「この」地上に「既に」来たりつつある「神の国(支配)」が、 一方では「壁」となって、我々人間の高慢な願望や欲望の偶像崇拝を打ち砕き、その一方では、同じ人間に、キリストによって示された「神の国」への「飢え」をもたらし、イエス・キリストを「生ける命のパン」として、我々のうちに啓示する。このそれぞれが独立して存在しているのではなく、全体でもって「ひとつ」であり、天上と地上の両方を支配する「神の国」として存在している。神が、神御自身の義(ただしさ)を顕す。砕きたもうも神ならば、建てあげたもうも神である。飢えを与えたもうも神ならば、満たしたもうも神である。裁きたもうも神ならば、救いたもうも神である。認める認めないに関わらず、人は誰でもキリストへの「飢え」を与えられている。神が、キリストへの飢えを人間に与えたもうからである。キリストを、生ける命の「パン」として我々に啓示したもう方は神御自身である。
「イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」。そこで、彼らはイエスに言った、「神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか」。イエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」。彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。ユダヤ人らは、イエスが「わたしは天から下ってきたパンである」と言われたので、イエスについてつぶやき始めた。そして言った、「これはヨセフの子イエスではないか。わたしたちはその父母を知っているではないか。わたしは天から下ってきたと、どうして今いうのか」。イエスは彼らに答えて言われた、「互につぶやいてはいけない。わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。預言者の書に、『彼らはみな神に教えられるであろう』と書いてある。父から聞いて学んだ者は、みなわたしに来るのである。神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである。よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。そこで、ユダヤ人らが互に論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」。イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。」 (ヨハネ福音書6:26‐58)
我々の生が、既に「裁き」のなかにあるということについては、仏教徒が「仏教は宗教ではなく、科学です!」と主張するように、たしかに、仏教において「一切皆苦」と説明されているような意味で、人間の生は、生・老・病・死の避けがたい限界(四苦)と、愛別離苦(愛している者と別れなければならない苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎む相手と関わらなければならない苦しみ)、求不得苦(求め欲するものが得られず苦悩する苦しみ)、五蘊盛苦(人間の生存は、おしなべて苦しみの連続である)の四苦を加えた八苦の、決して人間の思いどうりにはならない「四苦八苦」の世界を生きている。
ただし、仏教とキリスト教が異なる(と、私が認識している)のは、仏教が、この世界の不条理と、人間の生の避け難い苦しみを認識したうえで、そのような世界を変えようという「執着」を放棄することによって、この世界の「ありのまま」を受け入れて肯定することで、個人の(あるいは万民の)安心立命を図ろうとするのに対し、キリスト教は、愛(アガペー)のゆえに十字架の痛みと苦しみとを引き受けてまでも、「この世」の変革にどこまでも「執着」しようとする「宗教」である、ということである。
我々は、キリスト教は宗教ではなく科学だなんて、もちろん言わない。それに、キリスト教は宗教ではなく、実践的な道徳であり、茶道や華道、剣道や柔道と同じような意味でのキリスト道だ、などとも主張しない。キリスト教は、やはり「宗教」であって、その目的は、社会秩序の維持や人間の道徳的自己完成ではなく、「神の国(支配)」が「この」地上に来たることを求めることであり、「ありのまま」の世界の認識を越えて、その「先」を求め希望し、信じることである。そして、それを成すことができる方が存在しているということを認めることである。
「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、(この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。 」(ヘブライ11章)
(ChatGPTへの質問)
歴史上のゴータマ・ブッダにとっては、あくまで苦しみからの解脱が一次的な目的で、慈悲はその目的からくる二次的なものだったのですか?
(ChatGPTからの回答)
歴史上のゴータマ・ブッダにとって、まず中心にあったのはたしかに「苦(dukkha)からの解脱」でした。
四諦でも、出発点は「苦がある」、そして目的は「苦の滅尽(涅槃)」です。
ただし、だからといって慈悲が単なる“おまけ”だった、という理解だと、少し単純化しすぎになります。
むしろ初期仏教では、
解脱は智慧によって成立する
しかし、その智慧が深まるほど、自己中心性が薄れ、他者への害意や執着も消え、自然に慈悲が現れる
という構造になっています。
つまり、慈悲は「目的に付随する副産物」というより、
「自己への執着が消えた結果として現れる存在のあり方」
に近いです。
たとえばブッダは、悟った直後、「この法は深遠で、人々には理解されないだろう。教えずに静かに留まろうか」と一度は考えた、と経典では語られます。
しかし最終的には、「少ししか塵のかかっていない者たちのために」教えを説くことを選びます。
ここには重要な点があります。
ブッダは、 「世界を救済して歴史を変革したい」 という預言者的・救世主的情熱から動いたというより、
「苦しんでいる存在がいるなら、道を示そう」
という静かな慈悲から動いている。
これは、たとえばイエス・キリストのような、 「失われた者を救うために積極的に世界へ介入する愛」 とは少し質感が違います。
初期仏教の慈悲は、 「他者を自分の理想へ導こうとする情熱」 よりも、
「執着によって苦しむ存在への深い理解と非加害性」
に近い。
だから、初期仏教ではしばしば、
慈(mettā)=幸福を願う
悲(karuṇā)=苦しみの除去を願う
が説かれますが、それは「世界改造の使命感」というより、心の浄化・無執着と不可分です。
ただ、大乗仏教になると、このバランスがかなり変化します。
大乗では、 「自分だけ涅槃に入るのではなく、一切衆生を救う」 という菩薩思想が前面に出ます。
ここでは、慈悲がほとんど一次的原理にまで押し上げられる。
極端に言えば、
初期仏教: 「智慧による解脱」が中心で、慈悲はそこから自然に現れる
大乗仏教: 「慈悲そのもの」が悟りの本質であり、智慧と不可分
という違いがあります。
なので、ご質問への短い答えとしては、
歴史上のブッダにとって、第一義的だったのは苦からの解脱である
これはかなり正しいです。
ただし、その解脱は「自分だけ助かる利己的脱出」ではなく、自己執着の消滅そのものなので、そこから慈悲が必然的に現れる――というのが、初期仏教の感覚に近いと思います。
「慈悲」には十字架がない。しかし、「愛(アガペー)」には十字架が伴う。十字架とは何であるか? 神の慈悲の顕れか? そうだが、それだけではなくて、なによりもそれはローマ帝国の処刑具(とりわけ政治犯にたいする)であり、「地」と「天」、すなわち「地の国」と「神の国」との間の、決して混ざり合うことのない衝突の摩擦の火花であり、ローマ帝国の秩序に具現化されているような「この世」の神(すなわち黙示録の獣)と、それらへの偶像崇拝をもたらす悪の「見えない力」の支配に対する、「神の国(支配)」の断固とした「否!」であり、抵抗であり、闘争である。なぜ愛(アガペー)は憎まれて殺されねばならなかったのか? それは、イエス・キリストの生が、単なる癒しに終わらずに、神の名の下に行なわれている、あるいは自然の秩序の名の下に行なわれている、あらゆる排除と差別と抑圧の秩序に対抗して、それらをひっくり返すことによって、「後の者こそ先になり、先の者こそ後になる。家造りらの捨てた石が隅の親石になる。貧しい人々こそ幸い!罪人とされた者こそ義とされる!あなたがたよりも先に取税人や遊女らのほうが神の国に入るであろう!」と、「この世」の価値の転覆を行うことによって、地上に「神の国(支配)」を打ち立てたからではないのか? それは、キリストの存在そのものが、この社会と世界の秩序を成り立たしめている構造を正反対にひっくり返す挑戦であるということであり、勝った者こそ負けており、強い者こそ弱い者であり、豊かな者こそ貧しい者であり、人の前で義(ただ)しいとされた者こそが、神の前では罪人であるということを暴露する闘争であったからである。なぜか? なぜならば、それは、すべての生ける者と死せる者とを裁く神が生きておられるからであり、そのような神の前では、いかなる人間も神になれるわけでもなく、どれほど驕り高ぶる人間であろうとも、その神の支配に服しているにすぎないわけだから、その神が、驕り高ぶる人間の傲慢を打ち砕き、その魂を幼子のように小さくさせることによって(マタイ福音書18:1‐5、19:13‐14)、神が直接的に御自身の支配(義)を打ち立てたもうからである。いかに信心深く敬虔な人間であったとしても、自らの力によって義を立てることはできない。神のみが義を立てることができる。力ある者が正義を打ち立てるのではない。キリストによる神の力によって征服され、捕虜とされ、無力とされた存在を用いることによって、神御自身がその国(支配)を地上に打ち立てたもうからである。
「するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。」 (ルカ福音書1:46‐55)
「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。―― そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。 」(ルカ福音書2:25‐35)
(ChatGPTへの質問)
キリスト教との対比で言えば、イエス・キリストの愛の帰結が十字架の死であったように、キリスト教の愛においては、単なる慈悲による癒しにとどまらずに、この世界の悪や人間の罪による不正の構造に対して抵抗して、神の国の正義を地上にもたらすための戦闘性があるのではないでしょうか?差別的で抑圧的な構造の内で、癒しに徹していただけならば、十字架にかけられて殺されることはなかったでしょう。
(ChatGPTからの回答)
その見方は、かなり本質を突いています。
実際、イエス・キリストの「愛(agapē)」は、単なる慰めや心理的癒しではなく、しばしば社会的・宗教的・政治的秩序との衝突を引き起こしました。
もしイエスが、
・苦しむ人を静かに慰めるだけ
・個人の内面の平安だけを説く
権力構造に触れない存在だったなら、ローマ帝国の処刑法である十字架刑には至らなかった可能性が高い。
十字架刑は、本来「国家秩序への脅威」に対する刑罰でした。
つまり、イエスの活動は、少なくとも当時の支配秩序からは危険視された。
ここで重要なのは、イエスが武装蜂起をしたわけではない、という点です。
むしろ彼は、
・「敵を愛せ」
・「剣を取る者は剣で滅びる」
・「右の頬を打たれたら左も向けよ」
と語る。
しかし、その非暴力は、単なる従順ではない。
たとえば「神の国(Kingdom of God)」という言葉そのものが、当時の世界では極めて政治的でした。
なぜなら、
・「真の主はカエサルではなく神である」
・「最後の者が最初になる」
・「貧しい者は幸いである」
・「律法や神殿制度によって排除された者にも神は近い」
という宣言は、既存秩序の正統性を相対化するからです。
つまりイエスの愛は、
・苦しむ者を癒す愛
であると同時に、
・苦しみを生み出す秩序を暴露する愛
でもあった。
だから福音書では、
・病人の癒し
・悪霊祓い
・食卓共同体
・罪人との交わり
は、単なる慈善ではなく、「誰が清いか/誰が排除されるか」という社会的境界線への挑戦になっています。
特に象徴的なのが、神殿から商人を追い出す場面です。
これは「優しい癒し手」のイメージだけでは説明できない。
イエスはしばしば、
・宗教的偽善
・富による支配
・他者排除
・権威主義
に対して非常に攻撃的ですらあります。
ただし、その戦闘性は「敵を滅ぼす革命」ではなく、
・自ら傷つきながらも、暴力の連鎖を拒否する
という形を取る。
ここが、後の革命思想や単純な政治闘争と違うところです。
十字架は、
・「愛が敗北した場」
であると同時に、
・「暴力的秩序が、自らの暴力性を露呈した場」
でもある。
だからキリスト教では、愛はしばしば非常に危険なものになります。
単なる「みんな仲良くしましょう」では終わらない。
本当に愛が、
・被差別者
・貧者
・排除された者
・「罪人」とされた者
の側に立とうとすると、既存秩序との衝突が避けられないからです。
この意味では、あなたの言うように、
癒しだけに徹していたなら、十字架にはならなかった
という理解には大きな説得力があります。
そして、この点は初期仏教とのかなり大きな違いでもあります。
ゴータマ・ブッダもまた既存のバラモン秩序を相対化しましたが、基本的には「苦の原因である執着から離れる道」を説いたのであって、歴史の不正構造を終末論的に転覆する使命を帯びていたわけではない。
一方、イエスの「神の国」は、個人の内面にとどまらず、 「この世界の支配のあり方そのもの」 に触れてしまう。
だからこそ、キリスト教史では後に、
・解放の神学
・公民権運動
・奴隷制廃止運動
・非暴力抵抗運動
のように、「愛」が政治的・社会的抵抗へ向かう系譜が繰り返し現れることになります。
