無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

ヒロシマ・ナガサキの原爆被害とキリシタン迫害

ヒロシマナガサキに落とされた原子爆弾は、戦争を早期終了させるための正しい選択だった。戦争が長引けばもっと多くの被害がでていた」という説を支持する人は、日本人のなかには、おそらくほとんどいないでしょう。


今でも戦勝国であるアメリカでは、数は少なくなったとはいえ、このような説を支持する人がいると聞きます。


しかし、最近、「日本における過去のキリスト教禁教令と、それに伴うキリシタン迫害は、外国人による日本の植民地化と日本人の奴隷売買を阻止するために正しい選択だった」とする主張を目にしたりします。専門的な学者でさえ、このように主張したりするのを目にします。


もちろん、キリスト教の側に何も問題がなかったわけではない。一部の土地ではキリスト教徒がマジョリティになったとたん地元の神社仏閣を破壊したという報告が残されているし、外国人商人による奴隷売買にしても、ほとんどの宣教師が売買に関わらず、むしろ宣教の妨げになるとして、本国の国王に苦言の手紙を送っているにしても、世界宣教の足である船を失うわけにもいかないので、グローバルに駆り出す貪欲な商人の乱暴狼藉をなかば黙認していた、というのは事実だろうと思われる。そうした、宣教師の曖昧な態度やダブルスタンダードは批判されてしかるべきだろうと思われます。


しかし、だからといって、その後にキリシタンになされたあまりにも酷い拷問や処刑を「正義」として正当化されてよいわけではない。


ヒロシマナガサキの慰霊の日に、原爆正当化の主張で水を差すことが許されないのと同様に、キリシタンの悲劇の歴史に迫害の正当化によって水を差すことが許されてよいわけではない。


迫害下のキリシタンと宣教師の信仰を描いた遠藤周作の小説「沈黙」や、その小説を映画化したマーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」のレビューコメントには、必ずといってよいほどキリスト教禁教令とキリシタン迫害の正当性と必要性の御高説を滔々と垂れてくれる御仁がいてくれる。


また、世界文化遺産として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録された日には、「侵略者の宗教の遺産が日本で登録されるのはけしからん!」とのクレームが文化庁に寄せられたともあります。


もちろん、文化作品の評価や文化遺産への行政の対応については、様々な意見があろうし、そのような意見の表明を制限する権利は誰にもない。


ここで問題にすべきなのは、ヒロシマナガサキへの原爆投下の正当性の主張と、キリシタン迫害の正当性の主張に共通している、「よい結果のためならば、その過程で成される悪はすべて正当化される」という傾向です。


よい結果がもたらされたのであれば、その過程で成された悪は正義となるか? もちろん、そんなことはない。悪は、よい結果をもたらそうとも悪は悪であって、正しい殺人も、正しい迫害も、正しい人権侵害もありはしない。ヒロシマナガサキについていえば、原爆が戦争を早期終結に導いたかどうかは不確実な「if…」に属するのであって、原爆を投下した世界のほうが、投下しなかった世界より悪の総量が少ないということを証明するものはまったくない。そもそも、善や悪を量的に計算して、量の大小によって事柄の是非を決められるわけではない。


キリシタン迫害についても、キリスト教禁教令によって保たれた今の日本が、凄惨な拷問や処刑によって迫害されたキリシタンの命や苦悩、痛み、恐怖に勝ることを証明するものはない。そもそも、ヨーロッパと極東の日本では距離が離れすぎていて、軍隊を派遣するにはコストがかかりすぎるため、近代的な蒸気船が開発されるまでは、日本の植民地化の可能性はまったくなかった。キリシタンの犠牲が、今の日本を存続させるために必要な犠牲であったことを証明するものは、何もない。


誰もが、自分たちが受けた被害については千年忘れることはないが、自分たちが犯した加害については、加害行為が未来にもたらしえる(あるいは現在にもたらした)善の総量という架空の空論をこねくりわまわしてでも自己正当化と自己賛美に余念がないというのが人間の性(さが)というものです。


よい結果をもたらしえたならば、その過程で成された悪は正当化されうるか? キリシタン迫害が正当化されるならば、原子爆弾の投下もまた正当化されてしまうのではないか? 


こうした論理は、いつも私たちの身近にある。与党の政権がいかに腐敗していても、悪夢の民主党政権よりはマシだと語られるとき、またその与党の先代党首であり元総理が銃撃によって暗殺されることによって、国民を食い物とするカルト宗教との癒着が世間に明らかとなり、テロリズムが社会正義の前進に貢献したと語られるとき、同じ口でヒロシマナガサキの原爆投下はまぎれもなき悪だったと、どうして語れるのだろう? この悲劇を永遠に繰り返さないと、どうして語れるのだろう? またもや、未来の善の総量を最大化するための「必要悪」として、核の使用を許す論理に道をあけてしまうことにはならないか?


たしかに、かの元総理の銃撃事件がきっかけとなり、現政権と国民の生活を食い漁る悪質なカルト宗教との癒着が明らかになったのはたしかで、あの銃撃がなければ、今も変わらず癒着は堂々と続けられ、それを明らかにしようとする報道も握り潰されていたかもしれないことを考えると、一時的にもあのテロリズムは社会の善の総量を増進させた、と言えるかもしれない。


しかし、長期的にみれば、その銃撃を正当化している「よい結果のためならば、その過程で成される悪は正当化される」という論理が批判されることなく一般化された社会にあっては、誰もがそれぞれ描きうる最良の未来のために、ありとあらゆる悪が「善」として正当化され、行使されうるのであって、はたしてそのような社会が善の総量の最大値を示し続けることができるのか? むしろ、最後には最も悲惨なものになってしまうのではないか? かの与党政権がカルト宗教との癒着を許した論理もまた「共産主義の悪から日本を守るため」でした。自分たちが描く最良の未来と、党利党略のために、日本人を食い物とするモンスターを野放しにし続けた。


いまいちど悪は悪として、その悪が紐づけられる結果とは無関係に考えられ、批判されなければならない。そうでなければ、私たちはまた同じ悲劇を繰り返してしまうことになるでしょう。