無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

補説:精神障害、発達障害などの「障害」について〜「異常」なのは人間なのか?社会なのか?〜

以前、「精神障害発達障害などの障害について」というブログを書きました。

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

昨今、発達障害を含めた様々な「障害」についての報告を頻繁に耳にします。素朴な印象として、このように思うはずです、「発達障害というものを持つ人が最近増えているらしい」と。


しかし、昔も今も人間は人間であって、数千年と変わらなかった人間の器質がここ数十年で急に変化するはずがありません。


では、何が変わったのか?

人間が変わったのではなく、社会のほうが変わった。個々の人間を評価する社会の視線が変わった。正常と異常、適応と不適応を評価し区別する社会の枠組みが変わった。


何かを善とすることは、必ず何かを悪とすることであって、何かが異常あるいは障害とみなされるからには、その背景には必ず正常あるいは健常という規範があります。表のない裏という概念が存在しえないように、何かが異常とみなされているからには、そこには必ず何かを正常とみなしているということであって、正常または健常とされていることの枠組みがが変われば、異常または障害とみなされることの内容も変わる。


当然、正常または健常とされている範囲が狭まれば狭まるほど、異常または障害とみなされる範囲も広がることになる。


現在、発達障害とみなされるような人々は当然過去にも存在した。しかし、現在のような関心をひかなかったのは、なんだかんだで包摂され、適応することができていたからで、周囲から「あの子…、少し変わってるね」と心配されていても、周りの人間たちの配慮や気遣いによってカバーされることができていたからによる。一言で言えば、いちいち細かいことを気にする必要がない程度には、社会に「余裕」があった、ということです。


しかし、社会がより高度に複雑化し、個人に求められる資質もまた高度に複雑化するだけでなく、右肩上がりの経済から不況によって経済が低迷し、余分なことにコストを割く余裕がなくなるに応じて、コストカットとして生産の現場から人員が減らされ、会社で働く人間や社会で生活する人間への「正常性」あるいは「効率性」への要求はより強力になる。そして、今までは何とか包摂できていたとしても、しだいに「あの子と一緒に仕事をするのは、…ちょっと難しい」ということが増える。余裕がないなかで物事がスムーズに進まないので、人間関係の空気はより悪くなり、なかなか現場に適応することができない当人も、現場の空気が悪いのは自分のせいかもしれないということを敏感に感じとって悩むことになる。


そうした高度に複雑化した余裕のない社会のなかで、適応不全の人々が増えるにつれて、発達障害知名度や認知度も増える。「何をやっても馴染めず、うまく適応できないのは、発達障害だからではないか?」と考える人も増える。発達障害の診断があれば、すくなくとも社会に適応できないのは自分の落ち度ではなく、努力では如何ともし難い外部要因であることが証明できるため、健常者としては適応できないが、「障害者」という枠組みでは適応できる。


だが、いったい「障害」とは何なのか? それは、もちろんハンディキャップという意味です。しかし、手や足が不自由という意味での身体障害者については、「五体満足」という意味で、目に見えての「健常」が存在するのに対し、精神障害発達障害については、何をもって「健常」というのか? この意味での「健常」とは、目には見えない社会の規範や空気をも含むのであって、社会の有り様によって雲をつかむように変わりうる。


知的、精神的な意味での「健常者」とは、誰のことを指すのか? 知的な「健常者」なるものが本当に存在するのか? 実際、様々な環境で適応不全で苦しんでいるにもかかわらず、発達障害の診断の基準から漏れてしまう「グレーゾーン」と呼ばれる人々が存在しているのであって、いわゆる「健常」とみなされている人々にも、精神安定剤オピオイド鎮痛薬など、その他様々な薬(場合によっては非合法なクスリ)で自分自身をブーストさせることによって何とか社会に適応している人々がいる。


芸能界やスポーツの世界での薬物汚染がしばしば問題になるが、過度な競争社会では、それも理の必然であって、過度な重圧と責任と不安のなかで勝ち抜かなければならないプロフェッショナルな世界では、周囲から求められる期待と、本来の自分とは真逆の「キャラクター」を演じ続けるために、薬物に依存して自分をブーストさせ続けなければならない誘惑にかられる。


いまや、程度の差はあれ、社会全体が、こうしたプロフェッショナルな要求によって期待されているのであって、多くの人が病名を獲得しなければ適応を許されないような社会とは何なのか? また、何らかの薬によって自分をブーストさせてまで適応しなければならない社会とは何なのか? それは、社会が求めている「正常」や「健常」などの規範が、もはや本来の人間性からかけ離れた「サイボーグ」となっているからでではないか?