キリストは、「私が愛して癒してあげるから、皆は愛さなくてもよい」と言ったのではない。また、「キリスト教会とそのクリスチャンたちが愛して癒してあげるから、皆は愛さなくてもよい」と言ったのではない。そうではなくて、キリストは、世界のすべての万民が愛さなければならないと説いたのであり、なぜならば、それは、神の国(支配)の到来が近いからであり、その裁きと救いは、すべての人と万物に及ぶからである。したがって、キリスト教とその教会のクリスチャンであったとしても、愛することをしないクリスチャンは神の国から除外されているのであり、たとえ神の選びから除外された異邦人(または罪人)であったとしても、人を愛そうとする罪人は、多くを愛するがゆえに、その多くの罪をゆるされて神の国に迎え入れられるのである(マタイ福音書25:31‐46)。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」 (マタイ福音書7:21‐23)
「さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。 」(マタイ福音書8:5‐12)
「さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。 」(ルカ福音書19:1‐10)
「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。 」(マタイ福音書21:28‐46)
「あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。」 (ルカ福音書7:36‐47)
イエス・キリストによって啓示された「愛(アガペー)」は、相手のためにどこまでも痛みと苦しみとを自分の身に背負う十字架の愛としてあらわれる。「愛(アガペー)」は、自分自身の幸福や平安のために、明鏡止水のごとく静かな内面世界や、至福の天上世界に「退避」することを拒み、十字架の死にいたるまでに、悪の喧騒に満ちた現実の「この」不条理な世界の片隅にまで降りてゆく無限の「情熱=関心」に特徴づけられる。「愛(アガペー)」は、自己の内面の平安や天上の至福を知ったからと言って、そこに安住してそこで認識を終わらせるのではなく、「この」世界とその人間の救済のために、我々の体と心に痛みをもたらす十字架のような「不都合な真実」をも含めて、キリスト教の世界観を崩壊させるような無神論や、キリスト教に敵対する偶像崇拝を成り立たせている原理、人間に悪を行わせる社会の構造と、その罪人の心理と行動の原理などを、あますところなく知ろうとする。そして、そのような真理を認識するために、自分自身を、世俗から超越したエリートや聖人とみなすことを拒み、どこまでも自分自身を罪人のひとりとして、自分の罪の体を検証のための実験台として、世俗社会のただなかへと降りて行って、罪人たちの友となる。
「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」 (第一コリント9:19‐23)
「また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。それから彼の家で、食事の席についておられたときのことである。多くの取税人や罪人たちも、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。こんな人たちが大ぜいいて、イエスに従ってきたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちと食事を共にしておられるのを見て、弟子たちに言った、「なぜ、彼は取税人や罪人などと食事を共にするのか」。イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。」 (マルコ福音書2:14‐17)
西洋思想における人間学の膨大な知の蓄積と、それをもたらす科学的関心は、そのエネルギーの多くを、「この問題だらけの世界と、その人間とを、どげんかせんといかん!」という宗教的関心に負っているのは、言うまでもないことである。キリスト教が、その「救い」を、内面の心の平安や死後の天国に求めたというのなら、これまでの歴史で、医療従事者や医療組織、そして介護や看護などの福祉に関係する人物や組織にキリスト教関係者が多かったのは、なぜなのか? それは、イエス・キリストが、人々の実際の体の病による、その痛みと苦しみの解決を、心の平安や死後の天国に丸投げせずに、「この」現実において実際に癒やす活動をしたことに根拠を持つのではないのか?
創造者としての神による「この」世界への無限の「情熱=関心」。神と等しくありながら、神の立場であることを捨てて、我々と同じ人間のひとりとなり、十字架の死にいたるまで、その体によってすべての痛みと苦しみとを引き受けられた神の子イエス・キリストによる「この」世界への無限の「情熱=関心」。また、そのようなキリストを「救い主」または「神の子」として我々の内に啓示して、来たるべき神の国(支配)の「種」に人間を変えて、「この」世界に振り撒くことで、キリストに従う聖徒たちによる、地上のキリストの身体(からだ)を形作る「教会」を起こしたもう聖霊の無限の「情熱=関心」。「愛(アガペー)」の神としての三位一体の神の意志は、その救済の意志を、人間の内なる心の平安や天上における霊魂の至福にとどまらずに、我々が生きて生活している「この」地上の世界と、「この」肉体の生の「贖い(代価を払って買い戻す)」に向けられている。
「上におる」と言う者こそ下におり、「下におる」と言う者こそ上におる。「この世」に在りながらにして、既に「神の国」へと上げられた人間の魂は、その体を、至福の天国に逃避するために持っているのではなく、十字架の受難へと、この世界を変えるために持っているのであり、その語る言葉は、ただ人の心を変えるためではなく、この世界に義の支配による変化をもたらすためである。
「わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」(第二コリント12:1‐10)
「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。 」(第二コリント4:6‐12)
「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。」 (ローマ8:18‐24)
「わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。 」(フィリピ3:18‐21)
「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。」 (フィリピ1:21‐25)
「愛を追い求めなさい。また、霊の賜物を、ことに預言することを、熱心に求めなさい。異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。しかし預言をする者は、人に語ってその徳を高め、彼を励まし、慰めるのである。異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。」 (第一コリント14:1‐6)
「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。」 (第二コリント5:13)
こうして、キリスト教の「関心」は、内面としての心の平安や、死後の天国への関心ではなく、現に我々が生きて生活している「この」地上への無限の「情熱=関心」であり、「この」罪の体への無限の「情熱=関心」である。かくして、「神の国」は霊が行くものではなく、地上に「来る」ものであり、贖われるのは、我々の霊ではなく体である。なぜならば、我々の内なる霊は常に義を望むが、その体には義を成し遂げる力がないからである。アダムの堕罪に由来する罪の体から、新しいアダムとしてのキリストから来る「神の子」としての義の体へ変えられる。
「わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」 (ローマ7:14‐25)
まことに、キリスト教の神は、聖書にあるように、取られたものは必ず取り返す「ねたむ」神であり、熱情の神である。それは、過ぎ去りゆくものを過ぎ去りゆくがままにまかせる仏教の観点からすれば、そのつどの激情に駆られる聖書の神は、執着にとらわれ続ける「煩悩具足の凡夫」ということになるのであろう。また、「賢者の不動心(アパテイア)」を美徳とするストア哲学からすれば、聖書の神は洗練されていない野卑な人格ということになるのであろう。さらにまた、哲学者のバートランド・ラッセルが、「イエス・キリストは、道徳的な人間ではなかった」と言うように、お上品(?)な大学人である彼ら無神論的ヒューマニストからすれば、笑ったり泣いたり怒ったり不機嫌になったりなどし、時に弱音をはいたり、十字架上で絶望したりなどするような、理知的であるよりは、大衆と同じく迷信的であるように見えるナザレのイエスは、尊敬に値しない粗野な人格ということになるのであろう。しかし、そのような人格こそ、我々が信じる創造主としての「神」であり、救い主としての「神」であり、貴族でもなく、政治的・知的・宗教的エリートの専門人でもなく、粗野な一般の平民である我々と同じひとりとなり、我々と共にいまして生活を共にしたもう贖い主としての「インマヌエル(我々と共にいます神)マタイ福音書1:23」である。我々はそのような神に似せて創られているのである。
「神はこのすべての言葉を語って言われた。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(出エジプト記20:1‐6)
「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。」 (ヤコブ4:4‐5)
「わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとりの男子キリストにささげるために、婚約させたのである。ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。」 (第二コリント11:2‐3)
まことに、キリスト教の神は、アリストテレスやストアの哲学者、デカルトやスピノザら近代の哲学者が想定するような、感情のないロボットのように、同じ世界をいつまでも同じく変わらずに、変わらない仕方でシステマチックに淡々と運行させる自然法則の総体としての神ではない。聖書の神は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神として、信じる者の個々の具体的な実存に語りかけ、時に自然法則を超えた先から奇跡によって介入する人格的な神である。神は熱情の神であって、森羅万象の自然万物と、あらゆる人間を用いて世界に干渉する神であって、情熱的な救済の意志を持たない、自然法則の総体としての「哲学者の神」ではない。
「モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。 」(出エジプト記3:13‐15)
「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。よからぬ道に歩み、自分の思いに従うそむける民に、わたしはひねもす手を伸べて招いた。 」(イザヤ書65:1‐2)
哲学者のアタマのなかの論理的規則の内にピタリとはまって、それ以外の在り方ができない神なんぞが神と呼べるだろうか? 神は唯一にして三つという三位一体の非論理的な話しは、とうてい受け入れられないって? そうだ。全能にして唯一なる神は、人間とこの世界の救済への無限の「情熱=関心」による愛(アガペー)によって三位であるのであって、自己自身に引きこもる、何にもなれない自己完結した神ではなく、愛(アガペー)のゆえに何にでも在りうる神である。自らが創造した被造物を抱きしめるために、三位の関係において手を拡げる神こそ、現実に存在し、生きて活動している全能者にして愛なる唯一の神である。
自分の思考のうちにおさまる神は、「哲学者の神」として、生命なき死せる神であって、聖書の語る神のように、現実に存在し、生きて活動する神ではない。同じ人間どうしでも、予測可能な振る舞いしかしない人間は、あらかじめプログラムされたロボットでしかないように、常に予測を外れるような振る舞いをする可能性を持つからこそ、その者は自らの意志によって活動する「生きた」人間である。それと同じように、常に人間の思考におさまらずにはみ出してゆく神こそ、現実に存在して生きて活動する「自由」な神である。
「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思っただろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。」
パスカル 「パンセ」 前田陽一・由木康 訳 中公文庫
哲学者の考える神は、全能でありうるかもしれないが、それは愛の神ではない。スピノザの定義に従えば、神は全能である場合には愛ではなく、神が愛である場合には全能ではない。なんとなれば、「愛」は感情をあらわすものであり、感情は「欠如」をあらわすものだから。つまり、欠けているものが満たされたから「喜ぶ」のであり、満ちているものが欠けたから「悲しむ」のである。満ちたり欠けたりするものが全能であるはずがなく、神が全能である場合には、愛などの人格による意志の目的を持つはずがない。そのようなものは有限な人間の属性である。聖書が神について語るときには、有限な人間が無限なる神を理解するために、そのような有限な人間の属性を比喩的に神に当てはめて語っているだけで、神そのものは、そのような人間が考えることのできるような「愛」の感情や意志などは持たない。こうして、スピノザの神は、今、この瞬間に目の前に存在して、森羅万象を貫徹する自然法則の総体のようなものとなる。そのような神との関係は、必然的に、祈りや信仰などではなく、今、この瞬間、目に見えて存在する「この」世界のありのままを、偏見なしに観察し分析する学究的な真理の探究となろう。なぜならば、神が全能であり、かつ善であるならば、人間にとってはどれほど不条理に見えようとも、神は、「この」ありのままの世界を「完全」なものとして創造したのであり、もし、この世界が不完全で、天国に完全な世界を創造したとするならば、この世界は神の「失敗作」ということになるだろう。そうだとすれば、ミスを犯して後悔するような神(創世記6:5‐7)などは、全能ではありえないということになる。それゆえに、人間にとって「この」世界が、どれほど残酷であり、受け入れ難いものであろうとも、神は「この」ようなものとして世界を創造したのであるから、「この」世界は、「この」世界のまま、その「ありのまま」の姿において、受け入れられ、肯定されなければならない。そして、そのような世界への「適応」は、祈りや信仰などによって、この世界を「超えた」先の、「異なる」他者や、「異なる」世界へと関係するのではなく、「この」世界を成り立たしめている自然法則を研究し、理解することによって、その法則に自己を乗せて、自己の存在を向上させようとする科学技術的な態度となろう。まさに、「知は力なり(フランシス・ベーコン)」である。物理学者のアインシュタインが、「私が信じることができるのは、スピノザの神だけである」と語るときの「神」とは、このような神である。
