無教会キリスト教Blog~神なき者のための神、教会なき者のための教会~

無教会主義というのは教会不要論ではなく、建物なき教会、壁なき教会、儀式なき教会、聖職者なき教会です。内村鑑三によって提唱されました。それはイエス・キリストを信じ、従うという心のみによって成り立つ集まりです。 無教会主義は新約聖書のパウロによる「恵みのみ、信仰のみ」を徹底させたもの、ルターによる「万人祭司」を徹底させたもの。無教会主義の立場から、宗教としてはおさまりきらないキリスト教の社会的可能性、政治的可能性、 哲学的可能性を考えます。

ヒロシマ・ナガサキの原爆被害とキリシタン迫害

ヒロシマナガサキに落とされた原子爆弾は、戦争を早期終了させるための正しい選択だった。戦争が長引けばもっと多くの被害がでていた」という説を支持する人は、日本人のなかには、おそらくほとんどいないでしょう。


今でも戦勝国であるアメリカでは、数は少なくなったとはいえ、このような説を支持する人がいると聞きます。


しかし、最近、「日本における過去のキリスト教禁教令と、それに伴うキリシタン迫害は、外国人による日本の植民地化と日本人の奴隷売買を阻止するために正しい選択だった」とする主張を目にしたりします。専門的な学者でさえ、このように主張したりするのを目にします。


もちろん、キリスト教の側に何も問題がなかったわけではない。一部の土地ではキリスト教徒がマジョリティになったとたん地元の神社仏閣を破壊したという報告が残されているし、外国人商人による奴隷売買にしても、ほとんどの宣教師が売買に関わらず、むしろ宣教の妨げになるとして、本国の国王に苦言の手紙を送っているにしても、世界宣教の足である船を失うわけにもいかないので、グローバルに駆り出す貪欲な商人の乱暴狼藉をなかば黙認していた、というのは事実だろうと思われる。そうした、宣教師の曖昧な態度やダブルスタンダードは批判されてしかるべきだろうと思われます。


しかし、だからといって、その後にキリシタンになされたあまりにも酷い拷問や処刑を「正義」として正当化されてよいわけではない。


ヒロシマナガサキの慰霊の日に、原爆正当化の主張で水を差すことが許されないのと同様に、キリシタンの悲劇の歴史に迫害の正当化によって水を差すことが許されてよいわけではない。


迫害下のキリシタンと宣教師の信仰を描いた遠藤周作の小説「沈黙」や、その小説を映画化したマーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」のレビューコメントには、必ずといってよいほどキリスト教禁教令とキリシタン迫害の正当性と必要性の御高説を滔々と垂れてくれる御仁がいてくれる。


また、世界文化遺産として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録された日には、「侵略者の宗教の遺産が日本で登録されるのはけしからん!」とのクレームが文化庁に寄せられたともあります。


もちろん、文化作品の評価や文化遺産への行政の対応については、様々な意見があろうし、そのような意見の表明を制限する権利は誰にもない。


ここで問題にすべきなのは、ヒロシマナガサキへの原爆投下の正当性の主張と、キリシタン迫害の正当性の主張に共通している、「よい結果のためならば、その過程で成される悪はすべて正当化される」という傾向です。


よい結果がもたらされたのであれば、その過程で成された悪は正義となるか? もちろん、そんなことはない。悪は、よい結果をもたらそうとも悪は悪であって、正しい殺人も、正しい迫害も、正しい人権侵害もありはしない。ヒロシマナガサキについていえば、原爆が戦争を早期終結に導いたかどうかは不確実な「if…」に属するのであって、原爆を投下した世界のほうが、投下しなかった世界より悪の総量が少ないということを証明するものはまったくない。そもそも、善や悪を量的に計算して、量の大小によって事柄の是非を決められるわけではない。


キリシタン迫害についても、キリスト教禁教令によって保たれた今の日本が、凄惨な拷問や処刑によって迫害されたキリシタンの命や苦悩、痛み、恐怖に勝ることを証明するものはない。そもそも、ヨーロッパと極東の日本では距離が離れすぎていて、軍隊を派遣するにはコストがかかりすぎるため、近代的な蒸気船が開発されるまでは、日本の植民地化の可能性はまったくなかった。キリシタンの犠牲が、今の日本を存続させるために必要な犠牲であったことを証明するものは、何もない。


誰もが、自分たちが受けた被害については千年忘れることはないが、自分たちが犯した加害については、加害行為が未来にもたらしえる(あるいは現在にもたらした)善の総量という架空の空論をこねくりわまわしてでも自己正当化と自己賛美に余念がないというのが人間の性(さが)というものです。


よい結果をもたらしえたならば、その過程で成された悪は正当化されうるか? キリシタン迫害が正当化されるならば、原子爆弾の投下もまた正当化されてしまうのではないか? 


こうした論理は、いつも私たちの身近にある。与党の政権がいかに腐敗していても、悪夢の民主党政権よりはマシだと語られるとき、またその与党の先代党首であり元総理が銃撃によって暗殺されることによって、国民を食い物とするカルト宗教との癒着が世間に明らかとなり、テロリズムが社会正義の前進に貢献したと語られるとき、同じ口でヒロシマナガサキの原爆投下はまぎれもなき悪だったと、どうして語れるのだろう? この悲劇を永遠に繰り返さないと、どうして語れるのだろう? またもや、未来の善の総量を最大化するための「必要悪」として、核の使用を許す論理に道をあけてしまうことにはならないか?


たしかに、かの元総理の銃撃事件がきっかけとなり、現政権と国民の生活を食い漁る悪質なカルト宗教との癒着が明らかになったのはたしかで、あの銃撃がなければ、今も変わらず癒着は堂々と続けられ、それを明らかにしようとする報道も握り潰されていたかもしれないことを考えると、一時的にもあのテロリズムは社会の善の総量を増進させた、と言えるかもしれない。


しかし、長期的にみれば、その銃撃を正当化している「よい結果のためならば、その過程で成される悪は正当化される」という論理が批判されることなく一般化された社会にあっては、誰もがそれぞれ描きうる最良の未来のために、ありとあらゆる悪が「善」として正当化され、行使されうるのであって、はたしてそのような社会が善の総量の最大値を示し続けることができるのか? むしろ、最後には最も悲惨なものになってしまうのではないか? かの与党政権がカルト宗教との癒着を許した論理もまた「共産主義の悪から日本を守るため」でした。自分たちが描く最良の未来と、党利党略のために、日本人を食い物とするモンスターを野放しにし続けた。


いまいちど悪は悪として、その悪が紐づけられる結果とは無関係に考えられ、批判されなければならない。そうでなければ、私たちはまた同じ悲劇を繰り返してしまうことになるでしょう。

キリスト教と科学1

「Nature」というイギリスの科学雑誌があります。Nature(ネイチャー)とは日本語で自然という意味ですが、日本で「自然」というタイトルがつくような雑誌はどのようなイメージでしょうか? 科学雑誌というよりも、風光明媚な自然の美しさを紹介する美術雑誌や観光雑誌を意味するはずです。


日本人にとっては自然は審美的なものですが、西欧人にとっては表面の美しさを楽しむだけのものではなくて、目に見える表面に隠された見えない自然法則、つまり永遠に変わらない神の創造時における設計図を意味します。


Natureの語源であるラテン語ナトゥーラは移り変わる目に見える自然ではなくて、その下にある目にはみえず、時代や場所を越えて変わることのない普遍の法則を意味します。


私たちが学校の歴史の教科書で習うような単純な理解では、頑迷固陋、無知蒙昧なキリスト教の支配する暗黒時代から、ルネサンスにはじまる理性による人間中心のヒューマニズムが抵抗して、科学による人間の進歩が勝ち取られた、と教えられます。


たしかに、キリスト教と科学との間で葛藤があったのは事実ですが、実際は初期の自然科学者のほとんどが敬虔なキリスト教信者でした。コペルニクスガリレオニュートンも、キリスト教を否定して科学的な功績を成し遂げたのではなく、むしろ神への信仰の熱烈な情熱におされて科学的な研究に没頭していったのです。