実際、セレブたちのなかには、自分たちの子供を競争社会のなかでの勝利者とするために、受精の段階から遺伝子に手を付けて様々な優れた属性を付与することを計画している人々がいるのであって、人間の手によってコントロールしてまで乗り越えられねばならない人間の「普通」とは、いかなるものか?


セレブとはいえない、ごく一般的な家庭のなかでも、自分たちの子供が勝ち組とまではいかなくても、負け組にはならないような「普通」の人間として生活できるよう育てるべく追い詰められている。


こうして、「普通」はもはや普通ではなく、「普通」の人間、「普通」の生活なるものも、何かしら心と体を消耗して適応(あるいは改造!)しなければならない「狭き門」となりつつある。


この意味では、誰もが何かしら「普通」への適応不全としての「障害」を持っているともいえるのであって、完全な意味での「普通のヒト」といえる人はどこにもいない。ほとんどの人は普通を「演じて」いるのであって、自分自身のなかには常に「普通」をはみだす病的、変態的、異端的、非社会的、狂気的な部分があることを知っている。


いわゆる定形発達の「健常者」と呼ばれる人も、ある程度心と体をすり減らして社会に適応している。だからこそ、「自分たちだってがんばって適応しているのに、ちょっと病名を得たからといって優遇されている人がいるのは公平ではない!」と、福祉に反対する人がいる。


誰もが何らかの障害者でありえるのであって、誰もがマジョリティであると同時に何らかのマイノリティでもあり、マイノリティであると同時にマジョリティでもある。誰もが、みんなができるのに自分だけができないことがあり、みんなができないのに自分だけができることがある。


身体障害者が社会のバリアフリー化の度合によっては健常者と遜色なく生活することが可能であるように、今、発達障害とみなされている人も、「健常」の枠組みの変化によっては、健常の枠組みのなかに包摂されることができる、あるいは少し特殊な個性をもつ健常者として社会に適応しうる。


蟻(あり)の社会や蜂(はち)の社会においては、その社会性が身体に直接プログラムされているので、社会の構造が変わることはない。しかし、人間の社会は、人々が意図的に演じている「普通」という規範、または場の空気によって成り立っているので、人間の心や身体そのものには、常にそうした「普通」という社会の規範、あるは空気をはみだす性質がそなわっている。そうであるがゆえに、蟻や蜂の社会に変化が乏しいのに比べて、人間の社会は常に変化し続ける。「普通」とみなされている社会の規範や空気も、そのつど変わる。


たとえば、長い時代において、同性愛は病気、精神的・身体的異常とみなされてきたが、昨今では、自分自身に同性愛的傾向、あるいはLGBTQと呼ばれるようなパターン化されない複雑な「性」を持っていることをカミングアウトする人々が増えるにつれて、セクシュアリティ(性)の「普通」や「常識」も変わりつつある。実際、LGBTQという言葉が知られるまで、ひと昔前までこれらは性同一性障害という「障害」の文脈で語られていた。


「言いにくいんだけど、実は僕は〇〇なんだ…」、「そうか…、隠していたけど、実は僕も君とは少しタイプが違うけど〇〇なんだ…」

コミュニケーションにおける、このような小さい「はみだし」のカミングアウトの積み重ねによって、社会の「普通」や「常識」という規範も変わってゆく。社会の主流のパターンにすべての人をはめ込めるほど、人間は単純ではない。人間は常に多様であり複雑であって、人間が規定した枠組みから常にはみだしてゆく。


では、「健常」や「正常」など「普通」と呼ばれる社会の規範や空気は何なのか? 何がそのように正常と異常を線引するのか?


たとえば、私たちがホラー映画を見たあとで、家の壁のしみを眺めていると、怨めしそうな人の顔に見えてゾッとすることがある。また、別の日に教会での礼拝から帰ってきて、敬虔な気持ちに満たされて同じ家の壁を眺めていると、同じ壁のしみが、今度はキリストや聖母マリヤの姿に見えることもある。壁のしみは、それ自体何でもないが、それを眺める私たちの感情や関心によって、千変万化のカタチをあらわす。


これと同じく、人間それ自体としては、この壁のしみと同じく何ものでもない「混沌」であって、それにカタチを与えるのは、社会の総体的な「関心」による視線の「光学」による。「光あれ!」とともに混沌にはカタチが与えられる。


