無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

キリスト教と民主主義~聖霊の口を封ずるなかれ~

「すべての人は平等」というのは、私たちにとって当たり前の真理であり、規範です。しかし、これはキリスト教の歴史のなかで生まれ、育てられてきました。


もちろん、歴史をみればキリスト教の国や文化のなかでは人種差別、性差別、奴隷制があったことは事実です。ときには聖書をつかって、そうした悪が正当化されたこともありました。しかし、同時に「それらは神の前でほんとうに正しいことなのか?」というカウンターもまた、キリスト教や聖書によって立ち上がってきたのも事実です。


今でもそうですが、キリスト教文化のなかでは、政治的、倫理的な問題があるたびに、それらを放置せず議論し、批判し、是正を要求するカウンターが絶えることはありません。こうした権力の横暴に対する絶えまのない抗議(プロテスト)から「人権」などの規範が育てられてきたのです。そして、私たちの生活は、それらの規範によって守られているのです。


では、なぜ人間は平等なのでしょうか? なぜ平等であるべきなのでしょうか?


人間には個性があり、それぞれ能力の優劣があります。能力の優れた有能な者が支配し、無能な者は黙って管理され、従うのみ。これこそ「自然」の摂理ではないでしょうか? 自然が人間の間に上下の区別をつくるのであって、なぜ自然を創造した神が、平等のような自然に反することを命じるのでしょうか?


それは、聖書において人間に真理を認めさせ、語らせるのは人間の能力ではなく神の「聖霊」だからです。


聖書において、イエスに従ったのは無学で教養のない社会の底辺で差別された人たちでした。逆に、イエスを迫害し十字架へと追いやったのはパリサイ派、律法学者、サドカイ派などの知的、宗教的、政治的エリートたちでした。このようなことから、人が真理を認識するのは、人間の能力によらないということを初期のキリスト教会は信じたのです。


「そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。」(マタイ福音書11:25‐26)


「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」(使徒行伝4:13)


「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」(第一コリント1:26‐29)


これは宗教だけの話しではありません。実際にも学者が専門領域の象牙の塔に閉じこもるあまり、現実離れした論争にうつつをぬかすことがあるのに対し、学歴も教養もない人が一粒の真珠のようにキラリと現実を照らす真理を語ることがあるからです。


だから、学歴や能力の有無によって発言の自由や政治参加の自由が制限されてはならず、思想信条の自由は万民に開かれていなくてはならない。その根拠は、人が真理をかたるのは学歴や能力によるのではなく、「聖霊」が万民の口をして語らせるからです。「聖霊」の自由を制限してはいけないから、万民の自由は平等に守られなければならないのです。


この「聖霊」は、時代が進むにつれて宗教色が薄れ、人間が普遍的にもつ真理を認識する能力としての「理性」へと世俗化してゆきます。


私たちが自由で平等な存在なのは、私たちが理性的な存在だからなのですが、この「理性」は聖霊が変化したものなのです。


にもかかわらず、教会では人を教えるために神学校をでていなければならないとか、聖職者・教職者なしで信徒だけで集まって聖書を読んだり語ったりすることは異端のはじめだとか言われたりします。民主化のはじめであった教会が聖霊の自由を軽んじて人間の知識や能力の支配におきかえているのです。


もちろん、自由を与えられた人間が正しいことを語るとは限りません。与えられた自由によって多くの偽りが氾濫していることは事実です。


しかし、聖書に「毒麦を抜こうとして、健全な麦まで抜いてしまう」(マタイ福音書13:24-30)とあるように、異端の可能性をおそれるあまり聖霊の可能性まで潰すことは、雑草を嫌うあまり花も野菜も育たない荒地に土地を変えてしまうことに他なりません。


自由を与えれば多くの偽りや悪が生じますが、同じ自由から多くの反論や批判のカウンターが聖霊から生じます。聖霊を語らしめるために、人間から自由を奪ってはならない。


聖霊が語るということを認める人は、自分だけでなく、他者を通じても聖霊が語ることを知っているので、常に他者からの意見や批判に対して開かれてます。パウロ聖霊の力を信じていたので、教会での議論や信徒の自由を尊重しました。信徒たちが聖霊によって互いに教え、学び、真理を求めることができることを信じたのです。


「預言をする者の場合にも、ふたりか三人かが語り、ほかの者はそれを吟味すべきである。しかし、席にいる他の者が啓示を受けた場合には、初めの者は黙るがよい。あなたがたは、みんなが学びみんなが勧めを受けるために、ひとりずつ残らず預言をすることができるのだから。かつ、預言者の霊は預言者服従するものである。神は無秩序の神ではなく、平和の神である。」(第一コリント14:31‐33)


あらゆる独善を排するための民主主義は、聖霊の力を信頼する教会の実践から生まれてきたものなのです。