無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

精神障害、発達障害などの「障害」について

いつの時代、どこの場所でも、普通と違った変わったことを話し、変わった振る舞いをする人々はいました。


彼らは「変わった人」としてコミュニティから浮いた存在ではありましたが、多くの場合にはコミュニティのなかで立ち位置を得て日常の風景のなかに溶け込んでおりました。


ドストエフスキーの小説「白痴」の主人公ムイシュキンのように、彼らは「この世」の小賢しい知恵に毒されていない創世記のアダムのようなイノセントな存在として尊敬され、大切にされることもありました。


ニーチェが著書の「アンチクリスト」のなかで、ナザレのイエスは他の人間とは思考も行動も同じくできない特異な「白痴」であったのだが、彼の非日常的な言葉や振る舞いが周りの人間たちの日常への不満や疑問に直結し、ナザレのイエスは「神の子」「キリスト」として祭り上げられたのだ、と解釈したように、「白痴」と呼ばれた彼らは、時にはその特異性のゆえに芸術的、宗教的なインスピレーションの源泉でもありました。


ところが、そのような彼らの特異性が「障害」や、治療すべき「病気」、「異常」や「欠陥」といったような否定的な眼差しで見られるようになります。


哲学者のミシェル・フーコーによれば、それは近代における産業化と共にはじまりました。国富を最大化するために誰もが労働者として徴用され、生産性を最大化するための歯車として教育、訓練されることにおいて、価値を生み出せない人間、そのような人間の非合理、非効率的な言動や振る舞いが「異常、欠陥、障害」として治療、矯正、克服すべき「悪」として排除されるようになったのです。


日本では、その典型は学校に見られるでしょう。学校で多数の子供たちが同じ場所で、同じ時間に、同じことをするようにさせられるのは、まさに彼らが工場労働者予備軍として教育されるからです。時間に正確に集まって動き、同じことに長時間集中することができ、監督者である教師に従順に服従し、一挙手一投足を決められた規律に従わせるのは、工場労働において必要なスキルです。


もちろん、今では昔のような軍隊のような管理教育は見直されてきたと言えるでしょう。「ゆとり教育」がその成果だと思われるかもしれません。しかし、このゆとり教育なるものも、抑圧されているかわいそうな子供たちを解放するためではなく、産業界の要請によるものでした。


産業の構造が第三次産業へ変わるにつれて、工場労働からホワイトカラーの知的労働、サービス業などの感情労働の需要が増えるにつれて、労働者に求められるスキルが変わってきたのです。


不器用、無愛想、無骨でも生真面目で従順であればよかった工場労働とは異なり、知的な労働のためには命令に従順なだけではなく、主体的に問題を把握し、解決のために自律的に行動することが求められます。また、目的のために効率的に人を動かすためにコミュニケーション能力も求められます。サービス業のためには、常に人が気分よくいられるように愛想よく笑顔をふりまくことや、柔らかい物腰や語り口、常に周りを配慮する気遣い、空気を読むこと、清潔な身なりが求められます。


管理教育に代わる「人間力の育成」とは、まさにこうした需要から生まれたものでした。もちろん、こうした教育は軍隊のような管理教育に比べれば、はるかに自由が許されるし、こうしたスキルを身につけることによって変化する産業構造のなかで職を得て適応することができるので、結果としては子供たちのためではあります。


しかし、こうした産業の変化は、労働が体だけでなく、知性や感情という内面的なところまで徴用され、搾取されることを意味します。頭はカラっぽのまま、体だけ動かしていればよかった工場労働とは異なり、常に会社や仕事のこと、顧客のことを考えて気を使わなければならず、仕事の責任によっては業務が終わって帰宅したあとや休日までも仕事や顧客のことに気を使わなければなりません。まさに、体だけでなく、知性や感情を含む全生活と全人生が価値を生み出すための歯車として徴用され、搾取されるのです。こうして、現代社会は体だけではなく、常に神経や精神を磨り減らし続ける超ストレス社会となっています。


特に日本においては「お客様は神様です」といわれるような消費者中心主義によって、このような知的・感情的な労働者の消耗は深刻なものとなっています。かたや単純労働はといえば非正規労働として自分ひとり養うことも厳しい低賃金のため、こうした逃げ場のなさから若者たちの間で「サクッと大金を稼いでサッサと生産労働からリタイアして消費だけを楽しみたい」といったような「濡れ手に粟」の不労所得への憧れが強まっています。まさに最近流行りのFIRE(Financial Independence, Retire Earlyの略 )への関心の高さは、この国の労働環境の悪さを反映しているのでしょう。


かくして「生産性」という呪縛は、工場や会社での勤務時間を越えて、精神や感情といった内面を含む全生活や全人生にまで及びます。結果、人々は他者の思考や生活を「生産性」の名のもとに「有能か、無能か」を基準に評価し、自分自身を評価する視線もまた「有能か、無能か」といったものにならざるおえません。


