無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

キリスト教パリサイ派

新約聖書において、神の国は婚宴や宴会などにたとえられます。それは喜びの時なのです。


「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ福音書11:28‐30)


「来たれ! 来たれ! あなたを休ませてあげよう!」キリストはすべての疲れた者、うちひしがれた者、砕かれた者を招かれる。貧しい者や体や心に障害を持つ者(ルカ福音書14:12‐24)、幼子(マルコ福音書9:13‐16)、罪人を招かれる(マタイ福音書9:9‐13)。異教徒や異邦人も招かれている。彼は「正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置く。」(マタイ福音書12:20‐21)


キリスト教パリサイ派というのは、新約聖書の恵みの福音(グッドニュース)を律法にかえて、それを守ることを自分にも他人にも要求する人々です。


彼らはキリストに近づこうとする幼子をひき止めてこう言います。「あなたは教会に通っていますか? 同性愛者ではありませんか? マスターベーションをしていませんか? 婚前性交をしていませんか? 聖(きよ)い人でなければ救われません」と。


キリスト教パリサイ派は、神の国が来て婚宴が開かれ、パーティーが始まって主人が人を招いているのに、勝手にハードルを上げて人を入らせないし、自分も入らない。人に負いきれない重荷を背負わせておいて、指一本触れない(マタイ福音書23:1‐36)。


婚宴の宴の席で断食を促す人はいません(マルコ福音書2:18‐22)。「今は喜びの時! 喜び、喜べ! 互いに分かちあい、そして、愛しあえ!」。断食を促し、悲しみの面持ちを要求する人々は、それによって宴の主人を知らず、招かれていないことを証明しています。


キリスト教パリサイ派が宗教警察、教会警察を買ってでなくても、神はこの世に対する支配を人の手にゆだねることはしません。クリスチャンが警察になり、監視しなくても、自己愛のエロースが虚しく、アガペーとしての愛が美しいことは世間も知っている。歌手に歌わせ、俳優に演じさせ、それを視聴して涙を流している。クリスチャンがでしゃばらなくとも、神の支配は人の罪を自由にしませんでした。アウグスティヌスが言うように、人はエロースの果ての虚無にたじろぐように創られている。放蕩息子の譬え(ルカ福音書15:11-32)にあるように、父なる神を捨てるエロースの自由は飢饉に瀕して父親のもとに帰るよう創造されている。神はすでに穂を実らせたもうた。クリスチャンに与えられた仕事は、ただ刈り入れることのみ(ヨハネ福音書4:35‐38)。


過去に5回の結婚を繰り返し、今も結婚外の愛人がいるサマリヤの井戸端の女に対し、イエスは「男をとっかえひっかえとケシカラン!地獄いきだ! 」と言わず、ただ「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」(ヨハネ福音書4:13‐14)と言いました。


エロースは、乾いたスポンジのように「愛して! 私を愛して!」と、あらゆるものを自分のために吸収しようとします。しかし、上から水を注がれている人は、自分から水が溢れでて他者をも満たしていきます。自分のためになにも求めず、ただ他者の平安を願う者は、自分のなかに上から注がれ続ける水と溢れるほど満たされた泉をもっていることを知っています。


フロイト以降の精神分析が示すように、無理に抑圧された欲望や感情は、時として病的な症状になってあらわれます。哲学者のスピノザが言うように、感情や欲望を制御できるのは、意志の力によってではなく、それよりももっと強力で肯定的な感情や欲望によってです。それは、私たちが仕事や趣味の楽しみに没頭しているときには、食欲や性欲などの欲求は二の次三の次になるのと同様です。


私たちには、日々よこしまな感情や欲望が生じます。しかし、だからといってそうした感情や欲望が現実化することは望みません。社会には暴力的な映画や漫画、ゲームがあり、性暴力やポルノの描写が氾濫しておりますが、そのようなフィクションの世界が現実化されそうになると誰もが嫌悪感を抱きます。私たちは自分の欲望のために他者を利用したいという思いを持ちつつも、何人たりとも道具として利用されるような奴隷化は許されないと思っています。哲学者のパスカルが言うように、私たちは獣にも天使にもなれないアンビヴァレンツな存在なのです。


私たちの罪を浄めるものは何でしょうか? それは精神力や意志力でもなければ、キリスト教パリサイ派による弟子訓練でもありません。私たちを招きたもうキリストにおける神の国の喜びこそ、私たちの罪を浄めるものです。幼子のようにキリストを慕い、神の国を求める者は、その心によってすでに多くの罪が許されている。聖書に「多く愛した者は多く許され、多く許されている者は多く愛する」(ルカ福音書7:36‐50)とあるとうりです。


乗り越えられない罪があるからといって恐れることはありません。あなたが受け入れたキリストにおける神の国の喜びが「一粒のからし種(マルコ4:30‐32)」として、誰かがあなたの上で羽を休めるような木になるまで、あなたのなかで大きくなるのです。