彼らにとってはキリスト教と科学は矛盾するものではありませんでした。神がなければ、自然は彼らにとって目を楽しませ、生活の必要を満たしてくれる材料を提供してくれるものでしかなかったでしょうが、神を信じるゆえに自然は楽しみ利用するだけのものではなくて、観察し、分析し、目を凝らし、耳を傾けて、その「内なる言葉」を探りあてる対象でもありました。神が自然を創造したのだから、自然は第二の聖書であって、自然を徹底的に観察することによって神の意志を理解できることを期待したのです。


科学が成立するためには、実利的な関心だけではだめで、快/不快の気分や利害損得を越えた宗教にも似た狂気が必要です。政治的、宗教的権威によって否定され、貧困や命の危険にさらされようとも「真理を求めて語れと神が命令されたのだから、私は真理を追求し、真理を語ることをやめない。私はここに立つ!」というような信仰にも似た態度が必要です。


その良心が神に縛られていたからこそ、科学者は自然の真理への追求と告白に縛られていたのです。単純な精神の自由が科学をならしめたのではありません。日本はキリスト教がなく、その意味で西欧よりもはるかに内面は自由なはずでしたが、近代科学のようなものが芽吹くことはありませんでした。


哲学者のニーチェが言うように、生活のすべてを犠牲にしても「真理を!もっと真理を!」と真理や真実を追求する心をキリスト教は西欧人にもたらした。しかし、そうした真理を徹底的に追求する態度が今度はキリスト教そのものや聖書自体に向けられる。それで、西欧人の科学的良心によってキリスト教はバラバラに分解させられ、これが「神の死」、つまり西欧の無神論をもたらした。ヨーロッパのキリスト教というのは、その意味で自分が育てた飼い犬に足を噛まれているようなものなのです。

 


「無条件的に誠実な無神論こそ、かれの問題設定の前提である。それはヨーロッパの良心が、さんざん苦労して手に入れた勝利であり、ついに神信仰の虚偽を禁止するにいたるところの、真理への二千年にわたる訓練が実らせた最も影響の大きな行為であった。われわれは見るのだ。何がいったいキリスト教の神に打ち勝ったのかを、― キリスト教道徳性そのもの、いよいよきびしく取られた誠実の概念、学問的良心にまで、断乎たる知的潔癖にまで、翻訳され昇華されたキリスト教的良心の聴罪師的鋭敏である。自然を、あたかもそれが神の善意と庇護に対する証明であるかのように見ること、神的理性を重んじて、歴史を、倫理的世界秩序や倫理的究極目的の不断の証明として解釈すること、自身の体験を、信仰篤い人々が長いこと解釈していたように、まるで何から何まで摂理であり、暗示であり、一切が魂の救いのために考え出され定められているかのように、解釈すること、こうしたことはいまは過ぎ去った。こうしたことは良心にもとる。こうしたことはすべての鋭敏な良心にとって、醜い不誠実なこととして、虚偽として、フェミニズムとして、弱さとして、臆病として考えられる、― 何物かによってわれわれが良きヨーロッパ人であり、ヨーロッパの最も古く、最も勇敢な自己克服の相続者であるとすれば、そのような厳格さによってこそ、そうなのだ。」

白水社ニーチェ全集「華やぐ知恵」断章357  氷上英廣訳


「われわれは、これを一言でいえば、― 同時にこれはわれわれの誓言でもあるが!― 良きヨーロッパ人なのだ。ヨーロッパの相続者なのだ。幾千年来のヨーロッパ精神の富んだ、おびただしい蓄財の持ち主で、同時にまたおびただしい義務を負った相続者なのだ。そのような者としてまた、キリスト教を卒業し、それに嫌悪を覚えてはいるが、それもわれわれがキリスト教から成長したからであり、われわれの祖先がキリスト教の一途な誠実さを備えた ― その信仰のためには財産も、血も、地位も、祖国もよろこんで犠牲にした ― キリスト教徒であったからである。われわれも ― 同じ轍を踏む。だが、何のために? われわれの無信仰のために? あらゆる種類の無信仰のために? いや、わが友よ、諸君はより良く知っている! 諸君のなかの隠れている「然り」は、諸君が諸君の時代とともにその病気に罹っているところの、すべての「否」と「おそらく」よりも強力だ。そして諸君が海へ乗りださねばならぬなら、諸君移住者よ、そのように諸君を強いるものもまた、― ひとつの信仰なのだ!」

同上 断章377


宗教と科学、狂気と理性というのは、水と油のように反するものではありません。一方が推進力となって他方が遠くへ飛ぶ力を得る関係にある。優れた科学者には取り憑かれたような狂気や宗教性がみられるものです。また、キリスト教は、ユダヤ教の割礼や律法における生活規則や宗教儀式など、効果があるのかないのかわからない迷信的な要素を廃して「神を愛し、隣人を愛せよ」という実質的な倫理に「合理化」して誕生した、ということも考慮にいれておきましょう。


なぜアメリカでは進化論を否定し聖書を文字通り信じるような狂気じみたキリスト教信仰と最先端の科学が混在しているのか。そうした関係には表面上の対立の下にある共通の前提があるのです。

牧師不要論(万人牧仕論)

最近、牧師や神父などの教会の聖職者・教職者のスキャンダルを頻繁に耳にするようになりました。


これは、そのような聖職者・教職者によるスキャンダルが最近になって増えた、ということなのでしょうか? 最近の聖職・教職に就く人間の質の低下がいちじるしいということなのでしょうか?


もちろん、そうではないでしょう。今ではハラスメントや虐待とみなされることが、過去には教育や躾(しつけ)としてまかり通っていたように、過去にも、聖職者や教職者によるスキャンダルはあったのだが、神の御旨のために必要だとかと言いくるめられたり、聖職の権威への盲信から、スキャンダルが告発されることが少なかった、ということなのでしょう。そのときには、ハラスメントや虐待を受けた教会員は、「信仰歴も短く、罪深い私には、教会のリーダー(?)である牧師センセイの深いお考えが理解できていないのだ…」と自分に言い聞かせて、ジッと耐え忍ぶか、教会やキリスト教そのものに疑問を抱いてひとり静かに教会を去っていったのでしょう。


しかし、インターネットが普及した現代において、他に同じ悩みや苦しみを抱えた人を見出すことが可能になるにつれて、自分の未熟さや罪のゆえに苦しいのではなくて、そもそも牧師だろうが、神父だろうが関係なく、人を困らせたり、傷つけたり、人権を侵害し、人間を私物化することは、どんな宗教の言葉で正当化されようとも、悪は悪なのだ、という認識が共有された結果、告発への心理的ハードルが下がった、ということなのでしょう。


ところで、このような意見にたいして教会員の方々や牧師の方は、こう言うでしょう。「そのような異常な教会やスキャンダラスな牧師がいるとしても、それは極端な事例であって、大部分の教会は健全に運営されている」と。


まったくそのとうりであって、一部でセンセーショナルな事例が目立ちますが、多くの教会は比較的大きなトラブルもなく健全に運営されている。


しかし、問題は「ヒト」ではなく「構造」であって、たまたま善良な人間が牧師や聖職・教職に就いているがゆえにうまくいっているとしても、狼のような悪人が牧師や聖職・教職といった「ヒツジの皮」を被って教会に入ってきたとたん、狼によって教会員が食いものにされるようでは、健全な教会とはいえない。


それというのも、プロテスタントの教会では、タテマエでは「万人祭司」として万人が平等のはずですが、実際には牧師と教会員の間、教職と平信徒や求道者の間には、能動的に「教える者」と受動的に「教えられる者」、「世話する者」と「世話される者」とのいうような権力的な関係が存在するのであって、狼として教会のヒツジを食いものとするために、「ヒツジの皮」を被って教会に入ってくる悪人にとっては、上から受動的に教えられるだけ、世話されるだけの無防備で主体性のないヒツジはかっこうの餌さでしかないからです。狼にとっては、牧師や教職の皮を被っているだけで、ヒツジたちがやわらかい腹を差し出してくれるのだから、これほどおいしい立場はありません。教会の、こうした権力的な関係の構造があるかぎり、今はたまたまうまくまわっているとしても、狼が侵入したとたん荒らされるがままになってしまう。


