無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

召命(calling)〜貧困、幸福、そして人生の意味について〜

社会学者のエミール・デュルケムの著作に「自殺論」という本があります。


自殺というのは、社会の衰退期に増えるというのは常識ですが、実際は社会の上昇期にも増える。デュルケムは、この際の自殺を「アノミー型自殺」と呼びました。「アノミー」というのは、無規制という意味です。


たとえば、私たちはビル・ゲイツジェフ・ベゾスのようなスーパーリッチ(超富裕層)には嫉妬しない。なぜなら、彼らは雲の上の存在であって、千回生まれ変わっても、彼らと同じ立場になれるとは思えないから。


しかし、身近な公務員や正社員が自分よりも2倍、3倍の年収を得ていることがわかるとモヤモヤする。それは、そのような立場が人生の選択肢によっては自分にもありえたかもしれない立場だから。


人は、自分の手が届くことがないと自覚している「高嶺の花」については欲望をもたない。しかし、それが「手が届くかもしれない!」という可能性が生まれるやいなや一気に欲望がわいてくる。と同時に、手に入らなかったときの失望感や喪失感、無力感、欠乏感、悔しさ、惨めさ、自己否定、手に入れた人に対する嫉妬といった「負」の感情もわいてくる。


したがって、人々にあらゆる可能性がひらかれ、あらゆる欲望がかきたたせられる社会の開放期・繁栄期・上昇期においてこそ、逆に人々が心理的に非常に不安定になり、自殺も増える。


だから、社会の変化が乏しい閉鎖的な社会や、階級が固定した前近代的な社会では、経済的には貧しいのだが、逆に心理的には安定している。貴族と貧民の間には決定的な格差があり、貧民の生活は貧しいのだが、貧民が貴族を羨んだところで、自分たちが貴族になれる可能性はないのだから、「貴族には貴族の幸せがあり、俺たちには俺たちの幸せがあらぁな!」と言って、心理的には自足している。しかし、社会が自由化され、貧民も努力次第では貴族の生活が手に入る可能性が生まれるやいなや、一気に豊かな生活への欲望がわいてくる。と同時に貧民である自分たちの境遇への惨めさの感情と、「努力しないから貧しいのだ!」という社会的レッテルによる劣等感もうまれる。


ひと昔前、貧しいけれども幸福な国としてブータンが紹介されていました。彼らの優れた文化的な霊性もあるでしょうが、ひとりが貧しいのではなく、みんなが貧しいので、助けあいがあり、貧しさへの共同体的な連帯や共感もある。もちろん、結婚して家庭をもつこともできる。一人よりも二人でいたほうが生活は楽になるから。お金がないから結婚しないという考えは彼らにはない。お金がないからこそ結婚して、子供を産む。彼らはどんなに貧しくても孤独ではない。それが彼らの幸福を支えている。


日本の貧困層が悲惨なのは、日本にスラムがないからです。外国では、貧困層はスラムでかたまって暮らしているのに対し、日本の貧困層はバラバラに孤立している。それというのも、日本では、もともと一億総中流で誰もがそれなりに豊かな時代から、雨漏りするようにポツポツと個別に貧困層へと転落しているからです。したがって、日本の貧者は常に隠れており、目立たず、孤独のなかにある。そうであるがゆえに、彼が隣りの人を見れば、自分と同じ年齢で同じような出自の人間が、かわいい奥さんと子供に囲まれ、綺麗なマイホームとマイカーを持って生活しているのを見、テレビやネットをひらけば芸能人やユーチューバーがセレブな生活を見せつけてくれる。それにくらべて、自分は何畳一間のボロアパートでひとりぼっちで見切り品のパンをかじっている…。それで、「俺の人生は何なんだ!」となる。孤立しているので、誰にも相談できず、共感もなさそうに思えるので、自分の貧しい境遇が社会のせいではなく、自分自身の人間性の欠陥によるものであるかのように思えてくる。かくして、さらに鬱屈した感情と孤立感やコンプレックス、自分の存在や世界の存在が無価値で意味のないような虚無感を蓄積してゆくことになる。


