無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

愛について〜上昇するエロース〜

キリスト教では、「愛」の概念について大きくふたつに大別されると思います。



人間的な欲望としての自己愛の「エロース」と、神の愛としての無償の贈与の「アガペー」。



日本で「エロース」というと、もっぱら性的な意味で扱われがちですが、本来の意味はもっと広い。一言で言えば、エロースとは「完全性への欲求(恋)」と言ってよいでしょう。その「完全性」とは、肉欲のような卑俗なものから、知的な欲求、肉欲の波ひとつない明鏡止水の境地としてのニルヴァーナ(涅槃)や、精神世界に憩うことを求めるスピリチュアルな欲求に至るまで、その幅は地から天までをも包含する。



「エロースとは何か?」について語ったのは、ソクラテスの弟子である哲学者のプラトンです。愛(フィリア)智(ソフィア)としての哲学(フィロソフィア)者として、真理に基づく善き生への恋に生きたソクラテス。いわれなき罪のために死刑を宣告されながらも、もはや地上ではなく、すでに完全無欠な真理の世界としての天上世界の住人であるかのように、自らすすんで毒杯を仰いで死への恐れが無意味であることを証明したソクラテスプラトンの哲学は、このようなソクラテスの人格に衝撃を受けて、それを思想として体系化しようとしたものです。



エロースとは、自分のうちに「欠如(空白)」を抱えたもののことで、空白を埋めようと、自己の完全性へ向けてひたすら上昇してゆくものです。たとえば、恋をする者が、「今の僕の心には、ポッカリ穴が空いているんだ。君のいない人生なんて、僕には考えられない! 今すぐ君と会いたい! 君とひとつになりたい!」と思うように。



では、恋が成就して好きな人とひとつになれたら欠如(空白)感は埋まり、完全な存在になれるのだろうか?



そうとは限らない。自分も時と共に変わるし、愛した人も時とともに変わるからだ。恋に燃えたときのような美しさや愛らしさが相手に永遠にあるわけではない。こうして、美に恋するエロースは、美しいものを自己のものとしようとするだけでなく、それが永遠であることを求める。



「彼は、十年前に愛していた女性のことをもう愛してはいない。それはそうだろうと私は思う。彼女はもはや同じでは無いので、彼だって同じではない。あの時彼は若かったし、彼女だって若かった。すっかり変わってしまった。あの時の彼女のままだったら、彼もまだ愛していたかもしれない。」

パスカル 「パンセ」 前田陽一・由木康 訳 中公文庫

 

 

愛した人を手に入れたら、愛した人が永遠に愛したままでいることを求める。しかし、愛した人は、永遠に愛したままでいるのではない。空白(欠如)を満たしても、また次の空白(欠如)をうみだす。こうして、ある場合には、より若くて美しく、そして愛らしい別の対象へと恋は移ってゆく。そしてまた、ある場合には…

 

????「三次元(現実)の人間は、よくよく見るとシワもあるし…、シミもあるし…、時とともに態度も素っ気なくなるし…、いけ好かない金持ちと結婚しちゃうし…、やっぱりいつまでも美しく、永遠に愛らしい言葉や態度を反復してくれる二次元(!?)の『推し』こそ、俺の嫁!」



漫画やアニメのキャラクターや、バーチャルアイドルのような二次元の存在は、現実には存在しない。それらは理想化された人間であって、私たちの頭のなかで生みだされたものです。ところで、なぜ私たち人間は、現実には存在しないものを頭のなかに想像することができるのだろう? 「永遠」の愛を歌う歌手だって、プライベートでは多くの浮名を流し、結婚と離婚を繰り返したりもする。「Imagine!(想像してごらん!)、国境も差別も争いもなく、誰もが平和のなかで生きている世界を!」と、ジョン・レノンは歌った。しかし、そのような世界は過去も存在していなかったし、今も存在していない。にもかかわらず、なぜ私たち人間は、そのような「完全」な世界をImagine(想像)できるのだろう?



