無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

「GOD」が偶像となるとき

唯一の神を信じるクリスチャンは偶像崇拝と無縁なのでしょうか? そうではありません。


キリスト教は、厳密には神を信じる宗教ではなく、神の言はナザレのイエスによって啓示された、ということを信じる信仰です。


それゆえ、キリスト教ナザレのイエスの言葉と行いによって神を信じるのであって、抽象的に神を信じるのではありません。


たとえ神を信じていても、キリストによらないのであれば、それは本当の神にあらず、たとえユダヤの神への信仰とは無縁でも、キリストを信じて従う者は本当の神のなかにある。


神を信じるというだけなら、イエスを十字架へと追いやったパリサイ派や律法学者たちほど熱心に神を信じていた人々はいませんでした。


「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。」(ヤコブ2:19)と聖書にあるとうりです。神を信じるということだけでは、何もその義を証明しません。


神は見えず、知られないので「神」という言葉には中身がありません。中身がないゆえに、人はそこに何でもいれることができます。だから、十戒の第三戒には「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(出エジプト記20:7)とあるのです。


「神」という言葉のなかには富、名声、生産性など人が好むものを入れることができます。そのとき、人は言います「アブラハムダビデも金持ちだった。あなたの財産は神からの授かり物で神の祝福です。それはあなたのものです。貧しい人は神からの祝福にいまだ与れないので貧しいのです。そこには信仰的な問題があるに違いありません。あなたの物質的な成功は、あなたの信仰の勝利の証しなのです!」と。


しかし、いうまでもなくイエスは「あなたの富を貧しい人に与えよ。そして私に従え。人は神とマモン(偶像として擬人化された富)とに同時に仕えることはできない」と言いました。


キリスト教は、このイエスの言葉と行いによって神を信じるのであって、富によって神を信じる者は、本当の神とマモンとをすりかえているのです。彼らはクリスチャンで神を信じていても、その神は偶像であって、「己の腹を神として」(ピリピ3:19)いるのです。彼らは神という言葉でこの世のことを考えているのです。


もし、金持ちの財産が神の祝福で、この世の政治的、経済的秩序がそのまま神の摂理なのだとしたら、どうしてイエスは悔い改めを呼びかける必要があったのでしょう? どうして貧しい人を弁護する必要があるのでしょう? この世がそのまま神の国であるなら、何ゆえ神の国の福音を告知したのでしょう?


神の国は「ある」ものではなく「くる」ものです。イエスは来るべき神の国として、この世を否定したので十字架にかけられて殺されたのです。もし、この世の秩序がそのまま神の国ならば、イエスは金持ちにもパリサイ派や律法学者にも、ヘロデやローマにも祝福を告げるだけで十字架にかけられることもなかったでしょう。


野の百合を飾らせ、空の鳥を養い、万人に太陽を昇らせ、雨を降らせる神は、すべての人が平安に暮らせるように万物を与えました。それなのに、この世に貧困があるならば、それは神の摂理なのではなく、一部の人間の貪欲と罪によって富が独占されているからに他なりません。


この世の法と神の法は一致しない。この世の法は、たいてい金持ちの、金持ちによる、金持ちのための法になっているのであって、その権力によって富は一部の人間に独占されています。この世から貧困がなくならないのは、神の摂理ではなく、人間の罪によるのです。


だから、たとえ私たちがこの世で合法的に稼いだ富であっても、貧困が存在するかぎり神の前では「不正の富」(ルカ福音書16:1‐13 )であって、その正しい用いかたは、神が本来万物でもって満たそうとした貧しい人々に、その富を返すことに他なりません。


この世に貧困が存在するかぎり、私たちが合法的に稼いだ富も、神が貧しい人に与えようとしたものをこの世の権力で盗んだものでしかありません。神の前では、私たちの持つ富は「不正の富」です。神は万人のために万物を与えました。それにも関わらず貧困があるのは、私たちが神の倉庫から盗んでいるからに他なりません(マラキ書 3:8‐12)。

*(マラキ書 3:8‐12は什一献金をめぐって教会の既得権擁護のために利用されてきました。しかし、信徒の貧困によって支えられていたり、集められた献金が貧しい人のために使われていないならば、神の倉庫から盗んでいるのは教会のほうでしょう。教会は、貧しい人々に不必要な重荷を負わせるべきではありません。)


だから、たとえ貧しい人に富を与えたとしても、それは神の前に何ら優れたことをしているのではなく、盗んだものを本来所有すべき人に返しているだけであって、誰も神の前で誇ることはできません。聖書に「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」(ルカ福音書17:9‐10)とあるとうりです。神の国に貧困など存在しようはずがないからです。


クリスチャンのなかにも、教会のなかにも、偶像は存在します。仏教徒無神論者は、そのことを敏感に嗅ぎとります。彼らは言います「キリスト教徒が信じている神は、人間の都合によってつくられたものではないか?それは、人間の欲望、執着、煩悩による幻ではないか?」と。それはいくぶんか的を射た批判に間違いありません。そして、真(まこと)のものが残るためには必要な批判です。


クリスチャンが、そのような偶像破壊としての仏教徒無神論者の批判に真摯に応えることを怠るならば、教会は社会にたいする預言者的使命を失って、ますます建物の壁の内側へ引きこもってゆくことになるでしょう。