SNS上を見ても「有能か、無能か」といった評価で人を持ち上げたり、貶めたりするようなコミュニケーションが頻繁に目につくようになりました。同時に、自分自身への評価も、常に有能で、生産的で、社会の役に立ち、人に喜ばれるような生き方のできる人間でなければならないといった強迫観念にさいなまれることになります。こうしたことが、子供たちへの過度な教育熱から虐待へ至ることや、若者たちの自己肯定感の低さと無関係なはずはありません。


私たちは自分が自由だと思っています。事実、私たちは自由に振る舞っています。しかし、私たちの物事の考え方や見方、身体の動かし方にいたるまで、細部に渡って社会の要請によって規格化されています。誰もが社会の富を最大化するためにふさわしい「有能な」歯車として他者を加工・彫琢し、自分自身もまた、そのような歯車となるよう加工・彫琢するよう要請され、責め立てられています。それも、「自発的に」そうなるように、私たちの良心に刻印されているのです。


2016年7月26日、神奈川県相模原市知的障害者福祉施設津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害される事件がありました。犯人の名は植松聖。コミュニケーションをとれないと彼が判断した入所者を「心失者」として、「社会の万民と、入所者の家族が負担なく幸せに暮らせるようになるために不要な存在」として殺害していったのでした。


植松を凶行にいたらしめたのは何だったのでしょう? 彼は何の声を聞いたのでしょう? それは、まさしく「生産性」という名の現代のバアル(旧約聖書にでてくる代表的な偶像。豊穣の神)の呼び声でした。彼は「生産性」という名のバアルと、その使徒であるイギリスの哲学者ジェレミーベンサムの「最大多数の最大幸福」の声に従い、より多くの人の幸福を最大化するために「負担」であり「障害」であるような少数者を抹消しようとしたのです。そしてまた、皮肉にも同じ「最大多数の最大幸福」の声によって植松は「万民のために野放しにできない社会の敵」として、死刑台の前に立たせられることを待つ日々を生きているのです。


この声。この植松を突き動かした声は私たちひとりひとりの心に常にささやきかけてくる声です。植松のような凶行にはいたらないとしても、他者にも自分にも「おまえみたいなトロくて鈍くて、何の役にも立たない奴はいないほうがみんなのため、社会のためなんだ! おまえはいらない奴だ! 存在価値のない人間なんだ!」という声を聞いたことのない人はいません。


政治家が「生産性」の名のもとに少数者を切り捨てようとするとき、また人々がそのような政治家を礼讃するとき、この現代のバアル(偶像)は見えない力で私たちを支配し、幸福を約束するように見せかけて人間を破滅へと向かわせるのです。


新約聖書の時代、このように人々を破滅に向かわせ、他者にも自分自身にも虐待をくわえさせるように動かす見えない力を「悪霊」と呼びました。


聖書において「霊」とは幽霊のような霊魂だけを意味しません。「霊」と訳されるヘブライ語のルーアッハ、ギリシャ語のプネウマは息、空気、風などを意味します。それは、森羅万象を動かし変化させる見えない力のことです。人が死ねば呼吸が止まり動かなくなります。風が吹けば木々は揺れ、波はさざめきます。現代人が何でもかんでも因果関係の鎖で見えないものを見えるものをつないでしまいますが、古代人は率直に森羅万象を動かし、変化させる見えないものを「霊」と呼びました。だから、神は「霊」なのです。


聖霊」は人を生(活)かすよう働き、「悪霊」は人を傷つけさせ、破滅へといたらせます。罪人たちを正義や善へと立ち上がらせる力を「聖霊」と呼んだように、ごく普通の人たちが急に攻撃的になり、他者をも自身自身をも傷つけるようになることを「悪霊」と呼んだのでした。


ナザレのイエスは聖書で「あなたがたのうち、最も小さい者にしてくれたことは、すなわち私にしてくれたことなのである。」(マタイ福音書25:31-46)と言いました。その声は99匹の羊よりも、失われた一匹の羊を探し求める神の愛(マタイ福音書18:12-14)でした。それは、自分たちの幸福のために少数者を生け贄にするような現代のバアルの声とは真逆のものです。愛(アガペー)は、「キリストが十字架を背負ったように、あなたがたも互いを背負いあえ」(ガラテヤ書6:2)と呼びかけます。現代のバアルは、「あなた方の幸福のために、自分の十字架を捨ててゆけ」と呼びかけます。


私たちは何を自覚し、何と闘うべきなのでしょう? 聖書はおとぎ話ではありません。それは現実的でもあり、社会的でもあり、政治的でもあります。神と偶像、義と罪、聖霊と悪霊の闘いは、イエスの時代と同じく現実的です。


神は、かつてと同じく今も聖書によって現代人に呼びかけているのです。

koji-oshima.hatenablog.com