩わしさをその身に引き受けてまでもその自己を与えつくすほどに『自己』から解放されている者のことではないか?」



浄土教において、阿弥陀仏の前身であった法蔵菩薩が「すべての人が救われないなら、私は仏にならない」と誓願をたてたように、また、そのような誓願をもとに親鸞が「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と、万人の救済を説いたように、神に「選ばれた」人もまた、「すべての人が救われていないなら、私なんかはなおさら救われていない。すべての人が救われるまで、私の救済はない!」と言う。



マルティン・ルターもまた、修道院改革の提言として、「もし、キリストが邪悪な世のただなかに入っていって十字架へと向かうこともなく、薔薇と百合(善良なキリスト信徒)に囲まれて、平安な余生のうちにその生涯を閉じたならば、我々のうちいったい誰が救われたというのか?」と問うて、クリスチャンが世俗を離れて、修道院に引き籠もったまま、同じ信仰を持つ信仰の兄弟と霊的完成を目指すことに安らうよりも、世俗のただなかで、世人と同じく自己の職業労働によって社会に貢献して社会を豊かにし、家庭を成し、他者のために十字架を背負って生きる隣人愛の実践こそ、キリストの足跡をたどる本当のクリスチャンの在り方であると説いた。



愛(アガペー)の究極とは、他者のために自分の命を与えることです。

 

「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」(ヨハネ福音書15:12−15)



しかし、愛(アガペー)による殉教とは、かならずしも肉体的な生命を犠牲にすることではない。それ(殉教)は、「自己に死ぬ」ことであって、天国へキリストのもとに逝ける機会があるとしても、肉体が生きることが隣り人としての他者を生かすことであるならば、「生きる」こともまた、愛(アガペー)による殉教でありうる。その意味で、キリスト教における「殉教」とは、「ナントカは死ぬこととみつけたり…」という言葉であらわされるような、あらゆる生の欲求や恐怖を克服する自己の力や万能さを、他者にも自分にも証明して誇りを感じるための、異教的な「死の美学」とは異なる。



「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。」(フィリピ1:21−25)



「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。」(第二コリント5:13)



遠藤周作の小説「沈黙」のラストにおいて、宣教師のロドリゴは、拷問にかけられて苦しんでいるキリシタンの解放と引き換えに踏み絵を踏んで「ころぶ(棄教)」ことを選ぶ。もし、賭けられているのが自分の生命であったなら、彼は喜んで殉教に臨んだであろう。しかし、賭けられているのが隣りで苦しむキリシタンの人々の生命であったので、ロドリゴは踏み絵を踏んだ。たしかにロドリゴは死ななかった。しかし、「自己には死んだ」。ロドリゴは苦しむ隣り人のために、長年憧れ続けた殉教ヒロイズムと、これからもクリスチャンを名乗り続ける誇りという彼にとって最も大切なものを愛(アガペー)のゆえに捨てた。「正統的」なキリスト教の教義に照らせば、信仰を捨てたロドリゴは、結果として地獄いきになるのだろうか? 



しかり、隣り人を救うために、霊的な生命までをも与え、地獄の底まで降ることを選ぶ、そのような愛(アガペー)のゆえに、彼はすでに上(天国)にいる。 



「それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。」(マタイ福音書16:24−25)

愛について〜上昇するエロース〜

キリスト教では、「愛」の概念について大きくふたつに大別されると思います。



人間的な欲望としての自己愛の「エロース」と、神の愛としての無償の贈与の「アガペー」。



日本で「エロース」というと、もっぱら性的な意味で扱われがちですが、本来の意味はもっと広い。一言で言えば、エロースとは「完全性への欲求(恋)」と言ってよいでしょう。その「完全性」とは、肉欲のような卑俗なものから、知的な欲求、肉欲の波ひとつない明鏡止水の境地としてのニルヴァーナ(涅槃)や、精神世界に憩うことを求めるスピリチュアルな欲求に至るまで、その幅は地から天までをも包含する。



「エロースとは何か?」について語ったのは、ソクラテスの弟子である哲学者のプラトンです。愛(フィリア)智(ソフィア)としての哲学(フィロソフィア)者として、真理に基づく善き生への恋に生きたソクラテス。いわれなき罪のために死刑を宣告されながらも、もはや地上ではなく、すでに完全無欠な真理の世界としての天上世界の住人であるかのように、自らすすんで毒杯を仰いで死への恐れが無意味であることを証明したソクラテスプラトンの哲学は、このようなソクラテスの人格に衝撃を受けて、それを思想として体系化しようとしたものです。



エロースとは、自分のうちに「欠如(空白)」を抱えたもののことで、空白を埋めようと、自己の完全性へ向けてひたすら上昇してゆくものです。たとえば、恋をする者が、「今の僕の心には、ポッカリ穴が空いているんだ。君のいない人生なんて、僕には考えられない! 今すぐ君と会いたい! 君とひとつになりたい!」と思うように。



では、恋が成就して好きな人とひとつになれたら欠如(空白)感は埋まり、完全な存在になれるのだろうか?



そうとは限らない。自分も時と共に変わるし、愛した人も時とともに変わるからだ。恋に燃えたときのような美しさや愛らしさが相手に永遠にあるわけではない。こうして、美に恋するエロースは、美しいものを自己のものとしようとするだけでなく、それが永遠であることを求める。



「彼は、十年前に愛していた女性のことをもう愛してはいない。それはそうだろうと私は思う。彼女はもはや同じでは無いので、彼だって同じではない。あの時彼は若かったし、彼女だって若かった。すっかり変わってしまった。あの時の彼女のままだったら、彼もまだ愛していたかもしれない。」

パスカル 「パンセ」 前田陽一・由木康 訳 中公文庫

 

 

愛した人を手に入れたら、愛した人が永遠に愛したままでいることを求める。しかし、愛した人は、永遠に愛したままでいるのではない。空白(欠如)を満たしても、また次の空白(欠如)をうみだす。こうして、ある場合には、より若くて美しく、そして愛らしい別の対象へと恋は移ってゆく。そしてまた、ある場合には…

 

????「三次元(現実)の人間は、よくよく見るとシワもあるし…、シミもあるし…、時とともに態度も素っ気なくなるし…、いけ好かない金持ちと結婚しちゃうし…、やっぱりいつまでも美しく、永遠に愛らしい言葉や態度を反復してくれる二次元(!?)の『推し』こそ、俺の嫁!」



漫画やアニメのキャラクターや、バーチャルアイドルのような二次元の存在は、現実には存在しない。それらは理想化された人間であって、私たちの頭のなかで生みだされたものです。ところで、なぜ私たち人間は、現実には存在しないものを頭のなかに想像することができるのだろう? 「永遠」の愛を歌う歌手だって、プライベートでは多くの浮名を流し、結婚と離婚を繰り返したりもする。「Imagine!(想像してごらん!)、国境も差別も争いもなく、誰もが平和のなかで生きている世界を!」と、ジョン・レノンは歌った。しかし、そのような世界は過去も存在していなかったし、今も存在していない。にもかかわらず、なぜ私たち人間は、そのような「完全」な世界をImagine(想像)できるのだろう?



