クリスマスによく引用されるのはルカ福音書の聖誕物語ですが、マタイ福音書を読んでみましょう。
マタイ福音書では、ヘロデの暴政を逃れてエジプトへ渡るイエスの家族が書かれています。
イエスの家族は難民だったのです。
このことはあまり語られません。なぜでしょう?
それは、「あなたがたのうち最も小さい者にしてくれたことは、すなわち私にしてくれたことである(マタイ福音書25:31‐)」 と語ったイエスが難民だったとしたら、難民の保護と受け入れを拒否している国々と、そのような政策を支持している人々は、クリスマスを祝いながら難民として寒空のなかをさまようイエスの家族の受け入れを拒否していることになるからです。イエスの誕生を祝う側ではなく、イエスを殺そうとしたヘロデの側にいることになるからです。キリスト教国のクリスチャンとしてのプライドが、そのような聖書のメッセージから目を背向けさせるのでしょう。
もちろん、同じクリスチャンとしてのプライドがヨーロッパの一部の国を難民の保護と支援に積極的にさせているのでありますけれども。
多くの人が、自分とその家族だけは暖かいクリスマスを過ごせるようにと、見て見ぬふりをしてきた不幸な人々のなかで、ヨセフに連れられマリアに抱かれた赤子のイエスは、彼らと共にいるインマヌエル(マタイ福音書1:23)なる神でありたもう。
教会でキリスト聖誕の説教がなされ、讃美歌の歌が歌われる夜に、赤子のイエスは教会の壁の外のすべての貧しき者、家なき者、友なき者、迫害された者、無視され、いじめられている者と共にいるインマヌエル(我々と共なる神)でありたもう。
赤子のイエスは今宵も彼らの腕のなかで眠りたもう。