無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

無教会における「聖徒の交わり」の不在について

無教会への批判のひとつに「聖徒の交わり」の不在があります。


いわく、キリスト教の教会が、清濁合わせもつ 「麦と毒麦(マタイ福音書13:24‐30)」の混合であることは、はじめから前提とされていることで、クリスチャンに人間的な罪や悪が残っているとしても、それらの十字架を教会生活で互いに背負いあうことで隣人愛の実践とし、キリストに似た者とされてゆく。教会を否定する無教会は、そのような「聖徒の交わり」を否定することで、孤立主義におちいっているのではないか? 自分たちの清さを保つために罪の十字架を共に背負うことを拒否する現代のパリサイ(分離)主義ではないか?「万人平信徒」と言いつつ、教会を下に見て自分たちの知識や霊性を誇るインテリ集団のサロンと化したエリート主義になっているのではないか?と。


無教会が気むずかしいインテリの孤立主義に傾きがちなことは否定しません。また、無教会が人間嫌いを正当化するための言い訳になりがちなことも否定しません。


しかし、無教会が組織や建物としての教会を持たないことによって「聖徒の交わり」を欠いていることにはならない。「隣り人」は教会にしかいないのだろうか? 十字架を負うべき人間の罪は、教会の人間関係に限定されるべきなのだろうか? 教会が「有」教会として、教会の「中」に聖徒の交わりと隣人愛の実践の場を見るのに対し、無教会は「無」教会として教会の「外」にある社会や世界のただ中に聖徒の交わりと隣人愛の実践の場を見る。


無教会は、教会の人間関係のなかに背負うべき十字架を見るのはもちろんのこと、直接対峙しているこの世界、この国、この社会、この友人、この家族、この人間に背負うべき十字架を見る。だからこそ、無教会では、聖書による福音的なメッセージを教会の信徒に対してではなく、世俗社会に直接ぶつける。それは、私たちが社会を生きているなかで、自分自身を含むこの社会と、人間の現実そのものが「生ける命のパン」であるキリストの体に飢えていることを見て知っているから。逆に言えば、人間の現実とこの社会そのものが、キリストの体を欠いて栄養失調状態にあることを認識しているがゆえに、人は召命に応じて社会に直接神の言葉を供する預言者的なクリスチャンとなる。


「そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ福音書6:32‐35)


「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マルコ福音書14:22‐24)


したがって、無教会は、教会の外にいる無神論者、仏教徒ムスリム、その他あらゆるノンクリスチャンと呼ばれる人々とキリストの体を分けあって食することをもって「聖餐」となす。


無教会は、人がクリスチャンであるか否かを問うことなく、この社会と世界の人間の悪の現実に立ち向かうあらゆる立場の人々と連帯する。こう言うからといって、無教会はクリスチャンとして彼らに語る言葉を持たないわけではない。


私たちは、あるムスリムが破戒のゆえにイスラムのコミュニティから排除されるときにも、マルヤムの子イーサー(マリヤの子イエスのアラビヤ語読み)によっても語られたアッラー(神)の恵みのゆえに、彼も救いと「普遍的な公同の教会」から排除されることはないと伝えることができる。


私たちは、出家を旨とする上座部仏教徒に対して、いまだ俗世の無明に沈む大衆にも神が彼らに降したもう「聖霊」によって、彼らも真理に「目を開かれる」機会があることを伝えることができる。


私たちは、浄土宗のような大乗の仏教徒に対して、私たちが罪あるままで来世の浄土に受け入れられるのではなく、キリストの十字架の血によって万民の罪が洗われ、新しい存在に生まれ変わらせられ、キリストに似たものとされることによって、「この世」においてもあらゆる罪と悪に立ち向かう「神の国(支配)」に組み入れさせられることを伝えることができる。


私たちは、無神論者に対して、もし無神論が神の立場に「人間」をすげ替えて「人間」を神とすることによって満足するならば、人間の動かし難い罪性のゆえに、かかる偶像崇拝が救いよりも破滅をもたらすことを避けられないと伝えることができる。