プラトンによれば、もともと人間は産まれる前には完全な天上の世界(イデアの世界)に存在していた。そして、私たちが地上に産まれ存在しているあいだ、地上の万物に天上世界(イデア界)の完全さが部分的に分有されているのを見て、その完全さに惹かれ恋をする。と同時に地上の万物の不完全さをも認識する。そもそも、何かを「不完全」とみなすことは、あらかじめ何が「完全」かを知っているということであって、私たちが地上の万物を「不完全」とみなして不満を感じるのは、あらかじめ「完全」な世界を知っている、ということであり、それは産まれる前に存在していた「完全」な天上の世界(イデア界)を思い出し、想起するからである、と。



イデア界のイデアとは、英語のidea(アイデア)の語源であって、現実には未だ存在していないが、私たちの頭のなかに存在しているもののことです。



こうして、私たちの地上の人生は、愛(エロース)による地上から天上への「上昇」の人生であって、地上の「不完全」さを認識しつつ、かつて住んでいた「完全」な天上世界への回帰への希望と憧憬に生きる。そして、恋をする者は、目に見える地上の対象の美しい外見への恋からはじまり、目には見えず知性によって把握されるような美しい言葉や美しい振る舞いへの恋(プラトニック・ラヴ!)へと上昇し、美しい生き方としての「善き生」に恋し憧れる哲学者となる。そして、最後には天上世界の「美そのもの」を認識することによって、地上にいながらも天上世界の住人として、死を恐れることのない生を生き、死の際には、「美そのもの」を認識した魂は、肉体という牢獄を抜け出して、故郷である天上の世界へ喜びに満ちて駆け上がる。



「さて、いろいろの美しさを順序をおって正しく観(み)ながら恋(エロス)の道をここまで教え導かれてきた者は、いまやその究極目標に向かって進んでゆくとき、突如として、本性驚嘆すべき、ある美を観取するにいたるでありましょう。これこそ、まさしく、ソクラテスよ、これまでの全精進努力の目標となっていた当のものなのです。 それは、まず、永遠に存在するものであり、生成消滅も増大減少もしないものです。つぎに、ある面では美しく別の面では醜いというものでもなければ、ある時には美しく他の時には醜いとか、ある関係では美しく他の関係では醜いとか、さらには、ある人々にとっては美しく他の人々には醜いというように、あるところでは美しく他のところでは醜いといったようなものでもないのです。 それにまた、その美は、くだんの者には、ある顔とか、ある手とか、その他、肉体に属するいかなる部分としてもあらわれることなく、ある特定の言論知識としてあらわれることもないでしょう。あるいは、どこか、ある別のもの、たとえば動物とか、大地とか、天空とか、その他、何ものかのなかにあるものとしてあらわれることもまた、ないでしょう。むしろ、それ自身が、それ自身だけで、独自に、唯一に形相(けいそう)をもつものとして、永遠にあるものなのです。それに反して、それ以外の美しいものは、すべて、つぎのような仕方でかの美を分かちもつと言えましょう。つまり、これらもろもろの、それ以外の美しいものは生成消滅していても、かの美のほうは、なんら増大減少せず、いかなる影響もこうむらないという仕方です。 したがって、ある者が、正しい少年愛のおかげで、この地上のもろもろの美しいものから上昇していって、かの美を観(み)はじめるときは、その者は、およそ究極なものに達したと申せましょう。なぜって、これこそが、自分の力ですすむにしろ、他人に導かれるにしろ、恋の道の正しいすすみ方なのですから。つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つねにかの美を目標としつつ、上昇してゆくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして、美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るにいたるためです』『親愛なソクラテスよ』と、このマンティネイアからきた婦人はつづけた、『いやしくも人生のどこかに人間の生きるに値する生活があるとしたら、それは、まさにここにおいてなのです。いうまでもなく、彼はそのとき美そのものを観ているからです。 そしてあなたも、ひとたびその美を観るならば、黄金も、装いも、世の美少年や美青年も、それを前にしては何するものぞと思われましょう。」

プラトン 「饗宴」 鈴木照雄 訳 中央公論社 

 

 

いうまでもなく、このようなプラトンのエロース論は、キリスト教に決定的な影響を与えた。キリスト教会のみならず、一般的にも人間の死後の魂が天国に「行く」と言われるのは、キリスト教プラトン哲学を下敷きにした影響からです。聖書を読めばわかるように、天国(神の国)は行くものではなく「来る」ものです。「神の国」と訳されるギリシャ語のバシレイヤ・トー・テウーは、神が王として支配する領域という意味で、現代のように地図で見られるような線によって国境が確認されることがない古代社会では、王様の命令に服従する臣下がいる範囲が国の境界線であって、「神の国が来る」というのは、神の王として支配が天において貫徹しているように、地上においても神が直接王として支配する、という意味です。そして、イエス・キリストにおいて、それはすでにはじまっており、キリストの再臨とともに、見えない悪の力が支配する「旧き世」としての地上は廃棄され、神の支配する新しい天と地が到来する。したがって、神の国とは宗教的な概念ではなく、政治的な概念であって、神の国(支配)を受け入れた者は、死後の永遠の生命においてだけではなく、この世の地上の生においても、神を王とする臣下として、神の御意(みこころ)を成して生きるべく召されつつあり、またそのような存在として変えられつつある。



「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。 」(マタイ福音書12:28)

 

 

プラトンの哲学をキリスト教にとりいれたのは、キリスト教史において最大の思想家であり、偉大な古代の教父であるアウグスティヌスです。幾度の肉欲による遍歴を経て神の愛(アガペー)を見出したアウグスティヌスプラトンの哲学をとりいれたのは必然でありました。肉欲にまみれた人間が、どのようにしてキリストの高みに近づけるのだろう? どのようにして、情欲によらず女を愛するとか、敵をも愛し、人を軽蔑せず、憎むことなくゆるすというキリストの戒めを認めることができるのか? それはエロースによる上昇作用による、と。



「この世」としての地上に幸福や永遠を求めるエロースは必然的に挫折する。それにもかかわらず永遠を求めるエロースは、神の愛(アガペー)へと向かって上昇する。アウグスティヌスから1500年の後にデンマークの哲学者キルケゴールは、人間は神のようにすべてを望むことができるにもかかわらず、有限で罪深い自己にたえず引き戻されて挫折してしまうという、エロースの「絶望」から、信仰への飛躍を説いた。こうして、愛(エロース)は、人間が神になることを許さない神の支配によって、常に打ち砕かれつつ、神の愛(アガペー)へと向かって上昇してゆく。



「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(コヘレトの言葉3:11)



地上に永遠と幸福を求める愛(エロース)は、神によって砕かれて、こう告白する。

 

