無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

神の「完全」は十字架の「弱さ」によって啓示される

最近、あるメンタリストを名乗るインフルエンサーが差別的な発言をして炎上し、あらゆる方面から批判を浴びるという出来事がありました。


彼いわく、「ホームレスの命はどうでもいい」「ホームレスのために税金を使うくらいなら、かわいそうな猫のために税金を使ってほしい」「命に優劣はある」。


このような発言が含まれていた動画には「【超激辛】科学的にバッサリ斬られたい人のための質疑応答」というタイトルがつけられていました。


おそらく、彼にとっては「みんな愛とか、弱者救済とか、多様性とか、平等とか言ってるけど、それはお上品を気取ってる社会に適応するための方便・タテマエ・社交術であって、本音では自分が一番大切だし、強さこそ正義だし、命に優劣はあるし、消えてほしい奴がいるんだろ? それが人間の真実だし、自然の摂理なんだよ。それを認めないのは不都合な真実に目を向けようとしない非科学的な奴らだ。」といったことが言いたかったのかもしれません。


20年ほど前、あるテレビの討論番組で、ひとりの少年が「なんで人を殺しちゃいけないの?」と大人たちに問うたのに対し、大人たちの誰ひとりとしてまともな解答ができなくて話題になったことがありました。


それもそのはずで、いくら綺麗事を言っても、戦争になれば殺してよい命と、そうでない命を分けなければならないし、日本は他の先進国が死刑を廃止、保留に向けて進むなかで唯一の死刑推進国で、国民の8割が死刑の存続を支持する国です。死刑執行の報道があれば「殺せ!もっと殺せ!今すぐ殺せ!」の大合唱がネット上でわきあがる国です。また、人工妊娠中絶や出生前診断についての倫理的な議論は脇におかれて便利さだけが野放しにされている国です。日本の社会は命の優劣と選別を当たり前のこととして何も問題にしてこなかったのです。そのような社会で命の重さについて語ることは、何もかも偽善的な臭いがついてまわることになります。


「神だの愛だの平等だのなんてものは非科学的で証明できない。そんなものは世界のどこにも存在しない。自然を見ろ! 自然は弱肉強食、優勝劣敗適者生存の世界だ。人間も自然の一部だ。だから、自然の真理は人間の社会にとっても真理なのだ。」


もちろん、ほとんどの科学者は差別的な思想をもっていません。科学が必然的にこうした優生思想へと至るわけではありません。しかし、神や愛や平等などは科学的に証明できるかというと難しいのではないでしょうか? それらを科学的に考えるとすれば、たいてい人間の自己保存や種の保存のためにつくりだされた「必要な幻想」として説明されます。そこに含意されているのは、「人間の都合」こそ価値の決定者であって、人間の都合によっては悪魔が神として、悪が善として、殺人が救済として「必要な幻想」になる可能性がある、ということです。殺人がいけないのは、多くの人が殺されたくないと思っているからで、もし「多くの人」が殺してよいと思っている場合は「種の保存」のために殺人が「善」となる可能性がある、ということです。


もちろん、現実は複雑なので99匹の羊を守るために一匹の羊を犠牲にしなければならないこともあるでしょう。しかし、それが、まぎれもなき「悪」として、他のありとあらゆる可能性を試みたうえでの「苦渋の決断」として選択されるのと、ごくごく普通の選択として「善」として正当化されるのとはわけが違う。


人工妊娠中絶や出生前診断も、それを法律で禁止することはできません。産むことを強制するのなら、産む生命と産まれてくる生命を社会全体で責任をもたなければならない。それができず、個人や家庭の責任にしてしまうならば、何人(なんぴと)も産むか産まないかの選択と自由を奪うことはできない。中絶を禁じるキリスト教の教派も、産むことを強いるならば、産む生命と産まれてくる生命に対して教会がすべての責任をもたなければならない。それができないならば、中絶の選択を奪うべきではない。何よりも罪深いのは、中絶を選択する個人や家庭ではなくて、産む生命と産まれてくる生命への責任を個人の問題としてたらい回しにし、責任を負いたがらない社会全体や教会にある。「人に負いきれない重荷を背負わせておきながら、自分は指一本触れない」(マタイ福音書23:4)プロテスタントの偽善的でパリサイ的な一部の個人や教派よりも、「赤ちゃんポスト」のように、人間の弱さや社会の「見えない壁」の前で八方塞がりになっている人々に寄り添う一部のカトリックの試みのほうが、神の前でも人の前でも、はるかに誠実だと思う。


しかし、そうだとしても人工妊娠中絶や出生前診断への倫理的、心理的、技術的ハードルが下がり、人間の生命が「お手軽」にコントロール可能になればなるほど、人間の生命への畏敬の心がいちじるしく失われてゆく。