最もよい解決策は、貧者同士が連帯し、共感しあうことができるコミュニティをつくることでしょう。一人でいるより大勢でいたほうが、心理的にも生活においても互いのケアになるし、ひとつの社会的な階級になれば政治に働きかけて境遇を改善する機会にもなる。しかし、コンプレックスによって人間不信の塊になっている貧者は、言葉や行動のひとつひとつにトゲがでてきてしまうので、人間関係のトラブルになって共同体的な生活が難しい場合もある。ちょうど右腕のない人が、五体満足の人々に対して、「俺の気持ちをわからせてやるために、お前ら全員の右腕を切ってやる!」と考えるようなものです。しかし、左腕がない人を見つけて、「君は左腕がないのかい? 僕は右腕はないが左腕はある。僕が君の左腕になろう。君は僕の右腕になってくれないか?」という考え方や生き方もありえるのです。


「幸せ」であるとは、他者から「あなたが必要だ。あなたがいてくれなければならない。あなたでなければならない」とオンリーワンな存在として「呼びかけられる」ことです。また、同じことですが、「私がやらなければならない。私でなければならない。私以外にいない」と、自己をオンリーワンな存在として、生きる意味と存在価値を見いだすことです。ちょうど、聖書の「善きサマリヤ人の譬え」(ルカ福音書10:25‐37)において、あるサマリヤ人が、道端で半死の状態で倒れている人にたいして、「もし、私がこの場を通り過ぎたら、この人はどうなってしまうだろう? 私でなければならない!私が立ち止まらなければならない!」と自分に問いかけるように。


「あなたが、ここで通りすぎてしまったら、この人は、この国は、この社会はどうなる? あなたが立ち止まらなければならない! あなたしかいない!」


神の声としてであれ、良心の声としてであれ、このような「超越者」の声を聞くとき、自己の存在が、ただ偶然的に存在しているのではなく、意味と目的をもった、必然性をもって創造された存在として、取り替え不可能な「使命」を帯びた存在として「召命」されていることを理解する。


「そうか! 私は、この時のために、このことのために、この人のために生きるために生まれたのかもしれない。私の今までの人生の痛みや苦しみや涙は、この瞬間のためにあったのかもしれない。今、私は呼びかける者に応じるために投げられた。私はこのための道具であって、的(まと)に当てるために投げられたのだ。たとえ、私が壁にぶつかって砕けることになろうとも、私を投げた存在の御心のとうりに的を射ることができたならば、私にとっては本望だ。」


聖書において、使徒パウロ預言者エレミヤが「私が産まれる前から、私がこのような使徒預言者となるべく神によって定められていた」(エレミヤ書1:4-10、ガラテヤ1:15)と語るとき、運命や神の予定のような宗教的な世界観を語っているのではなく、「超越者」の呼びかけを聞いた者の「私は他のようではありえない。私はこれ以外の在り方はできない。私しかいない。私がやらなければならない。私はこのために創られたのだ!」といった「召命」による自己の唯一性を語ったものでした。誰でも、「召命」の声を聞いた者は、自己が意味と目的を持って創られた唯一の存在であることを理解する。


