無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

牧師不要論(万人牧仕論)

最近、牧師や神父などの教会の聖職者・教職者のスキャンダルを頻繁に耳にするようになりました。


これは、そのような聖職者・教職者によるスキャンダルが最近になって増えた、ということなのでしょうか? 最近の聖職・教職に就く人間の質の低下がいちじるしいということなのでしょうか?


もちろん、そうではないでしょう。今ではハラスメントや虐待とみなされることが、過去には教育や躾(しつけ)としてまかり通っていたように、過去にも、聖職者や教職者によるスキャンダルはあったのだが、神の御旨のために必要だとかと言いくるめられたり、聖職の権威への盲信から、スキャンダルが告発されることが少なかった、ということなのでしょう。そのときには、ハラスメントや虐待を受けた教会員は、「信仰歴も短く、罪深い私には、教会のリーダー(?)である牧師センセイの深いお考えが理解できていないのだ…」と自分に言い聞かせて、ジッと耐え忍ぶか、教会やキリスト教そのものに疑問を抱いてひとり静かに教会を去っていったのでしょう。


しかし、インターネットが普及した現代において、他に同じ悩みや苦しみを抱えた人を見出すことが可能になるにつれて、自分の未熟さや罪のゆえに苦しいのではなくて、そもそも牧師だろうが、神父だろうが関係なく、人を困らせたり、傷つけたり、人権を侵害し、人間を私物化することは、どんな宗教の言葉で正当化されようとも、悪は悪なのだ、という認識が共有された結果、告発への心理的ハードルが下がった、ということなのでしょう。


ところで、このような意見にたいして教会員の方々や牧師の方は、こう言うでしょう。「そのような異常な教会やスキャンダラスな牧師がいるとしても、それは極端な事例であって、大部分の教会は健全に運営されている」と。


まったくそのとうりであって、一部でセンセーショナルな事例が目立ちますが、多くの教会は比較的大きなトラブルもなく健全に運営されている。


しかし、問題は「ヒト」ではなく「構造」であって、たまたま善良な人間が牧師や聖職・教職に就いているがゆえにうまくいっているとしても、狼のような悪人が牧師や聖職・教職といった「ヒツジの皮」を被って教会に入ってきたとたん、狼によって教会員が食いものにされるようでは、健全な教会とはいえない。


それというのも、プロテスタントの教会では、タテマエでは「万人祭司」として万人が平等のはずですが、実際には牧師と教会員の間、教職と平信徒や求道者の間には、能動的に「教える者」と受動的に「教えられる者」、「世話する者」と「世話される者」とのいうような権力的な関係が存在するのであって、狼として教会のヒツジを食いものとするために、「ヒツジの皮」を被って教会に入ってくる悪人にとっては、上から受動的に教えられるだけ、世話されるだけの無防備で主体性のないヒツジはかっこうの餌さでしかないからです。狼にとっては、牧師や教職の皮を被っているだけで、ヒツジたちがやわらかい腹を差し出してくれるのだから、これほどおいしい立場はありません。教会の、こうした権力的な関係の構造があるかぎり、今はたまたまうまくまわっているとしても、狼が侵入したとたん荒らされるがままになってしまう。


悪魔が天使に偽装するように、狼もヒツジの皮を被る術を心得ている(第二コリント11:14-15、マタイ福音書7:15-23)。人の目を欺き、先輩牧師の承認や推薦を得て牧師や教職の皮を被ることなんて簡単なことです。