論理的には、たしかに、そのとうりだとしても、しかし、学者は、自分の理論だけに責任を負えばよいのであって、被造物の運命には関心がない。そのゆえに、彼らは論理上の構築物で満足していられる。しかし、実在する神は、実在するがゆえに、被造物に対して責任を負わなければならない。それゆえに、神は実在しているからこそ、人の考えうる論理を逸脱せざるをえない。それは、たとえば、親は子供の前で、子供たちに対して何でも与えることができるほどに万能だとしても、しかし、それでも子供たちの成長と未来のことを考えて、あえてその万能さを行使しないように、全能の神もまた、人間のために己の全能さを縮小して、人間のひとりとなって、十字架の卑賤を選びうるほどまでに自由である。
「イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。」(マタイ福音書26:48‐54)
神の自由は、愛(アガペー)のゆえに、自己の全能さを放棄できるほどまでに自由である。そして、そのような、「十字架の卑賤」を選ばれた神の意志が、人間の理性の目には無力であり、敗北であり、悪と認識されるとしても、「千年を一日とし、一日を千年とする(第二ペトロ3:8)」神による、永遠までをも見据えた遠い未来への神の計画のうちで、今、無力に見える十字架上のキリストこそが神の全能の力であり、今、十字架における敗北こそが、復活による神の国の勝利である。ここで勝利したのは、力に任せてキリストを十字架に磔(はりつけ)た悪の力ではなく、愛(アガペー)による善のゆえに、十字架の卑賤を引き受けられた、イエス・キリストである。理性には、これらの奥義は隠されている。ただ「信仰」に対してこそ、十字架の卑賤にあらわされた神の力とその全能性、その善と勝利とを、「隠れたる神(ルター)」として啓示される。しかし、「おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない(マタイ福音書10:26)」。そして、「暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ(マタイ福音書10:27)」。たとえ、「人間が口をつぐむとしても、石が叫ぶであろう(ルカ福音書19:40)」。ここで言うところの「石」を、あえて比喩ではなく、そのままの意味で、人間を取り囲む自然万物を含む森羅万象としての「世界」として捉えよう。力に身を任せて勝利した国家や、その指導者、または革命家が、その後、どのような世界をもたらしたのか? それらは歴史によってあきらかではないか? また、名だたる名門大学を卒業した、この世の「賢い者」の代表である高学歴の政治家や官僚たちのエリートらが、愚劣なスキャンダルとデタラメな政策を連発して、この国を傾くがままに任せていることを、どう考えるか? まさに、彼らの内の「自然性」が、また、彼らを取り囲む世界の「自然性」が、彼らの「敗北」を叫んでいるのではないか? 「この世」の賢さは、善をつくりだそうとして悪をつくり、天国をつくりだそうとして地獄をつくりだす。まことに、十字架の卑賤を選ばれた全能の神による、キリストの「復活」の「勝利」は、千年を待たずとも、我々が認識しうる時間のうちに、いずれすべての人に啓示されるであろう。現に、これまでの人間の歴史において、それはすでに啓示されている。人間の歴史とはなにか? それは、人間が神になろうとして神になれなかった歴史ではないか? そして、我々が、いかんともしがたい「壁」のなかにあることを物語る歴史ではないか? 聖書が人間の歴史を照らすのではなくて、ヘーゲルとは逆の意味において、人間の「現実」の歴史こそが、その罪による堕落と、それにともなう救済の恵みとを語る聖書の真理性を照らし出すのである。
「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」 (第一コリント1:18‐31)
「人々はあなたがたを会堂から追い出すであろう。更にあなたがたを殺す者がみな、それによって自分たちは神に仕えているのだと思う時が来るであろう。彼らがそのようなことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。わたしがあなたがたにこれらのことを言ったのは、彼らの時がきた場合、わたしが彼らについて言ったことを、思い起させるためである。これらのことを初めから言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。けれども今わたしは、わたしをつかわされたかたのところに行こうとしている。しかし、あなたがたのうち、だれも『どこへ行くのか』と尋ねる者はない。かえって、わたしがこれらのことを言ったために、あなたがたの心は憂いで満たされている。しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。しばらくすれば、あなたがたはもうわたしを見なくなる。しかし、またしばらくすれば、わたしに会えるであろう」。(…) 見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。しかし、わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。」 (ヨハネ福音書16:2‐16,32‐33)
「あなたがたは、この聖書の句を読んだことがないのか。『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』」。 」(マルコ福音書12:10‐11)
「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」 (ヨハネの黙示録1:7)
しかし、キリスト教に詳しい方からすると、私の理解している三位一体の神の理解は、あまりにも「様態論」のサベリウス的異端に傾いていると思われるかもしれない。「様態論」とは、後に異端とされた、サベリウスの主張する三位一体の教義についての説明である。すなわち、様態論においては、三位の神は、唯一の神のそれぞれの「様態」となるのであって、それは、まるで、唯一の神が、状況にあわせて父と子と聖霊の三つの仮面を付け替えているようなものである。したがって、様態論に従えば、三位一体の神は、唯一なる神の「一人芝居」という意味で三位である、ということになるだろう。
どうしてこうなるかというと、人間の言葉の限界のゆえに、シーソーのように、神の唯一性に重心をおいて語ろうとすれば様態論に傾き、三位の神の独立性に重心をおいて語ろうとすれば三神論に傾いてしまう、ということにある。たとえば、「三位一体」を、独立した三位の神の協力関係において一体だとして説明しようとする立場もあるが、そうだとしたら、やはり、「じゃあ、キリスト教っていうのは、やっぱり三神論の多神教なんじゃないの?」という疑問は、どうしても残ることになるだろう。
事実として、三位の神でなければ、人間の救済は成し遂げられず、神は愛(アガペー)ではない。だからといって、唯一の神が、仮面を付け替えるようにして、父と子と聖霊を演じ分けているのではない。全能の神は、愛のゆえに三位であることを望まれた。愛においてそう望まれたように三位において在ることが、唯一の神の全能性をあきらかにする。それ以外の言葉で語れるだろうか? 私も自分の説明が様態論に近いことを自覚している。しかし、キリスト教の「三位一体」の教義が、ユダヤ教徒やイスラム教徒にとっての躓(つまず)きの一丁目一番地である以上、「やっぱり、キリスト教というのは多神教じゃないのか?」という、彼らの疑問に対して、できる限り理性的な答えを求めざるをえないのであり、金輪際、永遠に彼らと言葉を交わさず、交流を断つことを決断するというのなら話しは別だが、そうでないなら、三位一体の神を、「キリスト教徒になったら、信仰によって理解できる神秘」として、回答を濁しているわけにはいかない。彼らが我々の回答で納得するかはともかく、それでも、我々は、彼らの疑問に対して、可能な限り理性的に説明できるよう努めなければならない。
喜怒哀楽の感情を持つ「人格」としての神の情熱は、捕虜や奴隷として敵に奪われた者を、必ず取り返すために戦う戦士の情熱である。それは、奪うための情熱ではなく、与えるための情熱であり、人を奴隷化するための情熱ではなく、人に自由を与えて解放に至らせるための情熱であり、殺すための情熱ではなく、命を与えて生(活)かすための情熱である。我々が喜怒哀楽の感情を持つ存在として創られているのだから、御自身に似せて人間を創造したその創造者もまた、同じく喜怒哀楽の感情を持つ人格として存在しているわけである。
しかし、我々人間の感情や意志が、神に似せて創造されたにしても、その感情や意志が、悪魔の誘惑によって罪に売られてしまっているので、我々が感情のままに振る舞う時には、その意志によって悪をなすことはあっても善をなすことは、まったくない。したがって、我々が、「この」罪の世界と、「この」罪の体にある限り、仏教的またはストア的な、感情を治めることを美徳とするような倫理が不要となることはないし、それらは常に必要とされて、繰り返し語られるべきである。しかし、だからといって、それで完成なのではなく、それで終わりではない。キリスト教は、その先の「完全」を求め、希望するものである。
「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 (マタイ福音書5:43‐48)
キリスト教の目的は、「無我」でもなければ、感情や欲望の抑制という意味での禁欲でもない。また、肉体の放棄でもない。キリスト教の目的は、体の「贖(あがな)い」であり、それらの「浄化」である。堕罪による最初のアダムの体から、最後のアダムとしての、神の子キリストの体が世に与えられることによって、我々もまた「神の子」となる資格と、その体を与えられる。それは、人間性(ヒューマニズム)を廃することではなく、より人間らしい人間へと「聖化」されることであり、ナザレのイエスが笑い、泣き、食べ、楽しみ、憤ったりしたように、我々もまた、自分の感情を素直に表現することが許されているのであるが、しかし、それは、堕罪の体として、自分の欲を満たすために、互いに奪い奪われなどして、奪って笑い、奪われて泣いたりするような体としてではなく、愛(アガペー)のゆえに、他者の喜びを自分の喜びとし、他者の悲しみを自分の悲しみとして、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く(ローマ12:6‐15)」ために、互いに与え与えられすることによって、笑ったり泣いたりするような、「神の子」としての体においてである。その喜びは、奪って得る喜びではなく、与えて得る喜びであり、その悲しみは、奪おうとして得られなかった無力感による悲しみではなく、与えようとして与えることができなかった無力感による悲しみである。その目的は、捕われ人に自由を与え、困窮している者を満たし、その苦しみの幾分かでも癒すべく求めて欲する「神の子」としての体において笑い泣きすることである(ヨハネ福音書11章)。
「なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。」 (マタイ福音書11:18‐19)
「その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」 (ヨハネ福音書4:31‐34)
「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。」 (マタイ福音書4:1‐4)
「いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた、「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。いつかは、敵が周囲に塁を築き、おまえを取りかこんで、四方から押し迫り、おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」。 」(ルカ福音書19:41‐44)
「愛せよ。そして、汝の望むことをなせ。」(アウグスティヌス)
愛(アガペー)しているならば、たとえ感情のまま、思いのままに振る舞ったとしても、罪を犯すことはない。なぜならば、その思いも振る舞いも、すべて愛する者に命を与えて生(活)かし、自由を与えて解放に至らせることにあるからである。キリスト教が求めるものは、「無我」ではなく、「神の子」としての「我」によって、どこまでも義に「執着」することである。たとえ、その執着が、心と体に受難の苦しみをもたらそうとも、我々が求めるのは、そのような苦しみからの解脱ではなく、十字架の死から「復活」された方の勝利に照らされて、我々もまた、自分が背負うべき十字架の受難の苦しみを引き受ける力を与えられることである。
「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」 (ローマ13:8‐10)
「大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。」 (ルカ福音書14:25‐35)
「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」(フィリピ1:29)
しかし、そのような、「神の子」としての「我」や、その「体」による感情や欲望などは、本当にあるのだろうか?
