無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

貧者の福音

「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。」 (マタイ福音書11:5)


この世の貧しい人々は言います「私には富もない。美しさもない。才能もない。力もない。何もない。誰も私を必要としない…」と。


誰もあなたを必要としないって?

しかし、神はあなたを用いられる。あなたが何かを持っているから、神はあなたを用いられるのではない。あなたが何も持っていないから、あなたが「空っぽ」だからこそ、神はあなたを用いられる。


「そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。 」(ルカ福音書6:20)


あなたが「この世」でゴミのように忌み嫌われ、路傍の石コロのように無視され、役立たずとして見捨てられて、この世に居場所がないゆえに、あなたが「神の国」にしか居場所がないゆえに、神の国はあなたのもの。神は、あなたを御国の民として用いられ、あなたはこの世にあって「神の国」として生きる。あなたの居場所のあるところに、あなたの心もあり、あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです(マタイ福音書6:19-21)。


神はキリストにおいてあなたを招かれ、あなたを用いられる。あなたが何かを持っているからではない。あなたが何も持っていないから、あなたが「空っぽ」だから、神の国はあなたを満たし、あなたが「真空」だから、あなたは神の国を「この世」に吸引する。かくして、あなたは「この世」にあって「神の国」として生きる。


「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 」(マタイ福音書5:6)


ひろう者なき者をひろい上げる神は、あなたを招かれる。「葡萄園の労働者の譬え」において、葡萄園の主人が、誰にも雇われなくて途方にくれている失業者を招かれるように。

「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。 (マタイ福音書20:1‐16)


あなたは貧しさのゆえに、悲しみで涙を流したことがあるだろうか? ならば、それで十分であって、その涙のゆえに、あなたは「もはや涙も、悲しみも、痛みもない神の国」の先駆けとして「この世」で誰かの涙をぬぐい、誰かの悲しみを慰め、誰かの痛みを癒す生を生きる。あなたが、他者の貧しさや悲しみを自分自身のものとして感じるゆえに、あなたは、この世にある「神の国」として、「マラナ・タ(主よ、来たりたまえ)」の祈りと共に、この世の十字架を負うて人を癒す生を生きる。


「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」 (マタイ福音書5:4)


「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ヨハネの黙示録21:3‐4)


だから、胸を張って生きよう。 たとえ、あなたが「この世」に捨てられて十字架を負うことになっても、あなたは「この世」のなかの「神の国」なのです。この世に居場所がなく、神の国にしか居場所がないあなたが、ただあなたであることによって救われる人々がいる。神はあなたを用いられるでしょう。


「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 (マタイ福音書5:14‐16)


「それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 (マタイ福音書19:23‐24)


金持ちは神の国に入れない。なぜならば、金持ちは、その富の寄ってきたる源泉である「この世」の秩序がそのまま維持されることを望むから。この世の秩序が永遠であることを望み、神の国がこの世に来ることを望まないから。神の国が来ても、彼らは十字架にはりつける。

キリスト
「さあ、時は満ちた。約束のとうり私は再び地上に臨み、万物を更新し神の国をうちたてよう!」

ある金持ち
「主よ! ちょっと待ってください。まだ来ないでください。せっかく多くの富を蓄えたので、私はこれから人生をエンジョイしないといけないのです。せめて私と私の子供…いや、私の孫がこの世から去るまで地上に来ないでください!」

こうだから金持ちは神の国に入れない。彼らにとっての居場所は「この世」であって神の国ではないのだから。「マラナ・タ(主よ、来たりたまえ)」と祈るのは、ただ貧しい人々だけです。


「しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。 」(ルカ福音書6:24)


それでも、神の国に入る金持ちだっているのではないだろうか? もちろん、いる。しかし、そうした金持ちは悔い改めたザアカイ(ルカ福音書19:1‐10)のように「御国を来たらせたまえ。御心の天に成るごとく、地でも成させたまえ…(マタイ福音書6:9‐13)」と地上で神の国が成されることを祈りつつ、社会の貧困や悲劇に心を痛めて、すでに貧しい人々のためにその富を用いている人々です。神の国に貧困などあるはずがないからです。


では、どうなのか? 地上で神の意志を成すために富を求めよう、と言うべきでしょうか?


