無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

「わたしの隣り人とは誰か」

「すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。」(ルカ福音書10:29)


キリスト教は一般的に隣人愛の宗教と呼ばれます。その意味で、社会で起こる貧困問題や悲劇に対して無関心ではいられません。


しかし、聖書にはこういう記述もあります。

「さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏(せっこう)のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣(の)べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。」(マタイ福音書26:6‐13)


これは、どういう意味でしょう? 結局、イエスという男も、普段は「貧しい人を助けよ」と言いながら、苦しくなったら「貧しい人よりも私を優先しろ」と言うような、わがままな「教祖」にすぎなかったのでしょうか?


それとも、どんな方法であれ、イエスに真心を捧げようとした一人の女を、衆目の無責任な視線や発言から擁護しようとした「優しさ」だったのでしょうか?


「善きサマリヤ人の譬え」(ルカ福音書10:25‐37)では、抽象的な貧者救済や弱者保護を説いたのではなく、「隣り人がいなくて困っている人の隣りに行って、自分から隣り人になれ」と説きました。


その観点から言えば、この時、この場において、最も「隣り人」を必要としていたのは、イエス自身だったのです。イエスは、翌々日には十字架に赴くことを知って煩悶しておりました。弟子の誰も理解できず、イエスの「隣り」に立つことができませんでした。ただ、一人の女だけが、イエスの「隣り」で、イエスの心の琴線に触れたのでした。


多くのクリスチャンは「隣人愛」と聞いて、スラム街や戦地や被災地のような「遠い」ところを思います。もちろん、そのような場所で苦しんでいる人も「隣り人」を求めている人々です。しかし、では「近く」では、そのような「隣り人」を求めている人はいないのでしょうか?


多くのクリスチャンは、イエスの弟子たちのように、「隣人愛だ! スラムへ行こう! 戦地へ行こう! 被災地へ行こう!」と「遠く」ばかりを見て、最も「近く」で「隣り人」を求めて煩悶している人を見過ごしているのではないでしょうか?


クリスチャンが隣人愛というスローガンのもとに「遠人愛」しか頭にないときに、すぐ「隣り」でナザレのイエスは誰にも理解されないままひとりで十字架を負うているのです。


では、ナザレのイエスとは誰でしょう? イエスは「あなたがたのうち、最も小さい者にしてくれたことは、すなわち私にしてくれたことなのである。」(マタイ福音書25:31-46)と言いました。


隣人愛よりも教会でキリストを礼拝することが大事という話しではありません。キリストは私たちのすぐ「隣り」で、最も小さくさせられた人々の姿で、鞭打たれ、十字架を負うて悶え苦しんでいるのです。


キリストに仕えるということは、彼らのために生きるということです。それは、ときにはあなたの親であったり妻や夫であったり、兄弟であるかもしれません。友人かもしれません。縁もゆかりもない誰かかもしれません。社会から軽蔑され、ハブかれている貧しい人かもしれません。または、教会で軽蔑されハブかれている信仰の兄弟かもしれません。いずれにせよ、私たちのすぐ「隣り」で「隣り人」を求めている全ての人々です。


「神は人となって、隣り人なき我々の隣りとなり、同伴者となった」


本当の隣人愛とは誰にも理解されず感謝されないものです。スラムや戦地や被災地へ行ってSNS で隣人愛を掲げれば、社会でも教会でも誰もが称賛してくれ、共感もしてくれるでしょう。寄付や支援をしてくれる人もいるかもしれません。


しかし、すぐ「隣り」で「隣り人」を求めているこれらの最も小さき人々のために生きることは、目立たず何の誉れもありません。むしろ、私的なことにかかずらっているとして社会や神のために働かない「非生産的」な市民やクリスチャンとして冷めた目で見られるかもしれません。


万民が同情する人々の「隣り」となることは美しいことです。しかし、「アイツらが酷い目にあっているのは自己責任だ。自業自得だ。」と呼ばれて軽蔑され、見捨てられている人々の「隣り」に立つことは共感も栄光もない、神だけがその義を知る孤独なゴルゴダへの道です。


ナザレのイエスは、そのような罪人として軽蔑され見捨てられた人たちの「隣り」となったので、「罪人」として十字架に架けられ殺されたのです。そして、インマヌエル(我々と共にいたもう神 マタイ福音書1:23)として復活して私たちの「隣り」にいるのです。