ある。それは、たとえば、こういうことである。投げられたボールにとって、そのボールの意味と存在の目的は、ボールを投げた者が目指した目的の場所へと到達することであって、有名選手のホームランボールとして、飾り付けられて神棚に大事に祀られていることではない。投げられたボールの心は、投げた者の心と共にあり、投げた者のもとにある。クリスチャン(キリスト者)の場合も、それと同様である。我々もまた、地上にこの生を持ってはいるが、それは、我々を投げた者の御心(みこころ)を成すためであり、ただそのためにのみ存在する。それゆえに、我々は、「この世」に生きてはいるが、その存在と心は、我々を投げた者のうちにあり、投げた者と共にある。もし、我々をホームランボールとして、きれいに飾りたてて、名誉の玉座を与えてくれるような善意の御仁がいたとしても、我々はそのような名誉に値しないということを、我々自身が知っている。我々は、我々を投げた方の目指した目的に達するまで、ひたすら投げられるだけであり、そのことに対して飢え、渇き、もがき、欲しているのであって、富と名誉の玉座を求めているわけではない。名誉の玉座に鎮座しているほど、自惚れてもいなければ、そこで留まっているわけにもいかない。課題は山積みである。
または、こうも言えよう。「神の子」としての体とは、上から水を注ぎ続けられる器のようなものである。注がれ続ける水は、溢れ出て他を満たしてゆく。逆に、空っぽの器は、他に手を伸ばして自己を満たそうとする。満たされた器の求めるところは、溢れ出て他を満たすことであるが、空っぽの器が求めることは、逆に自己を満たすことである。自己を与えるためには、溢れ出ていなければならない。溢れるためには、上から注がれ続けていなければならない。上から注がれるものを持たない欠乏した器が、誰かに何かを与えようとしている時には警戒しなければならない。なぜならば、その器にとって、与える目的は、奪うことであり、相手を満たすことではなく、自己を満たすために相手に手を伸ばすことにあるのだから。だから、誰かが、あなたに、「私は君を愛している。だから、君のために何かを与えたくて仕方がないんだ!」と、これ見よがしに善意をアピールしてくる時には警戒しなければならない。食虫植物が、食べるによく、目に美しく、好ましい外見や香りを放って虫を招く時には、その目的は、相手を生かすことではなく、自分が生き、成長し、拡大するために、相手を食って自己に取り込むためである。溢れ出す器にとっては、善意をアピールするまでもなく、すでに、その自己を誰かのために注いでいる。
「そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。」 (ヨハネ福音書4:5‐14)
我々は、たしかに、自分のために執着するようなものは、もはや「この世」には何もない。(そもそも、我々貧者は、「この世」のものについて、何かに執着を持つことすら許されていない身分だが…)。しかし、自分のために喜ぶことはなくとも、他者のためには大いに喜ぶことがあり、自分のため流す涙は、もはや枯れ果ててないとしても、他者のためには大いに涙を流して悲しむことがある。我々の居場所は「この世」にはない。我々は、「この世」に在りながらにして、その命は「既に」天に在る。我々が「この世」において望むことは、ただ「神の国(支配)」が地上に成されることだけであり、そのことを求め、祈り、欲し、執着してやまないのであり、その存在の根拠は、自分自身を「神の道具」として、「この世」に義の支配の幾分かでももたらすことだけである。
聖書において主張されているような「永遠の生命」などは、古代人の非科学的な迷信と思われるだろうか? たしかに、そのような生命や、不滅の霊魂の存在などを科学的に証明する術はない。しかし、永遠の生命が科学的に証明されなければ自己を与えないというのであれば、彼は、たしかに、永遠の生命を「生きて」はいない。永遠の生命があるかないかにかかわらず、与える者は、そんなことに関係なく自己を与えるために、ただただ下へと降る。そして、そのように、彼が、自己を与えるべく、ただただ降るがゆえに、彼が、この世の時間性を超えて満ち満ちているもののなかに在るということを証明する。この世の何者も、彼からなにも奪うことはできないし、彼から奪えるものもなにもない。投げられた者の存在の根拠が、常に投げた者のもとに在るように、愛(アガペー)する者は、愛することにおいて、既に、「この世」において、この世ならざる「永遠」を「生きて」いる。まことに、我々を投げた者が、我々の名を呼ばれるのであるから、投げられた我々は、我々の名を呼ぶ投げた者のもとに在って、死によって終わることのない永遠の生命を「生きて」いるのである。
「また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。」 (マタイ福音書22:31‐32)
愛(アガペー)する者が死を恐れるのは、死が彼から何かを奪うからではない。死が彼から奪うものは、「この世」には何もない。ただ、彼が、死によって恐れることは、彼がそのことによって、彼を投げた者の御心(みこころ)を成すことができないからであり、もはや、それ以上、自己を与え尽くすことができないということを恐れるからである。しかし、たとえ、我々が志半ばで倒れることになろうとも、我々は落胆しないだろう。なぜならば、我々が無力のうちに打ち砕かれようとも、我々を遣わした方は生きておられるからであり、我々が成し得なかったことを、あらゆる人と万物を用いて、必ず成し遂げることができる方がおられるということを知っているからである(ローマ8:28)。そのようなキリストが生きておられるのであるから、たとえ我々の肉体が、志半ばで朽ち果てようとも、我々の心と霊は、我々を投げた者のもとに在り、彼と共に永遠に生きて、その支配に参与することができるのである。したがって、我々がこの世を去るときには、私に人生を与えたもうた神への感謝と、そして、私に先立ったすべての人々の平安と、残されたすべての人々の幸福を祈りつつ、神によって万物の完成が必ず成し遂げられることを確信して、「万歳!」と叫びながら、その霊を神に返すことができるのである。
「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。」(ヨハネの黙示録20:4‐6)
「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。」(使徒言行録7:54‐60)
もとより、キリスト教にも「不動心」というものがなくはない。もちろん、それは賢者の不動心ではなく、「神の幼子」としての不動心だが。賢者の不動心だなどと主張するほど、我々は自惚れておらず、事実、私は賢くはない。我々の不動心は、我々の知識や心の働きによるのではなく、我々が存在している「場所」によるのであり、我々の存在の根拠が、我々を投げた者のもとに在るがゆえに、投げられたこの地上においては、まるで嵐の海の上に立つように、「この世」という嵐と水のただ中にあって、窒息せずに呼吸することができるのである。それは、キリストの幼子として、神に抱かれて在る者の安心立命であり、「アッバ!(お父ちゃん!)」と親しく呼びかけることができるような、神と共にある生である。「あなたの宝があるところ、そこにあなたの心もある」。投げられた我々の肉体は地上に在るが、その心と霊は投げた者のもと、すなわち天に在る。それゆえに、「この世」の人々が一喜一憂して窒息するところで、我々は呼吸することができる。これが、キリスト者の浄福といえば浄福である。
ここまで読んでこられた方は、「You Raise Me Up」という歌の歌詞を想像なさるかもしれない。この曲は、日本では2006年の冬季オリンピックにて、金メダルをとった日本人フィギュアスケーターの演技中のバックミュージックとして有名になった曲である。クリスチャンならばピンとくるように、その歌詞には聖書的モチーフがあるのは明白であって、神という言葉もキリストという言葉も使われていないから、讚美歌として分類される必要はないにしても、ある種のキリスト教信仰がその背後にあるのはあきらかである。もちろん、様々な人が、様々な意味や状況をあてはめて聴いている歌の歌詞の意味を限定するのは「野暮」というものだけれども、それでも、それがなにか恋愛ソングのように語られているとすれば、少しもったいない感じがする。ギブアンドテイクにすぎない恋人関係のために山に登ったり、嵐の海を渡る者がいるのだろうか? 闘病中の恋人や子供を勇気づけるために高い山に登ったり、海を渡ったりするという企画はテレビなどで見かけたりするけれども…。多くの日本人の間では、この曲は、先に亡くなった家族や親友を当て嵌めて、「父ちゃん…、母ちゃん…、天国から見ててくれよ。俺、がんばるからよ!」と、その存在を身近に感じて自分を勇気づける曲として親しまれているらしい。
You Raise Me Up(日本語訳)
心が沈み
魂が疲れ果てたとき
問題に押しつぶされ
重荷を感じるとき
私は静かに待つ
ここでただ、じっと
あなたが来て
しばらくそばに座ってくれるまで
あなたが私を支えてくれるから
私は山の上にも立てる
あなたが私を支えてくれるから
嵐の海も歩いていける
私は強くなれる
あなたが支えてくれるとき
あなたが私を引き上げてくれるから
私は本来の自分以上になれる
人生には渇きがあり
満たされない心がある
でもあなたが来てくれると
私は驚きに満たされる
時に、自分が永遠に触れているかのように
思えるほどに
あなたが私を支えてくれるから
私は山の上にも立てる
あなたが私を支えてくれるから
嵐の海も歩いていける
私は強くなれる
あなたが支えてくれるとき
あなたが私を引き上げてくれるから
私は本来の自分以上になれる
訳はChatGPTによる
「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。 」(マタイ福音書14:25‐31)
「それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。」 (ルカ福音書12:22‐34)
「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」 (フィリピ4:11‐13)
「すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」(ローマ8:14‐15)
心は、神によって投げられることによって守られる。攻撃は防御をも兼ねる。心を守ろうとしても、心は守られない。愛(アガペー)によって、自己を投げている時にのみ、自分の心も守られる。それは、たとえば、若い頃は前髪の形に人生を賭けていて、その形がうまく整わなかっただけで、人生が終わったかのように、その日一日を憂鬱に過ごしていた少女が、母親になったとたん、美容院に通うことも忘れて、伸びた髪を後ろに括りながら子育てに邁進するように、愛することによって、今まで悩んできたコンプレックスや劣等感が、嘘のようにどうでもよくなるなんてことは、よくあることである。誤解なきように言えば、もちろん、自分の外見ばかりを気にするような母親は、母親失格だなんてことを、私は主張したいのではない。ただ、愛する時には、人生の細かいことが、それが、まるで世界の破滅ででもあるかのような重大事として思い煩うことが少なくなるということが言いたいだけである。「まず神の国とその義を求めよ。さすれば、それらのものは添えて与えられん」。まことに、自分の心を守るということにおいても、攻撃は最大の防御である。
