無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

イスカリオテのユダ

イスカリオテのユダとは、イエス・キリストの12弟子の一人でありながら、イエスを裏切って、イエスが十字架刑へと引き渡されるきっかけをつくった人物です。



「そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。」(マタイ福音書26:21−30)



私が最初に聖書のこの言葉を読んだとき、「ずいぶん酷い言葉を言うな…」と思ったものでした。もちろん、誰だって自分を裏切って陥れる人間に対しては呪いの言葉のいくつかでも吐きたくたるものですが、「キリスト(救世主)」と呼ばれ、「神の子」と崇められ、愛(アガペー)の根源とされてきた方の言葉としては、「おまえは産まれなかったほうが、おまえにとって幸せであった!」という言葉はいくらなんでも酷すぎるのではないか…と。



聖書を読みはじめたころ、私は、ユダが産まれなかったほうがよかったのは、ユダがキリストを裏切った結果、地獄の炎で永遠に焼かれ続ける刑罰を受けることになるのだから、永遠に苦しむくらいなら、最初から産まれないほうがよかったのだ、という意味だと理解した。



しかし、聖書を読み続けていくうちに、この言葉はユダの「自殺」のことを言っているのだとわかった。



その方法や場所は、福音書記者によって異なるけれども、イスカリオテのユダは、無実の人間を死刑へと至らせたことを後悔して自殺している。



創造のはじめに「はなはだよかった!」と万物を祝福された神が、「おまえは産まれなかったほうがよかった!」なんて言うことがあるだろうか? その存在を呪ったのは、神ではなくユダ自身であった。誰でも自分の人生を祝福して自殺をする人などいない。「俺みたいな奴は、存在してはいけないんだ!」と、自己を呪って己の生を断つ。



私は、これまでキリスト教会が罪悪視してきたほどには自殺が罪だとは思わない。なぜならば、自殺は直接的には命を断つのは自分自身によるのだけれども、間接的には社会によって殺されていることだということを知っているから。社会を支配している見えない悪の力が、ある場合には子供を心理的にも肉体的にも虐待する毒親を通じて、あるいはDV夫(またはDV妻)、あるいは職場のパワハラモラハラ・セクハラ上司、あるいはカルト宗教の教祖を通じて、ひとりの人間の心に「おまえは無価値な人間だ…。おまえには何ひとつとして取り柄がない…。おまえの存在には意味がない…。」という思いを植え付けさせる。そうした外から入ってきた「呪い」が、人間の内側から働いて、自身の命に刃をつきたてさせる。



したがって、責められるべきは自殺者ではなくて、人間の外側から入ってきて、その内側から心と体を害する、そのような社会を支配する見えない力をこそ問題にしなければならない。自殺者は、被害者であって加害者ではないのだから、彼にたいして「彼はこの世では悪いものを受けたのだから、せめて神さまのところでは慰めを受けられますように…」(ルカ福音書16:25)と、彼の平安を祈るべきであって、決して呪ってはならない。



また、人を自殺へと追い込んだ間接的な原因である毒親パワハラ上司やカルト宗教の教祖などの人間の責任を問うだけでなく、なぜ彼らのような存在が生み出され、社会で権力を持つことになってしまうのかも問われなければならない。なぜ、常に誰かに干渉し、支配しコントロールしようとしなければ不安のうちに自己を保てないような、または逆に、誰かにコントロールされていなければ不安で、自分自身では何もできないような権威に盲目的に服従する惨めな魂が生まれてしまうのか? また、なぜ現行の社会が、そのような人物を歓迎し、責任あるポジションに居座り続けることを許容してしまうのかを問われなければならない。個別の人間を問題にする場合にも、最終的には、見えない力で社会を支配し、人間に悪を行わせる罪の力の「根源」を問わなければならない。



イエス・キリストを裏切り、見捨てたということなら、ユダだけではなく、12弟子の男たちはみなそうした。イエスの捕縛の際に、蜘蛛の子を散らすように男たちはみな一目散に逃げ出した。「俺こそイエスさまの一番弟子だ!」と、たがいに威張りあい、その席次を競いあっていた男たちが、イエスを見捨てて逃げだしたのに対し、十字架の最期までイエスのそばで寄り添っていたのは、差別のなかで無きにひとしいものとされ、無力なものとされてきた女性たちであった。イエスの死後、空となった墓で天使の言葉を聞いたのも女性たちだし、復活したイエスの顕現に最初に接したのもマグダラのマリヤであった。威勢のよかった男たちは、肝心なときにはみな隠れていた。



ペテロはキリストを三度否認し、パウロにいたっては、キリストとその教会の迫害者であった。彼らとユダとの違いとはなんだったのか? ペテロとパウロは、自分が一度捨てたキリストを再び拾い上げることによって自己の命を得た。命の主であるキリストを拾い上げるということは、キリストによって自己が拾い上げられるということであり、一度死んだ自己が再び生き返らせられる、ということにほかならない。キリストを捨てる者は、それ自体が己の自己を捨てるということであり、キリストを再び見出して拾い上げることは、失われた自己を再び見出して拾い上げるということにほかならない。どれだけ情けなく、不甲斐ない自分であったとしても、キリストを拾い上げたならば、復活のキリストが彼の萎えた足を立ち上がらせ、閉じた目を開き、死から蘇らせ、罪人に義を与える。



「イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」(ヨハネ福音書11:25)