「思えば、僕はいままでひどく自分勝手な人間だった…。さぞかし僕はイヤな奴だっただろう。僕は多くの人を傷つけたし、また僕自身も傷ついた。もう、こんなことはいいかげん終わりにしよう。今、私は彼らにゆるしを請いたい。そして、これからは、私はもっと人に優しく、人の痛みや気持ちを、自分の痛みや気持ちとして受けとめられるような人間になりたい。主イエスよ…、これまで私はあなたを敗北者とみなし、あなたの復活や勝利を謳うキリスト教を、弱者のルサンチマンによる負け惜しみの想像物とみなしてきました。しかし、今、私は十字架にかけられ復活したあなたを見出します。今、私はあなたのみもとに参ります。どうか、この放蕩息子の帰還をお引き受けください…」



「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。」(イザヤ書57:15)



「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。 」(詩編34:18)



「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」 (詩編51:16−17)



「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15)



天が地と交わらないように、「神の国」と「地の国」との間には決定的な断絶があり、誰もキリストの高みには近づけない。「それにもかかわらず」、それは福音(嬉しい知らせ)であって、人は神の国(支配)を待望し、キリストに慕い従う。それ(神の国)は、無限の時と距離の彼方に在るにもかかわらず、我々の身体と心と魂に最も近い。この事実こそ、神の言(ロゴス)が「律法」ではなく「福音」たることの事実。無限の超越の彼方にある神が、人なるイエス・キリストにおいて我々と共にあり、また聖霊において我々の内側の中心にあるという事実。



「わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。 」(申命記30:11−14)



「しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。」(ローマ10:6−13)



「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。」(マタイ福音書1:23)

 

 

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」ヨハネ福音書14:16−17)

 

 

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。 」(ルカ福音書17:20−21)

 

 

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日本は多神教だから寛容?

日本の宗教観では、「すごい」ものや「すごい」人は皆「カミ」になります。



菅原道真から織田信長豊臣秀吉徳川家康も「カミ」になり、漫画の神様、野球の神様、果ては「トイレの神様」に至るまで、人間の生活や社会に大きな影響を及ぼした存在は皆「カミ」になる。



最近では、何か突出したものがある「すごい」コンテンツを「神ゲー、神アニメ、神動画、神作品」と言って称賛し、偉大な才能や能力のある人々を「まさに神!」といって崇める。



日本では、「すごい」ものや「強い」ものは皆「カミ」になる。



これを、多様な個性を認めるおおらかな文化とみなすべきでしょうか? これもまた、八百万(やおよろず)の万物に宿る神々を尊重する「神道」であると?



しかし、万物に神々が宿っているならば、どうして山の神を無視してゴルフ場をつくり、海の神を無視して原子力発電所をつくれるのだろう?



結局、資本主義社会である日本において、最も「強い」ものは「お金(カネ)」であって、「おカネ」という最高神の前では万物の神々は道をあけねばならない、ということでしょう。



日本人がユダヤキリスト教一神教の神に対して、「ところで、キリスト教の神様は私たちをどのように幸せにしてくれて、気持ちよくしてくれるの?」と問うように、日本人にとっては「人間こそ万物の尺度(プロタゴラス)」であり、日本人を幸せにしてくれるものこそ本当の「神」であり、「おカネ様」こそ、人間に便利さと豊かさを与えて幸せにしてくれるがゆえに「最高神」であると。



イスラム原理主義者たちが欧米化を徹底的に拒否するように、日本の神道もまた、もう少し目先の利益や快楽になびかないような頑なさがあればよかったのにと私は思う。日本が、万物に宿る神々を尊重する文化であるにしても、それにしてはあまりにも聞き分けがよすぎるのではないか? 日本が八百万(やおよろず)の神を信仰する神道の国ならば、政治的な権力者や経済的な権力者が国土を私物化し、自分勝手に蹂躙してゆくのに対して、もっと怒るべきではないのか? 「自然の神々を冒涜するな!」と、もっと叫ぶべきではないか? しかし、そうしない。それは、結局、日本人にとっての 「カミ」とは、自分たちにとって都合のよいもの、気持ちいいもの、利益を与えてくれるもの以外の何ものでもない。有力な政権与党であれ、大企業であれ、大人しく従っていれば、自分たちにとって得であるならば、それらの権力者が万物の神々をどれだけ蹂躙しようが気に病むことはない。



しばしば、聖書において神が人間に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記1:28)と命じたことから、ユダヤキリスト教一神教は人間に自然の支配と侵略を許す思想であり、それに対して自然に神々を見るアニミズム多神教こそ、自然と共存しうる現代的な思想である、と語られることがあるけれども、現実においては、そう単純ではない。



たしかに、キリスト教が自然を神の被造物とし、霊魂をもつ人間と、霊魂をもたない無機質な自然とを分けることによって、科学技術によって自然に手を加え、自然を人間にとって都合のよいように再構成する動機づけを与えたのは事実であるにしても、同時に聖書は、人間の「自己神化」による傲慢をも戒めているのであって、「世界を支配しているのは神なんだから、自分たちが神になったかのように調子こいて好き勝手やってると、そのうち自然によって手痛いしっぺ返しをくらうことになるぜ!」と語るのもキリスト教であって、キリスト教は「自然を大切に!」と、自然を擬人化しない分、人間の自己神化や傲慢、被造物としての限界の再認識を促すことによって、自然に対する人間の態度を改めさせる。



他方、多神教の自然の神々といっても、人間社会と同じく権力的な上下関係があったりするのであって、戦時などの例外状況においては、太陽神である天照大御神の子孫とされる天皇ヒエラルキーの頂点とし、人権なんかどこかに吹っ飛んでまい、人間が使い捨ての人間兵器とされたように、自然の神々もまたしかりであって、現実の戦争や経済的な競争に勝つために最高神の大御稜威(おほみいつ)のもとに国土が要塞化され、見境なくビルは乱立し、木々は伐採され、海は汚染され、自然は人間の生活のゴミや廃棄物だけを押し付けられ、自然の神々はカースト制の賎民のごとくヒエラルキーの最下層へと押しやられる。



「トイレの神さま」の歌で歌われているような「トイレには女神さまがいるんやで、トイレをピカピカにしたらべっぴんさんになれるんやで」というようなおばあちゃんの教えは、どこへいったのだろう? 「ピカピカにする」という神々への敬意は消え失せ、神社で手を叩いておけば、あとは神々の存在を意識することなど、ないに等しい。日本では「カネ」こそが「カミ」であって、おカネを払って神主を雇い祭礼を施しておけば、海の神だろうが山の神だろうが、日本人の好きなように蹂躙してもよいのだから。  



もはや日本の神道は、日本人を律するものではなく、風に吹かれて揺らぐ葦(あし)のように、とにかく強いものに媚びへつらい、長いものにまかれることを正当化するような日本的ナルシシズム(自己愛)のご都合主義に堕してしまった。



神道は宗教としての性質はまったく失われてしまい、日本人の自己賛美、自己神化の意識でしかない。こうした意識のゆえに日本人は没落すべくして没落し、破滅すべくして破滅する。「赤信号みんなで渡ればこわくない」日本人は、聖書に書かれている悪霊に憑かれた豚の群れ(マルコ福音書5:1‐13)のように、崖からなだれ落ちてゆくのを止める宗教性を持たない。自分たちの欲望や願望の神化を偶像崇拝というのならば、これもまた偶像崇拝といえるでしょう。