こうして、旧いアダムに由来する体ではなく、これまで述べてきたような、キリストによって神に贖(あがな)われた、「神の子」としての「体」を、我々が「この世」の無神論的ヒューマニズムに対抗して、「人間」イエス・キリストによって啓示された、「神の人間性(ヒューマニズム)」と名付けよう。しかし、だからといって、これは旧い体を捨てることを求めるものではない。それは、旧い体の上に、神によって着せられる体である。上に着ようとするわけであるから、旧い体に由来する様々な葛藤やうめき(ローマ8:26)を伴うことがあるにしても、しかし、その体は、「この世」に在りながらにして、すでに天を生きる体であり、今の時間において、すでに永遠を生きる体である。それは携挙の体(キリストの再臨の際に、選ばれた選民を天国に引き上げる霊的な体)のことを言っていると思われるだろうか? しかし、携挙というものが、実際にあるにせよ、ないにせよ、実際、携挙に値する者は携挙について問わないし、死は彼にとって「終わり」ではなく、生けるキリストの体に連なることであるから、彼にとっての関心事は、上に昇ることではなく、「神の国(支配)」を地上にもたらすために、下へ下へと降ることである。「ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう(マタイ福音書11:23)」。「上におると言う者こそ下におり、下におると言う者こそ上におる」という聖書的逆説によれば、降ることこそ昇ることであるから、降ることもなしに、ただ昇ろうとする者は、自分たち「だけ」が、天国の平安に与(あずか)ろうとする、自己中心的な自己神化による「バベルの塔(創世記11:1‐9)」として、神の審判の前で弾かれてしまうのである。
「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。」 (第二コリント5:1‐10)
「客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子をごらんになって、彼らに一つの譬を語られた。「婚宴に招かれたときには、上座につくな。あるいは、あなたよりも身分の高い人が招かれているかも知れない。その場合、あなたとその人とを招いた者がきて、『このかたに座を譲ってください』と言うであろう。そのとき、あなたは恥じ入って末座につくことになるであろう。むしろ、招かれた場合には、末座に行ってすわりなさい。そうすれば、招いてくれた人がきて、『友よ、上座の方へお進みください』と言うであろう。そのとき、あなたは席を共にするみんなの前で、面目をほどこすことになるであろう。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。」(ルカ福音書14:7‐11)
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。」 (マタイ福音書20:25‐28)
「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。」 (ルカ福音書18:9‐14)
「そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。」 (エフェソ4:8‐10)
「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(フィリピ2:6‐11)
しかし、このように「神の人間性(ヒューマニズム)」を理論化したからといって、私自身が、すでにそのような「体」を生きている、ということが言いたいのではない。それは、私自身も追い求めているからでり、追い求めるべく私に啓(ひら)き示されたことを語っているにすぎないからである。それは、私自身もまた、キリストに捕らえられているからである。
「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。すなわち、キリストとその復活の力を知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。」(フィリピ3:8‐15)
しかし、ある人は言うであろう。「そのような言い方では、仏教を下げてキリスト教を上げているように思えるが、この価値相対主義と宗教多元主義の時代にあって、あなたは、まだ、キリスト教『だけ』が唯一の真理の所有者であると主張しようとするのか?」と。
もちろん、私はキリスト教以外の諸宗教にも真理の存在を認める者である。しかし、それでも、種宗教・諸哲学の中にあって、私はキリスト教が「ナンバーワン(オンリーワンではなく!)」だと確信しているからキリスト教徒なのである。仏教徒や他の諸宗教の信徒はそうではないのか? 自分の宗教が「ナンバーワン!」だという確信がないのなら、どうしてその宗教を信じるのか? しかし、私がキリスト教をナンバーワンだと考えているからといって、私が他の諸宗教の信徒に求めていることは、彼らがキリスト教に改宗することではなくて、彼らもまた、自分の宗教とその信仰を「ナンバーワン!」だと確信して、その確信によって啓(ひら)き示されたことを、私に語り聞かせてくれることである。
私は、「煎じ詰めれば、諸宗教の教えはひとつの真理に帰一する」と考えるような意味での「宗教多元主義」ではない。どうして、自分たちがいつも聞いているような教えや真理を、わざわざ他の宗教の信徒の口から聞かなければならないのか? そんなつまらないことがあるだろうか? やはり、どうせ耳を傾けるのであれば、「ウチらの宗教は、おたくらの知らない真理をもっとる!」と主張なさる方々の話しを聞きたいのであり、こと宗教に関しては、それぞれの立場がオンリーワンだという「生ぬるい」話しが聞きたいのではなくて、自分たちの宗教こそナンバーワンだという「熱い」主張が聞きたいのである。あるいは、逆に「神も仏もあるかいな!愛も正義もあるかいな!この世は所詮、弱肉強食やで!」と言うような「冷たい」主張を聞くことによって、むしろこちらが「熱く」なりたいのである。
「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」(ヨハネの黙示録3:15‐16)
もちろん、私の仏教理解についても、多くの仏教徒の方から「ツッコミ」があるであろうし、キリスト教がナンバーワンだと主張する私の理解にたいしても、あらゆる方面の立場から、「なんでやねん!そんなわけあるかい!!」と、多くの「ツッコミ」が入るであろう。もちろん、事実は、私がこれまで述べてきたほど単純ではなく、キリスト教にだって、自己の内面性に引きこもる神秘主義的な立場もあるし、社会から隔絶して教会に引きこもり、ひたすら祈りに専心して携挙を待つようなグループもある。また、仏教についても、「仏教の社会倫理」について研究しておられる方も少なくないように、特に、日蓮などの仏教者による仏教理解にあらわれているように、「この世」の不正や悪の現実に対して抵抗し、変えようと努力する「戦闘性」を示す立場だってさえある。
そういう意味で、キリスト教は「動的」だが仏教は「静的」だなどというように、きれいに白か黒かに色分けできないことも理解している。そうしたことも含めて、それぞれの立場が、それぞれの立場において自分がナンバーワンだと確信している宗教の話しを聞いて、「ぐぬぬ…」と腕を組んで考えこむところに、宗教の学びと深化(進化)がある。
以下、仏教とキリスト教との対比について、いくつかChatGPTに質問した内容とその回答とを貼り付けておきたい。AIとはいえ、私の素人目から見る限り、優秀な回答をしてくれていると思うのだけれども、「ガチ」の仏教徒や、専門的な知識を勉強、研究しておられる方から見ると、間違っていたり物足りないと思われる回答もあるかもしれない。また、ブログにChatGPTとの議論の内容を貼り付けるというのは、まだ実験段階なので、閲覧環境によってはリンク先にアクセスできないかもしれない。どのようにするのがよいかは、まだ思案中なので、現段階の不備はご容赦いただきたい。
ChatGPT「仏教とありのまま」https://chatgpt.com/share/6a3d6096-8584-83e8-8bb8-8a6982f688bf
ChatGPT「仏教の宗教改革」https://chatgpt.com/share/6a100379-3414-8320-b41b-7f222f75500c
ChatGPT「仏教とキリスト教の苦」https://chatgpt.com/share/6a3d627c-0ae0-83e8-9a4e-da3ee55bba99
ChatGPT「仏教の社会倫理」https://chatgpt.com/share/6a3d64fc-9fec-83ee-a65c-c37eac6fd2a9
ChatGPT「大乗仏教の慈悲と悟り」https://chatgpt.com/share/6a22ca5f-4c88-8324-b256-228377e1e3dc
ChatGPT「極楽浄土と天国の違い」https://chatgpt.com/share/6a3d656b-6210-83e8-a2ed-ed1899d347db
ChatGPT「仏教における仏と菩薩」https://chatgpt.com/share/6a22c979-5aec-8320-b5dc-bc302b2a3836
ChatGPT「仏教の利他行と近代」https://chatgpt.com/share/6a3d63d0-ede0-83ee-91b2-195d7f4097e5
それでは、仏教では、生存の苦しみからの解脱を目的としているのであれば、慈悲との関係はどのようなものなのだろうか? 苦しむ相手への共感・共苦による同情によって、相手の苦悩を自己の苦しみとして引き受けることは、むしろ自己の生存の苦悩を増すだけではないか? 事実、仏教には、山奥の寺院に籠もって、涅槃寂静の境地を求めるために、ひたすら煩悩を滅する修行に打ち込む立場もある(もちろん、キリスト教にだって、出家して修道院に籠り、俗世間から離れて霊的完成に専心する立場もある)。
その答えは、おそらく仏教の「縁起」の思想にあるのだろう。ゴータマ・ブッダが、「生きとし生けるものは、みな幸福であれ!」と説いたように、自分自身の幸福、すなわち、心の幸福も、体の幸福も、自分独りだけで成し得るものではなく、それは、人間だけでなく、他の動物たちや自然万物の幸福も「共に」でしか成し得ない、ということなのだろう。正真正銘、文字どうりに山奥に自分独りだけ引き籠もって過ごす仙人においてならともかく(そのような仙人の生活もまた、彼が接している動物たちや自然の存在の福楽と無関係に在るわけではないが)、しかし、俗世間に在る以上、生老病死の苦、悪による破壊と困窮の悲惨があるなかで、自分だけで幸福に在るというわけにはいかない。それは、むしろ自分自身にとっても苦しいことである。そういうわけで、自分自身の苦からの解放を求める者は、一切衆生のうちにあって、森羅万象を含むすべての存在の幸福と、苦しみからの解放を望む慈悲となってあらわれる。
それゆえに「無我」、すなわち仏教徒が執着を滅することによる、あらゆる煩悩からの解放を求めて努力し精進する理由は、一切衆生を救わねばならぬという「こだわり(使命感)」にあるというよりも、無常を悟り、執着を滅することによる、あらゆる「こだわり」がなくなることによって、自己自身で充実しているような自由な人格が、自分に入ってくるあらゆる良きものを、困窮している他者や世界に向けて流してゆく(自分だけで充実しているのに、この上何を溜め込もうというのか?)利他的な態度となってあらわれる。すなわち、それは、何も持っていないが、それゆえにすべてのものを持っている、そのような自由自在の在り方から来て、他へ流れてゆくようなものである。
