無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

神のリベラル(自由)〜聖書による聖書原理主義批判〜

キリスト教会には、聖書に書かれている言葉の一字一句が神による霊感によって書かれたとして、その言葉の誤りなき無謬性を信じるグループがあります。彼らは、自分たちが聖書全体を通して啓示された神の言葉(福音)に忠実であることを表現して、彼ら自身を「福音派」と呼ぶ。


「また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。 」(第2テモテ3:15−17)


「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。」(第2ペトロ1:20−21)


彼ら福音派にとって、リベラル(自由主義)というのは、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌うものだと思います。


いわく、リベラルはヒューマニズム(人間中心主義)であって、聖書も人間に都合よく解釈し、実のところ神も、キリストの神性も、天国も地獄も信じていない不信者であって、クリスチャンではない。福音主義は聖書の言葉を一字一句大切にする神中心主義であって、福音派こそ本当のクリスチャンである、と。


しかし、リベラル(自由)ということの本質は、人間のリベラル(自由)ではなくて、神のリベラル(自由)ということです。


神が全知全能で、今も生きて働いている存在ならば、神は絶対的に自由な存在であって、聖書の言葉にすら拘束されない、ということです。


過去における神の働きが聖書に書かれているからといって、過去に行ったように今も行い、過去に語ったように今も語るなんて、どうして言えるのか?


自然科学が、自然法則から予測して自然をコントロールしようとする試みであるように、聖書の記述から神の働きを予測することは、神をコントロールしようとする試みであって、神の自由を否定するものではないか? それこそ「人間中心主義」ではないか?


聖書のなかですら、神はあるとき罪人とした者を義人とし、あるとき神の民でなかった異邦人を神の民とし、あるとき律法を命じた神は、あるときは律法を超えて命じられる(安息日は人間のためにあるのであって、人間が安息日のためにあるのではない!マルコ福音書2:23−28)


「神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のわれみによるのである。聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。」(ローマ9:15−33)


「翌日、この三人が旅をつづけて町の近くにきたころ、ペテロは祈をするため屋上にのぼった。時は昼の十二時ごろであった。彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。」(使徒言行録10:9‐15)


「ペテロは彼らに言った、「あなたがたが知っているとおり、ユダヤ人が他国の人と交際したり、出入りしたりすることは、禁じられています。ところが、神は、どんな人間をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、わたしにお示しになりました。」(使徒言行録10:28)


聖書に奇跡の話しが書いてあるからといって、今も過去のように奇跡が起こるとは限らない。自分たちが敬虔な信仰をもっているからといって、聖書の記述とうりに海が割れたり、病が癒えたり、死人を蘇らせたり、毒蛇にかまれて死なないわけではない。奇跡をおこすもおこさないも神の「自由」であって、奇跡をアテにするのは神をコントロールしようとする試みであって、それは偶像に生贄を捧げて万物をコントロールしようとする「魔術」や「呪術」と同じではないか? 「神の子なら、この神殿のてっぺんから飛び降りてみろ。天使が支えてくれるって聖書に書いてあるぜ!(マタイ福音書4:5-7)」というのは悪魔の言葉であって、聖書に神を閉じ込めて、聖書のとうりに神が働くことを期待すれば待っているのは破滅のみ。神に愛がないのでも、神がいないのでもなくて、人間が神に一方的に期待しては失望をくりかえしているにすぎない。


神は絶対的に自由な存在であって、人間のしもべではない。神は、その啓示された約束のとうりに人間のために働いているが、人間の期待や予測に応じるために動いてはいない。神は、御自身の絶対的に自由な意志において働く。


神は自動販売機ではない。ある価格のお金を入れれば自動的に商品がでてくるように、私たちの敬虔さや従順、信仰に応じて奇跡や祝福、または災いや裁きが自動的に出てくるのではない。神は、聖書という説明書に書いてあるとうりに動く「デウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神)」ではない。


神の「リベラル(自由)」については、聖書にヨブ記があります。


ヨブは、神の前でも人の前でも誠実な全き義人でありながら、度重なる苦難を受けます。ヨブの友人たちは、そのひどいありさまを見て「ヨブは何か罪を犯したからひどい刑罰を受けているのだ」、「ヨブの苦難は、罪を浄化するための神の試練だ」などと考えます。これは、ヨブの友人たちが、「神は善人には祝福をもって報い、悪人には災いをもって報いる」という律法の応報思想にもとづいてヨブを判断しているからです。つまり、ヨブは現に災いを受けているのだから、律法に照らして、何か神の前で罪を犯したに違いない…と。ところが、ヨブは自身を省みて何ら責められるべきところはありません。そこで、ヨブは神に問いかけます。「神が正義の神ならば、神の義はこの世界のどこにあるのか? 世界は不条理に満ちている」と。


