無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

キリスト教と民主主義~神の絶対性~

私たちが知っている民主主義は西欧から始まりました。それも、とりわけ「神の絶対性」を強調するカルヴァン派の流れから始まりました。


なぜ、「神の絶対性」という「唯一神の独裁」を思わせるようなことが、民主主義を押し進めてきたのでしょう?


これは歴史の逆説ですが、「神だけが絶対」であるがゆえに、全ての人間は罪人で悪を内包しており、不確実で信頼にあたいせず、誰も特権的な立場を与えられてはならない、ということと関係があるのです。


つまり、人間の誰しも有限で変わりやすく、不確実であるがゆえに、永遠で絶対な神の代理を人間に与えることは「偶像崇拝」であると。


サムエル記の「神は、民が王を求めることを好まない」(サムエル記上8:1‐22)という記述も、人間に対する偶像崇拝の危険性を懸念したものでした。どんな有能な王でも、気まぐれな人間である以上、後に暴君に変わるかもしれず、仮に名君で終わったとしても、世襲による次の王も名君になるとはかぎらない。


「原罪」という教えにあらわれているように、キリスト教性善説をとらず、性悪説をとります。神は人間を善なるものとして創造された。しかし、人間は悪魔の誘惑によって楽園を追われ、悪を行わざるおえず、自分や他者の罪の汚泥のなかでもがきながら、失われた楽園を臨んでユートピアや理想を描き、求めつつ生きる。これがキリスト教における人間観であろうと思われます。


それゆえ、キリスト教に由来する民主主義は、徹底した人間に対する不信に根ざしております。人間の偶像化を避けるため、いつでも権力の座から引きずり降ろすことができるようにしておくこと。これが、私たちが生きている民主主義社会の原風景です。


キリスト教を知らない私たちが民主主義を考える場合、いつも素朴な性善説に立っております。「人間は善なるものであるがゆえに、より多くの人が社会の意思決定に参加すれば、より善なる社会になる」と。


しかし、ドイツの政治学者のカール・シュミットは「民主主義の最終的な帰結は独裁に至る」と言ってヒトラーの政権を擁護しました。「神の絶対性」によって相対化されない「民主的」な自由は、強くてカリスマ性のある指導者の独裁を求める。「神の絶対性」によって相対化されない人間の自由は、常にアイドル(偶像)を求める。事実、ヒトラーの政権に抵抗したのは、キリスト教のなかでもカルヴァン派の流れを汲むグループでした。


現在の国際政治を見ても、政治指導者の偶像化が問題になっております。人が「神の絶対性」を忘れ、自分たちを神の位置に置いたとき、世界は中世に戻ります。


神だけが正しくて、人間は全て間違っている。しかし、正しい神は聖霊によって万人に真理を語らせる。このことが、徹底した人間不信に関わらず、誰も差別せず、全ての人の意見に耳を傾けなければならないという民主的態度を養いました。矛盾しているようですが、そうではありません。民主主義というのは、人間の善性への信頼ではなく、人間に真理を語らせ、善を行わせる神の聖霊への信頼だったのです。