プラトンによれば、もともと人間は産まれる前には完全な天上の世界(イデアの世界)に存在していた。そして、私たちが地上に産まれ存在しているあいだ、地上の万物に天上世界(イデア界)の完全さが部分的に分有されているのを見て、その完全さに惹かれ恋をする。と同時に地上の万物の不完全さをも認識する。そもそも、何かを「不完全」とみなすことは、あらかじめ何が「完全」かを知っているということであって、私たちが地上の万物を「不完全」とみなして不満を感じるのは、あらかじめ「完全」な世界を知っている、ということであり、それは産まれる前に存在していた「完全」な天上の世界(イデア界)を思い出し、想起するからである、と。



イデア界のイデアとは、英語のidea(アイデア)の語源であって、現実には未だ存在していないが、私たちの頭のなかに存在しているもののことです。



こうして、私たちの地上の人生は、愛(エロース)による地上から天上への「上昇」の人生であって、地上の「不完全」さを認識しつつ、かつて住んでいた「完全」な天上世界への回帰への希望と憧憬に生きる。そして、恋をする者は、目に見える地上の対象の美しい外見への恋からはじまり、目には見えず知性によって把握されるような美しい言葉や美しい振る舞いへの恋(プラトニック・ラヴ!)へと上昇し、美しい生き方としての「善き生」に恋し憧れる哲学者となる。そして、最後には天上世界の「美そのもの」を認識することによって、地上にいながらも天上世界の住人として、死を恐れることのない生を生き、死の際には、「美そのもの」を認識した魂は、肉体という牢獄を抜け出して、故郷である天上の世界へ喜びに満ちて駆け上がる。



「さて、いろいろの美しさを順序をおって正しく観(み)ながら恋(エロス)の道をここまで教え導かれてきた者は、いまやその究極目標に向かって進んでゆくとき、突如として、本性驚嘆すべき、ある美を観取するにいたるでありましょう。これこそ、まさしく、ソクラテスよ、これまでの全精進努力の目標となっていた当のものなのです。 それは、まず、永遠に存在するものであり、生成消滅も増大減少もしないものです。つぎに、ある面では美しく別の面では醜いというものでもなければ、ある時には美しく他の時には醜いとか、ある関係では美しく他の関係では醜いとか、さらには、ある人々にとっては美しく他の人々には醜いというように、あるところでは美しく他のところでは醜いといったようなものでもないのです。 それにまた、その美は、くだんの者には、ある顔とか、ある手とか、その他、肉体に属するいかなる部分としてもあらわれることなく、ある特定の言論知識としてあらわれることもないでしょう。あるいは、どこか、ある別のもの、たとえば動物とか、大地とか、天空とか、その他、何ものかのなかにあるものとしてあらわれることもまた、ないでしょう。むしろ、それ自身が、それ自身だけで、独自に、唯一に形相(けいそう)をもつものとして、永遠にあるものなのです。それに反して、それ以外の美しいものは、すべて、つぎのような仕方でかの美を分かちもつと言えましょう。つまり、これらもろもろの、それ以外の美しいものは生成消滅していても、かの美のほうは、なんら増大減少せず、いかなる影響もこうむらないという仕方です。 したがって、ある者が、正しい少年愛のおかげで、この地上のもろもろの美しいものから上昇していって、かの美を観(み)はじめるときは、その者は、およそ究極なものに達したと申せましょう。なぜって、これこそが、自分の力ですすむにしろ、他人に導かれるにしろ、恋の道の正しいすすみ方なのですから。つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つねにかの美を目標としつつ、上昇してゆくからですが、そのばあい、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして、美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るにいたるためです』『親愛なソクラテスよ』と、このマンティネイアからきた婦人はつづけた、『いやしくも人生のどこかに人間の生きるに値する生活があるとしたら、それは、まさにここにおいてなのです。いうまでもなく、彼はそのとき美そのものを観ているからです。 そしてあなたも、ひとたびその美を観るならば、黄金も、装いも、世の美少年や美青年も、それを前にしては何するものぞと思われましょう。」

プラトン 「饗宴」 鈴木照雄 訳 中央公論社 

 

 