こういうと、反論があるでしょう。「いやいや、一神教文化、とりわけキリスト教文化の社会ほどデタラメなものがあるだろうか。世界史の悪の半分はキリスト教文化圏によるものではないか?」と。



そのとうりである。しかし、日本国憲法において、「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって…」とあるように、社会や国家、宗教が悪であるのは世の常であるけれども、そのなかから常に問題提起や改革などの抵抗運動が起こることが重要なのであって、たしかにキリスト教文化の歴史には多くの問題があったが、その分、抵抗や改革の歴史の厚みもそれ以上にあるのであって、ここまで人間の平等や公正、正義、自由のような普遍的価値をめぐって現状維持を許さない努力を積み重ねてきたのは、やはりキリスト教の影響なくしてはありえないと思う。



キリスト教では、「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地でも成させたまえ」(マタイ福音書6:10)というキリストの祈りにあるように、この世がこの世のままであることを許さず、この世としての「地の国」は、「神の国」へ向けての旅の途上にある巡礼者として、義の支配する「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない神の国」(ヨハネの黙示録21:1‐4)へと向かう灼熱の情熱に生きる。こうした「神の国」と「地の国」との間の交わることのない緊張状態から、現状の社会への抵抗と改革への動機づけがうまれたことは間違いない。



すなわち、キリスト教文化では、社会や国家や宗教の「内部」から常に改革の声が上がるのに対して、日本の社会組織は内部の自浄作用には期待できず、常に「外圧」によってしか変わらない。太平洋戦争中に日本を敗戦に追いやった軍の指導者といい、カリスマ経営者の性暴力や企業の不祥事を知りながら、上に横に「忖度」して、なかったことにしようとし続けた業界人といい、誰もが心では「このままではヤバい…、いずれ破滅する…」と頭でわかっていながらも「やめられない…、止まらない…、いまさら中止なんて言える空気じゃない…」とズルズル問題を先延ばしにして崩壊へと至らせてしまう。使い古された言い方によれば、日本人は常に組織人として集に埋没してしまい、「個」がなく「良心」がないと言われてきた。しかし、より的確に言えば、日本人には「超越」がないといえる。



「超越」とは、自分や自分が所属する集団の快/不快の気分や利害損得を超えた価値のことです。それは、自分たちにとって得なことであっても、やってはいけないことがあるということであり、自分たちに損なことであっても成さなければならないことがある、ということです。



「超越」とは、無教会キリスト教の提唱者である内村鑑三の墓碑に刻まれている言葉、「I for Japan,Japan for the World,The World for Christ,And All for God.(私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして、すべては神のため)」ということであり、自分や自分が所属する集団を超えた価値の審級によって自己を律するということであり、自己は国の栄光のために、国は世界の栄光のために、世界は神の栄光のために己を律することだということです。逆に、その場の気分といった雰囲気や、利害損得に従ってしか行動しないことを「超越」を欠いているという。



日本人の多くが、自分がどのような仕事を通して社会に貢献しようかという公共的関心によって考えるのではなく、単なる身分の安定や勝ち組に入るためというような私的関心によって仕事を選ぶように、自分の身分の安定が保たれているならば、自分の会社の経営者や国の指導者がどんな不正をしていても、口をつぐんでしまう。こうして、私的利害に閉じこもる個人によって会社の不祥事は隠蔽され、会社の不祥事が隠蔽された結果、国益は損なわれ、国家が自己の国益にのみ閉じこもる結果、国際秩序は損なわれる。こうして、個人も会社も国家も世界も、自己が何のために存在しているかの「超越」を忘れた結果、全体が沈んでゆく。



誰もが「裸の王様」の見えない着物を、手をすりゴマをすりながら褒め讃えて自分の保身をはかるばかりで、危険を顧みず「王様は裸でございます!民の前ですので、いますぐお召し物を身につけてくださいませ!」と忠言する者は少ない。日本の精神風土では、たとえ貧しさと命の危険を被ったとしても、「このままでは、我々は滅びる!今すぐ引き返せ!」と叫ぶユダヤ預言者のような存在は生まれにくい。



国家としてのイスラエルパレスチナ人に対する態度については、今も昔も語るべき言葉は同じであって、イスラエルに悔い改めることを迫ったユダヤ預言者の言葉を想起させる以外の正当性はない。

 

「万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家であり、主が喜んでそこに植えられた物は、ユダの人々である。主はこれに公平を望まれたのに、見よ、流血。正義を望まれたのに、見よ、叫び。わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑に田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。万軍の主はわたしの耳に誓って言われた、「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな麗しい家も住む者がないようになる。 」」(イザヤ書5:7−9)



日本は欧米に倣って近代化を成し遂げた。しかし、制度やシステムの上辺だけをなぞるばかりで、民主主義や人権などを西洋にもたらした思想的エネルギーの源泉を学ぼうとはしなかった。



近代化というのは、自分が属する組織集団としてのムラや人間関係の外に普遍的な価値にもとづく「公(public)」の概念が芽生えるかどうかにある。



「和魂洋才」による近代化を目指した日本は、天皇の存在で「公(public)」の役割を置き換えようとしたが、日本全体が天皇を教祖とするような新興宗教カルトのようになって自滅した。それ以降、日本人には「公(public)」の概念がなく、外側は欧米の民主主義や科学技術をとりいれても、その中身は自分が属する集団としてのムラのオキテやシキタリ、その場の人間関係への空気の忖度だけが支配する、未開の部族的メンタリティしか存在しない。



だから、税金としてお金を集めても、「公(public)」のためには使われず、お金や権力をもつ人間たちが属するムラや、その人間関係のためにしか使われない。増税をしても、政治家や官僚に食いつぶされるのが目に見えてあきらかだから、日本では国民がどんなに貧しくても、フィンランドスウェーデンのような北欧の福祉国家のシステムを築くのは難しい。政治に透明性がなく、政治への信頼が皆無に等しいものだから、誰もが困窮しているにもかかわらず、「減税!減税!自己責任!」というような、アメリカ人も驚くような我利我利(がりがり)の新自由主義的思想が幅を利かせることになる。



結局、近代化は政治の問題ではなく、文化の問題であって、明治の日本も令和の日本も「公(public)」の意識がまったく欠落していることには変わりがない。日本では、令和の現在においても、江戸時代の侍や農民がスーツを着て議員の議席に座り、会社や工場で働いているようなものにすぎない。日本人は、欧米化による近代化を成し遂げたと言われているとしても、何ひとつとして江戸時代から進歩していない。



「それでも…」と人は言うでしょう。日本は宗教がないからこそ平和じゃないか?と。日本の無宗教こそ、これからの世界の模範となるような在り方なのではないか?と。



一般的に宗教や倫理といったものは、人間にとってゆずれないもの、妥協できないものです。そうであるがゆえに、宗教や倫理の議論を公共の場にもちこむと、必ず喧嘩になる。そこで、分断を避けるために宗教や倫理は個人の私的(プライベート)な領域におさめ、公共の場では宗教や倫理の話しはひかえて、「社会人」としての共通のルールである市民道徳に置き換えて共存をはかる。たとえば、職場では各人の宗教や倫理は問わず、労働のルールにのみ従うことによって、様々な文化人種の人々が一緒に仕事ができるように。これが、私たちの社会の基本的な在り方です。