五体満足で健康であることや、資産の豊かさだけで人は幸福であるのではない。健康や資産があれば、神のように自由であることができるかもしれない。しかし、人は自由であることにも飽きるし、神の真似事にも飽きる。健康な体と尽きることのない金(カネ)で、全世界の美味と呼ばれるものを食べ、飲んで、美しいと称賛されているあらゆるものを観賞したとしても、たちまち日常の空白と虚無がやってくる。金(カネ)があれば、異性の愛も買える。しかし、彼が異性に求めているのは性的欲求の対象ではない。彼は、異性から自分を「汝(あなた)」として、オンリーワンなかけがえのない存在として「呼びかけ」てもらえるような関係を望んでいる。しかし、多くの場合、人は彼そのものを見ているのではなく、資産家である彼が所有している健康や金(カネ)を見て群れ集まってくる。彼は、自分を「汝(あなた)」と呼びかけてくれる関係を望んでいるのに、彼の周りに群れ集まってくるのは、彼の健康や金(カネ)による自由にぶらさがることを狙う人々であって、人々が彼を「あなた」と呼びかけるときにも、自身の野心のための道具として利用できる取り替え可能な「それ(モノ)」としか見ていない。かくして、多くの異性をはべらせる自由と力を持っているとしても、彼の渇きは満たされない。誰も彼を「汝(あなた)」と呼びかける者はいない。多くの人が彼に見ているのは、彼の健康や資産、肩書きなどの属性であって、彼は取り替え可能な「それ(もの)」でしかない。多くの資産と権力による自由にぶらさがることができるならば、別に彼でなくてもよい。したがって、彼から健康や資産が失われれば、彼の周りから誰もいなくなる。


多くの人は、自分が取り替え可能な道具である「それ(もの)」として他者から見られるのではなく、取り替え不可能な「汝(あなた)」として呼びかけられ、かけがえのないオンリーワンな存在として自己を見出しえることを願っている。資産家が、一生寝てても生活に困ることのない資産を所有しているにもかかわらず、社会に関わることをやめないのは、人がただ存在しているだけで幸福であるのではなく、自分が意味と目的をもった唯一な存在と感じるために、社会に影響力を与えることをやめることができないということを示している。「あなたはもう高齢だから、引退してゆっくりなさってください」という善意の言葉ですら、資産家は屈辱に感じる。それは、彼が影響力を行使する立場から降りてしまえば、彼自身には何もなくなってしまうことがわかるから。多くの資産があり、生活には何の不自由もなく、彼の周りには世話してくれる多くの人がいるとしても、誰も彼を彼自身として見てくれる人はいない。彼の周りの人々は、彼の資産のゆえに関わっているのであって、彼の家族ですらそうかもしれない。彼が影響力を行使する立場から降りてしまえば、自分自身が何もない、ただ存在しているだけの無意味で孤独な、死を待つだけの裸の老人であることを直視するのが恐ろしいのです。


人は、あらゆる他者を出し抜いてナンバーワンになれば、自分がオンリーワンな特別な存在になれるかと思って、特別な肩書きや、多くの資産を得るために奔走し、時には整形によって外見を変える。しかし、肩書きも資産も、外見の美しさも永遠ではないし、一時はナンバーワンになって、オンリーワンな存在として脚光を浴びても、次の瞬間にはナンバーツー、ナンバースリーへと転落し、人々にとって取り替え可能な「それ(もの)」として扱われる。そのとき、彼は、肩書きや資産や美しさで飾りたてていた下に隠されていた裸の自己を直視することに耐えられるだろうか?  他でもない、彼自身が、あらゆる属性をはぎ取った果ての裸の自己を嫌悪し、恐れているというのに。


聖書が教えるように、人はパンだけで生きるのではない(マタイ福音書4:4)。人は、パンへの飢えだけでなく、自己の存在の意味や価値への飢えを満たすために生きている。科学が教えるように、人間も他の生物と同じく、偶然な原子の集合であって、人間の誕生から死にいたるまでの一生は、水の上の泡が何の意味もなく偶然的にふくらんで弾けるまでの過程と本質的には変わらないのだろうか? そんな話しに人間は耐えられない。人間は、パンだけで生きているような動物と異なり、「超越者」の呼びかけに応じることによって、自己の意味と価値への飢えを満たしうる存在であって、過去の哲学者が主張してきたように、神の言葉によっても生きる「形而上学的」な存在です。


「その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」(ヨハネ福音書4:31‐34)