たとえ、人工妊娠中絶や出生前診断が簡単に、いつでもどこでもアクセス可能になり、多くの人がそれを利用するようになったとしても、それでも愛情や道徳的・宗教的信念から胎児がどんな状態であれ、出産を選択する個人や家庭があるでしょう。しかし、そのような個人や家庭は、世間から「中絶を選択する余地が十分あるにもかかわらず、障害などのリスク(!?)を承知で出産を選んだのだから、産む生命と産まれる生命に対して社会は何も助ける必要がない。自分で産むことを選んだのだから、自己責任だ」と突き放される可能性が高くなる。事実、このような主張をする人々はネット上にたくさんいる。


生命は、神からのものであれ、天からのものであれ、コウノトリが運んでくるのであれ、「贈りもの」として受けとめられるかぎり、無条件にありのままの存在を受けとめることができる。自然の働きによって財産を失ったり、健康を損なったりした人を責める人はいない。むしろ、共感と共苦によって痛みを分けあおうとする。しかし、人間によるコントロールの可能性が増すほど、その結果に対して自己責任として社会の連帯の絆は薄くなってゆく。「自分の意志と努力によって避けられたはずの負担を、あえて社会に負わせたのだから、その負担は社会ではなく、当事者である個人に負わせるべきだ」というわけです。


人間が、神のようにあらゆるものをコントロールしようとし、それが可能に近づくにつれ、社会は人間にやさしくなくなる。そして、そのような冷淡で無慈悲な社会のなかで、人間は神ではなく人間にすぎないということ、神にはなれないということを思い知らされる。


聖書の創世記において、蛇に擬して人間を誘惑し、楽園からの追放に至らせた悪魔の言葉とは「この実を食え。あなたは神のようにななるだろう」(創世記3:5)でした。


それ以降、神のように全能になって全てを支配し、コントロールしたいという欲求は人間の本性となりました。しかし、神が大地を創造し、人間に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記 1:28)と言ったとき、それは神の真似事をして支配せよと言ったのではなく、神から委託された大地を管理せよ、という意味でした(創世記2:15)。それを忘れて人間が神の真似事をして欲望のままに自然環境を、自分の人生を、他者の自由を、人間の生命と遺伝子を、そして神をも支配し、コントロールしようとするとき、「地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る」(創世記3:17)ことになるのでしょう。


「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」 (コリント第二12:7‐10)


「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 (マタイ福音書5:48)


なぜ、神は愛なのに人間を完全なものとして創造しなかったのでしょう? なぜ、神は人間を弱いものとして創造し、弱さのなかに留め置かれるのでしょう? それは、「神の完全」とは、「弱さ」のなかで顕れるからです。神の完全、すなわち「愛(アガペ)」は、十字架に架けられたキリストの「弱さ」によって啓示されたからです。


私たち人間が創造されたのは、神のように全能になってあらゆる欲望と快楽を実現するためではなく、神に似ること、すなわち「十字架に架けられた神」に似るべく、その「弱さ」に等しい姿に創造されたのでした。それゆえに、私たちはその「弱さ」ゆえ、一人では存在できず、互いの十字架を負うことによってのみ生きるのです。私たちに弱さが与えられているのは、互いの十字架を負いあうことによって十字架上の神に似てゆくことにある。すなわち、神の完全になる。


「すなわち、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたが、神の力によって生きておられるのである。 」(コリント第二13:4)


私たちが弱いのは、互いに愛(アガペ)しあうために他ならない。そして、互いに愛しあうことによって創造主であり、救世主である十字架上の神に似るべく創造されている。このように創造されているのだから、人間が弱さを克服して、もはや愛を認識しない生物になることなど考えられない。人間は永遠に弱い人間であって、キリストによって啓示された愛は永遠に神として復活し、生き続ける。


「イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」 (マタイ福音書 4:4)


自然の動物によって観察されるような生物学的な真実だけが人間の真実なのではありません。「永遠の生命へ至らせる生けるパン」(ヨハネ福音書6:35)であるキリストによって啓示された愛(アガペ)によっても、人は生きる。自然界の法則に忠実に生きたところで、この「パン」への飢えは満たされはしない。このような霊的真実によっても、人は生きる。


「どうして、この世界は不完全なのか?」と、人は神に問います。そもそも、完全な神などいなかった、と言いたくなります。しかし、世界の不完全性を前にして、私たちが神を試しているのではなく、私たちがこの不完全さや弱さにどう対峙するのか、十字架を背負うのか、それとも捨ててゆくのかを、神によって試されているのです。