しかし、私たちの社会が資本主義の社会である以上、宗教や倫理を公共の議論から外せば、残るのはカネ儲けや成功、市場での競争や契約であり、弱肉強食のジャングル資本主義であって、共存といってもお互いの利害関係が一致しているだけのビジネスライクなものにすぎない。



そのような社会では、たしかに宗教や文化的な世界観による争いはないけれども、万人が自分たちの私的利害を最優先にする結果、違うカタチで分断や争いが起こってくる。万人が「今だけ、金だけ、自分だけ」の私的利害に閉じこもり、公共的な正義や公正への感覚がいちじるしく鈍感になる。



しかし、市民社会にだって共感や同情といったコモンセンスがあるのではないか? ところが共感や同情は当然、感情が受けとめきれる狭い範囲にしか及ばない。自分にとって疎遠な人や偏見を持っている人、嫌いな人には及ばない。



たとえば、日本人は多くの人が無宗教で、宗教や世界観をめぐる争いはないのだけれども、電車でのベビーカー問題や子供の声問題、生活保護バッシングにあらわれているように、自分たちに少しでも不快感を与えるような「迷惑」に関しては、相手が弱者であっても極端に冷たい。

 

 

寛容とは、受け入れがたいものの存在をあえて認めるということです。日本人は寛容なのではなく、単に無関心で互いに干渉しないだけにすぎない。相手が少しでも自分に不快感を与えるようになると、またたくまに不寛容になる。



アメリカが弱者に厳しいとか言われるけれども、アメリカは国からの福祉は少ない分、寄付やNPOやボランティアが乱立しているのであって、クラウドファンディングによってまたたくまにお金が集まったりする。



アメリカは、イギリスから独立した国であって、基本的に政府というものを信用しない。なおかつ、キリスト教による喜捨の国でもあるので、貧しい人を支援するなら、自ら喜んで自発的な善意で支援しなければならないとされる。だから、お上(かみ)としての政府に無理矢理税金として召し上げられたお金で貧しい人々に再分配されるのを好まない。とはいえ、喜んで人のためにお金を援助できるような余裕のある人や、人徳のある人は稀だから、結果として貧しい人々に厳しい超格差社会となっているけれども、個人や教会や、小規模の自発的な組織単位では、様々な支援団体が存在する。



ところが日本は、2007年のアメリカのピュー・リサーチ・センターの調査で「政府は貧しい人々の面倒を見るべき」という項目に「同意する」と答えた日本人は、調査対象の47ヵ国中、最低の59%であったように、世界で最も自己責任志向が強く、弱者に厳しい。



宗教や倫理を公共の議論から遠ざけ、社会に私的利害による競争と契約だけを残した成れの果てが今の日本であって、誰もが自分と自分の家族にしか関心がなく、既得権にしがみつくだけで、社会の片隅で困窮している隣人については考えない。



好きか嫌いか、損か得かといった利害関心を超えて、自分にとって疎遠で、嫌悪感を与え、重荷となるような人間であっても、無条件で守らなければならない価値があることを教えるのは、宗教の力以外にない。



ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられ、きちんとした近代化も成されていないのにポスト近代が語られて、「キリスト教なしに西洋を乗り超えた日本人こそ、哲学者のニーチェが予言した『超人』である!」と自惚れて、「経済一流、政治三流」と揶揄されてきた日本は、いまや経済も凋落するに及んで、ありとあらゆる面で三流であることが暴露され、もはや巻き返しの見込みもないどん詰まりの様相を呈している。



キリスト教文化の国々が世俗化し、日本的な「無宗教」に近づいているにしても、そうだからといって日本が世界の歴史の頂点に位置しているわけではなく、日本の没落と破滅に世界が追随しているにすぎない。いかに世界が無宗教化しているといっても、キリスト教的伝統によって遺された「良心」が破滅へのストッパーとなっているのに比べて、日本にはそのようなストッパーすら存在しない。



では、日本人の多くがキリスト教の洗礼を受けてクリスチャンになったら、日本人は「超越」を獲得して、集に埋没しない普遍的な価値と直結した「個」としての預言者エートスを身につけることができるのだろうか?



そんなことはない。洗礼を受けたクリスチャンですら、神の前で独り立つ「単独者」というより、キリスト教会という「ムラ」の村人A、村人B、村人Cにすぎず、牧師や先輩信徒の視線を気にしてはキョロキョロと目を泳がせているだけで、お世話になった教会の人間関係の恩義から、所属団体の公式見解を右から左に流すだけのスポークスマン以上のものではなかったりする。彼らが聖書やキリスト教について語るにしても、必ずしも「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして(ルカ福音書10:27)」確信し、聖餐のパンと葡萄酒を食べるようにキリストを己の血肉として消化して体得した真理を語るわけではない。



では、クリスチャンは日本の未来について何を語るべきか? 破滅は避けられない。しかし、旧約聖書預言者たちがイスラエルの破滅と再生を叫んだように、私たちもまた、日本の破滅と再生を叫ばざるおえない。



日本の破滅は避けられない。しかし、社会も、国家も、宗教も、キリスト教会も、そして、自分自身を含めたいかなる人間の力も、すべてが壊れてアテにできなくなるその先で、日本人ははじめて「単独」で神の前に立つ。



クリスチャンの成すべきことは、カネとヒトで教会を肥やすことではなく、社会全体をひとつの教会として、「水が海をおおうように、主を知る知識を地に満( イザヤ書11:1‐9)」たすことに他ならない。「キリスト教に関心がおありなら、まず教会へおこしください」ではなく、福音を教会や聖職者の専有から開放して、社会の公共財としての水や空気のように、人々の手と耳と口に身近なものとして、社会に満たさなければならない。時がよくても悪くても(第二テモテ4:2)、人々が聞いても聞かなくても、灯台にあかりをともし続ければ、昼間は無駄なことに時間を費やす狂人とみなされようとも、夜の闇が深まる時には灯台のあかりが迷える人々の道しるべとなるでしょう。

神のリベラル(自由)〜聖書による聖書原理主義批判〜

キリスト教会には、聖書に書かれている言葉の一字一句が神による霊感によって書かれたとして、その言葉の誤りなき無謬性を信じるグループがあります。彼らは、自分たちが聖書全体を通して啓示された神の言葉(福音)に忠実であることを表現して、彼ら自身を「福音派」と呼ぶ。


「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。 」(第2テモテ3:15−17)


「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」(第2ペトロ1:20−21)


彼ら福音派にとって、リベラル(自由主義)というのは、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌うものだと思います。


いわく、リベラルはヒューマニズム(人間中心主義)であって、聖書も人間に都合よく解釈し、実のところ神も、キリストの神性も、天国も地獄も信じていない不信者であって、クリスチャンではない。福音主義は聖書の言葉を一字一句大切にする神中心主義であって、福音派こそ本当のクリスチャンである、と。


しかし、リベラル(自由)ということの本質は、人間のリベラル(自由)ではなくて、神のリベラル(自由)ということです。


神が全知全能で、今も生きて働いている存在ならば、神は絶対的に自由な存在であって、聖書の言葉にすら拘束されない、ということです。


過去における神の働きが聖書に書かれているからといって、過去に行ったように今も行い、過去に語ったように今も語るなんて、どうして言えるのか?