そこで、神はつむじ風の中からヨブに語られ、天地創造の過程を見せながら、こう言います「私がこれらのものを創造したとき、あなたはどこにいたのか? 私の隣りにでもいたというのか?」と。


「この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。」(ヨブ記38:1−4)


もちろん、ヨブはせいぜい数十年生きただけであって、神の働きを最初から最後まで見ていることはできません。ヨブは神に悔い改めます。「私は自分が悟らないことを言い、知らないこと、測りがたいことを述べてしまいました。」


ヨブ記の主題は明白です。人間と神は違う。人間は、自分が神の立場がわかるかのように、神についてあれこれと語るけれども、人間が神について語り、考えることは全て間違っている、ということです。


神が人間に簡単に理解されるなら、それは神ではない。神は人間にとって常にブラックボックスであり続ける。自分が神になったかのように「あの人は義人だから救われる」、「あの人は罪人だから地獄におちる」、「あれは神の祝福だ」、「あれは神の罰だ」と安易に語ることは、神に対する越権行為であって、「無知な言葉で、神の経綸(けいりん)を暗くする者」というわけです。


「しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」(ローマ10:6‐7)


神の正義と、人間の正義観は一致しない。神の裁きと、人間の苦難は一致しない。神の祝福と、人間の幸福観は一致しない。災難や不幸や罪人から神は義を顕すことがあり、富や繁栄や律法から神は悪を顕すことがある。神の本当の意志や働きは、しかるべき時に神が明らかにするまで、人間は一切判断してはならない。 新約聖書は、神に見捨てられたイエスという義人の苦難、不幸、貧しさこそが人間を救う「神の義」であった、というメッセージではなかったでしょうか?


「そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」(マタイ福音書27:46)


「だれがわれわれの聞いたことを信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」(イザヤ53章)


「彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。」(ヨハネの黙示録19:13)


「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(創世記50:20)


神が全能で自由ならば、当然人間の知識や理性に拘束されず、聖書のテキストにすら拘束されない。聖書を読んで神のことをわかったつもりになっても、それは「今、生きて働く神」には何ら関わりがない。神は学校で習う数学のようには理解されず、人間にコントロールされることはない。


神は誰にも把握されずコントロールされない。神はあらゆる人の願望や期待をすり抜けて、すべての人のために働く。  人間の側にできることは把握や予知やコントロールではなく、人間のあらゆる思惑を越えて人のために働く神の全能と愛を信頼することのみ。


「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」(イザヤ55:8‐11)


「どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。」(エフェソ3:20‐21)


十戒のうち第三戒は、「神の御名をみだりに唱えるべからず(出エジプト20:7)」でした。神について全部わかっているかのように「神さまは…、神さまが…」と、何かと神を主語にして語り散らす牧師やクリスチャンは、敬虔を装っていたとしても信用してはならない、ということでしょう。


福音主義とは、聖書を信じることです。しかし聖書の「文字」を信じるのではなく、聖書が指さすものを信じる。旧約聖書の「文字」を信じるのではなく、神が預言者によって約束されたものを信じる。パウロなどの使徒たちの手紙の「文字」を信じるのではなく、彼らが指さし、証言するものを信じる。すなわち、聖書によって約束され、使徒によって証言された神の言(ロゴス)である「イエス・キリスト」を信じる。


「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネ福音書1:1‐5)


「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。そして罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれたのである。」(ヘブライ1:1‐3)


聖書の「文字」が神の言葉なのではなく、聖書や使徒の手紙が神の言葉なのではありません。「イエス・キリスト」こそ生ける神の言(ロゴス)であるという信仰こそ、聖書や使徒の手紙が証言するものです。だから、キリストを差し置いて聖書や使徒の手紙で人を裁くなら、神の意志はもちろんのこと、使徒たちの思いをも踏みにじることになる。


「わたしがあなたがたのことを父に訴えると、考えてはいけない。あなたがたを訴える者は、あなたがたが頼みとしているモーセその人である。もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである。」(ヨハネ福音書5:45‐46)


聖書に何が書いてあろうとも、キリストが「愛せよ」と命じたのだから、愛さなければならない。愛さないならば、キリストに反対するだけでなく聖書の全体に反対することになる。


「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」(ローマ13:8‐10)


「保守」とは、聖書の言葉を一字一句忠実に守ることだろうか? しかし、それではまだ「浅い」。もう一歩遠く、そして深く、聖書に進みい出てゆかなければならない。そして、神のリベラル(自由)を認めることこそが真の保守主義原理主義根本主義)があるべき「原理(根本)」とは、「生けるキリスト」であって、「死せる文字」ではない。「文字は殺し、霊は生かす」と聖書にあるとうりです。


「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 」(第2コリント3:6‐18)

 

 

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