無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

キリスト教と科学1

「Nature」というイギリスの科学雑誌があります。Nature(ネイチャー)とは日本語で自然という意味ですが、日本で「自然」というタイトルがつくような雑誌はどのようなイメージでしょうか? 科学雑誌というよりも、風光明媚な自然の美しさを紹介する美術雑誌や観光雑誌を意味するはずです。


日本人にとっては自然は審美的なものですが、西欧人にとっては表面の美しさを楽しむだけのものではなくて、目に見える表面に隠された見えない自然法則、つまり永遠に変わらない神の創造時における設計図を意味します。


Natureの語源であるラテン語ナトゥーラは移り変わる目に見える自然ではなくて、その下にある目にはみえず、時代や場所を越えて変わることのない普遍の法則を意味します。


私たちが学校の歴史の教科書で習うような単純な理解では、頑迷固陋、無知蒙昧なキリスト教の支配する暗黒時代から、ルネサンスにはじまる理性による人間中心のヒューマニズムが抵抗して、科学による人間の進歩が勝ち取られた、と教えられます。


たしかに、キリスト教と科学との間で葛藤があったのは事実ですが、実際は初期の自然科学者のほとんどが敬虔なキリスト教信者でした。コペルニクスガリレオニュートンも、キリスト教を否定して科学的な功績を成し遂げたのではなく、むしろ神への信仰の熱烈な情熱におされて科学的な研究に没頭していったのです。


彼らにとってはキリスト教と科学は矛盾するものではありませんでした。神がなければ、自然は彼らにとって目を楽しませ、生活の必要を満たしてくれる材料を提供してくれるものでしかなかったでしょうが、神を信じるゆえに自然は楽しみ利用するだけのものではなくて、観察し、分析し、目を凝らし、耳を傾けて、その「内なる言葉」を探りあてる対象でもありました。神が自然を創造したのだから、自然は第二の聖書であって、自然を徹底的に観察することによって神の意志を理解できることを期待したのです。


科学が成立するためには、実利的な関心だけではだめで、快/不快の気分や利害損得を越えた宗教にも似た狂気が必要です。政治的、宗教的権威によって否定され、貧困や命の危険にさらされようとも「真理を求めて語れと神が命令されたのだから、私は真理を追求し、真理を語ることをやめない。私はここに立つ!」というような信仰にも似た態度が必要です。


その良心が神に縛られていたからこそ、科学者は自然の真理への追求と告白に縛られていたのです。単純な精神の自由が科学をならしめたのではありません。日本はキリスト教がなく、その意味で西欧よりもはるかに内面は自由なはずでしたが、近代科学のようなものが芽吹くことはありませんでした。


哲学者のニーチェが言うように、生活のすべてを犠牲にしても「真理を!もっと真理を!」と真理や真実を追求する心をキリスト教は西欧人にもたらした。しかし、そうした真理を徹底的に追求する態度が今度はキリスト教そのものや聖書自体に向けられる。それで、西欧人の科学的良心によってキリスト教はバラバラに分解させられ、これが「神の死」、つまり西欧の無神論をもたらした。ヨーロッパのキリスト教というのは、その意味で自分が育てた飼い犬に足を噛まれているようなものなのです。

 


「無条件的に誠実な無神論こそ、かれの問題設定の前提である。それはヨーロッパの良心が、さんざん苦労して手に入れた勝利であり、ついに神信仰の虚偽を禁止するにいたるところの、真理への二千年にわたる訓練が実らせた最も影響の大きな行為であった。われわれは見るのだ。何がいったいキリスト教の神に打ち勝ったのかを、― キリスト教道徳性そのもの、いよいよきびしく取られた誠実の概念、学問的良心にまで、断乎たる知的潔癖にまで、翻訳され昇華されたキリスト教的良心の聴罪師的鋭敏である。自然を、あたかもそれが神の善意と庇護に対する証明であるかのように見ること、神的理性を重んじて、歴史を、倫理的世界秩序や倫理的究極目的の不断の証明として解釈すること、自身の体験を、信仰篤い人々が長いこと解釈していたように、まるで何から何まで摂理であり、暗示であり、一切が魂の救いのために考え出され定められているかのように、解釈すること、こうしたことはいまは過ぎ去った。こうしたことは良心にもとる。こうしたことはすべての鋭敏な良心にとって、醜い不誠実なこととして、虚偽として、フェミニズムとして、弱さとして、臆病として考えられる、― 何物かによってわれわれが良きヨーロッパ人であり、ヨーロッパの最も古く、最も勇敢な自己克服の相続者であるとすれば、そのような厳格さによってこそ、そうなのだ。」

白水社ニーチェ全集「華やぐ知恵」断章357  氷上英廣訳


「われわれは、これを一言でいえば、― 同時にこれはわれわれの誓言でもあるが!― 良きヨーロッパ人なのだ。ヨーロッパの相続者なのだ。幾千年来のヨーロッパ精神の富んだ、おびただしい蓄財の持ち主で、同時にまたおびただしい義務を負った相続者なのだ。そのような者としてまた、キリスト教を卒業し、それに嫌悪を覚えてはいるが、それもわれわれがキリスト教から成長したからであり、われわれの祖先がキリスト教の一途な誠実さを備えた ― その信仰のためには財産も、血も、地位も、祖国もよろこんで犠牲にした ― キリスト教徒であったからである。われわれも ― 同じ轍を踏む。だが、何のために? われわれの無信仰のために? あらゆる種類の無信仰のために? いや、わが友よ、諸君はより良く知っている! 諸君のなかの隠れている「然り」は、諸君が諸君の時代とともにその病気に罹っているところの、すべての「否」と「おそらく」よりも強力だ。そして諸君が海へ乗りださねばならぬなら、諸君移住者よ、そのように諸君を強いるものもまた、― ひとつの信仰なのだ!」

同上 断章377


宗教と科学、狂気と理性というのは、水と油のように反するものではありません。一方が推進力となって他方が遠くへ飛ぶ力を得る関係にある。優れた科学者には取り憑かれたような狂気や宗教性がみられるものです。また、キリスト教は、ユダヤ教の割礼や律法における生活規則や宗教儀式など、効果があるのかないのかわからない迷信的な要素を廃して「神を愛し、隣人を愛せよ」という実質的な倫理に「合理化」して誕生した、ということも考慮にいれておきましょう。


なぜアメリカでは進化論を否定し聖書を文字通り信じるような狂気じみたキリスト教信仰と最先端の科学が混在しているのか。そうした関係には表面上の対立の下にある共通の前提があるのです。