自然科学が、自然法則から予測して自然をコントロールしようとする試みであるように、聖書の記述から神の働きを予測することは、神をコントロールしようとする試みであって、神の自由を否定するものではないか? それこそ「人間中心主義」ではないか?


聖書のなかですら、神はあるとき罪人とした者を義人とし、あるとき神の民でなかった異邦人を神の民とし、あるとき律法を命じた神は、あるときは律法を超えて命じられる(安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない!マルコ福音書2:23−28)


「神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のわれみによるのである。聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。」(ローマ9:15−33)


「翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。」(使徒言行録10:9‐15)


「ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。」(使徒言行録10:28)


聖書に奇跡の話しが書いてあるからといって、今も過去のように奇跡が起こるとは限らない。自分たちが敬虔な信仰をもっているからといって、聖書の記述とうりに海が割れたり、病が癒えたり、死人を蘇らせたり、毒蛇にかまれて死なないわけではない。奇跡をおこすもおこさないも神の「自由」であって、奇跡をアテにするのは神をコントロールしようとする試みであって、それは偶像に生贄を捧げて万物をコントロールしようとする「魔術」や「呪術」と同じではないか? 「神の子なら、この神殿のてっぺんから飛び降りてみろ。天使が支えてくれるって聖書に書いてあるぜ!(マタイ福音書4:5-7)」というのは悪魔の言葉であって、聖書に神を閉じ込めて、聖書のとうりに神が働くことを期待すれば待っているのは破滅のみ。神に愛がないのでも、神がいないのでもなくて、人間が神に一方的に期待しては失望をくりかえしているにすぎない。


神は絶対的に自由な存在であって、人間のしもべではない。神は、その啓示された約束のとうりに人間のために働いているが、人間の期待や予測に応じるために動いてはいない。神は、御自身の絶対的に自由な意志において働く。


神は自動販売機ではない。ある価格のお金を入れれば自動的に商品がでてくるように、私たちの敬虔さや従順、信仰に応じて奇跡や祝福、または災いや裁きが自動的に出てくるのではない。神は、聖書という説明書に書いてあるとうりに動く「デウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神)」ではない。


神の「リベラル(自由)」については、聖書にヨブ記があります。


ヨブは、神の前でも人の前でも誠実な全き義人でありながら、度重なる苦難を受けます。ヨブの友人たちは、そのひどいありさまを見て「ヨブは何か罪を犯したからひどい刑罰を受けているのだ」、「ヨブの苦難は、罪を浄化するための神の試練だ」などと考えます。これは、ヨブの友人たちが、「神は善人には祝福をもって報い、悪人には災いをもって報いる」という律法の応報思想にもとづいてヨブを判断しているからです。つまり、ヨブは現に災いを受けているのだから、律法に照らして、何か神の前で罪を犯したに違いない…と。ところが、ヨブは自身を省みて何ら責められるべきところはありません。そこで、ヨブは神に問いかけます。「神が正義の神ならば、神の義はこの世界のどこにあるのか? 世界は不条理に満ちている」と。


そこで、神はつむじ風の中からヨブに語られ、天地創造の過程を見せながら、こう言います「私がこれらのものを創造したとき、あなたはどこにいたのか? 私の隣りにでもいたというのか?」と。


「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。」(ヨブ記38:1−4)


もちろん、ヨブはせいぜい数十年生きただけであって、神の働きを最初から最後まで見ていることはできません。ヨブは神に悔い改めます。「私は自分が悟らないことを言い、知らないこと、測りがたいことを述べてしまいました。」


ヨブ記の主題は明白です。人間と神は違う。人間は、自分が神の立場がわかるかのように、神についてあれこれと語るけれども、人間が神について語り、考えることは全て間違っている、ということです。


神が人間に簡単に理解されるなら、それは神ではない。神は人間にとって常にブラックボックスであり続ける。自分が神になったかのように「あの人は義人だから救われる」、「あの人は罪人だから地獄におちる」、「あれは神の祝福だ」、「あれは神の罰だ」と安易に語ることは、神に対する越権行為であって、「無知な言葉で、神の経綸(けいりん)を暗くする者」というわけです。


「しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」(ローマ10:6‐7)


神の正義と、人間の正義観は一致しない。神の裁きと、人間の苦難は一致しない。神の祝福と、人間の幸福観は一致しない。災難や不幸や罪人から神は義を顕すことがあり、富や繁栄や律法から神は悪を顕すことがある。神の本当の意志や働きは、しかるべき時に神が明らかにするまで、人間は一切判断してはならない。 新約聖書は、神に見捨てられたイエスという義人の苦難、不幸、貧しさこそが人間を救う「神の義」であった、というメッセージではなかったでしょうか?


「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マタイ福音書27:46)


「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(イザヤ53章)


「彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。」(ヨハネの黙示録19:13)


「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(創世記50:20)


神が全能で自由ならば、当然人間の知識や理性に拘束されず、聖書のテキストにすら拘束されない。聖書を読んで神のことをわかったつもりになっても、それは「今、生きて働く神」には何ら関わりがない。神は学校で習う数学のようには理解されず、人間にコントロールされることはない。


神は誰にも把握されずコントロールされない。神はあらゆる人の願望や期待をすり抜けて、すべての人のために働く。  人間の側にできることは把握や予知やコントロールではなく、人間のあらゆる思惑を越えて人のために働く神の全能と愛を信頼することのみ。


「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」(イザヤ55:8‐11)


「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(エフェソ3:20‐21)


十戒のうち第三戒は、「神の御名をみだりに唱えるべからず(出エジプト20:7)」でした。神について全部わかっているかのように「神さまは…、神さまが…」と、何かと神を主語にして語り散らす牧師やクリスチャンは、敬虔を装っていたとしても信用してはならない、ということでしょう。


福音主義とは、聖書を信じることです。しかし聖書の「文字」を信じるのではなく、聖書が指さすものを信じる。旧約聖書の「文字」を信じるのではなく、神が預言者によって約束されたものを信じる。パウロなどの使徒たちの手紙の「文字」を信じるのではなく、彼らが指さし、証言するものを信じる。すなわち、聖書によって約束され、使徒によって証言された神の言(ロゴス)である「イエス・キリスト」を信じる。


「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ福音書1:1‐5)


「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」(ヘブライ1:1‐3)


聖書の「文字」が神の言葉なのではなく、聖書や使徒の手紙が神の言葉なのではありません。「イエス・キリスト」こそ生ける神の言(ロゴス)であるという信仰こそ、聖書や使徒の手紙が証言するものです。だから、キリストを差し置いて聖書や使徒の手紙で人を裁くなら、神の意志はもちろんのこと、使徒たちの思いをも踏みにじることになる。


「わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。」(ヨハネ福音書5:45‐46)


