無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

路傍の石は叫ぶ〜いわゆる「わがまま」な障害者について〜

体や心のどこかにハンディキャップを抱える人々が、適切な配慮やサービスを受けられていないことを訴えると、「わがまま」として、たびたびバッシングを受けることがあります。



障害者を配慮する側だって余裕があるわけではなく、限られた時間と人材しかないわけだから、こちらの都合も考えずに要求と批判を言われても困る、というわけです。もちろん、障害者の人々からお礼や感謝の気持ちの表明がないわけではないが、配慮やサービスが当然であるかのように振る舞われては困る、と。



しかし、物事を考える場合には、個別の判断の是非を問うだけではなく、それらの判断が普遍的に一般化された場合、未来にどのような社会がなされうるのかまで考えなければならない。そして、私たちは本当にそのような社会を望むのかまで考えなければならない。



障害者が、健常者と等しい選択の数のサービスや配慮を受けるために、スタッフに普段より多くの負担をかけてしまうことから、障害者をサポートする同伴者や介護者との同行を求める場合や、事前に予約の連絡を求める場合、または追加料金を求めることは、たしかにお互いとって気持ちのよい関係を続けるために望ましいのかもしれないが、障害者にとっては介護者を手配したり、あらかじめ連絡を入れたり、料金の相談や交渉のような、サービスを受けるまでのハードルが増えれば増えるほど、「迷惑かな…」と遠慮して躊躇することや、「こんなに面倒で大変なら、何もしないほうがマシだ…」と諦めてしまうこともあるかもしれない。



このように、障害者と社会との間に心理的、または物理的なハードルを1枚やら2枚置くことは、健常者にとってはささいなことでも、健常者のように気が向いたときにふらっと様々な場所に立ち寄れないことは、障害者にとってはやはりストレスであって、「お互いに気まずい思いをするくらいなら…」と、多くのことを諦めてしまうことになるかもしれない。



そうだとすれば、社会の公共性にとってはすでに敗北であって、障害者が健常者に気を遣い、遠慮しなければならないことが、すでに社会にとっては敗北なのだ。なぜならば、それは障害者に対する積極的な排除ではないとしても、消極的な排除であって、障害者が社会にアクセスするために乗り越えなければならないハードルを1枚2枚増やすことによって、障害者が健常者に忖度し、気を遣うことによる心労で遠慮しがちに生きるようになることによって、彼らが社会参加をはばかるようになることは、またしても彼らを日の光の当たらない暗いゲットーに押し込めてしまうことになりはしないか?



どれだけ「わがまま」と評されようとも、障害者が社会に物申さなければならないのは、自分だけが特権を享受して快適な生を生きたいからではなく、未来の障害者に対する責任を個別の判断の現場で負っているからであって、障害者という自分の身分をわきまえて、分相応に大人しくしているだけで、自分たちを取り巻く状況の改善を社会に訴えていかなければ、自分だけでなく未来の障害者をも日陰のもとから出られなくしてしまう。



歴史は今に始まったのではなく、叫び声の上がるところには、その叫びに至る社会の側からの排除や抑圧や無視の歴史があるのであって、そうした他者の歴史性を理解しようとする努力と想像力を欠いたまま、障害者の主張や指摘を「わがまま」といってしまうところに日本人の公共心の未熟さがあらわれている。



政治哲学者のジョン・ロールズによる「無知のヴェール」を理解するまでもなく、わたしたちがどのような社会階層に産まれ、どのような親のもとに、どのような体で産まれてくるかは、わたしたちの選択によるのではない。また、今は恵まれた社会階層や五体満足の健康体を享受していても、この先どのような事故や病気や老いで障害の属性を受けることなるかは未確定であり、予測不可能であって、自分の未来や家族の未来ですら、自分で自由に選択できるわけではない。



だとすれば、私たちはどのような属性で産まれて、また、これからどのような属性を負うことになろうとも、誰もが等しく自由で幸福な人生を生きるべく存在しており、また、日陰のもとに隠れながら生きている人がおれば、等しく陽の光のもとで暮らせるように配慮することは、持てる者の恩恵ではなく、この社会で暮らすすべての者の受けられるべき権利であり、配慮する義務である。



聖書には、足が不自由な人、目の見えない人、ハンセン病の患者、また様々や病に悩む多くの人々がでてくる。また、それらの人々の病や障害がイエス・キリストによって癒やされるエピソードがいくつもある。当時、こうした障害や病気をもつ人々は、社会から物理的に排除されるのみならず、何かしらの罪による神の罰だと認識されて、宗教的・精神的にも排除されていた。災難を本人の怠惰(または家族や先祖の過失)による自己責任とみなして、排除することは、今も昔もどこにでもあることであって、障害や病気が神による罰であるならば、彼らに配慮することは、罪に便乗して自分も神の敵となることだから、障害者や様々な病人は、生活においても、心においても、信仰においても、社会から二重三重に差別され、排除されていた。



