「原罪」というのは、人間は産まれつき悪を内包しており、自分の意志に関わらず罪を犯すことから逃れられない存在だという意味です。
もちろん、ここでいうところの「罪」とは、政治的な法に関わる罪ではなく、宗教的、倫理的な罪のことです。
人間には「自由意志」があるといわれます。それは、善か悪かのどちらかを葛藤のなかで選ぶことのできる自由です。しかし、原罪の教説によれば、人間の自由意志は善を選ぶときにも悪に引きずられる意志であって、善を選ぶときですら、自分のエゴの支配下にあるという意味で自由ではない。ルターは「人間の自由意志は、罪の支配下にあるので自由ではなく、むしろ奴隷意志だ」と言いました。
私たちは善意によって善を行います。しかし、善を行ったにもかかわらず、期待した反応や感謝がなければイライラしたり、不満を感じたりします。その場合、善は人のためではありますが、同時に自分の夢や理想などの自己実現のための道具でもあります。他者を、自分がヒーローになるための脚本の配役として見ているのです。なので、他者が自分の期待どうりに応じてくれなければ、善意はすぐさま憎しみに変わります。
かつて、カトリックによる世界宣教が列強による植民地化の布石だったように、「あなたのためなんだよ!」という善意は、時として他者を自分の影響下、管理下、支配下におくための「権力への意志(ニーチェ)」がつける仮面にすぎないこともあるのです。
しばしば歴史上でキリスト教が犯してきた様々な悪を挙げてキリスト教の欠陥を指摘する人がいます。しかし、キリスト教の立場からいえば、これはキリスト教の欠陥どころか、キリスト教の主張する「原罪」説の正しさを証明するものでしかありません。
キリスト教は、洗礼を受けてクリスチャンになったら聖人君子になれるとは主張しないからです。洗礼を受けても、神の介入がなければ、私たちの罪や悪はそのまま残っている。ただ、そのような如何ともしがたい自分の罪や悪を直視して自覚的になれるかどうかの違いです。
歴史上、キリスト教が「最凶」の宗教であったのは、まさに「最強」の国家によって担がれてきたからでした。
人間も動物も幼いときは人畜無害な存在です。しかし、成長して力や知恵がつき、爪や牙が発達するにつれて獣性があらわになってきます。強くなればなるほど自己の保存と拡大のためにありとあらゆるものを利用し、取り込んでゆきます。
個人も国家も、自己の保存と拡大のために利用できるとなれば、どんな宗教でも利用します。人心を掌握するために、民衆が信じている宗教がキリスト教ならばキリスト教を、イスラム教ならイスラム教を、仏教なら仏教を利用します。エゴイストにとっては宗教の発するメッセージなど関心がありません。彼が関心があるのは自己の保存と拡大のための利用価値のみです。
「多神教である日本の神道は一神教にくらべて寛容」と言う人がいますが、戦時中においては神道は現人神(あらひとがみ)である天皇を中心と頂点とする統治という「一神教モドキ」の体制をしいたことを忘れてはいけません。
どんなに聖(きよ)いものとして創造された万物も、人間の罪が触れればたちまち最凶最悪のものに変わります。万物が汚れているのではなく、人間の心からあらゆるものを汚す罪がでてくる(マタイ福音書15:10‐21)と聖書にあるとうりです。
「原罪」というのもともとは「私は善を思いつつ、悪を行ってしまう…(ローマ7:14‐)」というローマ書に書かれているパウロの告白がはじめでした。
「原罪」の理解がどうであれ、身近な人間の営みを見ても、人間の歴史を見ても、悪を行うつもりで悪を行う人は稀で、たいがい成される悪は「善」、「平和」、「救済」の大義名分のもとで成される。
人は「社会ために!」、「お国のために!」、「神さまのために!」と叫びながら様々な排除、差別、略奪、虐殺を行う。ネットニュースのコメント欄からカルト宗教や市民運動にいたるまで、その悪は常に美しいスローガンで装飾されている。
カトリックの思想家だったブレーズ・パスカルはこう言いました。
「人は天使でもなければ獣でもない。しかし、天使になろうとすると獣になってしまう」
天使にでもなったつもりで、人を裁いたりしていた人が、ふと鏡をみると、そこにはケタケタと笑う悪魔の姿が映っていた…というような寓話はどこにでもあります。
なぜ人間はこんなにも平和な世界を望んでいるのに、社会も世界も変わらないのでしょう?
19世紀のヨーロッパでは、進化論の影響もあって、いずれ人間は進化して、発達する科学技術の力を使って貧困も争いもない理想の社会を実現するだろう、と信じられておりました。そのときには、天国はこの地上に実現するのだから、神もキリスト教も必要なくなるだろう。人間が神になるだろう…と。
ところが、歴史が示すとうり、進化したはずのヨーロッパがもたらしたのは、2度の世界大戦と、何回でも人類を絶滅させるに足る核兵器の恐怖でした。
この世界大戦の過ちを反省したヨーロッパは、国家エゴイズムを脱してEU (ヨーロッパ連合)をつくりました。しかし、今、再び移民・難民問題をきっかけに分裂の危機に直面しています。「自国ファースト」という露骨な国家エゴイズムが復活しつつあります。進化しているはずの人間の文明は、再び中世に戻りつつあるのです。
聖書におけるバベルの塔の寓話(創世記11:1‐9)が示すように、神に近づくために互いに一致しようとすると、言葉(心や思想)が乱れてちりぢりに分裂してゆく。なぜ、人間はこうなのでしょう? 「わたしはなんと惨めな人間なのだろう。だれがわたしを救ってくれるのだろう」とパウロが告白するとうりです。
再びパスカルの言葉を引用しましょう。
「2種類の人間しかいない。自分を罪人と認める義人と、自分を義人と見なす罪人と。」
「原罪」から無縁の人はいません。キリスト教徒もそうでないひとも。クリスチャンとは、キリストの光に照らされて自分の罪と悪に向き合いはじめた「悔い改める罪人」にすぎません。それは神によって砕かれ、小さくされた幼子です。
闇のなかでは、自分の体の汚れは見えません。ただ、光のなかでのみ自分の罪と悪を自覚することができます。そして、光のなかにある人のみが悪を悪とし、善を善とすることができます。
「迷える子羊」といわれるように、闇とは悪を善とし、善を悪として全く真逆の道を歩むことです。自分が正しいと信じて疑わないときこそ、人間は最も邪悪であるように、光に照らされるまで、私たちは「自分が何をしているのかわからないでいる(ルカ福音書23:34)」のです。
「そこでイエスは彼らに言われた、『もうしばらくの間、光はあなたがたと一緒にここにある。光がある間に歩いて、やみに追いつかれないようにしなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこへ行くのかわかっていない。 光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい』。」(ヨハネ福音書12:35‐36)
「わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。」(ヨハネ福音書12:46)