聖書に何が書いてあろうとも、キリストが「愛せよ」と命じたのだから、愛さなければならない。愛さないならば、キリストに反対するだけでなく聖書の全体に反対することになる。


「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」(ローマ13:8‐10)


「保守」とは、聖書の言葉を一字一句忠実に守ることだろうか? しかし、それではまだ「浅い」。もう一歩遠く、そして深く、聖書に進みい出てゆかなければならない。そして、神のリベラル(自由)を認めることこそが真の保守主義原理主義根本主義)があるべき「原理(根本)」とは、「生けるキリスト」であって、「死せる文字」ではない。「文字は殺し、霊は生かす」と聖書にあるとうりです。


「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 」(第2コリント3:6‐18)

 

 

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補説:精神障害、発達障害などの「障害」について〜「異常」なのは人間なのか?社会なのか?〜

以前、「精神障害発達障害などの障害について」というブログを書きました。

 

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昨今、発達障害を含めた様々な「障害」についての報告を頻繁に耳にします。素朴な印象として、このように思うはずです、「発達障害というものを持つ人が最近増えているらしい」と。


しかし、昔も今も人間は人間であって、数千年と変わらなかった人間の器質がここ数十年で急に変化するはずがありません。


では、何が変わったのか?

人間が変わったのではなく、社会のほうが変わった。個々の人間を評価する社会の視線が変わった。正常と異常、適応と不適応を評価し区別する社会の枠組みが変わった。


何かを善とすることは、必ず何かを悪とすることであって、何かが異常あるいは障害とみなされるからには、その背景には必ず正常あるいは健常という規範があります。表のない裏という概念が存在しえないように、何かが異常とみなされているからには、そこには必ず何かを正常とみなしているということであって、正常または健常とされていることの枠組みがが変われば、異常または障害とみなされることの内容も変わる。


当然、正常または健常とされている範囲が狭まれば狭まるほど、異常または障害とみなされる範囲も広がることになる。


現在、発達障害とみなされるような人々は当然過去にも存在した。しかし、現在のような関心をひかなかったのは、なんだかんだで包摂され、適応することができていたからで、周囲から「あの子…、少し変わってるね」と心配されていても、周りの人間たちの配慮や気遣いによってカバーされることができていたからによる。一言で言えば、いちいち細かいことを気にする必要がない程度には、社会に「余裕」があった、ということです。


しかし、社会がより高度に複雑化し、個人に求められる資質もまた高度に複雑化するだけでなく、右肩上がりの経済から不況によって経済が低迷し、余分なことにコストを割く余裕がなくなるに応じて、コストカットとして生産の現場から人員が減らされ、会社で働く人間や社会で生活する人間への「正常性」あるいは「効率性」への要求はより強力になる。そして、今までは何とか包摂できていたとしても、しだいに「あの子と一緒に仕事をするのは、…ちょっと難しい」ということが増える。余裕がないなかで物事がスムーズに進まないので、人間関係の空気はより悪くなり、なかなか現場に適応することができない当人も、現場の空気が悪いのは自分のせいかもしれないということを敏感に感じとって悩むことになる。


そうした高度に複雑化した余裕のない社会のなかで、適応不全の人々が増えるにつれて、発達障害知名度や認知度も増える。「何をやっても馴染めず、うまく適応できないのは、発達障害だからではないか?」と考える人も増える。発達障害の診断があれば、すくなくとも社会に適応できないのは自分の落ち度ではなく、努力では如何ともし難い外部要因であることが証明できるため、健常者としては適応できないが、「障害者」という枠組みでは適応できる。


だが、いったい「障害」とは何なのか? それは、もちろんハンディキャップという意味です。しかし、手や足が不自由という意味での身体障害者については、「五体満足」という意味で、目に見えての「健常」が存在するのに対し、精神障害発達障害については、何をもって「健常」というのか? この意味での「健常」とは、目には見えない社会の規範や空気をも含むのであって、社会の有り様によって雲をつかむように変わりうる。


知的、精神的な意味での「健常者」とは、誰のことを指すのか? 知的な「健常者」なるものが本当に存在するのか? 実際、様々な環境で適応不全で苦しんでいるにもかかわらず、発達障害の診断の基準から漏れてしまう「グレーゾーン」と呼ばれる人々が存在しているのであって、いわゆる「健常」とみなされている人々にも、精神安定剤オピオイド鎮痛薬など、その他様々な薬(場合によっては非合法なクスリ)で自分自身をブーストさせることによって何とか社会に適応している人々がいる。


芸能界やスポーツの世界での薬物汚染がしばしば問題になるが、過度な競争社会では、それも理の必然であって、過度な重圧と責任と不安のなかで勝ち抜かなければならないプロフェッショナルな世界では、周囲から求められる期待と、本来の自分とは真逆の「キャラクター」を演じ続けるために、薬物に依存して自分をブーストさせ続けなければならない誘惑にかられる。


いまや、程度の差はあれ、社会全体が、こうしたプロフェッショナルな要求によって期待されているのであって、多くの人が病名を獲得しなければ適応を許されないような社会とは何なのか? また、何らかの薬によって自分をブーストさせてまで適応しなければならない社会とは何なのか? それは、社会が求めている「正常」や「健常」などの規範が、もはや本来の人間性からかけ離れた「サイボーグ」となっているからでではないか?


実際、セレブたちのなかには、自分たちの子供を競争社会のなかでの勝利者とするために、受精の段階から遺伝子に手を付けて様々な優れた属性を付与することを計画している人々がいるのであって、人間の手によってコントロールしてまで乗り越えられねばならない人間の「普通」とは、いかなるものか?


セレブとはいえない、ごく一般的な家庭のなかでも、自分たちの子供が勝ち組とまではいかなくても、負け組にはならないような「普通」の人間として生活できるよう育てるべく追い詰められている。


こうして、「普通」はもはや普通ではなく、「普通」の人間、「普通」の生活なるものも、何かしら心と体を消耗して適応(あるいは改造!)しなければならない「狭き門」となりつつある。


この意味では、誰もが何かしら「普通」への適応不全としての「障害」を持っているともいえるのであって、完全な意味での「普通のヒト」といえる人はどこにもいない。ほとんどの人は普通を「演じて」いるのであって、自分自身のなかには常に「普通」をはみだす病的、変態的、異端的、非社会的、狂気的な部分があることを知っている。


いわゆる定形発達の「健常者」と呼ばれる人も、ある程度心と体をすり減らして社会に適応している。だからこそ、「自分たちだってがんばって適応しているのに、ちょっと病名を得たからといって優遇されている人がいるのは公平ではない!」と、福祉に反対する人がいる。


誰もが何らかの障害者でありえるのであって、誰もがマジョリティであると同時に何らかのマイノリティでもあり、マイノリティであると同時にマジョリティでもある。誰もが、みんなができるのに自分だけができないことがあり、みんなができないのに自分だけができることがある。


身体障害者が社会のバリアフリー化の度合によっては健常者と遜色なく生活することが可能であるように、今、発達障害とみなされている人も、「健常」の枠組みの変化によっては、健常の枠組みのなかに包摂されることができる、あるいは少し特殊な個性をもつ健常者として社会に適応しうる。


