無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

無教会主義の問題~先生(教師)中心主義について~

無教会主義について調べておられるかたは、このブログが「無教会」と銘打っているにも関わらず内村鑑三矢内原忠雄について語らないことを不思議に思われるかもしれません。


無教会といっても、伝統的なキリスト教とは別の教会があるわけではありません。内村鑑三にとってはキリスト教の独立伝道者の養成こそが目的であったのであって、無教会主義という内村が指導する別の教派があるわけではありませんでした。


神は唯一、キリストも唯一、キリストの肢体(からだ)である教会も唯一。使徒信条にあるように、唯一の聖なる公同の教会があるのみ。


しかし、既存の教会が、見える「壁」や見えない「壁」にこだわるので、教会から弾かれた人々や、そもそも教会に入れない人々が存在する。弾かれた人々や入れない人々はどうすればいいのだろう? 彼らは外で雨風に濡れるだけなのだろうか? もちろん、そんなことはない。神も唯一、キリストも唯一なのだから、その恵みは余すところなく、すべての世界とすべての人に及ぶ。どれほど既存の教会が「壁」にこだわろうとも、すべてを包む神の恵みが教会の「壁」の外にいるすべての人々の屋根となって彼らを雨風からまもる。


この「屋根」。教会の外にあるがゆえに教会ではないが、一切の壁を越えて全世界を包む神の恵みの「屋根」のもとにあるがゆえに「教会」である、という意味で「教会」である。「無い」と言われているところに、実は「教会」があるという意味で、これを「無教会」という。


したがって、最初からキリスト教会が「壁」にこだわらず、万民を救う神の恵みであるキリストと共に歩んでいたならば、「無教会」なるものは存在しない。そこにはキリストの肢体(からだ)である唯一の普遍的な「公同の教会」があるのみ。無教会が「無」を冠せざるをえないのは、既存のキリスト教会の独善性や排他性、党派性、人間の欲望や願望の偶像化という様々な「壁」の存在が、そうさせるのであって、「ポジ」に対して「ネガ」の関係にある。だから、既存の教会が無教会の存在を問題視するならば、まず自身の在り方を省みなければならない。


そして、無教会を名乗る教会もまた、キリストと共に歩むことを怠って既存の教会と同じ矛盾を抱え込むならば、キリストにあって歩むクリスチャンは、無教会主義の教会に対して預言者的警告やエクソダス(脱出)をもって応じなければならない。


内村鑑三にとっては、キリストにのみ縛られて他の一切の権威に縛られない独立伝道者の養成こそが目的であったので、独立伝道者であった内村の死と共に、彼の集会も「聖書之研究」という伝道雑誌も廃刊になりました。内村は後継者を遺しませんでした。「キリストの」教会こそ、彼が遺すべきものであったのであって、「内村の」教会を遺すことなど、彼の眼中にはありませんでした。もし、遺さねばならないのだとしたら、内村が無教会主義を遺さなくとも、既存のキリスト教会が「壁」にこだわり続ける限り、神が誰かによって「無教会」を起こすであろう、と。


教会の目的は人をキリストに接ぎ木することにある( ヨハネ福音書15:4‐5)のだから、それは無教会も同じ。ただ、既存のキリスト教会がキリストと人との間に牧師や聖職者や教会法、サクラメントなどの媒介を置くのに対し、無教会はそれらを置かない。しかし、無教会が批判されることのひとつに「先生(教師)中心主義」が挙げられる。そして、こうした批判には応えなければならない。


なぜならば、聖書に「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 」(マタイ福音書23:8‐12)とあるからです。


無教会は、内村の頃から集会と聖書研究による講義を中心にしてきました。内村が預言者的なカリスマを与えられた伝道者であったので、自然と彼を講師として聴衆が形成されていきました。無教会のクリスチャンが預言の賜物を与えられて内村の集会とは別に独立伝道者として聖書研究会や講義をするときも、その人を中心として集会が形成されていきました。そのさい、主催者や講師は尊敬をこめて「先生」と呼ばれることもありました。


もちろん、尊敬すべき人を「先生」と呼ぶことは美しいことです。言葉狩りのような揚げ足とりをすべきではありません。「先生」と呼ばれた講師も、そう呼ばれていることで聴衆よりも知的、霊的に一段上のエリートのような気分になって高慢になっているわけではなく、自分も聴衆と同じく神の前で平等な平信徒である自覚を失うことはありませんでした。


しかし、パウロの時代のコリントの教会がそうであったように、「私はパウロに師事する!」「いや、私はアポロに!」「いやいや、私はペテロに!」といった具合に、伝道者を遣わした存在が忘れ去られて、伝道者が偶像となることもありえるのです。そうだとするならば、無教会はプロテスタントの遺産である神の前での「万人祭司=万人平信徒」として個人が直接神の言葉と対峙する機会を失い、先生として師事する伝道者の介添えなくして立つことのできない他律的なクリスチャンを輩出することになる。そうなれば、無教会は、既存の教会の牧師依存と変わりがない。無教会の本来の目的であった、神の前で「我タダ独リココニ立ツ(ルターによるヴォルムス帝国議会での演説)」式の独立伝道者の輩出が進まないのは、こうした先生(教師)と呼ばれる存在への依存と無関係ではないでしょう。


「あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」(第一コリント3:3‐9)


無教会の側の弁明では、そうした「先生―弟子」のような構図の人間関係は、先生と呼ばれる人間に対する服従ではなく、講師によって語られる聖書の神の言葉(真理)に対する敬意と服従をあらわすものだと説明されます。聖なるものを見聞きするときには、拝見・拝聴する側も心身共に聖なる態度で臨まなければならない、と。


もちろん、聖書にはこのようにあります。

「主は彼がきて見定ようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。 」(出エジプト記3:4‐5)


聖なるものに向き合うときには、靴を脱がなければならない。もちろん、ここでの「くつ」とは、物理的な履き物としての靴であると同時に、「自分でいっぱいの高慢な心をからっぽにして神にあけ渡せ」というメッセージでもあります。


しかし、人にその靴をぬがせ、心を明け渡し、聖なるものにひざまずかせることができるのは、人間の意志や努力によるのではなく、神の顕現の威光によるその力です。人間の側の意図的な態度によるのではありません。教師が弟子に単に形式的な態度を求めるだけならば、神妙な面持ちをして聞いていながらも心では軽蔑しているような見せかけだけの「優等生」を増産するだけです。


厳粛な態度が人に神の言葉を受け入れさせるのではない。井戸端の世間話のような軽いノリであっても、心の片隅に蒔かれた神の言葉そのものが一粒のからし種(マルコ福音書4:30‐32)として、時に応じて大きくなり、不遜で不従順な者から靴を脱がし、心を空けさせ、聖なるものにひざまずかせる。


ナザレのイエスが福音を語ったときも、厳粛な講義によってではなく、ある時は道の傍らで、ある時は食卓の席で、自然な日常のなかで語られたのです。どのような態度で福音が聞かれるかが問題ではなく、とにもかくにも福音が語られることが重要なのであって、空気が吐かれ、吸われるがごとく福音が日常のなかで語られ、聞かれることが重要なのです。


「一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。 」(フィリピ1:15‐19)


福音においては、厳粛な態度で拝聴していた優等生が神の意志に従わず、いいかげんな態度で聞いていた無頼漢が、あるとき悔い改めて神に従うこともある。人を神に従わせるのは、人間の真剣な態度や心の状態によるのではなく、神によってイエス・キリストの人格と共に啓示された神の言葉そのものが持つ力によるのです。


「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。」 (マタイ福音書21:28‐31)