無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

クリスチャンの誤解~神に近づく~

多くのクリスチャンが誤解していると思うのは、人が神に近づくのはプラスによってではなく、むしろマイナスによってだということです。


プラスによって神に近づくこと、それは教会に通い、礼拝を行い、聖書をたくさん読み、たくさん祈り、慈善活動をたくさんすること、すなわち「敬虔な生活」の積み重ねによる「功績」によって神に近づくのだ、ということ。


しかし、聖書が訴えるのは、人がどんな敬虔で聖なる生活によって神に近づこうとしても、それは人間の営みであるかぎり神ではなく偶像であり、神の国ではなくこの世であり、自分たちの力で神になろうとするバベルの塔にすぎないのだ、ということです。


では何によって人は神に近づくのでしょうか? それはマイナスによって。すなわち、私たちが壁にぶつかって挫折するとき、神によって砕かれて無になるとき、そのとき空っぽになった私たちにはじめてキリストにおける神の国が来る。


私たち人間の実情は、まず「この実を食え。あなたは神のようになるだろう」という原初からの悪魔の誘惑があります。にもかかわらず、私たちは人間であって、天まで掴まんとする高慢にもかかわらず神にはなれないという厳とした事実がある。


こうして、私たちは神になろうとして、神を得ようとして偶像を建て、天を掴まんとしてバベルの塔を建てるのですが、それは必ず挫折し、砕かれるべく定められている。神の国は、それらの瓦礫なかから建てられ、空っぽになり無となった私たちにキリストが来て、キリストが私たちを生きる。神の国はこのように来る。パウロが「生きているのは、私ではない。私によってキリストが生きている」(ガラテヤ2・20)と言うとうりです。


神の国が来る前に「悔い改めて福音を信ぜよ」という「否定」の宣告が先に来る。私たちが私たちのままで、この世がこの世のままでは神の国は来ることができない。神の国が来ても私たちは十字架にはりつける。そして、私たちが砕かれて無になるとき、神の国は罪の許しとして、慰めとして、私たちを復活させるものとして、喜ばしい報せとして復活し、私たちを生きる。神の国はこのように来る。


「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。」詩篇51篇


神に義とされるのは、「私は断食もしている。献金もしている。戒律を守っている…」と祈るパリサイ人ではなく、「罪人の私をお許しください…」と祈る取税人です。(ルカ18・9‐14)


神の国は、神によって高慢を砕かれて、幼子のようにされた人々のもの(マルコ10・13‐16)。人間である限り、誰しも全能ではなく限界をもっている。誰しも全てを望みつつも砕かれながら生きている。そのゆえに、神の国は全ての人のもの。善人にも悪人にも乾いた大地に雨の降るごとく、神の国が「恵み」であるというのは、このような意味です(マタイ5・45)。


だから、神もキリストも教会も全ては砕かれた人々のもの。どんな敬虔な意図であれ、偶像を建て、バベルの塔を建てつつ砕かれずにいる人々のものではありません。神がキリストにおいて全ての砕かれた人々と共にしたように、神によって砕かれて、キリストにおいて復活させられた人として、クリスチャンはすべての砕かれた人々と共にしなければならない。


政治的、経済的、宗教的指導者に神を求めたのに、彼らが自分と同じくエゴイスティックな人間であり、偶像にすぎないことを明らかにされて希望が砕かれた人々。結婚相手や恋人に神や女神を求めたのに、彼らが自分と同じくエゴイスティックな人間であり、偶像にすぎないことを明らかにされて希望が砕かれた人々。神の国は彼らのもの。クリスチャンは、彼らと共にするべく召されている。「幸い。貧しい人、今泣く人。神の国は彼らのもの。」(ルカ6・20‐21)と聖書にあるとうりです。