蟻(あり)の社会や蜂(はち)の社会においては、その社会性が身体に直接プログラムされているので、社会の構造が変わることはない。しかし、人間の社会は、人々が意図的に演じている「普通」という規範、または場の空気によって成り立っているので、人間の心や身体そのものには、常にそうした「普通」という社会の規範、あるは空気をはみだす性質がそなわっている。そうであるがゆえに、蟻や蜂の社会に変化が乏しいのに比べて、人間の社会は常に変化し続ける。「普通」とみなされている社会の規範や空気も、そのつど変わる。


たとえば、長い時代において、同性愛は病気、精神的・身体的異常とみなされてきたが、昨今では、自分自身に同性愛的傾向、あるいはLGBTQと呼ばれるようなパターン化されない複雑な「性」を持っていることをカミングアウトする人々が増えるにつれて、セクシュアリティ(性)の「普通」や「常識」も変わりつつある。実際、LGBTQという言葉が知られるまで、ひと昔前までこれらは性同一性障害という「障害」の文脈で語られていた。


「言いにくいんだけど、実は僕は〇〇なんだ…」、「そうか…、隠していたけど、実は僕も君とは少しタイプが違うけど〇〇なんだ…」

コミュニケーションにおける、このような小さい「はみだし」のカミングアウトの積み重ねによって、社会の「普通」や「常識」という規範も変わってゆく。社会の主流のパターンにすべての人をはめ込めるほど、人間は単純ではない。人間は常に多様であり複雑であって、人間が規定した枠組みから常にはみだしてゆく。


では、「健常」や「正常」など「普通」と呼ばれる社会の規範や空気は何なのか? 何がそのように正常と異常を線引するのか?


たとえば、私たちがホラー映画を見たあとで、家の壁のしみを眺めていると、怨めしそうな人の顔に見えてゾッとすることがある。また、別の日に教会での礼拝から帰ってきて、敬虔な気持ちに満たされて同じ家の壁を眺めていると、同じ壁のしみが、今度はキリストや聖母マリヤの姿に見えることもある。壁のしみは、それ自体何でもないが、それを眺める私たちの感情や関心によって、千変万化のカタチをあらわす。


これと同じく、人間それ自体としては、この壁のしみと同じく何ものでもない「混沌」であって、それにカタチを与えるのは、社会の総体的な「関心」による視線の「光学」による。「光あれ!」とともに混沌にはカタチが与えられる。


私たちのコミュニケーションのなかでは、「あの人の心や振る舞いは異常だ」とか「あの人の脳には異常がある」と言ったりする。しかし、私たちの心、振る舞い、またその原因とされている脳や身体に直接「正常」や「異常」などの属性が実体的に存在しているわけではない。それらは、壁のしみが何でもないのと同じく、それ自体としては、正常でも異常でもない無規定の「混沌」であって、それらに「正常」や「異常」の属性をラベリングするのは、社会の総体的な「関心」や都合における評価による。


壁のしみが、怨みに満ちた人の顔に見えるか、キリストや聖母マリヤの姿に見えるは、それを眺める人間の感情や関心、状況によって輪郭を与えられるように、私たちに引かれている「正常」や「異常」の線による輪郭もまた、社会の総体的な関心や状況によるのであって、それ自体として私たちの心や振る舞い、脳や身体が正常であったり異常であったりするわけではない。


最近では、プロジェクションマッピングとよばれる、真っ白なビルに最初からデザインが施されているかのように、様々な映像を投影する光学的技術があるように、私たちに規定された「正常」や「異常」の属性もまた、私たち自身の性質そのものではなくて、社会の総体的な「関心」による「光学」によって映しだされた「映像」にすぎない。


それ自体として異常な精神や脳など存在しない。それらは、かならず何かしらの社会関係の「投影」であって、社会関係が物それ自体の性質であるかのように認識されることを、哲学の世界では「物象化」という。たとえば、私たちが使う一万円札は、それ自体としては数十円から高くても数百円の紙きれにすぎないにもかかわらず、一万円分の商品と交換できるために人々の血まなこの欲望の対象になっているのは、この紙きれに一万円という価値が実体的に存在しているのではなく、現行の経済的な社会関係がそれらを流通させているからに他ならない。したがって、為替相場で円の価値も常に変動するし、戦争や大災害などで社会が崩壊に近い状態になると、第一次世界大戦後のドイツにおけるハイパーインフレーションように、パン一斤が一兆円というように、一万円札を軽トラック一杯に積んでいかないと買えないということになる。そうなると、もはや一万円札の価値はティッシュ一枚の価値もなく、もはやトイレットペーパーの代用としか使われない、ということになる。


「IQ」と呼ばれる知能指数も、しばしば高い数値をだした人の知能や脳が優秀だとか、低い人は劣等だとかと語られるけれども、これらの数字は現行の社会関係への(それも極めて限定的な範囲での!)適応の度合であって、IQが高いことが文字どうりに頭が「いい」わけではない。抜群に優れた集中力と、複数の選択肢を想定して、そのなかから最適の選択をする能力としては高く数字化されて評価されたとしても、それは、現行の私たちの社会が、そのような能力を高く評価している社会である、ということにすぎず、IQが高い人間が芸術性や道徳性、宗教性の分野において優れた結果をだせるわけではない。そもそも、最適な選択という「正解」を決めているのが、現行の社会なのだから、その「正解」に最も効率的にたどりついたからといって、それは現行の社会の枠内において「のみ」優秀であることを証明しているにすぎない。


こうして、正常であるとか異常であるとか、健常であるとか障害があるとか、発達が進んでいるとか遅れているとかは相対的なもので、何ら私たちの心や脳の実体をあらわすものではない。社会の有り様によっては、異常とみなされた人も居場所を得て適応することができるし、障害があると言われた人も、健常者と遜色なく生活できる。また、発達が遅れているとされた人も、ドラマの「裸の大将」のモデルとなった画家の山下清のように、文化的な価値の創造の世界に居場所をもつこともできる。


自分や自分の子供が知的なハンディキャップや発達におけるハンディキャップを抱えているからといって、「私は劣った存在なのだろうか?」「私たちの子供は劣った存在なのだろうか?」と悩む必要はないし、むしろ、「異常なのは、私たちではなく、この社会のほうではないか? 健常者と呼ばれている人たちも、本当にこの社会が、今のままでよいと思っているのだろうか?」と問うことが許されている。この社会を「はみ出し」た仲間たちで、この世の秩序とは異なる「義の宿る新しい天と地(ヨハネの黙示録 21:1-5 )」のオルタナティブを目指すべく召されている(聖者の行進)。


先んず、日本では会社組織に全的にコミットメントすることを要求される、何でもこなす「正社員」としてしか人並みの生活を維持する経済水準を許されないことが、様々なハンディキャップを持つ人々の生きづらさを増しているとすれば、正社員でなくとも最低限の生活と、自分の趣味に没頭してクリエイティブな価値を創造する生活の余裕をもてるような多様な働き方のうえでの生活の維持の可能性が求められるでしょう。