たとえ、今は健全な牧師でも、誰もが聖人君子ではなく、内側に狼のような獣性を宿しているのだから、ヒツジたちが牧師の肩書きを信頼して柔らかい腹を見せてくれているうちに、その腹に噛み付きたくなる欲求がおこらないということを保証するものはない。一般に、「魔が差す」と言われるように、牧師職に就く際の献身の決心・決断や宣誓など、なんのアテにもならない。教理としては、人間の「原罪」や「全的堕落」を主張しておきながら、こと牧師や教職に関しては、その献身の決心・決断や宣誓の持続性に「全的信頼」を与え、また要求することに疑問を覚えないことが問題であって、気まぐれで不安定な人間の「意志の力」に全面的に依拠することほど、非プロテスタント的なことはない。それは、聖職者や教職者である人間の移ろいやすさにもかかわらず、聖職や儀礼に人間の魂を救いに至らせる力や権威や条件を付与する、悪しき意味での旧きカトリシズムと変わらない。


普遍的な人間の「原罪(いかに敬虔な聖職者といえど、原罪と無関係な者はいない)」にもかかわらず、聖職・教職の肩書を得るに至る教育や訓練を経ているという功績、また、そのうえでの献身への意志の決断に、他の人間の生活や魂に干渉する権威を与えることは、あまりにも能力主義的であり、功績主義的であって、人間を神とすることではないか? 万民を捕らえている罪の軛のゆえに、肉なる人間に神の代理や、救済への媒介をゆだねることを拒否し、キリストにおける神の恵みにのみにより頼む「恵みのみ!信仰のみ!」の信条に矛盾するのではないか?

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

あるいは、こういうことだろうか?牧師や教職は、自分の意志の決断によるのではなく、聖霊の証印によるのだ、と。自分の意志によるのではなく、上から促されてなるものなのだ、と。


しかし、光に照らされれば影も濃くなるごとく、聖霊の光に照らされれば、罪の自覚もより深くなる。肉なる人間である自分の力や意志の頼りなさも自覚される。かくして、聖霊によって導かれる者は、神にのみより頼み、自己の力をアテにせず、誇らない。にもかかわらず、今、日本の若者の間で最も影響力があるとされる教会の牧師ですら、自分を教会のリーダーだと公言し、牧師は祈りと御言の御用(使徒言行録6:1-5 )に専念し、教会の雑務は平信徒がやるべきだと、自身の牧師職を新約聖書使徒の立場と同一視してはばからない。これは、傲慢ではないか? 彼も、個人的な祈りにおいては、パウロに倣って自身を罪人の頭(かしら)とし(第一テモテ1:15-16)、神に罪のゆるしを請うたりするのだろう。しかし、それならば自分の牧師職の立場がおそろしくはないのだろうか? 罪人の頭(かしら)である自分の汚れているかもしれない手で、主人であるキリストから預かった羊に触れて、その毛を汚してしまうかもしれないことに思い至らないのだろうか? パウロに倣って、自分を罪人の頭(かしら)とみなすなら、キリストから預かった羊を自分が私物化してしまうことをおそれて、自身に権限を集中するのではななく、信徒とのあいだで権限を分散し、パウロに倣って使徒や宣教者の扶養の権利を主張せず、むしろ、手ずから働くべきではないか? 自分が牧師であるというだけで、平信徒よりも祈りと御言の御用に専念する資格や条件が自分にあるというのだろうか? それは、万民のなかの無学で幼子のような最も小さき人々によっても語られる聖霊を軽んじることではないか? 自分の弱さや、その手の汚れをあきらかにせず、むしろ誇らせて、主の羊である教会の信徒の心と魂と生活に、ためらいもなく無遠慮にもベタベタと触ることを促す霊は、聖霊とは異なる霊ではないか?

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

 

「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」(ヤコブ3:1-10)


「牧師だって人間なんだから、罪を犯すことがあると思うけど、ゆるしてね♡」と言う。ならば、なおさら牧師の権威づけや権限の集中はやめるべきで、そこにあきらかな矛盾があることを認めるべきだ。影を可視化させ、直視させないものは光ではないように、罪による可能性に向き合わせず、肉なる人間を権威づけるものは、決して聖霊ではない。

