「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マルコ福音書8:34‐37)
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28‐30)
人は言います「自分を捨てる? そんなものは奴隷の倫理だ。自分を愛し、自分のために生きることこそ人間の自然であって、神の奴隷ではなく幸福追及の自由こそ、人間の在るべき姿だ」と。
誰もが自分を愛すること、家族を愛することは自然なことだと思っています。
しかし、私たちは自分のために生きているとき、本当に自分を愛することができているのでしょうか?
自分の将来の安定のため、あるいは異性に自分を結婚可能対象として見てもらうために、ブラック企業にしがみついているとしたら、その人は本当に自分を愛することができているのでしょうか?
テレビやネット、雑誌に紹介されるようなセレブの仲間入りをしたくて、自分や家族のために無理な投資をして、体も心も絆もボロボロにしている人々、そのような人は本当に自分を愛することができているのでしょうか?
子供を虐待する親も、子供が憎いから虐待したのではなく、子供を愛するがゆえに、子供の将来のために過度な教育熱に浮かされた結果、子供を虐待死させてしまったのです。
いったい、自分や家族を大切にし、愛するということは何か?
私たちは自分を愛し、自分に投資することによって、自分を破滅に向かわせているということもあるのです。
私たちは、それが自由であるかのように奴隷的境遇を愛し、それが命であるかのように破滅を愛し、それが正義であるかのように悪を愛する。
イエスが「彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか、わからないでいるのです」と言ったように、私たちは自分や家族を愛するという「自然な」ことすら知らず、できないでいるのです。
これは何を意味するのでしょう?それは、私たちが自分や家族を生かすために、それが「救い」であるかのように、抱きしめているものは「偶像」かもしれない、ということです。人は、そのような偶像を捨ててこそ生きる。
自分の救いと信じてきたものを自分から引き離すことは痛みをともないます。しかし、自分を捨ててこそ、生きる。自分の偶像を捨ててこそ、生きる。
偶像とは、神社仏閣やマリヤ像や聖人像を意味しません。偶像は私たちの心を支配しているもの。それは富、名声、生産性などであったりします。人は神社仏閣やマリヤ像のためには人を殺したりしませんが、富、名声、生産性のためには人を殺し、自由を奪います。
人に成功を夢見させ、自由と幸福を与えるとささやく富や名声や生産性に虚ろな偶像の響きを聞き取る者は、それらを捨ててキリストに従います。
富や名声や生産性のために人を利用し、利用されることに絶望し、貧しくとも互いにかけがえのない大切な存在として愛し、愛される関係を求める者はキリストに従います。
クリスチャンかどうか、キリスト教を知っているかどうかは問題ではありません。どれだけ偶像に問いかけ、しがみついても、偶像はなにも応えてはくれない。偶像が響かせるのは中身のない空洞を示す音だけです。
真実は、キリストが歩いた足跡にしかありません。偶像を捨てる者は、キリストを知っていても知らなくても、その足跡に従います。
キリストに従う者は、何に中身があり、何に中身がないかを知っています。それゆえ、彼はキリストの軛を負い、今まで抱きしめていた偶像を捨てる。
だから、聖書に言われるような「自分を捨ててこそ、生きる」という言葉は、このように言えるでしょう。
つまり、「あなたが、あなたの命のように、あなたの救いであるかのように抱きしめている、そのあなたの偶像を捨てよ。そして、あなたは生きよ」と。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒行伝 16:31)という聖書の言葉は、宗教の詭弁でも御利益(ごりやく)の教えでもなくて、そこには真実があるのです。