無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

三位一体

三位一体というのは、唯一の神には父、子、聖霊の3つの位格(ペルソナ)があるというキリスト教の教理です。


神は3つだが1つというこの考え方は、しばしば「キリスト教多神教ではないか?」という疑念をもたれてきました。


今でもユダヤ教イスラム教からは多神教として否定されています。キリスト教のなかですら、しばしば「信仰によって理解できる神秘」として曖昧なままにされてきました。


三位一体とは何でしょうか? なぜキリスト教にとって三位一体は大切なのでしょうか?


結論からいえば、三位一体はキリスト教の本質であって、これを欠いてはキリスト教ではありません。三位一体は、唯一の神が全能であり、かつ愛(アガペ)であることからくる必然的な帰結だからです。


三位一体は、神と人との間の距離を超え、肉体に隔てられた人と人との間の距離を越えて人間を救う神の愛(アガペ)の在り方です。


見られもせず、知られることもできない神と人との間の無限の距離を越えて人となられ、父なる神を啓示し、人間を救うため人としての苦しみを受けられた子なる神(ピリピ2・6‐10)。


しかし、この子なる神は人であるがゆえに、肉体を持つ。人と人は肉体によって隔てられているがゆえに、心を相手に完全に伝えることはできない。ゆえに子なる神は誤解されて十字架につけられねばならなかった。


そして、この肉体の壁を越えて、人としてのナザレのイエスが子なる神であること、彼による神の真理を心の隅まで理解させ、人を内側から新たにさせる「助け手」としての聖霊なる神(ヨハネ福音書14・25‐26、15・26)。


聖霊は、歴史上で30数年の時間をイスラエルの狭い土地で生き、活動したナザレのイエスという一人物がすべての時代、すべての世界において人間を救う神の真理であるということを人に理解させる神。


この聖霊によって、歴史の波に泡のごとく消えた人としてのナザレのイエスが子なる神として時間と空間を越えて私たちのなかで生き、永遠に生きつづける。


唯一の神の3つの在り方は、受け入れ難いものを受け入れ、一致し難いものを一致させる神の愛(アガペ)の在り方。時間と空間を越え、人の心の深みまで余すところなく人間を全的に救おうとした唯一なる神の愛(アガペ)の現れ。


したがって、神は愛(アガペ)であるがゆえに三位一体であり、三位一体であるがゆえに神は愛(アガペ)である。


肉体をとって来られた子なる神がなければ、見えない神と人との距離のゆえに救いは届かず、聖霊なる神がなければ、人となられた神との肉体の壁に遮られて救いは心に届かない。人間への神の救いは神が三位一体であることによって完成する。