いうまでもなく、このようなプラトンのエロース論は、キリスト教に決定的な影響を与えた。キリスト教会のみならず、一般的にも人間の死後の魂が天国に「行く」と言われるのは、キリスト教プラトン哲学を下敷きにした影響からです。聖書を読めばわかるように、天国(神の国)は行くものではなく「来る」ものです。「神の国」と訳されるギリシャ語のバシレイヤ・トー・テウーは、神が王として支配する領域という意味で、現代のように地図で見られるような線によって国境が確認されることがない古代社会では、王様の命令に服従する臣下がいる範囲が国の境界線であって、「神の国が来る」というのは、神の王として支配が天において貫徹しているように、地上においても神が直接王として支配する、という意味です。そして、イエス・キリストにおいて、それはすでにはじまっており、キリストの再臨とともに、見えない悪の力が支配する「旧き世」としての地上は廃棄され、神の支配する新しい天と地が到来する。したがって、神の国とは宗教的な概念ではなく、政治的な概念であって、神の国(支配)を受け入れた者は、死後の永遠の生命においてだけではなく、この世の地上の生においても、神を王とする臣下として、神の御意(みこころ)を成して生きるべく召されつつあり、またそのような存在として変えられつつある。



「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。 」(マタイ福音書12:28)

 

 

プラトンの哲学をキリスト教にとりいれたのは、キリスト教史において最大の思想家であり、偉大な古代の教父であるアウグスティヌスです。幾度の肉欲による遍歴を経て神の愛(アガペー)を見出したアウグスティヌスプラトンの哲学をとりいれたのは必然でありました。肉欲にまみれた人間が、どのようにしてキリストの高みに近づけるのだろう? どのようにして、情欲によらず女を愛するとか、敵をも愛し、人を軽蔑せず、憎むことなくゆるすというキリストの戒めを認めることができるのか? それはエロースによる上昇作用による、と。



「この世」としての地上に幸福や永遠を求めるエロースは必然的に挫折する。それにもかかわらず永遠を求めるエロースは、神の愛(アガペー)へと向かって上昇する。アウグスティヌスから1500年の後にデンマークの哲学者キルケゴールは、人間は神のようにすべてを望むことができるにもかかわらず、有限で罪深い自己にたえず引き戻されて挫折してしまうという、エロースの「絶望」から、信仰への飛躍を説いた。こうして、愛(エロース)は、人間が神になることを許さない神の支配によって、常に打ち砕かれつつ、神の愛(アガペー)へと向かって上昇してゆく。



「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(コヘレトの言葉3:11)



地上に永遠と幸福を求める愛(エロース)は、神によって砕かれて、こう告白する。

 

「思えば、僕はいままでひどく自分勝手な人間だった…。さぞかし僕はイヤな奴だっただろう。僕は多くの人を傷つけたし、また僕自身も傷ついた。もう、こんなことはいいかげん終わりにしよう。今、私は彼らにゆるしを請いたい。そして、これからは、私はもっと人に優しく、人の痛みや気持ちを、自分の痛みや気持ちとして受けとめられるような人間になりたい。主イエスよ…、これまで私はあなたを敗北者とみなし、あなたの復活や勝利を謳うキリスト教を、弱者のルサンチマンによる負け惜しみの想像物とみなしてきました。しかし、今、私は十字架にかけられ復活したあなたを見出します。今、私はあなたのみもとに参ります。どうか、この放蕩息子の帰還をお引き受けください…」



「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、「わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。」(イザヤ書57:15)



「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。 」(詩編34:18)



「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」 (詩編51:16−17)



「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ福音書1:15)



天が地と交わらないように、「神の国」と「地の国」との間には決定的な断絶があり、誰もキリストの高みには近づけない。「それにもかかわらず」、それは福音(嬉しい知らせ)であって、人は神の国(支配)を待望し、キリストに慕い従う。それ(神の国)は、無限の時と距離の彼方に在るにもかかわらず、我々の身体と心と魂に最も近い。この事実こそ、神の言(ロゴス)が「律法」ではなく「福音」たることの事実。無限の超越の彼方にある神が、人なるイエス・キリストにおいて我々と共にあり、また聖霊において我々の内側の中心にあるという事実。



「わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。 」(申命記30:11−14)



「しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。」(ローマ10:6−13)



「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。」(マタイ福音書1:23)

 

 

「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。」ヨハネ福音書14:16−17)

 

 

神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。 」(ルカ福音書17:20−21)

 

 

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