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

牧師の方は、こう反論なさるでしょう。「牧師が、独裁者や特権階級の支配者であるかのように書いているが、単立教会の一国一城の主としての牧師ならともかく、教団の組織人としての牧師は、教会のなかでも最も弱い立場で、役員会から突き上げられ、受動的な消費者となってしまっている教会員から『アレもしてくれ!コレもしてくれ!』と日々仕事を増やされる、まったく割に合わない仕事であって、配慮やいたわりが必要なのは、むしろ牧師のほうだ!」と。


しかし、教会員を自立させず、要求だけの受動的な消費者(お客さまは神さまです!)として仕立てあげてきたのは、誰のためだったのか? まさに、牧師の既得権とアイデンティティのために、教会員が牧師に依存せざるおえないように、教会員の魂に纏足(てんそく《昔の中国にあった奇習で、女性が生活において男性に依存せざるおえないように、幼少時に足の形を変えてしまう風習》)を施してきたのは、牧師であり、またその後ろ盾である教団ではなかったのか? それなのに、今度は教会員の依存が負担になるというので、教会員の自立を求めよう、というのだろうか?


もし、教会の平信徒が、教団や牧師に依存しない自立した信仰者となったならば、真っ先に切り崩されるのは、牧師の既得権とアイデンティティであって、恒常的に教会と教会員に関わる専門職としての職業牧師は見直されることになるでしょう。そのときには、「祈りと御言」の御用は、特定の人物が専門的に担う役割ではなくなり、すべての教会員が、賜物を受けた適時と適所において、公平に担う役割となるでしょう。そのときには、信徒の献金と寄付によって生活する、教会堂に紐づけられた牧師はなくなり、誰もが世俗で働きながら、教会の雑務と、祈りと御言の御用を適時と適所において、それぞれ持ち回ることになるでしょう。そのときには、説教や講義は、教会に引きこもる世間から浮いた超俗の宗教人・専門人としての牧師の手を離れ、チンプンカンプンな神学の虚ろな言葉や、ただ聖書に書いてあることを権威づけるだけの「うるさいシンバルの音!(第一コリント13:1)」ではなくなり、実社会での生活に密着した、心と魂と生活に染み込む、血の通ったものとなるでしょう。


最近では、牧師のこうしたあり方を相対化して、牧師の「師」という字を「仕」に変えて、「牧仕」と言ったりします。なぜならば、聖書に 「あなたがたは先生と呼ばれてはならない(マタイ福音書23:8-12)」とあり、「上に立とうとする者は、支配するのではなく、一番下で僕(しもべ)となって仕えなければならない(マルコ福音書10:42-45)」とあるからです。上から一方的に教えを垂れ、信徒の心と魂と生活に干渉する権威としての牧師の「師」というイメージを一新し、一番下から民衆に寄り添う身近な存在に変えようとしたものでしょう。


しかし、「牧仕」というものが、「主の牧場に仕える」という意味のものであるならば、神によってキリストにある恵みにあずかり、キリストを信じ、キリストに従う者は「みんな」主の牧場に仕える「牧仕」と言われるべきもので、キリストを信じ、従う集まりとしての「主の牧場」には、一方的に仕えることを専門とする者と、仕えられることを専門とする者がいるわけではない。誰もが仕える者であると同時に、仕えられる者であり、神の前で「自立」した信仰者の集まりとしての教会では、誰もがみんな「牧仕」と呼ばれるべきものです。


主の牧場に仕えるという意味ではみんなが「牧仕」なのであって、「牧仕」を、特定の人間が仕えることを専門とする、特殊な職業としての地位にあげたとたん、牧「仕」は牧「師」になる。結局、「師」とは、未熟であるがゆえに手も足もでない者をケア、介助、教育する立場なのだから、「仕える」ことを専門とする「牧仕」は、恒常的に仕えられなければならない未熟な存在を前提にしているのだから、「師」としての「牧師」と変わりがない。結局は、同じものをさしている。自己を、未熟な者をケア、介助、教育する特殊な立場として、一段上の特別な存在として規定している。「牧仕」と言いかえたところで、この教会の特殊な構造は変わりがない。