悪魔が天使に偽装するように、狼もヒツジの皮を被る術を心得ている(第二コリント11:14-15、マタイ福音書7:15-23)。人の目を欺き、先輩牧師の承認や推薦を得て牧師や教職の皮を被ることなんて簡単なことです。


たとえ、今は健全な牧師でも、誰もが聖人君子ではなく、内側に狼のような獣性を宿しているのだから、ヒツジたちが牧師の肩書きを信頼して柔らかい腹を見せてくれているうちに、その腹に噛み付きたくなる欲求がおこらないということを保証するものはない。一般に、「魔が差す」と言われるように、牧師職に就く際の献身の決心・決断や宣誓など、なんのアテにもならない。教理としては、人間の「原罪」や「全的堕落」を主張しておきながら、こと牧師や教職に関しては、その献身の決心・決断や宣誓の持続性に「全的信頼」を与え、また要求することに疑問を覚えないことが問題であって、気まぐれで不安定な人間の「意志の力」に全面的に依拠することほど、非プロテスタント的なことはない。それは、聖職者や教職者である人間の移ろいやすさにもかかわらず、聖職や儀礼に人間の魂を救いに至らせる力や権威や条件を付与する、悪しき意味での旧きカトリシズムと変わらない。


普遍的な人間の「原罪(いかに敬虔な聖職者といえど、原罪と無関係な者はいない)」にもかかわらず、聖職・教職の肩書を得るに至る教育や訓練を経ているという功績、また、そのうえでの献身への意志の決断に、他の人間の生活や魂に干渉する権威を与えることは、あまりにも能力主義的であり、功績主義的であって、人間を神とすることではないか? 万民を捕らえている罪の軛のゆえに、肉なる人間に神の代理や、救済への媒介をゆだねることを拒否し、キリストにおける神の恵みにのみにより頼む「恵みのみ!信仰のみ!」の信条に矛盾するのではないか?

 

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あるいは、こういうことだろうか?牧師や教職は、自分の意志の決断によるのではなく、聖霊の証印によるのだ、と。自分の意志によるのではなく、上から促されてなるものなのだ、と。


しかし、光に照らされれば影も濃くなるごとく、聖霊の光に照らされれば、罪の自覚もより深くなる。肉なる人間である自分の力や意志の頼りなさも自覚される。かくして、聖霊によって導かれる者は、神にのみより頼み、自己の力をアテにせず、誇らない。にもかかわらず、今、日本の若者の間で最も影響力があるとされる教会の牧師ですら、自分を教会のリーダーだと公言し、牧師は祈りと御言の御用(使徒言行録6:1-5 )に専念し、教会の雑務は平信徒がやるべきだと、自身の牧師職を新約聖書使徒の立場と同一視してはばからない。これは、傲慢ではないか? 彼も、個人的な祈りにおいては、パウロに倣って自身を罪人の頭(かしら)とし(第一テモテ1:15-16)、神に罪のゆるしを請うたりするのだろう。しかし、それならば自分の牧師職の立場がおそろしくはないのだろうか? 罪人の頭(かしら)である自分の汚れているかもしれない手で、主人であるキリストから預かった羊に触れて、その毛を汚してしまうかもしれないことに思い至らないのだろうか? パウロに倣って、自分を罪人の頭(かしら)とみなすなら、キリストから預かった羊を自分が私物化してしまうことをおそれて、自身に権限を集中するのではななく、信徒とのあいだで権限を分散し、パウロに倣って使徒や宣教者の扶養の権利を主張せず、むしろ、手ずから働くべきではないか? 自分が牧師であるというだけで、平信徒よりも祈りと御言の御用に専念する資格や条件が自分にあるというのだろうか? それは、万民のなかの無学で幼子のような最も小さき人々によっても語られる聖霊を軽んじることではないか? 自分の弱さや、その手の汚れをあきらかにせず、むしろ誇らせて、主の羊である教会の信徒の心と魂と生活に、ためらいもなく無遠慮にもベタベタと触ることを促す霊は、聖霊とは異なる霊ではないか?

 

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「わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。わたしたち教師が、他の人たちよりも、もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。馬を御するために、その口にくつわをはめるなら、その全身を引きまわすことができる。また船を見るがよい。船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。あらゆる種類の獣、鳥、這うもの、海の生物は、すべて人類に制せられるし、また制せられてきた。ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。」(ヤコブ3:1-10)


「牧師だって人間なんだから、罪を犯すことがあると思うけど、ゆるしてね♡」と言う。ならば、なおさら牧師の権威づけや権限の集中はやめるべきで、そこにあきらかな矛盾があることを認めるべきだ。影を可視化させ、直視させないものは光ではないように、罪による可能性に向き合わせず、肉なる人間を権威づけるものは、決して聖霊ではない。

 

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牧師の方は、こう反論なさるでしょう。「牧師が、独裁者や特権階級の支配者であるかのように書いているが、単立教会の一国一城の主としての牧師ならともかく、教団の組織人としての牧師は、教会のなかでも最も弱い立場で、役員会から突き上げられ、受動的な消費者となってしまっている教会員から『アレもしてくれ!コレもしてくれ!』と日々仕事を増やされる、まったく割に合わない仕事であって、配慮やいたわりが必要なのは、むしろ牧師のほうだ!」と。


しかし、教会員を自立させず、要求だけの受動的な消費者(お客さまは神さまです!)として仕立てあげてきたのは、誰のためだったのか? まさに、牧師の既得権とアイデンティティのために、教会員が牧師に依存せざるおえないように、教会員の魂に纏足(てんそく《昔の中国にあった奇習で、女性が生活において男性に依存せざるおえないように、幼少時に足の形を変えてしまう風習》)を施してきたのは、牧師であり、またその後ろ盾である教団ではなかったのか? それなのに、今度は教会員の依存が負担になるというので、教会員の自立を求めよう、というのだろうか?


もし、教会の平信徒が、教団や牧師に依存しない自立した信仰者となったならば、真っ先に切り崩されるのは、牧師の既得権とアイデンティティであって、恒常的に教会と教会員に関わる専門職としての職業牧師は見直されることになるでしょう。そのときには、「祈りと御言」の御用は、特定の人物が専門的に担う役割ではなくなり、すべての教会員が、賜物を受けた適時と適所において、公平に担う役割となるでしょう。そのときには、信徒の献金と寄付によって生活する、教会堂に紐づけられた牧師はなくなり、誰もが世俗で働きながら、教会の雑務と、祈りと御言の御用を適時と適所において、それぞれ持ち回ることになるでしょう。そのときには、説教や講義は、教会に引きこもる世間から浮いた超俗の宗教人・専門人としての牧師の手を離れ、チンプンカンプンな神学の虚ろな言葉や、ただ聖書に書いてあることを権威づけるだけの「うるさいシンバルの音!(第一コリント13:1)」ではなくなり、実社会での生活に密着した、心と魂と生活に染み込む、血の通ったものとなるでしょう。


最近では、牧師のこうしたあり方を相対化して、牧師の「師」という字を「仕」に変えて、「牧仕」と言ったりします。なぜならば、聖書に 「あなたがたは先生と呼ばれてはならない(マタイ福音書23:8-12)」とあり、「上に立とうとする者は、支配するのではなく、一番下で僕(しもべ)となって仕えなければならない(マルコ福音書10:42-45)」とあるからです。上から一方的に教えを垂れ、信徒の心と魂と生活に干渉する権威としての牧師の「師」というイメージを一新し、一番下から民衆に寄り添う身近な存在に変えようとしたものでしょう。


