無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

「人権」がわからない

「◯◯な人には人権がない」というような発言をする人がいます。


「人権」というのは、属性に左右されないからこそ人権なのであって、人がただ人であるというだけで守られるべき権利です。属性に左右されるようなものなら、そもそもそれは人権ではない。


このような発言をした本人は冗談まじりの軽口で言ったのでしょうけれども、たとえ冗談だとしても、そのような軽口が少しづつ積み重なって人々のあいだで「常識」となれば、また別の人が、そのような「常識」を後ろ楯として、また間違った意味で「人権」を語りだす。誰かが「間違っている!」と指摘しないかぎり、危険な間違いをともなったまま、偽りが「真実」として社会を流通する。


日本人は「人権」がわからない。日本では、人権の番人であり、それにともなってしかるべき教養を身につけている(はず!?)の政治家が「我が党が否定したいのは天賦人権説です!」と平気な顔で主張したりする。


「天賦人権説」とは、人権というのは神によってすべての人に平等に与えられた権利であって、この権利を侵害する者は人間に対して罪を犯すのみならず、神への反逆として、牧師だろうが、教皇だろうが、社長だろうが、王様だろうが、大統領だろうが、天皇だろうが、抵抗して権力の座からひきずりおろす権利を万人は有する、ということです。


「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす.すべての人間は平等につくられている.創造主によって,生存,自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている.これらの権利を確実なものとするために,人は政府という機関をもつ.その正当な権力は被統治者の同意に基づいている.いかなる形態であれ政府がこれらの目的にとって破壊的となるときには,それを改めまたは廃止し,新たな政府を設立し,人民にとってその安全と幸福をもたらすのに最もふさわしいと思える仕方でその政府の基礎を据え,その権力を組織することは,人民の権利である」(アメリカ独立宣言より抜粋)

 

以下のブログも参照

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

日本人は「人権」がわからない。かの政党が天賦人権説を否定しようとしたのも、「人権」から「神」を否定し、その「権利」の不可譲、不可侵性は神から「与えられた」ものではなく、人間の「自然」や「契約」に根拠をもつものとして宗教色を消しさろうとしたのかもしれません。


しかし、「人権」から「神」を取り去り、人間の「自然」や「契約」にのみ根拠を求めることは、人権の不可侵性に容易に穴をあけてしまうことになりはしないか?


日本では、個人は、地域共同体であれ、会社であれ、国であれ、「ムラ」としてのコミュニティの一部として、所属する「ムラ」への貢献によって評価される。まず、個人の「かけがえのなさ」があって、その「かけがえのなさ」を守るために集まってコミュニティを形成するのではない。まず、価値があるのは共同体であり、会社であり、国であって、「みんな」としてのコミュニティとの一体感であって、「個人」は「みんな」のために存在する。


「みんな」によって個人の価値は左右されるのだから、個人の「かけがえのなさ」は、そこにはない。あるとすれば、「みんな」にとって余人をもって代えがたいような有益な能力や才能をもつ場合に限られる。「みんな」にとって役にたたず、むしろお荷物になるならば、無価値な存在として排除され、無視される。


単なる「自然」からも、単なる「契約」からも、個人の「かけがえのなさ」はでてこない。「自然」や「契約」だけでは、個人の「かえがえのなさ」は容易に「みんなの幸せ」という功利主義的な原則に押しつぶされてしまう。


個人の「かけがえのなさ」は、ただ「神」からのみくる。だから、西欧的個人主義では、まず、個人の「かけがえのなさ」があって、その「かけがえのなさ」を守るために集まってコミュニティを形成する。個人の権利が守られない状態があれば、コミュニティの管理を担う行政に苦情を言うことができるし、言うべきでもある。それは、個人の「かけがえのなさ」を守るという神から与えられた使命(ミッション)をコミュニティが果たしていないから。ひとりはみんなのためにあるのと同時に、みんなはひとりのためにある。個人が「みんな」にとって有益であろうと、なかろうと、個人は消耗品のように扱われてよいものではない。


日本では、個人の価値はコミュニティの都合によって左右されるので、権利が侵害されても「ムラに迷惑はかけられない」とガマンする。ムラの責任は問われず、ひたすら自分のいたらなさという自己責任へと問題が収斂される。日本には神がない。だから、個人の「かけがえなさ」の意識もない。


こうした人間の都合(有益/無益)や情緒(好き/嫌い)とは無関係に不可譲、不可侵な権利をもつ「かけがえのない」存在としてひとりびとりの人間を正当化できるのは、「神」をおいて他にない。


人権の根拠を「自然」や「契約」にだけ求めることは、功利主義にかたむく。「みんな」が幸せになるために人権は守られなければならないのではない。人権は、「みんな」の幸福への貢献という公益にたいする対価として与えられるものではない。たとえ、多くの人が損を被ろうとも、たった「ひとり」の人間には、奪われても、干渉されてもいけない権利がある。


「正義を成らしめよ、たとえ天地の崩れるとも」

たった一人の人間からは奪われてはいけないものがある。たとえ、それが多くの人の間で混乱と困惑をもたらそうとも。奴隷の解放が多くの資本家や企業に混乱をもたらし、そのせいで失業の憂き目を見る人がでるからといって奴隷の解放を躊躇すべきだろうか?  ひとりの人間を奴隷にするくらいなら、みんなで苦しみをシェアしたほうがよい。たったひとりだとしても、誰かの不幸の上に成り立つ幸福があるのなら、そんな幸福はあってはならない。十字架の痛みを伴わない愛(アガペー)も正義も、この世には存在しない。