したがって、仏教においては、たとえば「愛すべきだ!」という戒律に対し、「愛さなければならない」という預言者的命令に服従しようとする意志によるのではなく、「悟る」ことによって、他を愛することの「できる」存在の状態にまで自己を高めようとすることを求めるものであり、預言者的命令よりも、無常を悟り、縁起を認識し、心を鎮めて執着を断ち、煩悩を滅することを教え導くブッダの在り方に学ぼうとする知的な営みである。その際、教える者の立場は預言者ではなく、あくまでも導士であり教師であり、その目的は、真理を伝えることではなく、真理を体現した存在の在り方を模範として示し、弟子に継承することである。声を荒げて叫ぶ一神教の押し付けがましい(?)預言者の命令と警告よりも、「悟り」によって世界を愛することが「できる」存在の状態にまで人を導くために、静かに無常を語り、縁起を教え、法(ダルマ)を説くのが仏教というわけだ。仏教徒が、仏教を宗教と区別して、哲学や科学と呼称したがる所以である。
それは、日本人のヒーロー観にもあらわれている。たとえば、日本では、自分自身の罪や悪やトラウマに対して、汗と涙と血でグチャグチャになりながら、それらを克服するために闘う「がんばる」主人公は、あまり好かれない。それらは日本人には「やせ我慢」に見える。日本人の好むヒーロー像は、映画「男はつらいよ」の「寅さん」こと車寅次郎のように、また漫画「ドラゴンボール」の孫悟空のように、そして最近では漫画「鬼滅の刃」の竈門炭治郎のように、寛容になろうとして自分のなかの罪と悪とに葛藤する主人公ではなく、もともとの性格が空のように明るく、海のように広く深いがゆえに、結果として寛容な人格、寛容になろうとして寛容になった人格ではなく、もともとの性格が寛容であるがゆえに、結果として寛容な人格、すなわち、いちいち小さく細かいことを気にしないおおらかな人格であるがゆえに、結果として寛容な(もちろん、巨悪に対しては怒り、徹底的に抵抗する)、豪放磊落な快男児がヒーローとして好まれる。
ChatGPT「寅さんのキャラクター解析」https://chatgpt.com/share/6a42a16b-a758-83e8-bfe5-c65e3fee7cb5
しかし、いかに我々が、そのようなキャラクターに惹かれようとも、我々は寅さんではないし、悟空ではないし、炭治郎でもない。我々は、そのようなキャラクターに憧れ、そのようなキャラクターを称賛しつつも、SNS上で匿名に隠れながら、嫌いな人間の悪口をネチネチと書き込んでいるような、器の小さい小さい人間である(ローマ3:9‐18)。仏教は、「愛さなければならない!」と命じるのではなく、「悟り」によって愛することが「できる」ようにと、そのような存在の状態へと自己をもっていくことであって「やせ我慢」ではない。それは、涙を流して悔い改め、血と汗を流して十字架を背負うこととは異なり、むしろ「自然体」になることを求めるものである。しかし、そうだとしても、「自然体」によって愛し「うる」ような徳の高い僧侶は、当然ながら、そう多くはないし、多くなることもない。「すべて高貴なるものは稀であるとともに困難である(スピノザ)」。ゆえに、この世界が、そのような高僧の存在に依存している限り、「この」世界は、いつまでもこの世界の「まま」である。万民がそのような高僧の境地にまで至ることを待っているわけにはいかない。
仏教は、自然体のままで愛し「うる」存在に成ることを求めるものだと言った。それに対して、キリスト教では、愛(アガペー)は絶対命令であって、人が「できる」「できない」にかかわらず、また物理的に可能か否かにかかわらず、「神の国」と「ゲヘナ(地獄)」、「この世」の救いと破滅が賭けられた神の言(ロゴス)である。キリスト教では、人が愛することが「できる」から愛さなければならないと教えるのではない。神が愛(アガペー)するから、たとえ人が愛することができないとしても、それでも愛さなければならないのである。
「わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
求める者には与え、借りようとする者を断るな。『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 (マタイ福音書5:20‐48)
これは、「愛すれば苦が減って気持ちいいですよ、愛すれば魅力的な人間になれますよ、愛すれば、最後にはあなたの得になり、あなたは幸福になれますよ」というレベルの話しではない。愛(アガペー)の結末は、孤独な傷だらけの十字架上の死であり、信じていた神の無言の沈黙である(マタイ福音書27:46)。そうであるにもかかわらず、愛は神の絶対命令である。愛し難きを愛し、ゆるし難きをゆるし、憎き相手でも愛さねばならぬ。誰にも認められず、評価されず、失うものだけで得るものもなく、異端者、売国奴と罵られて十字架上で死ぬことになろうとも、それでも愛さねばならぬ(ルカ福音書23:33‐34)。
「すると、ある人がイエスに、「主よ、救われる人は少ないのですか」と尋ねた。そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが、神の国にはいっているのに、自分たちは外に投げ出されることになれば、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」。 」(ルカ福音書13:23‐30)
クリスチャン(キリスト教徒)は問う、「仏教徒も救われるか?」と。問いがまったく間違っている。キリスト教徒「でも」救われ「ない」のである。
「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」 (マタイ福音書7:21‐23)
「列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言った。そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。」 (ルカ福音書14:15‐35)
このように、愛(アガペー)は神の絶対命令であり、自分の財産、人生、生命を賭けて捨てることができるほどまでに愛さなければ、神の国に入ることはできないのである。それも、このような厳しい愛の要請は、長年の修行を積んで訓練された、有徳な高僧や聖人に求められているのではなく、市井を生きる素朴な一般大衆に向けられた言葉であり、すべての人に求められた言(ロゴス)である。当然ながら、有徳な、優れた仏教者は多い。しかし、優れた仏教者のみが有徳であればよいのではない。「レディ〜ス・ア〜ンド・ジェントルメ〜ン、あ〜んど、おとっつぁん、おっかさん、そして〜、おにーちゃん、おねーちゃん、おじーちゃん、おばーちゃん」。このような、そこらへんの平凡な民衆のひとりひとりが、超越的で、かつ人格的な存在のなかに在り、その存在の視線の下にあって、「恥ずかしい生き方はできないな…」と、常に裾を正すことが重要なのである。
もちろん、このような厳しい愛(アガペー)の要請を実行できる人は、この地上には、まずいない。そのうえ、実行できないくせに、無理矢理に行おうとすれば、偽善や独善に陥るのみである。まさに、それゆえに、パウロが告白するように、この地上においては、義(ただ)しいとされる義人は、ひとりもいない(ローマ3:9‐18)。しかし、「人にはできないが、神にはできる」。それゆえに、このような愛の要請を命じ、かつ行わせるのは、一方的な神の選びと恵みによるのであって、人間の力、すなわち素質や能力、そして訓練と努力によるのではない。まさに、聖書にあるように、行いによって義人となるのではなく、信(ピスティス)において、神の力によって義とされる(ガラテヤ2:15‐20)。しかし、それだからこそ、それゆえにこそ、愛(アガペー)の命令は要請として厳として存在する。信仰さえあれば、「愛せよ。死に至るまで愛せよ(ヨハネ福音書15:12‐13)。痛々しいほどに愛せよ(マタイ福音書5:38‐48)」という愛の要請が無効になるのではない。信仰によって、律法が無効になるのではない。むしろ、信仰こそが、この愛の律法を成就させる(ローマ3:31)。この点において、キリスト教は、浄土教のような大乗仏教とは異なる。キリスト教において、信(ピスティス)、すなわち「信仰」は、他力によって浄土(キリスト教では天国)に引き上げられることを目的とするものではなく、「他力」によって「神の子」とされることであり(自力によっては、天国をつくりだそうとして、逆に地獄をつくりだす)、それによって地上の「この世」に、愛(アガペー)による「神の国(支配)」をもたらすことである。
「すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。」 (マルコ福音書10:26‐27)
キリスト教における「救い」とは、「神の子」の身分を与えられることによって、神の支配に服することであり、神の国の住人とされて天に上げられることである。しかし、「神の国」すなわち天国は、行くものではなく、この地上の世界に「来る」ものであると聖書が語っているように(マタイ福音書6:10)、死後の霊魂の平安だけではなく、また、外の世界に背を向け、内面に引きこもることによって心の平安を求めるスピリチュアリズムとも異なり、天に上げられる者、もしくは上げられるに相応しい者は、むしろ、現世においては、地上の罪の世界の最も低いところへと降り、その肉体と心に十字架の受難を引き受ける愛(アガペー)となってあらわれる。すなわち、キリスト教における天国は、昇るのと同時に降ることであり、上は同時に下であり、天は同時に地でもある。降る者は、すなわち上げられている者であり、上げられている者は、すなわち降る者である。愛するために、地獄の底まで降る者は、天に上げられて在る者であり、その命を「既に」天に持っている(第一ペトロ3:18‐20)。これが、天と地の一切を包む「神の国(支配)」と、その愛(アガペー)の概念である。それは、浄土教のように、行いはすべて棚上げしたうえで、念仏と信心だけで足れりとするのとは異なるものであり、行いを放棄するためにではなく、「真実」に行うために信じるものである(ヤコブ2:14‐26)。保守派は、選ばれたクリスチャンを天国に引き上げる神の力を強調する。たしかに、人間を「上げる」のは、人間の力ではなく神の力である。しかし、それで「降る」ことが無用になるわけではない。人が天国に「上げ」られるのは、それによって、神の支配に服する神の国の臣民とされることであり、臣民とされたならば、「愛せよ!」という神の命令にもとずいて、神の意志を成し遂げるべく、万民救済のために「下へ下へ」と遣わされるということである。そのゆえに、万民救済のために願い、祈り、求め、十字架を背負って執り成すこともせず、「私たちは敬虔なクリスチャンであって、穢れた異教徒とは違う!天国はクリスチャンだけのものだ!」と、選民思想に引き籠もって「降る」ことをしない者は、天に上げられてもいないし、上げられることもないのである。「不法を行う者よ。行ってしまえ!(マタイ福音書7:21‐23)」。誤解してはいけない。天に上げられる「ため」に降るのではない。間違ってはいけない。降ることによって功績を貯めて、天国への入場チケットを買おう(!?)とするものではない。そうではなくて、上げられた者は、上げられているがゆえに、「今は」降る者であり、降る者は、降ることが「できる」がゆえに、「既に」上げられた者である(すでに上げられているのに、このうえどこに上がろうというのか? 上げられたならば、向かう方向はただひとつ、下へと降ることである)。こうして、「昇る」ことと「降る」ことは、別々に存在しているのではなく、愛(アガペー)においてひとつであり、昇らせることも降らせることも、人の力に依るのではなく神に依る。