しかし、「牧仕」というものが、「主の牧場に仕える」という意味のものであるならば、神によってキリストにある恵みにあずかり、キリストを信じ、キリストに従う者は「みんな」主の牧場に仕える「牧仕」と言われるべきもので、キリストを信じ、従う集まりとしての「主の牧場」には、一方的に仕えることを専門とする者と、仕えられることを専門とする者がいるわけではない。誰もが仕える者であると同時に、仕えられる者であり、神の前で「自立」した信仰者の集まりとしての教会では、誰もがみんな「牧仕」と呼ばれるべきものです。


主の牧場に仕えるという意味ではみんなが「牧仕」なのであって、「牧仕」を、特定の人間が仕えることを専門とする、特殊な職業としての地位にあげたとたん、牧「仕」は牧「師」になる。結局、「師」とは、未熟であるがゆえに手も足もでない者をケア、介助、教育する立場なのだから、「仕える」ことを専門とする「牧仕」は、恒常的に仕えられなければならない未熟な存在を前提にしているのだから、「師」としての「牧師」と変わりがない。結局は、同じものをさしている。自己を、未熟な者をケア、介助、教育する特殊な立場として、一段上の特別な存在として規定している。「牧仕」と言いかえたところで、この教会の特殊な構造は変わりがない。


聖書では、クリスチャンは「羊」に譬えられますが、その場合の「羊」とは、一般に考えられているような、羊飼いによって動かされるがままの主体性のない「ヒツジ」ではなく、真の牧者であるキリストの声を聞き「分けて」、偽物の羊飼いや狼の声を拒否する能動的で、知的で、戦闘的な「羊」でした。(ヨハネ福音書10:1-18)


したがって、どのような教会の教会員も、牧師や教職者から受動的に教えられ、世話される受動的な対象ではなく、真の牧者であるキリストの声を聞き「分けて」、吟味し、選び、意見を言い、牧師の管理や教会から拒否して離れる自由をもつ。


教会の教会員は、キリストの所有する羊であって、互いにキリストから委託された存在です。したがって、自分勝手に手を触れるような私物化は許されない。教会員の誰もが「私は主の羊であって、あなたのヒツジではない。あなたの支配は受けない」と言うことができるし、そのように言うことができるように運営されなければならない。


「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」(ヨハネ福音書10:1-18)


私は問いたい。もし、キリストが教会の扉を叩いて、「さあ、あなたに預けておいた私の羊を、私に返しておくれ」と呼びかけたときに、キリストに羊を返すのだろうか? それとも、「こいつを、十字架につけろ!」と再びキリストを十字架にはりつけにして、羊を自分のものとし、所属する教派・教団のものとするのではないかどうかを。


「もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。」(マタイ福音書21:33-44)


コリントに宛てたパウロの手紙を見てみると、原始教会では、誰か特定の人間が教育や世話を専門とするのではなく、教会の誰もが与えられた賜物に従って、教えつつ教えられ、世話しつつ世話されるような関係を理想としているようでした。対等で平等な独立自存の人格が、キリストにおける愛(アガペー)に促されて互いにの欠けたところを補いあうことが求められていました。(第一コリント12章から14章)


様々なトラブルをおこす牧師や教職者も悪いが、権威に対する教会員の受動的な依存心も悪い。そして、何より一方的な権威者とそれに依存する者を生み出してしまう教会の構造が悪い。ひとりひとりがキリストの前で独立した人格として平等であり、誰もが教える者であると同時に教えられるものであり、ケアする者であると同時にケアされる者であるような対等な関係であるような構造でなければならない。


外側からは何も問題がないように見えていても、教会の見えないところで実際は何が行われているのかわからず、敬虔なクリスチャンとしてヒツジの皮を被っていても、人を食いものとする狼がまざっていることは事実なのだから、だからこそ特定の誰かに特別な権威をもたせたり、それに依存するだけの受動的な人間を生み出す教会の構造は見直されなければならない。


教会に狼が侵入してくる可能性や、私たちが羊であると同時に潜在的な狼でもある可能性を考えて、誰もが狼に豹変する可能性があるのだから、教会員はキリストを唯一の権威として誰にも依存するこのない自由で平等な独立した人格となるよう運営されなければならない。


教会は「見た目では判別できない麦と毒麦の混合(マタイ福音書13:24-30)」という聖書の言葉は、「だから誰も裁くべきではない」と解されるだけでなく、見えない毒麦の存在を考慮して、「だから誰も人の上に立つような特別な立場を与えられてはならない」とも解されなければならない。


「しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。」(ローマ10:6-7)


時の徴(マタイ福音書16:2-3)は、既存の教会の構造の衰退と、教会の「無教会」化を告げ知らせる。「教会から無教会へ」の教会進化論が、無教会主義の傲慢だと言われようとも、キリスト教が「この世」に残るかぎり、この流れは避けられないと思う。


たとえ、それが「無教会」の名を冠せずとも、真正な意味で「万人祭司」としての教会が構造となるときには、専門職としての「牧師」の立場や、クリスチャンの教育・養育機関としての「教会」の存在の是非をめぐって検証にさらされることになるでしょう。

召命(calling)〜貧困、幸福、そして人生の意味について〜

社会学者のエミール・デュルケムの著作に「自殺論」という本があります。


自殺というのは、社会の衰退期に増えるというのは常識ですが、実際は社会の上昇期にも増える。デュルケムは、この際の自殺を「アノミー型自殺」と呼びました。「アノミー」というのは、無規制という意味です。


たとえば、私たちはビル・ゲイツジェフ・ベゾスのようなスーパーリッチ(超富裕層)には嫉妬しない。なぜなら、彼らは雲の上の存在であって、千回生まれ変わっても、彼らと同じ立場になれるとは思えないから。


しかし、身近な公務員や正社員が自分よりも2倍、3倍の年収を得ていることがわかるとモヤモヤする。それは、そのような立場が人生の選択肢によっては自分にもありえたかもしれない立場だから。


人は、自分の手が届くことがないと自覚している「高嶺の花」については欲望をもたない。しかし、それが「手が届くかもしれない!」という可能性が生まれるやいなや一気に欲望がわいてくる。と同時に、手に入らなかったときの失望感や喪失感、無力感、欠乏感、悔しさ、惨めさ、自己否定、手に入れた人に対する嫉妬といった「負」の感情もわいてくる。


したがって、人々にあらゆる可能性がひらかれ、あらゆる欲望がかきたたせられる社会の開放期・繁栄期・上昇期においてこそ、逆に人々が心理的に非常に不安定になり、自殺も増える。


だから、社会の変化が乏しい閉鎖的な社会や、階級が固定した前近代的な社会では、経済的には貧しいのだが、逆に心理的には安定している。貴族と貧民の間には決定的な格差があり、貧民の生活は貧しいのだが、貧民が貴族を羨んだところで、自分たちが貴族になれる可能性はないのだから、「貴族には貴族の幸せがあり、俺たちには俺たちの幸せがあらぁな!」と言って、心理的には自足している。しかし、社会が自由化され、貧民も努力次第では貴族の生活が手に入る可能性が生まれるやいなや、一気に豊かな生活への欲望がわいてくる。と同時に貧民である自分たちの境遇への惨めさの感情と、「努力しないから貧しいのだ!」という社会的レッテルによる劣等感もうまれる。


ひと昔前、貧しいけれども幸福な国としてブータンが紹介されていました。彼らの優れた文化的な霊性もあるでしょうが、ひとりが貧しいのではなく、みんなが貧しいので、助けあいがあり、貧しさへの共同体的な連帯や共感もある。もちろん、結婚して家庭をもつこともできる。一人よりも二人でいたほうが生活は楽になるから。お金がないから結婚しないという考えは彼らにはない。お金がないからこそ結婚して、子供を産む。彼らはどんなに貧しくても孤独ではない。それが彼らの幸福を支えている。


