無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

「信仰」についての誤解~区別または差別される求道者について~

キリスト教の教会には「求道者」と呼ばれる人々がいます。彼らは教会に通い、聖書を読み、キリスト教に関心があるが、いまだ洗礼を受けていない人々です。彼らをもクリスチャンに含める教会もあり、含めない教会もありますが、一般的には、洗礼を受けて正式にクリスチャンとして教会に属す前の準備段階にある人々です。


こうした受洗したクリスチャンと、未受洗の求道者という区別は、いつごろ発生したのかわかりません。少なくとも、聖書から由来する言葉ではありません。


「神の前では万民は平等」と言いつつ、こうした区別を採用するのは、どういった根拠からでしょうか? 教会によっては聖餐式に参加できるのは、洗礼を受けた教会員のみである場合もあります。率直に考えて、「これは矛盾ではないか?」と考えるのは当然です。


社会のなかの他のコミュニティでは、参加に必要な決断の意志表示や、コミュニティを支えるメンバーになるための資格の証明によって正規のメンバーと准メンバーに分けられることもあるでしょう。とりわけ、宗教によっては、出家をしている身か、あるいは在家でも戒律をまもっているかによって「聖」と「俗」とに分けられることもあります。これらは、個人がもつ生まれによる身分や、個人が訓練や修行によって勝ち取った徳と能力によって分けられます。だから、キリスト教に馴染みのない人々が「求道者」として、受洗したクリスチャンと区別されても、「そういう世界なのだろう…」としか思わないかもしれません。


しかし、キリスト教では、歴史的に見ても、こうした身分によるヒエラルキーや、能力による功績主義を否定しながら現在に至っているはずです。パウロの律法主義への批判しかり、アウグスティヌスのペラギウス派との論争しかり、ルターによる宗教改革しかり。


キリスト教では、身分や能力のような、私たちが「持つもの」によってクリスチャンになるのではなく、私たちが「持たないもの」によってクリスチャンになるのです。それは、どこのプロテスタントの教会においても叫ばれるように「神の恵みによってのみ。信仰によってのみ」救われるはずです。人をクリスチャンにさせ、救いに至らせるのは、神のキリストにおける一方的な恵みと、その力であって、人はそれが及ぶ器にすぎません。


「「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 」(第二コリント2:4‐7)


「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 」(第一コリント4:7)


それなのに、なぜ受洗者と求道者のような区別が必要なのか? 「もらっている者」と「もらっていない者」の区別ということでしょうか? それとも、神の恵みを受け入れる「決断」をした人の「功績」と、そうでない迷っている人の間の「区別」ということでしょうか?


そうだとすれば、問題の本質はこの「決断」ということにあるのです。そして、これは「信仰」をめぐる誤解にもとづくのです。


どんな言語でもそうであるように、言葉の意味はひとつではなく、文脈によって複数の意味をもつことがあります。「信仰」と訳されるギリシャ語のピスティスは、宗教的な信仰を意味するだけでなく、人格的な「信頼」を意味する場合も、相手に対する誠実さとしての「信実」を意味する場合もあります。


そして、聖書において「人は、神のピスティス(信仰、信頼、信実)によって救われる」とあるとき、神から人間へのピスティス(信実)を意味するのか、それとも人間から神へのピスティス(信仰、信頼)を意味するのか、はっきりと分けることはできないのです。文脈によって、どっちともとれる内容となっているのです。


そこで、神学者カール・バルトは、神からのピスティスと、人間からのピスティスは1枚のコインの表と裏のような関係として「応答的信実」と呼びました。神のキリストにおける恵みと愛というピスティス(信実)が人のピスティス(信仰、信頼)をつくりだして救いあげる、ということです。旧約聖書において、十戒を信じる根拠が、前文の「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」(申命記5:6)という神の「信実」であったようにです。信実のないところに信頼はないように、神のピスティス(信実)のあるところに、人のピスティス(信仰、信頼)もあるということです。宙に向けて足を踏み出す人がいないように、人がピスティス(信頼)して歩みだすところには、「道」という神のピスティス(信実)もある、ということです。