ユダがキリストを裏切った確たる理由はわからない。聖書には、経済的な野心がユダをしてイエスを裏切りせしめたかのように書かれている。また、別の説によれば、ユダの政治的な野心がイエスへの失望に変わったとされている。本当のところは、わからない。決して快適な旅ではないイエスの道程にここまでついてきたのだから、イエスに対して、何かしら愛しさあまって憎さ百倍のような複雑な感情があったのかもしれない。



ただし、ユダが真実な目でイエスを見ていたことがなかったのは確かで、ユダは、経済的な野心であれ、政治的な野心であれ、あるいは個人的な理想であれ、それらの野心や理想という目的のための「手段」としかイエスを眺めていなかった。他者を自己の目的のための「手段」としか見れない者は、自己自身ですら、そのような目的のための「手段」としか見ることができない。他者に対して「なんだよ、この人なら俺の経済的な問題、政治的な問題、罪とか不安とかの実存的な問題をきれいさっぱり解決してくれるかもと期待したのに…、役にたたねぇな…」と品定めし、期待はずれだからと、廃棄してゆく心が、いつしか自分自身にたいしても「こんな駄目人間の私が生きていても、みんなにとって迷惑です。私は私を処分します…」といって、自己自身を廃棄に至らせてしまう。



ユダは、人間が互いを品定めしては、一方的に利用して捨ててゆくような愛なき「この世」を代表する存在であった。そうであればこそ、キリストは12弟子のひとりとして、ユダを常に御自身のそばにおいておかれた。「この世」は、ユダによってキリストに愛され、またユダによって「この世」はキリストを十字架の死へといたらせる。その意味で、たしかにユダは、ありとあらゆる時代と場所でキリストに愛され、またキリストを十字架にはりつける「我々」そのものであった。



「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである』。 」(マルコ福音書2:17)



キリストはユダを極みまで愛された。キリストは、ユダの思いも、ユダが自身を裏切ろうとしていることも知っておられた。そのうえで、キリストはユダを聖晩餐にあずからせ、ユダの足元に跪いてその足を洗った。



過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。あなたがた全部の者について、こう言っているのではない。わたしは自分が選んだ人たちを知っている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしにむかってそのかかとをあげた』とある聖書は成就されなければならない。そのことがまだ起らない今のうちに、あなたがたに言っておく。いよいよ事が起ったとき、わたしがそれであることを、あなたがたが信じるためである。よくよくあなたがたに言っておく。わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされたかたを、受けいれるのである」。イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、「祭のために必要なものを買え」と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。」(ヨハネ福音書13:1−32)



キリストはユダをたえずゆるした。しかし、キリストを裏切って十字架へと引き渡したユダが、そのことについて自分自身をゆるせなくなるだろうということも知っておられた。命の主であるキリストを廃棄することは、自分自身をも廃棄することである。暖かくて明るい聖晩餐の席を離れて、キリストを背に冷たく暗い夜の闇へと消えたユダが、自分自身の生を呪って、その身を捨てることになるだろうことは目に見えていた。「夜」というのは、そのようなキリストの愛の外の世界、愛なき「この世」を象徴している。だからこそ、キリストは「たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」と言ったのである。



ユダは自分をゆるせなかった。キリストは彼をゆるしたのに。ユダはキリストを真実に見たことがなかった。キリストを自分の理想の手段としかみていなかったから、自分自身が自分の理想の手段として結果をのこせないと判断したとき、ユダは自分自身を廃棄した。キリストはユダを拾い上げようとしたのに、ユダは自分自身を廃棄してしまった。ユダは、自身の命の主人を捨てることによって、自己の命を捨ててしまった。



「しようとしていることを、今すぐするがよい」



なぜ、キリストはユダのしようとするがままに任せられるのか? 言葉を尽くして丁寧に諭せばユダの思いは変わったのだろうか? あるいは、「愛している…」と言って抱きしめさえすれば、ユダの思いは変わったのだろうか? 否、人の内なる思いはそんなことで変わりはしない。だとすれば、ユダを救いうる道はひとつしかない。



「彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。」(第一コリント5:5)



キリストがユダを救いうる道は、ただひとつ。ユダをして、サタンにゆだねることでもって、自身に十字架の死を引き受けて、その死を経てあらゆる時間と空間を超越した「命を与える霊」に復活することでもって、ユダの肉体は滅びても、その霊を救うに至ることである。肉は肉であって、どれほどの言葉を尽くしたとしても、その思いはとどかない。ユダの肉は破滅しても、その心と霊を救うために、イエスは十字架の死を引き受けて命を与える霊となられる。



「聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」(第一コリント15:45)



「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。」(第一ペトロ3:18−20)



「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」(ローマ14:9)



ちょうど、合気道のように、ユダを奪ってこちらを倒そうとするサタンの力を逆手にとり、敵の力を利用することでもって、逆に神の救済の計画を成就してサタンの策略を挫かんとする。それも、ユダを贖う(贖うのギリシャ語のアポリュトローシスは、借金のせいで奴隷となっている者を身代金を払って解放するという意味)だけのみならず、幸福を約束しておきながら不幸をもたらし、平和を約束しておきながら争乱をもたらし、自由を約束しておきながら隷属を、救済を約束して自滅に至らしめる悪魔の支配から、生ける者と死せる者のすべてを贖うためである。



「すると、イエスは答えて言われた、「人の子が栄光を受ける時がきた。よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ福音書12:23−24)