日本の貧困層が悲惨なのは、日本にスラムがないからです。外国では、貧困層はスラムでかたまって暮らしているのに対し、日本の貧困層はバラバラに孤立している。それというのも、日本では、もともと一億総中流で誰もがそれなりに豊かな時代から、雨漏りするようにポツポツと個別に貧困層へと転落しているからです。したがって、日本の貧者は常に隠れており、目立たず、孤独のなかにある。そうであるがゆえに、彼が隣りの人を見れば、自分と同じ年齢で同じような出自の人間が、かわいい奥さんと子供に囲まれ、綺麗なマイホームとマイカーを持って生活しているのを見、テレビやネットをひらけば芸能人やユーチューバーがセレブな生活を見せつけてくれる。それにくらべて、自分は何畳一間のボロアパートでひとりぼっちで見切り品のパンをかじっている…。それで、「俺の人生は何なんだ!」となる。孤立しているので、誰にも相談できず、共感もなさそうに思えるので、自分の貧しい境遇が社会のせいではなく、自分自身の人間性の欠陥によるものであるかのように思えてくる。かくして、さらに鬱屈した感情と孤立感やコンプレックス、自分の存在や世界の存在が無価値で意味のないような虚無感を蓄積してゆくことになる。


最もよい解決策は、貧者同士が連帯し、共感しあうことができるコミュニティをつくることでしょう。一人でいるより大勢でいたほうが、心理的にも生活においても互いのケアになるし、ひとつの社会的な階級になれば政治に働きかけて境遇を改善する機会にもなる。しかし、コンプレックスによって人間不信の塊になっている貧者は、言葉や行動のひとつひとつにトゲがでてきてしまうので、人間関係のトラブルになって共同体的な生活が難しい場合もある。ちょうど右腕のない人が、五体満足の人々に対して、「俺の気持ちをわからせてやるために、お前ら全員の右腕を切ってやる!」と考えるようなものです。しかし、左腕がない人を見つけて、「君は左腕がないのかい? 僕は右腕はないが左腕はある。僕が君の左腕になろう。君は僕の右腕になってくれないか?」という考え方や生き方もありえるのです。


「幸せ」であるとは、他者から「あなたが必要だ。あなたがいてくれなければならない。あなたでなければならない」とオンリーワンな存在として「呼びかけられる」ことです。また、同じことですが、「私がやらなければならない。私でなければならない。私以外にいない」と、自己をオンリーワンな存在として、生きる意味と存在価値を見いだすことです。ちょうど、聖書の「善きサマリヤ人の譬え」(ルカ福音書10:25‐37)において、あるサマリヤ人が、道端で半死の状態で倒れている人にたいして、「もし、私がこの場を通り過ぎたら、この人はどうなってしまうだろう? 私でなければならない!私が立ち止まらなければならない!」と自分に問いかけるように。


「あなたが、ここで通りすぎてしまったら、この人は、この国は、この社会はどうなる? あなたが立ち止まらなければならない! あなたしかいない!」


神の声としてであれ、良心の声としてであれ、このような「超越者」の声を聞くとき、自己の存在が、ただ偶然的に存在しているのではなく、意味と目的をもった、必然性をもって創造された存在として、取り替え不可能な「使命」を帯びた存在として「召命」されていることを理解する。


「そうか! 私は、この時のために、このことのために、この人のために生きるために生まれたのかもしれない。私の今までの人生の痛みや苦しみや涙は、この瞬間のためにあったのかもしれない。今、私は呼びかける者に応じるために投げられた。私はこのための道具であって、的(まと)に当てるために投げられたのだ。たとえ、私が壁にぶつかって砕けることになろうとも、私を投げた存在の御心のとうりに的を射ることができたならば、私にとっては本望だ。」


聖書において、使徒パウロ預言者エレミヤが「私が産まれる前から、私がこのような使徒預言者となるべく神によって定められていた」(エレミヤ書1:4-10、ガラテヤ1:15)と語るとき、運命や神の予定のような宗教的な世界観を語っているのではなく、「超越者」の呼びかけを聞いた者の「私は他のようではありえない。私はこれ以外の在り方はできない。私しかいない。私がやらなければならない。私はこのために創られたのだ!」といった「召命」による自己の唯一性を語ったものでした。誰でも、「召命」の声を聞いた者は、自己が意味と目的を持って創られた唯一の存在であることを理解する。


五体満足で健康であることや、資産の豊かさだけで人は幸福であるのではない。健康や資産があれば、神のように自由であることができるかもしれない。しかし、人は自由であることにも飽きるし、神の真似事にも飽きる。健康な体と尽きることのない金(カネ)で、全世界の美味と呼ばれるものを食べ、飲んで、美しいと称賛されているあらゆるものを観賞したとしても、たちまち日常の空白と虚無がやってくる。金(カネ)があれば、異性の愛も買える。しかし、彼が異性に求めているのは性的欲求の対象ではない。彼は、異性から自分を「汝(あなた)」として、オンリーワンなかけがえのない存在として「呼びかけ」てもらえるような関係を望んでいる。しかし、多くの場合、人は彼そのものを見ているのではなく、資産家である彼が所有している健康や金(カネ)を見て群れ集まってくる。彼は、自分を「汝(あなた)」と呼びかけてくれる関係を望んでいるのに、彼の周りに群れ集まってくるのは、彼の健康や金(カネ)による自由にぶらさがることを狙う人々であって、人々が彼を「あなた」と呼びかけるときにも、自身の野心のための道具として利用できる取り替え可能な「それ(モノ)」としか見ていない。かくして、多くの異性をはべらせる自由と力を持っているとしても、彼の渇きは満たされない。誰も彼を「汝(あなた)」と呼びかける者はいない。多くの人が彼に見ているのは、彼の健康や資産、肩書きなどの属性であって、彼は取り替え可能な「それ(もの)」でしかない。多くの資産と権力による自由にぶらさがることができるならば、別に彼でなくてもよい。したがって、彼から健康や資産が失われれば、彼の周りから誰もいなくなる。


多くの人は、自分が取り替え可能な道具である「それ(もの)」として他者から見られるのではなく、取り替え不可能な「汝(あなた)」として呼びかけられ、かけがえのないオンリーワンな存在として自己を見出しえることを願っている。資産家が、一生寝てても生活に困ることのない資産を所有しているにもかかわらず、社会に関わることをやめないのは、人がただ存在しているだけで幸福であるのではなく、自分が意味と目的をもった唯一な存在と感じるために、社会に影響力を与えることをやめることができないということを示している。「あなたはもう高齢だから、引退してゆっくりなさってください」という善意の言葉ですら、資産家は屈辱に感じる。それは、彼が影響力を行使する立場から降りてしまえば、彼自身には何もなくなってしまうことがわかるから。多くの資産があり、生活には何の不自由もなく、彼の周りには世話してくれる多くの人がいるとしても、誰も彼を彼自身として見てくれる人はいない。彼の周りの人々は、彼の資産のゆえに関わっているのであって、彼の家族ですらそうかもしれない。彼が影響力を行使する立場から降りてしまえば、自分自身が何もない、ただ存在しているだけの無意味で孤独な、死を待つだけの裸の老人であることを直視するのが恐ろしいのです。


人は、あらゆる他者を出し抜いてナンバーワンになれば、自分がオンリーワンな特別な存在になれるかと思って、特別な肩書きや、多くの資産を得るために奔走し、時には整形によって外見を変える。しかし、肩書きも資産も、外見の美しさも永遠ではないし、一時はナンバーワンになって、オンリーワンな存在として脚光を浴びても、次の瞬間にはナンバーツー、ナンバースリーへと転落し、人々にとって取り替え可能な「それ(もの)」として扱われる。そのとき、彼は、肩書きや資産や美しさで飾りたてていた下に隠されていた裸の自己を直視することに耐えられるだろうか?  他でもない、彼自身が、あらゆる属性をはぎ取った果ての裸の自己を嫌悪し、恐れているというのに。


聖書が教えるように、人はパンだけで生きるのではない(マタイ福音書4:4)。人は、パンへの飢えだけでなく、自己の存在の意味や価値への飢えを満たすために生きている。科学が教えるように、人間も他の生物と同じく、偶然な原子の集合であって、人間の誕生から死にいたるまでの一生は、水の上の泡が何の意味もなく偶然的にふくらんで弾けるまでの過程と本質的には変わらないのだろうか? そんな話しに人間は耐えられない。人間は、パンだけで生きているような動物と異なり、「超越者」の呼びかけに応じることによって、自己の意味と価値への飢えを満たしうる存在であって、過去の哲学者が主張してきたように、神の言葉によっても生きる「形而上学的」な存在です。