それは、最近の聖書の翻訳にもあらわれています。

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰(ピスティス)に始まり信仰(ピスティス)に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。 」(ローマ 1:17 口語訳 1954)

「神の義が、福音の内に、真実(ピスティス)により信仰(ピスティス)へと啓示されているからです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(同上 聖書協会共同訳 2018)


パウロが手紙を書いていたときには、相手との関係において、ピスティスと書けば何を意味するのか説明しなくても相手に通じたのでしょう。しかし、現代において、すでにこの世にパウロがいない以上、文脈のなかでピスティスが何を意味するのか、パウロに聞くことはできません。ましてや2000年前に書かれたものです。聖書においてパウロが意図していたことを正確に知ることは不可能です。


なので、ルターが聖書の翻訳を手がけて以来、ピスティスとくれば「信仰」と訳すのが通例となっていました。しかし、ルターにとっては、神の恵みに対する人間の受動性を強調したかった「信仰」という言葉も、ルターの意図とは逆に、人間の「信仰心」によって救いを獲得していくような積極的なものとして誤解されてしまいました。


結果、外的な律法主義や行為主義を否定して神の恵みのみによる救いを強調しようとした「信仰」という言葉が、クリスチャンの間で信仰心や決心・決断というような内的な行為主義、律法主義として定着してしまいました。人がクリスチャンとなり、救われるのは、神の恵みに対して「疑わないで、身を投げだす」ような積極的な心の状態・態度という内的な「行為」によるものだと誤解されたのです。


外的であれ、内的であれ、行為主義や能力主義がもたらすものは同じです。心の積極さが敬虔な信仰という「功績」として評価され、決断した者と迷う者、積極的な者と消極的な者、熱い者と冷めた者、敬虔な者と不信心な者との間に差別や序列がもちこまれます。クリスチャンの間で「わたしはいつも神さまとイエスさまのことを考えてるの♡ 。あなたはどれだけ神さまとイエスさまのことを考えてるの?」みたいなマウントのとりあいがおこります。また、ひとたび洗礼を受けてクリスチャンになるという「決断」をしたからには、その後、迷ったり、疑ったり、つまずいて座りこんでしまったり、放蕩に身を崩して信仰を失ったりすることは「堕落」として、神に見捨てられたことのしるしとして、自分にも他者にも絶望して責め苛むことになります。こうして、一方では自分で救いを勝ち取ったかのような傲慢があり、他方では永遠に救われることがないかのような絶望が教会に蔓延することになる。神の前で献身を誓ったはずの「聖徒」の間で、彼らが乗り越えたはずの「この世」の矛盾、序列、差別、排除、傲慢、絶望、虐待、ハラスメントが、そのまま再現されることになるのです。


「受洗者と求道者の違いは差別ではなく、区別だ。区別は必要だ」と、ある人は言うでしょう。しかし、差別か区別かは分けられた側が判断することであって、分ける側が判断することではありません。たしかに、キリスト教に関わりはじめた多くの初信者は「郷に入れば郷に従えと言うし、私は多くの学ぶべきことがあるのだから、求道者として分けられてもさしつかえない」と言ってくれるかもしれません。しかし、それでも問題は残る。


キリスト教は、何よりも人間の罪に対して目を開いていなければならない宗教です。たとえ、便宜的に分けられた区別だとしても、私たちの内にある罪は「区別」を餌さにして、そこに序列をもちこみ「差別」に変えて、自分のコンプレックスの埋めあわせをしようとします。日本人と外国人の区別、人種の区別、性の区別、その他あらゆる区別にあれこれと理屈をつけて序列をもちこみ、差別に変えて自分より劣位の属性をつくりだすことによって、劣等感を誤魔化そうとします。クリスチャンだからといって、そうした罪と無縁なわけではありません。むしろ、クリスチャンであるならば、そうした「罪」の現実を理解して、わざわざ罪に餌さをくべるような区別をもうけることを避けるべきではないでしょうか? 社会の他の組織ならともかく、神の教会においては、そのような人間の罪の現実に楽観的であることはできません。 たとえ、それが何百年と続く伝統だとしても、若い男女の性に目くじらをたてるほどには、こうしたことを問題にしないのは、やはり教会の怠慢だと思う。「信徒をつまずかせるくらいなら私は肉を食わない」(第一コリント8:8‐13)と言ったパウロの心意気はどこにあるのでしょう? 肉を食うか、食わないかは今は問題になりません。伝統であれ、慣習であれ教会にとって好ましいことが小さき人々のつまずきになるならば、教会は愛によって歩んでいることにはならない、ということです。