私たちは、あらゆる立場の人々に語る言葉がある。そして、彼らも私たちに語るべき言葉を持つでしょう。「なぜ神は世界にキリスト教のみを残さず、数多くの異教の宗教の繁栄を許すのか?」とクリスチャンは問います。世界に異なる宗教があるのは、神を信じると言うクリスチャンが、塔を建てて天国を自分たちの占有とし、神の威を笠に着て神のごとく振る舞おうとすることを禁じるために世界をバベル(混乱)のままにおきたもう神の采配による。クリスチャンたちが神の立場に自己をおこうとし、救済を占有できるかのように思いこむ高慢が天まで届くとき、神は異なる宗教の言葉でもって彼らを大地の混乱(バベル)に引きずり降ろし、そしてクリスチャンである彼らも罪ある有限な人間にすぎないことを思い知るようにさせられる。私たちが、「十字架にかけられた神」に似たものとされるために、神は私たちを異なる言葉と声をもつ人々のただ中におかれる。私たちは、神の座する天においてではなく、バベル(混乱)渦巻く「この世」において、十字架を背負いたもう神の愛(アガペー)を学ぶようにさせられる。それゆえに、私たちが天まで届く塔を建てるとき、他ならぬ私たちのために、神はその塔を崩すことでもって私たちを「この世」のバベル(混乱)に留め置きたもう。


「全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1‐9)


無教会には、マザー・テレサのような実践的な慈善活動家や社会福祉活動家が輩出されないと言われます。無教会が、勉強会や聖書研究会を中心とするインテリのサロンとなりがちなのは事実ですが、目立たないからといって、聖書の命じる「隣人愛」に疎いわけではない。


「隣人愛」とは、「善きサマリヤ人の譬え」(ルカ福音書10:25‐37)で書かれているように、隣り人がいなくて困っている人がいるときに、自分から彼の「隣り」にゆくことで、彼の「隣り人」となることです。ところで、隣り人がいなくて困っている人々はスラムや戦地や被災地にしかいないのだろうか? 家庭のなかにはいないのだろうか?教会のなかにはいないのだろうか? 隣り人がいなくて困っている人々は、常に身近にいないだろうか?


たしかに、万民が同情するようなスラムや戦地や被災地で困っている人々の隣りに立って奉仕することは重要ですが、困っているのは彼らだけではない。マスメディアが報道するような、極限的な状況で困難に直面している人々の支援についてはキリスト教会のみならず全世界からの支援がある。教会がそれらの支援に加われば、たしかに目立つ分キリスト教会全体への世間の印象もよくなろうし、支援に関わるクリスチャンも良心の満足を得て「立派なクリスチャン」という自己イメージと他者からの評価を得ることができる。


しかし、もしそうした支援に関わる裏で家族や友人や隣人の誰かが困難を抱えていたり、教会のなかで誰かが疎外されたりしていたら、すぐ「隣り」で「隣り人」を求めているこれらの人々を放置して、目立つ支援活動にのみ専心することは、本当に聖書が命じる「隣人愛」にかなうのだろうか? 「目立つ」こうした支援活動や慈善活動だけが隣人愛ではなく、私たちの「隣り」で常に「隣り人」を求めている「目立たない」すべての人の「隣り」となることもまた立派な「隣人愛」です。それゆえに、目立つ社会的な支援活動家や慈善活動家を輩出していないからといって、無教会が隣人愛に疎いということにはならない。


有名なマザー・テレサなどのような隣人愛の英雄も、あからさまにかわいそうと思われる人々を探しだして彼らの「隣り人」になったのではなく、彼女らの「隣り」で「隣り人」を求めている人々の「隣り」となっているうちに、たまたま注目をあびて有名になったのです。目立ちたいから、有名になりたいから、自己実現のためにと、身近で「隣り人」を求めている人を無視して、万民が同情しうるあからさまにかわいそうと見られている人々に群がることは、逆にその偽善を見抜かれることになりましょう。


「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 (マタイ福音書6:1‐4)


したがって、教会にいかないからといって、クリスチャンとして「隣人愛」の実践の場を欠いていることにはならない。小さい子供の育児や老いた親の介護で教会に通う余裕がないからといって、私たちはキリストに従っていないわけではない。家族や友人、身近な隣人といった私たちのすぐ「隣り」で「隣り人」を求めている、これらの人々に仕えることによって、無教会であっても「目立たない」ところでキリストに従い、神に仕えている。既存のキリスト教会がそれを認知しなくても、隠れたところにおられる神は、隠れたところで行われている義をご存知です。


逆に、いかに「神の栄光のために!」と叫んでも、私たちのすぐ「隣り」で「隣り人」を求めている身近なこれらのすべての人々を無視して捧げられた教会での献身、献金、奉仕、社会的支援活動やボランティアは、その白く塗られた墓(マタイ福音書23:27)の下で悪臭を放つ骸(むくろ)を世間から見抜かれることになりましょう。


モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」(マルコ福音書7:10‐13)


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善きサマリヤ人の譬え

「するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか。」イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ福音書10:25‐37)