富があれば、慈善事業で多くの人を救えるのではないか? 権力があれば、政治力で社会の問題を解決できるのではないか? 富があれば、教会を広くおしゃれにして、見目麗しい若者たちを呼びこんで教会が活気づき、福音伝道が進むのではないか?


しかし、そのとき教会は、いったい何に仕えているのでしょうか? 神か? それとも悪魔やマモン(偶像として擬人化された富)か?


「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 (マタイ福音書4:8‐10)


「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ福音書6:24)


たとえ、神のためであっても富や権力に仕えるということ。その果実は、教会の「会社」化、すなわち教会の「この世」化であって、富を集める能力のある者、人を魅了する才能を持つ者が権力を握り、生産性のない者は、いてもいなくてもどうでもよい存在として無視される。語られている言葉は神やキリストや聖書の言葉でも、支配しているのは神でもキリストでもない。それは、聖書の示す愛の共同体としての神の国ではなく、キリストがエルサレムの神殿から鞭をもって追い出した(ヨハネ福音書2:14‐16)小さな「この世」にすぎない。「本物の」神は、そのような「神の栄光のために!」と叫びながら人間が建てたバベルの塔を砕かれる。「本物の」神の国は、それらの教会の瓦礫のなかから建てられ、空っぽにされたクリスチャンの内なる「真空」へと来る。


「イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。 」(ヨハネ福音書2:19‐22)


「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ福音書10:42‐45)


聖書において、キリストの再臨の前にはこの世の「リセット」がある。これは、何も宇宙規模の天変地異だけを意味するのではなく、神がすべてに満ちるために、神でないものを一掃する神の支配を意味する。それは、終末のときに完成するものでありますが、創造の初めから終わりの時に至るまで森羅万象に貫徹する、人間が神になることを許さない神の支配そのものです。神自身が、この地上と人間の心に満ちるために、この地上と人間の心に「真空」の穴をあける。神は、砕くことによって建て上げ、穴をあけることによって満たす。「裁き」と「恵み」は、同一の事態のふたつのペルソナをあらわしている。


「また日と月と星とに、しるしが現れるであろう。そして、地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、 人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶するであろう。もろもろの天体が揺り動かされるからである。 そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。 これらの事が起りはじめたら、身を起し頭をもたげなさい。あなたがたの救が近づいているのだから」。 (ルカ福音書21:25‐28)


「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」 (第二ペテロ3:9‐13)


「世の終わり」だけが終わりなのではありません。人には「死」という終わりがあり、「挫折」としての夢の終わりがある。人は、神のようにすべてを望みつつ、神のようになれないという自己の「有限性」という「終わり」に囲まれて生きている。人は「無」の上にかけられた、いつ踏み抜けるかわからない脆い橋の上を歩みつつ生きている。目を覚ましている者、あらかじめ備えている者だけが、うろたえることなく、この橋を歩む。


「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。 」(マルコ福音書13:31‐33)


貧者は神の前に立つとき、恥ずかしくない。もともと彼らは裸だから。天に宝と居場所をもつだけで、この世には何も持っていないから。楽園のアダムとエバが裸を恥ずかしいと思わなかったように、ありのままの姿で神の前に立つ。


「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。 (ヨブ記1:21)


しかし、この世でしこたま富を身につけていた者は、終わりの時に自己を恥じることにななろう。誇りにして身につけていたものすべてをこの世においてきて、裸で無に投げ出され、神の前に立たなければならないのだから。堕罪の後のアダムとエバが裸を恥ずかしいと思ったように、彼らは神の目から自身を隠すことになるでしょう。


「それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。(ルカ福音書12:15‐21)