「洗礼」は、決断でもなければ、クリスチャンになるための通過儀礼なのではありません。とりわけ個人の意志を強調されがちなプロテスタントですが、その初期の指導者であったルターとカルヴァンでさえ幼児洗礼を否定しなかったことは心にとめておきましょう。また、パウロがいた頃の原始教会においても、おそらく洗礼を受けずに亡くなった人、クリスチャンになる前に亡くなった人のために代わりに洗礼を受ける慣習があり、パウロもそれを受け入れていたことを心にとめておきましょう。


「そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。」 (第一コリント15:29)


「洗礼」は、祈りのようなものであって、聖(きよ)さや罪の克服を証明するものではなく、受洗する人の体と心と魂がこれからも神の前で護られますように、と祈るものです。だから、意志なんてない幼児のときに洗礼を受けたとしても成人してから回心のたびに洗礼を受けなおす必要はないのです。


神のキリストにおける恵みは、「決断」以前の幼児のときも、「決断」した後に躓き、迷い、疑い、神を捨て、見失い、信仰を捨てるときも、あるいは「決断」することもなく、この世を去るときも(第一ペテロ3:18‐21)、いつまでも我々と共にある。この「インマヌエル(我々と共にいます神 マタイ福音書1:23)」であるキリストにおける神の恵みこそ、私たちを救う神のピスティス(信実)。私たちはこのピスティス(信仰、信頼)によって救われる。


「足跡」という、美しい詩があります。

足跡(FOOTPRINTS)

ある人が、夜、夢を見た。

主と共に海辺を歩いている夢を。

彼の人生のさまざまのシーンが空を横切った。

それぞれの場面に応じて、砂の上にふたりの足跡があった。

ひとつは彼のもので、もうひとつは主の足跡だった。

彼の人生の最後のシーンが映し出されたとき、彼は砂の上の足跡を振り返った。

彼の人生航路にそって、しばしばたったひとりの足跡しかないのに気がついた。

しかもそれは、彼の人生で最も落胆し、最も辛い時期だった。

彼は当惑して主に尋ねた。

「主よ、私があなたにお従いすると決心したとき、いつも共に歩んでくださるといわれたではありませんか。

それなのに、私の人生で最も苦しかったときには、たったひとりの足跡しかないのです。

私には理解できません。私が最もあなたを必要としていたときに、どうして私をお見捨てになったのかということを」。

主は答えて言われた。

「私の大事な大事な子よ、私はあなたを愛しており、決してあなたを見捨てることはありません。あなたが試みと苦難の中にあったとき、あなたがたったひとりの足跡しか認めなかったとき、それは、私があなたを背負って歩いたときだったのです」。

マーガレット・F・パワーズ (山形謙二 訳)


神のキリストにおける恵みは、私たちが幼くて立って歩けないときも、また私たちがつまずいて倒れてしまい、座りこんで歩めないときも、変わらずに我々を背負い、我々と共にある。これが、神のピスティス(信実)。だから、自分についても、他者についても何も判断してはならない。私たちが「もう、私はダメだ…、もう、あの人はダメだ…」と思いたくなる、その場所で、神は彼を立たせられる。これを信じることが神へのピスティス(信仰、信頼)。


「神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。 聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。 だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。 そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。 ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。 もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、 かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。 神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。 それは、ホセアの書でも言われているとおりである、「わたしは、わたしの民でない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。 あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。 また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「たとい、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。 主は、御言をきびしくまたすみやかに、地上になしとげられるであろう」。 さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったなら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。 では、わたしたちはなんと言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、さまたげの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終ることがない」と書いてあるとおりである。」(ローマ9:15‐33)