無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

神と富

「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。 (マタイ福音書4:8‐10)


ある牧師は、この聖書の言葉についてこう言います。
「さすが悪魔は偽りの主人だ。富や権力の所有者は神であって、神が祝福として繁栄を与えるのであって、 まるで自分が富や権力の所有者であるかのように嘘を言っている。」


しかし、ここでは悪魔は本当のことを言っている。嘘はついていない。


現実を見れば、必ずしも有徳な人間が富や権力の祝福を得ているわけではありません。むしろ、人を人とも思わず、自分の成功のための足台や道具としか考えていない人間のほうが、「この世」では富や権力の恩恵を受けているように見える。


これは貧乏人の僻(ひが)みだと思われるでしょうか?
しかし、事実、真理や優しさや正義よりも、生き馬の目を抜くようなずる賢さや抜け目なさのほうが富が好む性格であることは間違いない。


権力者や独裁者に逆らって「真実」を告げる預言者やジャーナリストよりも、独裁者におべっかをつかい、独裁者を持ち上げて、太鼓をもち、靴をなめて、偽りに偽りを重ねたほうが、独裁者の恩顧を得て富と権力のおこぼれにあずかることができる。


「人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。」(ルカ福音書6:26)


マーティン・ルーサー・キング牧師のように、愛や真理や正義や公正、平等などのような気高い高尚な感情を人々に訴えた人間には暗殺の鉛玉が与えられ、憎悪や差別を煽り、人間の低劣な欲情や感情を釣り針にかけているインフルエンサーたちは巨万の富を得ているが、これでも現実における富や権力の分配が公正(?)な神の采配だとでも言うのでしょうか?


市場には多様な需要があり、そこに商品やサービスの供給をもたらす者に富は微笑みかける。たしかに、市場は社会を豊かにする。欲しいときに、欲しいものを、誰かがすかさず提供してくれる。貨幣が、この人間の需要と供給のサイクルを隙間なくつなぎ、高速に回転させる。かくして、巷(ちまた)に財やサービスが溢れ、社会はより豊かに便利になってゆく。


市場では、多くの需要に対して適切な供給をもたらし、痒いところに手が届くような便利な商品やサービスを提供する人々は賞賛され、多くの富を得ている。彼らは、多くの人々を喜ばせたのだから、感謝と賞賛と高額の報酬に値する。


しかし、市場は、人々の欲求や需要に対する道徳的な性質については関与しない。人間の欲求のなかには、道徳的に考えて満たされてはいけない欲求が存在する。それは、たとえば児童ポルノであったり、人身売買であったり、危険な麻薬だったりする。しかし、現実にはそのような欲求をもつ人々は少なからず存在するため、そうした需要に供給をもたらすことによって大儲けを狙う人々も存在する。


実際、そうした人間の欲情に仕え、応える人々は麻薬王やマフィアの幹部として巨万の富を得ている。末端の売人ですら、社会の人々の生活を土台から支えている清掃、小売り、運送、保育、介護、看護、福祉などの「堅気(かたぎ)」のエッセンシャルワーカーよりも多くの富を手にしている。これでもなお現実における富や権力の分配が公正(?)な神の采配だと考える人はいるのでしょうか?
もし、いるとしたら、そのような神は聖書に書かれているような神ではなく、むしろ聖書に「悪魔」として書かれているものでしょう。


市場それ自体は、需要と供給をめぐる道徳的善悪に関与しない。そうした事柄に関わるのは、市民社会の倫理的、宗教的、政治的な議論に裏づけられた「共通善」に基づく法による支配による。「神」が関わるのは、こうした「共通善」を養うところにおいてであって、市場ではない。


当然ながら、私たちが「おカネ」として使う紙幣や硬貨は大地からはえてくるのでも、天から降ってくるのでもありません。貨幣は、神が万人のために与えた大地の恵みや人間の自由を自分のために用益できる権利であって、神からくるのではなく、人間の間の契約に基づく。それゆえに、そこには、誰に、どれくらい支払うかについて恣意性がともなう。


社会的な合理性から考えれば、人々の生活を根底から支え、人が嫌がるようなキケン・キツイ・キタナイ仕事を引き受けてくれる労働者には手厚い待遇を保証すべきだが、現実はそうはなっていない。


議会に登庁するのは年間のうち数十日で、他の時間は何をしていても何も言われることのない議員の「センセイ」方は、日夜、正月もクリスマスも祝日も関係なく社会のインフラを支え続けているエッセンシャルワーカーの何倍、何十倍の年収を与えられているが、これらの合理性はどこからくるのか?