哲学者のジョン・スチュアート・ミルが、師であるベンサム功利主義を修正して「豚の幸福よりも悩めるソクラテス」と言ったように、豚のように、食べること、排泄すること、寝ること、生殖がとどこおりなく行われてさえいれば、人間は幸福であるのではない。多忙の時には、飼い猫のように、食べて、寝て、一日中ボーっとして過ごしたいと思うときもあるけれども、そのような安楽な生活も、しばらくしたら意味の空白と虚しさを感じるようになる。そのときには、多くの苦悩や痛みを引き受けても、世のため人のために生きるヒーローたちの生き様にあこがれる。道徳的な偉人たちのようにはなれないとしても、彼らのような「崇高」で「高級」な苦悩や痛みに、自分もいくばくか参与したいと願うようになる。これが「人間」であって、豚のように、ひたすら痛みや悩みを避けて、快楽だけを追求するような「低級」な生き方では、その「魂」は満たされない。


アウシュヴィッツ強制収容所からの生還者であるヴィクトール・フランクルは、収容所での生活における、生き続けることから何のよいことも期待できないその絶望的な状況のなかで、人生の意味についての問いを転換しなければならなかった。


「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを一八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」

(夜と霧 新版 ヴィクトール・E・フランクル池田香代子みすず書房


こうして、フランクルは、自殺願望を抱く人に呼びかける。


「このふたりの男たちは、ときおり自殺願望をくちにするようになっていた。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と、前に挙げた典型的ないい方をしたのだ。しかしこのふたりには、生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある、ということを伝えることに成功した。事実ひとりには、外国で父親の帰りを待つ、目に入れても痛くないほど愛している子供がいた。もうひとりを待っていたのは、人ではなく、仕事だった。彼は研究者で、あるテーマの本を数巻上梓していたが、まだ完結していなかった。この仕事が彼を待ちわびていたのだ。彼はこの仕事にとって余人に代えがたい存在だった。先のひとりが子供の愛にとってかけがえがないのと同じように、彼もまたかけがえがなかった。ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造だけでなく、他の人やその愛にも言えるのだ。このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」

(同上)


では、何の才能もなく、誰も彼を待つ人のいない平凡で孤独な人間は、人生から何も期待されていないということだろうか?


もちろん、そうではない。たとえ、体に障害があり、一生涯を病室で過ごさなければならないとしても、その存在と言葉において、彼には世界に向けて語るべき真理がある。世界には、彼の在り方や言葉によって、目が啓(ひら)かれ、勇気づけられ、励まされる多くの人が存在する。世界は、彼の言葉を待つ。そして、彼をそのような境遇においた神もまた、彼がその生において啓示された真理を、彼が世界に向けて語り、行うことを待っている。神は、彼の存在において、彼を世界に向けて投げられる。彼は、そのような不幸な境遇において、彼から人並みの幸福を得る機会を奪った神を呪うかもしれない。しかし、それでも、神は、彼を世の人々の目には隠されている「新しい天と地」(ヨハネの黙示録21:1-4)を啓示する器として、彼を「地の塩、世の光」(マタイ福音書5:13-16)として用いられる。「この世」は、彼によって啓示された真理によって清められる。


『大きなことを成し遂げる為に、 強さを求めたのに 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった

偉大なことをできるようにと 健康を求めたのに より良きことをするようにと病気を賜った 

幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 

世の人々の賞賛を得ようと 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった 

人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに あらゆるものを慈しむために 人生を賜った 

求めたものは一つとして与えられなかったが 願いは全て聞き届けられた 私は もっとも豊かに祝福されたのだ 

作者不詳の詩(南北戦争で負傷した南軍兵士の祈りとされている)』


誰もあなたに呼びかける者がなくとも、神が「汝(あなた)」に呼びかける。そして、神によって投げられた「汝(あなた)」を世界は待っている。神は「汝(あなた)」を用いられるでしょう。

 

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