「その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。」(ヨハネ福音書4:31‐34)


哲学者のジョン・スチュアート・ミルが、師であるベンサム功利主義を修正して「豚の幸福よりも悩めるソクラテス」と言ったように、豚のように、食べること、排泄すること、寝ること、生殖がとどこおりなく行われてさえいれば、人間は幸福であるのではない。多忙の時には、飼い猫のように、食べて、寝て、一日中ボーっとして過ごしたいと思うときもあるけれども、そのような安楽な生活も、しばらくしたら意味の空白と虚しさを感じるようになる。そのときには、多くの苦悩や痛みを引き受けても、世のため人のために生きるヒーローたちの生き様にあこがれる。道徳的な偉人たちのようにはなれないとしても、彼らのような「崇高」で「高級」な苦悩や痛みに、自分もいくばくか参与したいと願うようになる。これが「人間」であって、豚のように、ひたすら痛みや悩みを避けて、快楽だけを追求するような「低級」な生き方では、その「魂」は満たされない。


アウシュヴィッツ強制収容所からの生還者であるヴィクトール・フランクルは、収容所での生活における、生き続けることから何のよいことも期待できないその絶望的な状況のなかで、人生の意味についての問いを転換しなければならなかった。


「ここで必要なのは、生きる意味についての問いを一八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」

(夜と霧 新版 ヴィクトール・E・フランクル池田香代子みすず書房


こうして、フランクルは、自殺願望を抱く人に呼びかける。


「このふたりの男たちは、ときおり自殺願望をくちにするようになっていた。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」と、前に挙げた典型的ないい方をしたのだ。しかしこのふたりには、生きることは彼らからなにかを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っているなにかがある、ということを伝えることに成功した。事実ひとりには、外国で父親の帰りを待つ、目に入れても痛くないほど愛している子供がいた。もうひとりを待っていたのは、人ではなく、仕事だった。彼は研究者で、あるテーマの本を数巻上梓していたが、まだ完結していなかった。この仕事が彼を待ちわびていたのだ。彼はこの仕事にとって余人に代えがたい存在だった。先のひとりが子供の愛にとってかけがえがないのと同じように、彼もまたかけがえがなかった。ひとりひとりの人間を特徴づけ、ひとつひとつの存在に意味をあたえる一回性と唯一性は、仕事や創造だけでなく、他の人やその愛にも言えるのだ。このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」

(同上)


では、何の才能もなく、誰も彼を待つ人のいない平凡で孤独な人間は、人生から何も期待されていないということだろうか?


もちろん、そうではない。たとえ、体に障害があり、一生涯を病室で過ごさなければならないとしても、その存在と言葉において、彼には世界に向けて語るべき真理がある。世界には、彼の在り方や言葉によって、目が啓(ひら)かれ、勇気づけられ、励まされる多くの人が存在する。世界は、彼の言葉を待つ。そして、彼をそのような境遇においた神もまた、彼がその生において啓示された真理を、彼が世界に向けて語り、行うことを待っている。神は、彼の存在において、彼を世界に向けて投げられる。彼は、そのような不幸な境遇において、彼から人並みの幸福を得る機会を奪った神を呪うかもしれない。しかし、それでも、神は、彼を世の人々の目には隠されている「新しい天と地」(ヨハネの黙示録21:1-4)を啓示する器として、彼を「地の塩、世の光」(マタイ福音書5:13-16)として用いられる。「この世」は、彼によって啓示された真理によって清められる。


『大きなことを成し遂げる為に、 強さを求めたのに 謙遜を学ぶようにと弱さを授かった

偉大なことをできるようにと 健康を求めたのに より良きことをするようにと病気を賜った 

幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった 

世の人々の賞賛を得ようと 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった 

人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに あらゆるものを慈しむために 人生を賜った 

求めたものは一つとして与えられなかったが 願いは全て聞き届けられた 私は もっとも豊かに祝福されたのだ 

作者不詳の詩(南北戦争で負傷した南軍兵士の祈りとされている)』


誰もあなたに呼びかける者がなくとも、神が「汝(あなた)」に呼びかける。そして、神によって投げられた「汝(あなた)」を世界は待っている。神は「汝(あなた)」を用いられるでしょう。

 

koji-oshima.hatenablog.com

 

怪獣大戦争~何が怪物を生み出すのか~

今年の夏、日本の政治史において最も長いあいだ総理の職をつとめた元首相が銃撃のすえに亡くなるという事件がありました。事件のあと、政治家たちが口を揃えて「民主主義への挑戦」といってテロ行為を批判するコメントを表明しました。


しかし、ここ10年間の日本の政権の有り様を知っている人は思ったはずです。「力で民主主義を歪めてきたのは誰だったのか?」と。


目に見えるナイフや銃だけが暴力なのではない。さまざまな見えない権力を行使して役人や政治家に圧力を加え、「こちらの言うことをきいてくれたらどうなるか。 反対したらどうなるか。……………わかるよねぇ?」と無言の忖度(そんたく)を誘って、権力に蝿のように手をすりゴマをすって群れ集まってくる悪友(オトモダチ)に便宜をはからせ、力の弱い虐げられた人々のか細く小さい声を押し潰してきたのは誰だったのか?


悪友(オトモダチ)の利権を優遇し、本当に支援が必要な人々の声を無視し、聞こえないふりをしてきたことを「民主主義への挑戦」と言わないで何と言うのか? 権力の私物化、これこそ、この10年のあいだ日本を支配してきた政権の有り様だったはずです。虐げられた貧しい人々が声をだしてもかきけされ、暴力に訴えねばならないほどの窮状を放置してきたのは誰だったのか?


何が「怪物」を生み出すのか? テロ行為や社会への復讐のためにむき出しの暴力を行使する「怪物」を生み出し、そのような「怪物」が生まれるような窮状にいたるまで人間の生活を喰い漁る巨大な「怪獣」を放置し続けたものは何なのか?


「テロリストが悪い」と言うのは容易い。また、「テロを生むような政治が悪い」と言うのも容易い。しかし、そのような政治を支持し、放置してきたのは誰だったのか? 誰もこのような事件に対して無関係だと言える人はいない。腐敗した政権にしても、人を食いものとするカルト宗教にしても、このような「怪獣」に餌をやり、養い続けてきたものは何だったのか?

 

人は誰しも幸福を求める。そして、「宗教は人を幸福にするもの」と言われる。そのとうりである。しかし、誰もが幸福(だけ)を求めたらどうなるか? 私たちがだす生活のゴミは消えてしまうのではない。そこにはゴミを集める人がおり、ゴミを処理する人がおり、またゴミは消えてしまうのではなく別の物質となって再利用されるか、大地に残る。幸福も純粋な幸福などがあるのではなく、誰かが安全、安心、便利、快適な生活を求めれば、別の誰かががそのような生活を支えるためのコストとリスクを担う。