私たちのコミュニケーションのなかでは、「あの人の心や振る舞いは異常だ」とか「あの人の脳には異常がある」と言ったりする。しかし、私たちの心、振る舞い、またその原因とされている脳や身体に直接「正常」や「異常」などの属性が実体的に存在しているわけではない。それらは、壁のしみが何でもないのと同じく、それ自体としては、正常でも異常でもない無規定の「混沌」であって、それらに「正常」や「異常」の属性をラベリングするのは、社会の総体的な「関心」や都合における評価による。


壁のしみが、怨みに満ちた人の顔に見えるか、キリストや聖母マリヤの姿に見えるは、それを眺める人間の感情や関心、状況によって輪郭を与えられるように、私たちに引かれている「正常」や「異常」の線による輪郭もまた、社会の総体的な関心や状況によるのであって、それ自体として私たちの心や振る舞い、脳や身体が正常であったり異常であったりするわけではない。


最近では、プロジェクションマッピングとよばれる、真っ白なビルに最初からデザインが施されているかのように、様々な映像を投影する光学的技術があるように、私たちに規定された「正常」や「異常」の属性もまた、私たち自身の性質そのものではなくて、社会の総体的な「関心」による「光学」によって映しだされた「映像」にすぎない。


それ自体として異常な精神や脳など存在しない。それらは、かならず何かしらの社会関係の「投影」であって、社会関係が物それ自体の性質であるかのように認識されることを、哲学の世界では「物象化」という。たとえば、私たちが使う一万円札は、それ自体としては数十円から高くても数百円の紙きれにすぎないにもかかわらず、一万円分の商品と交換できるために人々の血まなこの欲望の対象になっているのは、この紙きれに一万円という価値が実体的に存在しているのではなく、現行の経済的な社会関係がそれらを流通させているからに他ならない。したがって、為替相場で円の価値も常に変動するし、戦争や大災害などで社会が崩壊に近い状態になると、第一次世界大戦後のドイツにおけるハイパーインフレーションように、パン一斤が一兆円というように、一万円札を軽トラック一杯に積んでいかないと買えないということになる。そうなると、もはや一万円札の価値はティッシュ一枚の価値もなく、もはやトイレットペーパーの代用としか使われない、ということになる。


「IQ」と呼ばれる知能指数も、しばしば高い数値をだした人の知能や脳が優秀だとか、低い人は劣等だとかと語られるけれども、これらの数字は現行の社会関係への(それも極めて限定的な範囲での!)適応の度合であって、IQが高いことが文字どうりに頭が「いい」わけではない。抜群に優れた集中力と、複数の選択肢を想定して、そのなかから最適の選択をする能力としては高く数字化されて評価されたとしても、それは、現行の私たちの社会が、そのような能力を高く評価している社会である、ということにすぎず、IQが高い人間が芸術性や道徳性、宗教性の分野において優れた結果をだせるわけではない。そもそも、最適な選択という「正解」を決めているのが、現行の社会なのだから、その「正解」に最も効率的にたどりついたからといって、それは現行の社会の枠内において「のみ」優秀であることを証明しているにすぎない。


こうして、正常であるとか異常であるとか、健常であるとか障害があるとか、発達が進んでいるとか遅れているとかは相対的なもので、何ら私たちの心や脳の実体をあらわすものではない。社会の有り様によっては、異常とみなされた人も居場所を得て適応することができるし、障害があると言われた人も、健常者と遜色なく生活できる。また、発達が遅れているとされた人も、ドラマの「裸の大将」のモデルとなった画家の山下清のように、文化的な価値の創造の世界に居場所をもつこともできる。


自分や自分の子供が知的なハンディキャップや発達におけるハンディキャップを抱えているからといって、「私は劣った存在なのだろうか?」「私たちの子供は劣った存在なのだろうか?」と悩む必要はないし、むしろ、「異常なのは、私たちではなく、この社会のほうではないか? 健常者と呼ばれている人たちも、本当にこの社会が、今のままでよいと思っているのだろうか?」と問うことが許されている。この社会を「はみ出し」た仲間たちで、この世の秩序とは異なる「義の宿る新しい天と地(ヨハネの黙示録 21:1-5 )」のオルタナティブを目指すべく召されている(聖者の行進)。


先んず、日本では会社組織に全的にコミットメントすることを要求される、何でもこなす「正社員」としてしか人並みの生活を維持する経済水準を許されないことが、様々なハンディキャップを持つ人々の生きづらさを増しているとすれば、正社員でなくとも最低限の生活と、自分の趣味に没頭してクリエイティブな価値を創造する生活の余裕をもてるような多様な働き方のうえでの生活の維持の可能性が求められるでしょう。