無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

死後生についての哲学的考察

人は死んだらどうなるのでしょうか?


天国か地獄に行くのでしょうか?生まれ変わって別の何かの生を生きるのでしょうか?それとも、霊的な存在になって世界を自在に飛びまわるのでしょうか?


様々な宗教が様々な答えを用意してきました。実際のところは誰もわかりません。死者は何も語れないからです。死の瀬戸際にありながら意識をとりもどした人が不思議な体験を語ることがありますが、それは生者の言葉であって死者の言葉ではありません。彼は生きているからです。


大学時代に教授が自身の臨死体験を語ってくれたことがあります。彼は交通事故で重症を負ったときのことを語ってくれました。彼は意識を失っているあいだフラッシュバック(走馬灯)の体験をしました。漫画本を後ろからパラパラとめくってゆくように、近い記憶から過去の遠い記憶へと鮮明に思い出してゆくのだそうです。その際、忘れていたはずの幼小期の記憶ですら細かくはっきりと思い出すのだと言っていました。また、彼は幽体離脱の体験もしました。病院で寝ている自分の姿が見えるというのです。


こうした体験は、科学的には脳内現象といえるかもしれません。脳がなければ意識もないからです。私が産まれる前には、私には世界がありませんでした。私が産まれる前にも世界が存在したというのは産まれた後に親などの他者から教えてもらったから知っているのです。私が産まれる前は、まったくの無であり、「無である」ということを意識する意識すらない「無」です。ほんとうに「なにもない」のです。脳がない、とはこういうことです。もしかしたら、死とは産まれる前のこの「なにもない」に帰るだけなのかもしれません。


仮に、死とはこの「なにもない」に帰ることだと仮定して、臨死体験とはその間に体験する夢や幻だと仮定してみましょう。それでも死後の生や世界は虚構だといえるのでしょうか?


私たちが夢を見て、それが夢だと思うのは目が覚めたからです。もし、目が覚めることがないとしたら、夢は夢として認められず、それが現実なのです。私は「それ」を生きるのです。死の間際に、脳内におこる異常から私たちは何らかの体験をするのかもしれません。もし、そのまま目覚めないとしたら、私たちは「それ」以外の世界をもう知ることはないのです。「それ」は夢だ、幻だと言う他者の言葉はもう届きません。死に逝く人は「それ」を生きるのです。


客観的には、脳が完全に機能を停止すれば、こうした夢や体験も終わり、「なにもない」に帰ると言えるでしょう。しかし、実際に死に逝く人が夢や体験をしているときは、その「終わり」を経験することはありません。「終わる」ときには、その終わりを経験する意識がもう「ない」のですから。こうして、外の他者にとっては、死んで終わった人を埋葬するわけですが、臨死体験のなかにいる人は「終わり」のない生と世界を生きるのです。


死への時間が短いからといって、臨死体験の時間も短いとはいえません。私たちは数分のうたた寝でも長い長い夢を見ることがあります。「かの生」と「この生」では時間が違うのです。「永遠」とは、必ずしも無限の持続を意味しません。「永遠」とは終わりが「ない」ことです。もう終わりを見ることもないまま、死に逝く人は「かの生」を生きるのです。


客観的に死後の生や世界が存在するかどうかは証明することはできません。しかし、上に述べたことはすべての人にとって同一であって、無神論者にも唯物論者にも、臨死体験は脳内の幻だという科学者にも同一です。彼らも死に逝くときには「かの生」を現実として、唯一の生として、疑うことのないまま、そのなかで生きるのです。