「世界にひとつだけの花」という歌があります。「人には、それぞれ違うオンリーワンの価値があるのだから、他人と比較せずに世界にひとつだけのあなたの花を咲かせましょう」というメッセージなのですが、そのメッセージ自体はすばらしいのですが、現実には「おカネ」がすべての資本主義社会なのだから、多様な花があっても、結局は社会の市場に評価されて「おカネ」になるような花だけが、花として認められ、それ以外の人間の多様な個性は雑草(!?)として無視される。そうであるがゆえに、歌のメッセージとは逆に「結局、市場ではピカソスティーブ・ジョブズの才能のような比類のないナンバーワンの花だけが、オンリーワンの花としてチヤホヤされるのだから、市場でオンリーワンと評価されるような価値を発掘・発見してナンバーワンになろう!」といった転倒した意味に理解され、ありのままの自分を肯定するどころか、「どこかに自分のオンリーワンな花があるはず…」と終わりのない「自分探し」の旅に苦悩することになる。


本来、オンリーワンの意味は、社会や市場での評価とは無関係に個人の「かけがえのなさ」を意味するはずです。しかし、それは社会を越えた超越的な価値によらないかぎり、社会での競争に傷だらけで勝ち抜く果てのナンバーワンにすり変わる。本来のオンリーワンは、市場や社会の評価とは関係なくオンリーワンであって、それぞれの個人が「世界にひとつだけの花」を見出しえる根拠は、神をおいて他にない。


こう言うと、ある人は反論するでしょう。「キリスト教文化では、無神論者は昔は人間扱いされていなかったじゃないか!」と。


もちろん、その指摘は正しいし、歴史的にキリスト教文化が無神論者を排除してきたことは間違いだったでしょう。しかし、過去において「神」とは、先述したような個人の「かけがえのなさ」を担保する道徳の根元として理解されていたのであって、「無神論」とは、神を否定することで、そうした道徳の根元を否定し、「神を恐れず」人を人とも思わず自分の利益や快楽のための道具としかみなさないような極端なエゴイストのようなものとして理解されていた。ちょうど、現在においても「人権」を否定したり軽んじたりするような発言や思想を語る人々がひんしゅくを買うように、無神論は社会における人間の紐帯をあえて切り離すような危険思想と考えられていたのです。


日本人は、無神論無宗教を、一神教の独善や不寛容さに対比して寛容や多様性のシンボルと考えています。しかし、今でも一神教文化の土地において無神論者や無宗教として自分を紹介することは、逆に反社会的なエゴイストとして理解されて信用を得られない可能性があるため、嘘だとしても自分をブッディスト(仏教徒)として紹介したほうが印象がよいとアドバイスされたりもします。


しかし、それでも、現在の「無神論」が過去のそれとは逆にキリスト教文化の独善や不寛容さの裏返しとして、アンチテーゼとして、抗議の表明として提出されているのが事実である以上、キリスト教会は、それを排除してはならないし、自分たちの罪を直視するために、彼らの「抗議(プロテスト)」に対し、耳をふさいだり、目を閉じたりしてはならない。


現に、現在の、ある一部のキリスト教会は、自分たちが養ってきた「人権」という概念を否定して、彼らが「非聖書的」とみなす同性愛者などのような人々から人権を取り去ろうと躍起になっている。そして、それは聖書の表面上の「文字」によらない「イエス・キリスト」によって啓示された福音の真理に照らして間違っていると言わざるおえない。


無神論」や「無教会」などの、すべての「無」は、キリスト教会の過ちや罪によっておこるのであって、悔い改めなければいけないのは、「無」を掲げる無神論や無教会ではなくて、既存のキリスト教会のほうでしょう。キリスト教会が、さまざまな見える「壁」や見えない「壁」にこだわればこだわるほど、無神論や無教会の「無」の字は濃く、かつ深くなってゆく。


キリスト教会が、このような次第だから、キリスト教とその神から「人権」は切り離され、無神論者の専売特許となり、人権と寛容と多様性を熱く語るサタニスト(!?)があらわれる。キリスト教の神が独裁者のような存在として描かれ、悪魔の軍勢が自由と解放を旗印とする革命軍のような存在として描かれる。巷(ちまた)には、そのような小説や漫画、ゲームのようなコンテンツが山ほど存在する。


現代の無神論や無教会などの「無」を掲げる存在は、クリスチャンが信じている「カミ」が、本当の「神」ではなく、彼らが、彼らの信じている「カミ」によって、本物の「神」に背いているのではないかを教えてくれる存在です。「預言者の霊は預言者に従う」(第一コリント14:32)。無神論だからというだけで嫌うクリスチャンは、単に党派心で固まっているだけにすぎない。


「人権」と「イエス・キリスト」によって啓示された福音の真理は矛盾しない。誰もがクリスチャンであるわけではないし、クリスチャンの誰もがキリストに従う弟子であるわけでもない。だからこそ、「人権」は語られ、かつ守られなければならない。誰もがキリストのように人を愛せるわけではない。憎い人を愛する必要はないし、嫌いな人を愛せなくてもよい。しかし、そうであればこそ、地上における神の意志を貫徹するために「人権」は語られ、そして守られなければならない。


「人権」は、神なき世界で、神なしに、すべての人に神の意志を成さしめるための最低線としてある。もちろん、それは不十分なものですが、しかし、そこから一片も削ったり、引いたりしてはいけないものとして、そこにある。


「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔 人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。」 (マタイによる福音書18:10‐14)


「そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。 (マタイ福音書25:34‐46)


「実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」 (第一コリント12:14‐27)


「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 」(マタイ福音書5:43‐48)