聖書では、クリスチャンは「羊」に譬えられますが、その場合の「羊」とは、一般に考えられているような、羊飼いによって動かされるがままの主体性のない「ヒツジ」ではなく、真の牧者であるキリストの声を聞き「分けて」、偽物の羊飼いや狼の声を拒否する能動的で、知的で、戦闘的な「羊」でした。(ヨハネ福音書10:1-18)


したがって、どのような教会の教会員も、牧師や教職者から受動的に教えられ、世話される受動的な対象ではなく、真の牧者であるキリストの声を聞き「分けて」、吟味し、選び、意見を言い、牧師の管理や教会から拒否して離れる自由をもつ。


教会の教会員は、キリストの所有する羊であって、互いにキリストから委託された存在です。したがって、自分勝手に手を触れるような私物化は許されない。教会員の誰もが「私は主の羊であって、あなたのヒツジではない。あなたの支配は受けない」と言うことができるし、そのように言うことができるように運営されなければならない。


「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」(ヨハネ福音書10:1-18)


私は問いたい。もし、キリストが教会の扉を叩いて、「さあ、あなたに預けておいた私の羊を、私に返しておくれ」と呼びかけたときに、キリストに羊を返すのだろうか? それとも、「こいつを、十字架につけろ!」と再びキリストを十字架にはりつけにして、羊を自分のものとし、所属する教派・教団のものとするのではないかどうかを。


「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。」(マタイ福音書21:33-44)


コリントに宛てたパウロの手紙を見てみると、原始教会では、誰か特定の人間が教育や世話を専門とするのではなく、教会の誰もが与えられた賜物に従って、教えつつ教えられ、世話しつつ世話されるような関係を理想としているようでした。対等で平等な独立自存の人格が、キリストにおける愛(アガペー)に促されて互いにの欠けたところを補いあうことが求められていました。(第一コリント12章から14章)


様々なトラブルをおこす牧師や教職者も悪いが、権威に対する教会員の受動的な依存心も悪い。そして、何より一方的な権威者とそれに依存する者を生み出してしまう教会の構造が悪い。ひとりひとりがキリストの前で独立した人格として平等であり、誰もが教える者であると同時に教えられるものであり、ケアする者であると同時にケアされる者であるような対等な関係であるような構造でなければならない。


外側からは何も問題がないように見えていても、教会の見えないところで実際は何が行われているのかわからず、敬虔なクリスチャンとしてヒツジの皮を被っていても、人を食いものとする狼がまざっていることは事実なのだから、だからこそ特定の誰かに特別な権威をもたせたり、それに依存するだけの受動的な人間を生み出す教会の構造は見直されなければならない。


教会に狼が侵入してくる可能性や、私たちが羊であると同時に潜在的な狼でもある可能性を考えて、誰もが狼に豹変する可能性があるのだから、教会員はキリストを唯一の権威として誰にも依存するこのない自由で平等な独立した人格となるよう運営されなければならない。


教会は「見た目では判別できない麦と毒麦の混合(マタイ福音書13:24-30)」という聖書の言葉は、「だから誰も裁くべきではない」と解されるだけでなく、見えない毒麦の存在を考慮して、「だから誰も人の上に立つような特別な立場を与えられてはならない」とも解されなければならない。


「しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」(ローマ10:6-7)


時の徴(マタイ福音書16:2-3)は、既存の教会の構造の衰退と、教会の「無教会」化を告げ知らせる。「教会から無教会へ」の教会進化論が、無教会主義の傲慢だと言われようとも、キリスト教が「この世」に残るかぎり、この流れは避けられないと思う。


たとえ、それが「無教会」の名を冠せずとも、真正な意味で「万人祭司」としての教会が構造となるときには、専門職としての「牧師」の立場や、クリスチャンの教育・養育機関としての「教会」の存在の是非をめぐって検証にさらされることになるでしょう。