ChatGPT「浄土真宗と倫理」https://chatgpt.com/share/6a4f5232-0b70-83ee-8db5-63c62861553c
自分の力によって昇るのではなく、神の力によって上げられると言う。しかし、あらかじめ壁がなければ、どうして「他力」について知るというのか? どのようにして限界状況を知るというのか? 壁がなければ、ひたすら自力によって押し進もうとするのみではないか? 「他力」と言うからには、自力を粉砕する「壁」が、あらかじめ存在しているのでなければならない。なるほど、人が自分の部屋に引き籠もっているかぎり、その部屋の内においては、誰もが全能の神でいられよう。しかし、外の世界に踏み出したとたん、自分が神ではないこと、小さくて無力な、有限な被造物にすぎないことを思い知らされる。「神なんて存在しない。人間は人間の力で世界を変えられるし、変えるべきだ」と宣う御仁は、学者として研究室や書斎のなかに引き籠もっている限りは、そのように言う事ができよう。しかし、その学者が書斎に籠もって研究に没頭できる環境を与えているのは誰なのか? 自然に直接接して、彼が住む家の木材や建築資材を生産しているのは誰なのか? 大地を耕し、穀物や野菜を生産しているのは誰なのか? 海に舟で乗り出して、彼が食べる魚を獲っているのは誰なのか? また、山に猟に入り、家畜を養って、我々が食べる肉を供給しているのは誰なのか? 今でこそ、そのような農業や漁業は機械化され、そのような生産に携わっている生産者もまた、蓄積されたデータをもとにパソコン上で数字を管理するような、科学者と見紛うばかりの専門的に知的な作業となっているけれども、昔は、不確実な自然の動きに接し、山の神、海の神に祈るような、素朴な信仰を持つ農民であり、漁民であった。彼らが、学のない無知な農民だったから、迷信(?)として、そのような信仰を持っていたのではない。むしろ、彼らは、こと自然に対しては、学者の机上の空論よりも、はるかに勝る合理性を、生活知として体得し、継承していた。そのような合理的な知恵から、その合理性のゆえに、まさに、彼らが生きて生活をしている自然環境の不確実さと、そのような自然に生かされつつも、人間が神になることを許さない自然の複雑さと厳しさの前で、頭(こうべ)を垂れざるをえなかったのであり、そのような謙虚さが、自然の神々に対する彼らの信仰心をかたちづくっていたのである。「神なんかいない…」と宣うことができるのは、温室のなかで、それだけ安心安全な環境に恵まれているか、あるいは奴隷(?)たちによって、自分が神のように全能でいられるような環境を、あらかじめお膳立てしてもらっているような人々だけである。そのようなものもなく、人間が裸で外の「無限なるもの」の前に放り出されるとき、はじめて人は「祈る」のであり、自分の卑小さ、無力さ、有限性、そして罪の「壁」の前で砕かれて、そこではじめて「超越」に触れるのである。占い師にハマる芸能人や、カルト宗教に洗脳されてしまう会社の経営者がいるものだけれども、なぜ、そのような合理的経営によって百戦錬磨の競争を勝ち抜いてきた人々が、非合理な迷信に陥るかといえば、その心理を、彼らの置かれている不確実で不安定な状況に由来しているのであり、実力がモノをいう社会であればあるほど、最善を尽くしたあとに頼れるのは運頼みだけだから、こうした非合理的で神秘的な力への依存の心理が生まれるわけである。もちろん、キリスト教の信仰からすると、そのような占いや現世利益の祈願に安心を求めることは、まぎれもない偶像崇拝として、別のカタチでの自己神化であり、運命や神々さえも支配して、自分の欲望や願望に仕えさせようと試みることであり、いずれ「壁」として、「超越」の真実の前で砕かれることになるものであるけれども。
「わが民を惑わす預言者について主はこう言われる、彼らは食べ物のある時には、「平安」を叫ぶけれども、その口に何も与えない者にむかっては、宣戦を布告する。それゆえ、あなたがたには夜があっても幻がなく、暗やみがあっても占いがない。太陽はその預言者たちに没し、昼も彼らの上に暗くなる。先見者は恥をかき、占い師は顔をあからめ、彼らは皆そのくちびるをおおう。神の答がないからである。しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、ヤコブにそのとがを示し、イスラエルにその罪を示すことができる。」(ミカ書3:5‐8)
あらかじめ愛そうとしないのであれば、愛せないことによる自分の無力さを嘆くこともないし、罪の前で悔い改めることもなく、「壁」にぶつかって砕けることもなければ、祈ることもない。また、それ以前に、愛そうとするためには、「愛せよ。死に至るまで愛せよ。痛々しいほどに愛せよ」と告げる神の言(ロゴス)が、生ける人の子として、あらかじめ地上に遣わされているのでなければならない。光がなければ、闇を知ることがないのと同様に、また、あらかじめ律法がなければ罪について知ることはなく、「恵み(恩寵)」についても知ることがないのと同様に、「愛せよ!」という命令が、あらかじめ「生ける神の言(ロゴス)」として、すでに我々に遣わされているのでなければ、我々は光に向かって前進することはないし、前進しないとすれば「壁」にぶつかって砕かれることもなく、今ここが闇の中であることも、自分が盲目であることも知ることもない。あくまで、律法ありきの「恵み」であって、「悔い改めよ!」と叫ぶ預言者の後に、はじめて「あなたの罪はゆるされた」と語る神の言(ロゴス)はやってくるのである。
「というのは、律法以前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪として認められないのである。」 (ローマ5:13)
「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。しかるに、罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである。わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。なぜなら、罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺したからである。このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである。わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」 (ローマ7:7‐25)
「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」 (ヨハネ福音書1:4‐9)
それゆえに、光は宣べ伝えられなければならない。たとえ、その光が、すべての人の目にまぶしすぎるがゆえに、その目をくらませ、たじろがせ、盲目にして、彼らが自分が何者であるかを見失うことにならせることになるとしても、それでも、光は光として宣べ伝えられなければならない。
「「兄弟たち、父たちよ、いま申し上げるわたしの弁明を聞いていただきたい」。パウロが、ヘブル語でこう語りかけるのを聞いて、人々はますます静粛になった。そこで彼は言葉をついで言った、「わたしはキリキヤのタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい薫陶を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。そして、この道を迫害し、男であれ女であれ、縛りあげて獄に投じ、彼らを死に至らせた。このことは、大祭司も長老たち一同も、証明するところである。さらにわたしは、この人たちからダマスコの同志たちへあてた手紙をもらって、その地にいる者たちを縛りあげ、エルサレムにひっぱってきて、処罰するため、出かけて行った。旅をつづけてダマスコの近くにきた時に、真昼ごろ、突然、つよい光が天からわたしをめぐり照した。わたしは地に倒れた。そして、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか』と、呼びかける声を聞いた。これに対してわたしは、『主よ、あなたはどなたですか』と言った。すると、その声が、『わたしは、あなたが迫害しているナザレ人イエスである』と答えた。わたしと一緒にいた者たちは、その光は見たが、わたしに語りかけたかたの声は聞かなかった。わたしが『主よ、わたしは何をしたらよいでしょうか』と尋ねたところ、主は言われた、『起きあがってダマスコに行きなさい。そうすれば、あなたがするように決めてある事が、すべてそこで告げられるであろう』。わたしは、光の輝きで目がくらみ、何も見えなくなっていたので、連れの者たちに手を引かれながら、ダマスコに行った。 」(使徒言行録22:1‐11)
「闇は光に勝たなかった」と言う。別訳では「闇は光を理解しなかった」とある。では、光が光として来ただけでは、闇のなかにおる者は光に向かって前進することはないのだろうか? 光は、闇の前で十字架にかけられて終わるだけなのだろうか? 否!そうでなく、闇が光を理解せずに、光を十字架にかけて殺したとしても、光は復活して後、万民と万物の前に顕(あらわ)れて支配する。闇を罰する裁きは、闇が闇自身であることから来るものであり、光が闇を罰するのではない。闇が闇自身を罰する。闇による盲によって、「自分が何をしているのかを理解しない(ルカ福音書23:34)」こと、そして、それが自由であり救いででもあるかのように、「とげのある鞭を蹴って自分自身を傷つける(使徒言行録26:9‐14)」こと、それらすべてが、闇が闇にとどまることによって被る「罰」であり、我々が光に向かって歩むべく砕かれるために備えられた「壁」である。
「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」 (ヨハネ福音書12:46‐48)
光は、人々の隠れた事柄をあきらかにするがゆえに光である(ローマ2:16)。光は、「この世」の人々が、「見えている」と言い張ることが盲であり、「聞こえている」と言い張ることが聾であり、実際の肉体が盲であり、聾である人々のほうが、むしろ見えており、聞こえていることをあきらかにするがゆえに光である。五体満足の人間は、まさにそれゆえに、自分が全能の神にでもなったかのように誰かを裁き、天まで届くバベルの塔を、日々こさえ続けるがゆえに、むしろ盲である。しかし、実際に肉体が盲であり聾である人々は、愛がすべてを生(活)かし、愛がなければ誰も存在できないという「言(ロゴス)」を、その身をもって「見て」おり、「聞い」ておるから、むしろ、彼らの目と耳は啓(ひら)かれているのである。
「そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。 」(ヨハネ福音書9:39‐41)
「それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。」 (マタイ福音書13:10‐17)
光は、闇が闇であることをあきらかにする。我々が義だと思っていることが罪であること。自由がむしろ奴隷状態であること。我々が愛だと思っていることが、実はエゴイズムであること。我々が天国だと思っていることが地獄であること。そして、我々が恵まれた神の祝福だと思っていることが、実は神の裁きであることをあきらかにする。愛(アガペー)さない心と、愛(アガペー)さない社会への罰は、終末の地獄の審判を待たずとも、今、この現世においてそれぞれが引き受けることになる。
「しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。 」(エフェソ5:13‐14)
「わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。」(第一ヨハネ1:5‐10)
「「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。 」(第一ヨハネ2:9‐11)
愛(アガペー)を認めず、十字架にかけて殺すことは、いずれその自分自身の自己をも捨てることになり、この社会と世界もまた、自己自身を捨てることになるであろう。他者の尊厳を、自分の利益のために売る者は、自分の尊厳をも売り渡すであろう。怪獣(リヴァイアサン)に人の人権を売り渡す者は、自分の人権をも二束三文で獣に売り渡すであろう。闇が闇であることの罰は、まさに、闇に留まろうとすることによって、自分で自分を傷つける罰であり、闇そのものが「罰」であり「壁」である。ゆえに、我々が自分を偽らず、正直になるならば、我々が闇のなかに在ることを認めて光へと向かわざるをえないであろう。光は、人々にそれが闇であることを認めさせ、そこから抜け出して前進させるように向かわせるからこその光である。光が光であるのは、それがあらわされたならば、人を闇のうちに留まらせないがゆえに光である。光は「この世」に来た。我々は光に向かうであろう。我々は光を求めるべく創られている。闇は光を理解せず、光を十字架にかけて殺すであろう。しかし、光は復活してのち支配する。これが、神が光によって、闇のなかにいる我々を御自身の許に引き「上げる」ということであり、我々を引き寄せたもう方に向かって歩み出す力を、我々に与えられるということである。そしてこれこそが、闇にともなう罰を警告する預言とともに、我々が宣べ伝うべき光であり、その「福音(嬉しい報せ)」である。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。」 (ヨハネ福音書3:16‐21)
「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。 」(ヨハネ福音書12:31‐32)
最後にひとつ、仏教について指摘しておきたい。大乗仏教から、自己救済を目的とするだけの、偏狭で独り善がりな小乗(誰も救われない小さい乗り物の意)と評される上座部仏教だが、たしかに、出家僧だけで構成される僧団だけを見ると、そのように見えるのだが、彼らを支える周囲の地元の在家信者のネットワークを含めると、そう単純ではない。
出家僧は、当然ながら、家業を捨て、世俗を捨て、仏道に専心するがゆえに出家僧なのだから、そのままでは食べるものもなく、町に出て托鉢に歩かなければならない。そして、そのような托鉢僧である彼らを支えるのは、地元の在家信者である。それゆえに、厳しい修行によって徳を積む出家僧は、地元の人々から尊敬され、道徳的模範となり、在家信者は、そのような彼らに食べ物を与え、様々に支えることによって、彼らの功徳に与ることができる。その「功徳」は、「僧侶を大切にしたらいいことありますよ」というようなご利益(りやく)的なものだけでなく、倫理的影響もあるのであって、托鉢僧に食べ物を与え、彼らを支える習慣が、托鉢僧ばかりではなく、食べるものがない者、宿るところのない者、身寄りのない者など、そのようなホームレスに食べ物を与え、宿るところを与え、支援することが、托鉢僧を支援することが当たり前の習慣であるように、当然の習慣として行なわれる(お布施の習慣)。彼らは、道徳的義務としてそれを行うのではなく、それが当たり前だから、そのようにするのが習慣となり、生活の一部になっているから、自然なこととしてそれを行なっている。こうして、特に東南アジアの仏教コミュニティにおいては、ひたすら仏道における解脱の道に専心する出家僧と、それを支える在家信者のネットワークの双方がひとつとなって、広くて大きい利他的コミュニティを形成している。出家僧が、出家僧であることに精進して、その純粋性を保とうと努力することによって、それを巻き込む在家信者の徳をも、同時に向上させるシステムになっているわけである。
その昔、90年代に、「進め電波少年」という、今ではコンプライアンス的に真っ赤っ赤になるであろう人気テレビ番組があった。その番組の企画で、当時新人だった芸人を、わずかなお金だけを渡して、残りはヒッチハイクだけを頼りに、ユーラシア大陸を横断させるという、これまた現在ではコンプライアンス的に真っ赤っ赤になるであろう企画があった。その過程で、東南アジアに立ち寄った際、お金がないので野宿しようとしていたところ、周辺の住民が、これでもかと、たくさんの食べ物や飲み物を運んでくる場面が記憶に残っている。もちろん、すべてのコミュニティが、このように親切なわけではないだろうし、今ではだいぶん状況は変わっているのだろう。それに、東南アジアの出家僧といっても、時には賄賂や横領、性的スキャンダルが発覚して話題になることもある。ただ、言いたいことは、大乗仏教といっても、阿弥陀仏の慈悲にあぐらをかいて、煩悩と強欲にまみれることを恥としない生臭坊主がいるのと同様に(むしろ、こちらのほうが多いのでは?)、大乗の立場から小乗と揶揄され軽蔑されている上座部仏教においても、思想上や言葉のうえでの論理におさまらないような利他の精神や実践が発揮されている場合があるのであるから、単純な思想だけで比較しないで、思想と、その思想や信仰を真剣に信じている人々が現実にもたらしている結果を含めた、広く大きな範囲において分析され、評価されなければならない。思想上は「優しい」思想でも、実社会の現実に移されると、はなはだ「残酷な」結果をもたらす思想があるのと同様に(たとえばベンサムの人格と、彼の功利主義が社会にもたらした帰結のように)、利他を至上命題に掲げている宗教が利他的であるとは限らず、自己救済を至上命題とする宗教が独善的であるとは限らない。実際は、様々な要素が複雑に絡み合って、複雑な様相を呈している。
(ChatGPTへの質問)
それでは、大乗仏教から、利他性の薄い狭量で独善的な「小乗」と揶揄される上座部仏教ですが、在家信者の「布施」の実践まで含むと、かえってコミュニティ全体で利他的実践を発揮している場合もあるということでしょうか?
(ChatGPTからの回答)
はい、その点は宗教学や仏教学でもよく指摘される重要な論点です。
結論から言えば、「上座部仏教は利他性が薄い」というのは、かなり単純化された理解です。 むしろ、社会全体の実践を見ると、利他的な行為が非常に豊かに行われている地域も少なくありません。
まず、「小乗(ヒーナヤーナ)」という言葉自体が問題を含んでいます。これは大乗仏教側が、自らの理想である菩薩道と対比して付けた呼称であり、現在では学術的にも当事者間でも、現存する伝統については**「上座部仏教」**と呼ぶのが一般的です。
では、なぜ「利他性が弱い」と言われてきたのでしょうか。
大乗仏教は、菩薩を理想とし、「自らの悟りを後回しにしてでも衆生を救う」という理念を強調します。それに対して上座部仏教では、理想的人物は阿羅漢であり、自ら煩悩を滅して解脱することが中心的な目標とされます。この理念の違いから、大乗側は「自己の解脱ばかりを求める」と批判したのです。
しかし、これは修行者の理想像についての議論です。
現実の社会に目を向けると、タイやミャンマー、ラオス、スリランカなどでは、在家信者は毎日のように僧侶へ布施をし、寺院は教育・福祉・地域共同体の中心として機能してきました。また、災害時や貧困者への支援、旅人への施しなども、功徳(プンニャ)を積む実践として広く行われています。
つまり、
教義上の理想では阿羅漢を目指す。
社会的実践では布施や慈悲を通して共同体全体を支える。
この二つは両立しているのです。
さらに興味深いのは、大乗仏教が理念としては壮大な利他を掲げる一方で、実際の社会では必ずしも共同体の助け合いが強いとは限りません。逆に、上座部仏教圏では、菩薩思想を前面に出さなくても、布施の文化が日常生活に深く根づいているため、実践としては非常に利他的な社会が形成されることがあります。
ですから、「理念」と「社会実践」は区別して考える必要があります。
ある意味では、
大乗仏教は「なぜ他者を救うべきか」という理念を大きく展開した伝統、
上座部仏教は「日々の布施や慈悲を積み重ねる」という実践を社会の中に深く制度化した伝統、
という見方もできます。
したがって、「上座部仏教は利他性が乏しい」と一般化するのは適切ではありません。むしろ、在家信者の布施や共同体の助け合いまで視野に入れるなら、利他的実践という点では上座部仏教社会が非常に豊かな側面を持つことは十分にあり得ます。これは近年の仏教学や文化人類学でも広く認められている見方です。
そういうわけで、私が、諸宗教との間で期待したいのは、哲学者のニーチェの言うところの「星の友情」である。それは、それぞれの宗教が、同じような人間、同じような言葉、同じようなスタイル、同じような行動で「ひとつ」となることではなく、それぞれがそれぞれの異なる在り方で、自分たちの足元の宗教を掘って掘って掘りまくることであって、それによって「のみ」、我々は互いに尊敬に値するものとなり、互いに有益な友人となれるのである。宗教がそのようなものではなく、同じような人間たちと、同じような思考で交わることによって、自分たちの孤独を慰めるためだけのために群れ集まることは、それがどれほど巨大な集団と組織を形成しようとも、それは停滞と退廃の徴(しるし)であり、いずれ血液が巡らず細胞が活性化しないことによる腐敗臭を発するものである。現代人が、様々なシューキョー団体の信者たちの、判で押したような同じような顔、同じような言葉、同じ行動様式を目にして、ゾンビのような気味の悪さを感じることは、決して理由なきことではない。
「星の友情―われわれは友人であった。そして疎遠になってしまった。だが、それは当然であった。われわれは、それを、恥辱と取って、お互いに隠したり曖昧にしようとは思わない。われわれは各自その目標と航路を持っている二隻の船なのだ。時にはわれわれはまた出会って、昔やったように一緒に祝祭をあげるかもしれない、―そうしたときには雄々しい二隻の船は静かに一つの港に、一つの日光を浴びて横たわり、さながらすでに目標に達し、一つの目標をもっていたように見えたかもしれない。しかしやがて、われわれの任務の全能な力はふたたびわれわれを分離させ、異なった大洋と海域に追いやった。そしてあるいはわれわれはふたたび相見えないかもしれない―あるいは、相見えることはあっても、お互いにそれとわからないであろう。さまざまな海と太陽がわれわれを別物にしてしまったのだ! われわれがお互いに疎遠にならなければならなかったということは、われわれを支配する法則だ。まさしくそのことによってわれわれはまたいっそう尊敬に値するものになるべきなのだ! おそらく、われわれの実に相異なった道や目標が、小さな行程として包含されるような、目に見えない巨大な曲線と星の軌道が存在するのだ、―こうした思想にまでわれわれは自己を高めよう! しかし、われわれが、そうした崇高な可能性の意味で、友人以上のものになりうるためには、われわれの人生はあまりに短く、われわれの視力はあまりに小さい。―だからわれわれは、われわれの星の友情を信じることにしよう。たとえわれわれが地上ではお互いの敵とならざるをえなくとも。」
ニーチェ 「華やぐ知恵」 白水社版ニーチェ全集 氷上英廣 訳
「生ける神の言(ロゴス)と預言者的教会(その3)」へ続く