であればこそ、イエス・キリストにおける「罪のゆるしの福音」は、そうした障害者や病人の「癒し」とひとつとなって宣べ伝えられた。



「イエスガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。そこで、その評判はシリヤ全地にひろまり、人々があらゆる病にかかっている者、すなわち、いろいろの病気と苦しみとに悩んでいる者、悪霊につかれている者、てんかん、中風の者などをイエスのところに連れてきたので、これらの人々をおいやしになった。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤ及びヨルダンの向こうから、おびただしい群衆がきてイエスに従った。」(マタイ福音書4:23−25)



「さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。」(マタイ福音書9:1−8)



「イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ福音書9:1−3)



もちろん、すべての人が癒やされたのではない。しかし、イエスによって病が癒やされた人々もまた、人生の途上で何らかの病や寿命で死んだのだし、イエスによって死から蘇らせられたベタニヤのラザロもまた、永遠に生きているわけではなく、後には死んだ。癒やされたにせよ、病のままにおるにせよ、これまで差別されて排除されていた障害者や病人が、イエスによる「罪のゆるしの福音」によって、神からも人からも再び受け入れられているという事実によって社会に再包摂されて、その尊厳を回復することで「元気」にはなった。



「また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。」(ルカ福音書14:12−14)



エスの福音宣教とは、そうした生活においても、心においても、信仰においても排除された障害者や病人の社会への再包摂の活動であって、現代の医療の基準からすれば健康になったとはいえない人も(すなわち癒しの奇跡がおこらなかった人も)、神からも人からも受け入れられたという解放感と安心感から「元気」になった、ということもありえたであろう。



「イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。」(ルカ福音書4:15−21)



障害者ばかりではなく、日本では「保育園落ちた。日本死ね!」と言った人が猛烈にバッシングを受けたり、介護業界や非正規雇用の問題を訴えたりすると、「嫌なら辞めればあ?」とか、「不満なら正社員になればあ?」とか、「選ばなければ仕事はいくらでもあるけどお?」と冷笑されるだけで終わってしまう。



もちろん、訴えている側も、探せば他に選択肢があるのは承知のうえで問題を提起しているのであって、問うているのは、個人的な選択の合理性ではなく、みんなが立っている土台としての「公共性」の是非だということが、日本では理解されていない。たとえ、自分が正社員の立場を得たり、他の業界に転職できたとしても、他の誰かは非正規で働かなくてはならないのだし、介護などの仕事は誰かが引き受けなければならない。誰もがその立場に置かれたとしても、公正で尊厳ある待遇を受けられるべく改善を訴えてゆくことは、正当な公共的関心であって、そうしたことを個人の「わがまま」としか見れないということが、日本という国を、すべての人が同じ場所に立っている共通の地盤として考えるのではなく、優勝劣敗適者生存の弱肉強食ジャングルとしか見られていないということを示している。すべての人の生活の土台という公共性をめぐる訴えや問題提起が、私的な選択の合理性の問題にすり替えられ、「善き社会」や「善き生」への観点が欠落したまま、他者を押しのけて「うまくやって生きのびる」方法への関心だけが、世間を覆っている。



「盲人とは誰か?」



「そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ福音書9:39−41)



障害者から見えている世界を「わがまま」と切り捨てて、自分たちに見えるものしか見ようしない「盲目的」な社会(レギオン)は、「私たちは見えている!」と叫びながら崖の下へとなだれ落ちてゆく。



「それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた。さて、そこの山の中腹に、豚の大群が飼ってあった。霊はイエスに願って言った、「わたしどもを、豚にはいらせてください。その中へ送ってください」。イエスがお許しになったので、けがれた霊どもは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れは二千匹ばかりであったが、がけから海へなだれを打って駆け下り、海の中でおぼれ死んでしまった。」 (マルコ福音書5:8−13)



「いやいや、私たちは障害者を差別しているのではなく、彼らの安全をおもんばかっているのだ」と世間は言う。しかし、なぜ変わらなければならないのはいつも彼らだけなのか? 彼らはもう十分自分たちの安全について心を擦り減らし続けてきたのだ。結局、世間が言いたいことは、「健常者様の躓きになるような石ころは道の片隅でひっそりと暮らしておればよいのだ!」ということではなかったのか? 健常者の側は変われない、変わりたくない。変わるべきはマイノリティである障害者たちだ、と。こうして、これまでもそうであったように、健常者たちの「善意」によって、障害者を含むすべてのマイノリティたちは道の片隅へと押しやられる。



しかし、それでも、そうであるからこそ、道の片隅に蹴飛ばされた「路傍の石」は叫ぶ、「私たちは自由な者ではなかったのか! 私たちもまた、神の子ではなかったのか!」と。



「イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。そしてオリブという山に沿ったベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、ふたりの弟子をつかわして言われた、「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。もしだれかが『なぜ解くのか』と問うたら、『主がお入り用なのです』と、そう言いなさい」。そこで、つかわされた者たちが行って見ると、果して、言われたとおりであった。彼らが、そのろばの子を解いていると、その持ち主たちが、「なぜろばの子を解くのか」と言ったので、「主がお入り用なのです」と答えた。そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。」(ルカ福音書19:28−40)