社会に不可欠な労働を提供するエッセンシャルワーカーの待遇が低いのは長い歴史があります。社会システムの問題もありますが、何より彼らの仕事は長らく「奴隷の仕事」として扱われてきました。古代ギリシャの時代から、高尚で価値のある仕事は政治、宗教、学問のような「見えない価値」を扱う仕事で、見える肉体の生活を支える仕事は「低級な」仕事として奴隷、あるいは「家庭」に閉じこめられた女性の仕事でした。


政治、宗教、学問のような目には見えない「高級な価値」を追求する人々がストレスなく仕事に専念することができているのは、何よりも彼らの肉体の生活を支えているエッセンシャルワーカーのおかげなのであって、それにもかかわらず経済的な報酬や社会的な尊敬を一方が独占し、他方には低賃金と下位カーストを見るような社会的差別が存在しているのは、決して公正な社会の在り方なのではない。私たちの社会は、3000年以上も続くこの悪をいまだに社会からも、私たちの頭のなかからも克服できていない。これでもなお現実における富や権力の分配が公正(?)な神の采配だと考える人はいるのでしょうか?


キング牧師は、清掃作業員の人々にこう言いました。
「私たちの社会がもし存続できるなら、いずれ、清掃作業員に敬意を払うようになるでしょう。考えてみれば、私たちが出すごみを集める人は、医者と同じくらい大切です。なぜなら、彼が仕事をしなければ、病気が蔓延するからです。どんな労働にも尊厳があります。」


日本において、いわゆる就職氷河期世代というのは、経済の不況時に団塊の世代の雇用とボーナスと退職金を守るために切り捨てられた世代です。そして、日本において非正規労働者というのは、経済の低迷期において正規労働者の安定した雇用を守るために、そのツケを全部押しつけられた立場です。正規労働者が優秀だから、雇用と安定した収入が守られているのではなく、正規労働者を守るためのコストをすべて非正規に押しつけているから、彼らの立場があるのです。それゆえ、最低賃金が上がって非正規労働者の待遇が少しずつよくなるにつれて、それでも正規労働者の終身雇用を維持しようとすれば、正規労働者の賃金は下がるか、現状に止めおかれて上昇することはない。私たちの安定や豊かさは、神の祝福でもなんでもなく、ただより弱い立場の人々に社会的なリスクやコストを押しつけることによって成り立っている。これでもなお現実における富や権力の分配が公正(?)な神の采配だと考える人はいるのでしょうか?


しかも、自らをクリスチャンと言っている人々のなかには、聖書に「あなたの富を貧しい人々に与えて、私に従え」(マタイ福音書10:21)と、再三イエスに戒められているにもかかわらず、聖書を利用して「この世」の現世利益を「神の摂理」と正当化してはばかることがない人がいる。


けれども、キリストに与えられた十字架刑が神による彼に対する正当な報酬であって、イエスを十字架へと追いやった宗教的、政治的権力の成功が、そのまま神の祝福であると考えるクリスチャンがいるのでしょうか?


「しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。 むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。 」(第一コリント2:6‐8)


したがって、「この世」に貧困や奴隷状態がある限り、「この世」での富や権力における成功は、神の前では常に「不正の富」であって、その「正しい」用い方は、「この世」の貧困や不正を正すべく、その富や権力を貧者のために用いることに他ならない。さすれば、最後の審判のときに貧者たちが神の前で弁護してくれるでしょう。なぜならば、繰り返し言うように、神の国に貧困など存在しないからです。


「イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。 (ルカ福音書16:1‐13)