当然、人が純粋な幸福(だけ)を求めれば、その幸福な生活を支えるための痛みや労苦は誰か他の人にやってもらったほうがよい。こうして「幸福」を金科玉条とする社会は、みんなが純粋な幸福を求める結果、その幸福な生活を支えるコストやリスクは社会のより弱い立場の人々にしわ寄せさせられることになる。こうして、人類史のうえで奴隷制の存在しない社会はなかったし、また、かたちのうえでは奴隷制を廃した社会でも、誰もが嫌がるようなキケン・キツイ・キタナイおまけに低賃金の仕事は、貧しく立場が弱いがゆえに職業選択の選択肢が少ない人々に押し付けられることになる。それも、カタチのうえでは対等な「自由意志による契約」となっているため奴隷的な境遇は隠蔽されている。しかし、たとえ制度としての奴隷制が廃止されており、カタチのうえでは対等な自由意志による契約となっているとしても、契約を拒否できるほどの多くの選択肢がなければ自由な選択とはいえない。「条件を受け入れないなら、ホームレスになるか飢え死にするしかないかもだけど、それでもNOと言うのぉ?」と(無言の空気で)圧迫されることができるような不均等な力関係のうえでの契約では選択肢はないに等しい。それは契約ではなく、実質的には脅迫であり、奴隷化である。「仕事を選ぶなんて贅沢だ。条件を問わなければ仕事はいっぱいある」と人々は言う。かくして、劣悪な待遇の奴隷状態が社会的に最も弱い立場の人々に押しつけられる。誰にとっても必用不可欠だが、誰もが嫌がる仕事は、逃げ場をもたない貧者に押しつけるのではなく、待遇と社会的評価を上げて、誰にとっても重要な選択肢のひとつとなるようにすべきだ。


ひたすら人間から痛みや苦しみを取り去り、安心、安全、便利、快適な純粋な「幸福」を追求ことは、一見正しく聞こえる。「みんなを幸せにしたい!」と表明すれば、誰からも共感され、称賛される。しかし、人間の間には権力の上下関係があるため、誰もが純粋な幸福を求めれば、幸福に必要な資源は権力的に優位な「上級(または中級)国民」に独占され、権力的に劣位の人々には、上級国民が消費する幸福のための資源を生産するコストやリスクだけが押し付けられる。そして、最も弱い立場の人々とは、未来に存在することは確実なのに、今、現在に自分たちのために声をあげることのできない、これから産まれてくるであろう未来の子供たちでもある。


したがって、「みんなを幸せに!」と主張するからには、権力的に優位な上級(または中級)国民が独占している幸福のために、その幸福を支えるコストやリスクを押し付けられている弱い立場の人々の「幸せ」をも考えなければならない。そうなると、当然、万民に等しく純粋な幸福を約束するというわけにはいかない。権力的に劣位な弱く貧しい人々に社会のコストやリスクが一方的にしわ寄せさせられないように、権力的に優位な上級(または中級)国民には幸福だけではなく、幸福を支えるための痛みや苦しみをも共に背負うことを要求し、覚悟してもらわなければならない。そうでなければ正義や公正は成り立たない。


こうして、伝統的な宗教というのは、誰彼かまわず万民の幸福を保証し約束するものではなく、虐げられた貧しい人々の「幸福」のためにも、権力的に優位な上級(または中級)国民にも「痛み」を要求するものであった。


「すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。(マタイ福音書19:16‐24)


神が直接支配する「神の国」には、貧困も奴隷も存在しない。神の国(支配)が地上に来ることを願い、祈るならば( マタイ福音書6:10)、貧困や奴隷化をなくすために富者や権力者には貧しい人々のために「痛み」を負うことを要求するのは当然であって、曖昧な説教は許されない。神の子が人となって貧者のひとりとなり、十字架の死に至るまで、最も小さくされた人々に仕えたように、最も偉い人は最も下に降って、最も小さくされた人々の僕となって彼らに仕えなければならない。


「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。 」(フィリピ2:6‐11)


「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。(マルコ福音書10:42‐45)


「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。( マタイ福音書25:31‐46)


エスの宣教の第一声が「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」であったように、転回(悔い改め)の「痛み」をへずして神の国を受け継ぐことはありえない。神の国が貧しい人々のものであるのは、「この世」の不正によってもう十分「痛み」をへているからであって、正義の支配する神の国を待ち望むつつ、現生によってすでに神の支配のなかにいるからである(ルカ福音書16:19‐31におけるアブラハムの懐に召された乞食のラザロを見よ)。しかし、「この世」に居場所を持ち、すでに慰めを受けている富者や権力者は、福音宣教による悔い改めの要請によって、貧しい人々のために「痛み」を引き受けてもらわない限り、彼らが神の国を受け継ぐことはありえない。したがって、誰にとっても甘く耳ざわりのよい祝福や繁栄の約束や幸福の説教ばかりすることは、聖書によって啓示された真正の神ではなく、自分たちの欲望や願望のためにつくりあげたバアル(偶像)に仕えている偽預言者にすぎない。「痛み」をへずして神の国を受け継ぐことはない。十字架の痛みを伴わない罪の贖いも、愛(アガペー)も正義も公正も、「この世」には存在しない。


「わたしはだれに語り、だれを戒めて、聞かせようか。見よ、彼らの耳は閉ざされて、聞くことができない。見よ、彼らは主の言葉をあざけり、それを喜ばない。それゆえ、わたしの身には主の怒りが満ち、それを忍ぶのに、うみつかれている。「それをちまたにいる子供らと、集まっている若い人々とに漏らせ。夫も妻も、老いた人も、年のひじょうに進んだ人も捕えられ、彼らの家と畑と妻とは共に他人に渡る。わたしが手を伸ばして、この地に住む者を撃つからである」と主は言われる。「それは彼らが、小さい者から大きい者まで、みな不正な利をむさぼり、また預言者から祭司にいたるまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている。 」(エレミヤ書6:10‐14)


「そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。」(ルカ福音書6:20‐26)


本当に幸福な社会には、人が十字架の痛みを互いに背負うことが避けられない。しかし、同じく神を信じ、キリスト教を名乗っているにもかかわらず、十字架を否定する宗教がある。元首相を暗殺した青年の家庭を破滅に至らせ、暗殺された元首相を含めた政治家の権力を利用して勢力拡大を狙う、昨今問題になっている某キリスト教系カルト宗教がそれである。


かの宗教は、教理としてはナザレのイエスの十字架の救済の否定によって特徴づけられる。いわく、ナザレのイエスは人間を霊的には解放したけれども、「この世」の肉における生の解放は十字架の死によって挫折した。したがって、キリスト教における十字架の贖いは、完成ではなく途上であって不完全。そこで、再臨のメシアである文鮮明(と彼らは主張する)がキリストによって「この世」の肉の生の救済と解放を委ねられた(とされている)。だからこそ、伝統的なキリスト教が富や権力の誘惑に対して常に警戒すべきことを主張してきたのとは真逆に、地上天国の実現のためならば富も政治権力も利用できるものは見境なくかき集める。


霊的な命が救われるのならば、肉における「この世」の生も救われなければならない。もちろん、貧しいよりは豊かなほうがよいし、涙よりは笑顔のほうがよいにきまっている。しかし、誰かの豊かさや笑顔が、他の誰かの貧しさや涙のうえに成り立つならば、そんな幸福や肉の救いなるものはあってはならない。事実として、「この世」では肉の救い、すなわち現世利益における幸福を求めることは、別の誰かに貧しさと涙と不幸を押し付けることになってしまうという「この世」の悪についての現実性の認識がまったく欠けている。それもこれも、彼らが救いについて十字架の「痛み」を拒否し、イエスの生涯を失敗、不完全、中途半端とみなすことに原因をもっている。


伝統的なキリスト教が「この世」における繁栄、成功、肉の救いよりも、来るべき神の国や、「この世」や肉体を越えた価値に重きをおいてきたのは理由がある。「この世」は悪魔の支配下にあるので、「この世」での成功や繁栄を求めれば求めるほど、最も小さき人々を生け贄にし、犠牲を強いることになる。「この世」の幸福は誰かの涙や痛み、奴隷化のうえに成り立つ。だから、神が自分たち(だけ)の神だけでなく、彼ら「最も小さき人々」の神でもあるならば、彼らの幸福のためにも十字架を負うことは避けられない。十字架による贖い、十字架による救いの完成の否定は、聖書による真正の神ではなく、生け贄を求めて人を喰いものとする偶像崇拝の主張となる。神の命令は、最も小さくされた人々のためにも、互いの十字架を負うことを命じられる。決して自分の十字架を捨てて幸せになることではない。十字架を不完全な救いとみなし、「この世」での肉の救いを完成させる再臨のメシア。それは、結局、彼(文鮮明)の意図が、純粋に人間を救いたいという善意のものであったとしても、結果として最も小さき人々を生け贄とするバアルの信仰となる。


「あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」 (フィリピ1:29)

 

「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。」(ガラテヤ6:2) 


したがって、キリスト教は、人々が目を背け、聞くのを嫌がる十字架上のキリストと、その血、汗、痛みを伝えざるおえない。そして、キリストに従うということは、そうしたキリストの十字架へと至る足跡をたどり、共に十字架の痛みを負うことだということを伝えざるおえない。もちろん、多くの人々は痛みを嫌う。キリストが命じられたように他者のために「痛み」を負うことも、キリストと共に十字架を負うことも嫌う。だからこそ、キリストがそうであったように、十字架の言葉を宣べ伝えるクリスチャンもまた受難は避けられない。クリスチャンの「この世」における受難は必定であって、霊的な命のみならず「この世」における肉の生の成功や繁栄などの両立などありえない。「あれか、これか」のいずれかであって、「あれも、これも(統一!)」はありえない。あるとしたら、悪魔の前で何かを妥協したということである(マタイ福音書4:1‐11)。虐げられた最も小さき人々が「この世」いるかぎり、人は神と富とに同時に仕えることはありえず(マタイ福音書6:24)、キリストとベリアルとの間の調和はない。


「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。」(第一コリント1:18‐25)


「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブライ12:2)


政治学者のトマス・ホッブズの著作に「リヴァイアサン」という著作があります。リヴァイアサンとは、旧約聖書ヨブ記41章に書かれている怪獣の名前です(訳によってはワニと訳されている)。ホッブズは、このリヴァイアサンという怪獣の名前によって、比類のない超権力としての絶対君主の国家を想定している。たとえば、日本の戦国時代のように、大小の権力者が群雄割拠するところでは、絶え間のない戦争状態であって、平和や庶民の安心した生活はないに等しい。しかし、徳川幕府による超権力による支配が貫徹しているところでは、実質的には戦争状態の一時停止による冷戦状態だとしても、超権力による恐怖の統制によって平和は実現している。諸藩の多くの武士にとっては不本意服従であったとしても、庶民には安定した生活の保証であって、まさに徳川の治世は「天下太平」の世として実現した。


徳川の治世は庶民にとっては降って湧いてきたものだとしても、ホッブズリヴァイアサン(超権力を持つ絶対君主)は、幸福で平和な日常生活を求める民衆による契約によってたてられる。インテリにとっては独裁者の恐怖政治よりも個人の自由を求めるものだけれども、自由を求めて内乱・内紛による戦争状態になれば、疲弊し犠牲になるのは一般庶民であって、庶民にとっては自由よりも安定した生活のルーティンが守られることのほうが大事であって、自由をめぐる絶え間のない権力の相対化による内紛・内乱よりも、絶対的な権力を持つ絶対君主による絶対平和による安定・安心を求める。


リヴァイアサン(超権力)の怪獣を生み、養うのは、静かに安定した幸福な生活を続けたいという民衆の願いであって、多く人々が現状の既得権益をまもりたいと思うほど、既存の権力は超巨大な権力として肥大化してゆく。たしかに、ホッブズが言うように、人々が超権力の庇護にあるうちは、超権力はまぎれもなき「地上の神」であるけれども、気まぐれな超権力は、まさに超権力であるがゆえに庇護の対象を自分で決めてしまう。当然、超権力にとって都合のよい一部の上級国民(オトモダチ)に庇護は限定され、それ以外の人々にとって超権力は、いつ自分たちに牙を向けるかわからないリヴァイアサン(怪獣)としてたち現れる。かくして、超権力の庇護を失い、見捨てられ、抑圧されて虐げられることになる人々は、超権力としてのリヴァイアサンと、そのような怪獣に餌をやり養いつつ庇護を独占する上級(または中級)国民に対して復讐するために、自分の命も含めたあらゆる手段を用いる怨嗟の「怪物」となる。


超権力によって一度は平定された戦争状態の再開、すなわち「怪獣大戦争」の始まりである。


人々が平和や安定を願い、少なくとも自分たち(だけ)は幸福で安全な生活を守ろうとするほど、超権力としての怪獣リヴァイアサンと、その権力の恣意性と、恣意的であるがゆえに庇護から外されて餌食になるだけの虐げられた人々を生み出す。そして、そのように見捨てられた人々が復讐の「怪物」として社会に牙を向ける。


私は何の話しをしているのだろう? 私は、私たちが生きている日本を含むこの世界と、この社会について話している。十字架を否定し、十字架を負う「痛み」を拒否し、十字架の贖いによる完成を否定した先は、霊と肉の「統一」による地上天国ではなく、ヨハネの黙示録で象徴されているような怪獣や獣たちが互いを喰いあう「怪獣大戦争」である! それこそ私たちの住む世界の赤裸な姿である。


悪魔の支配する「この世」では、神の国は十字架の「痛み」とともにある。それ以外の在り方はない。それ以外の純粋な幸福の国は、「この世」では、悪魔やバアルの国となる。純粋な幸福を得ようとしてむしろ、怪物たちの怪獣大戦争を「この世」にもたらす。


聖書でキリストが語ったように、自分(たち)の命(だけ)を救おうとする者は、それを失い。キリストに従うことで命を失う者は、それを得る。

「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。 (マルコ福音書8:34‐38)


人々が自分の十字架を捨てて「イマだけ、カネだけ、ジブンだけ」で幸福に生きることを求めることによって始まる「怪獣大戦争」。逆に、その牙が生きようとする彼らの胸を刺し貫くことになりましょう。そして、そのあとで、世界は十字架の死による救いの完成者、勝利者、復活者として神の右の座で支配するキリストに出会うことになるのです。


「またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。 」(マタイ福音書24:3‐14)

無教会における「聖徒の交わり」の不在について

無教会への批判のひとつに「聖徒の交わり」の不在があります。


いわく、キリスト教の教会が、清濁合わせもつ 「麦と毒麦(マタイ福音書13:24‐30)」の混合であることは、はじめから前提とされていることで、クリスチャンに人間的な罪や悪が残っているとしても、それらの十字架を教会生活で互いに背負いあうことで隣人愛の実践とし、キリストに似た者とされてゆく。教会を否定する無教会は、そのような「聖徒の交わり」を否定することで、孤立主義におちいっているのではないか? 自分たちの清さを保つために罪の十字架を共に背負うことを拒否する現代のパリサイ(分離)主義ではないか?「万人平信徒」と言いつつ、教会を下に見て自分たちの知識や霊性を誇るインテリ集団のサロンと化したエリート主義になっているのではないか?と。


無教会が気むずかしいインテリの孤立主義に傾きがちなことは否定しません。また、無教会が人間嫌いを正当化するための言い訳になりがちなことも否定しません。


しかし、無教会が組織や建物としての教会を持たないことによって「聖徒の交わり」を欠いていることにはならない。「隣り人」は教会にしかいないのだろうか? 十字架を負うべき人間の罪は、教会の人間関係に限定されるべきなのだろうか? 教会が「有」教会として、教会の「中」に聖徒の交わりと隣人愛の実践の場を見るのに対し、無教会は「無」教会として教会の「外」にある社会や世界のただ中に聖徒の交わりと隣人愛の実践の場を見る。


無教会は、教会の人間関係のなかに背負うべき十字架を見るのはもちろんのこと、直接対峙しているこの世界、この国、この社会、この友人、この家族、この人間に背負うべき十字架を見る。だからこそ、無教会では、聖書による福音的なメッセージを教会の信徒に対してではなく、世俗社会に直接ぶつける。それは、私たちが社会を生きているなかで、自分自身を含むこの社会と、人間の現実そのものが「生ける命のパン」であるキリストの体に飢えていることを見て知っているから。逆に言えば、人間の現実とこの社会そのものが、キリストの体を欠いて栄養失調状態にあることを認識しているがゆえに、人は召命に応じて社会に直接神の言葉を供する預言者的なクリスチャンとなる。


「そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ福音書6:32‐35)


「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取れ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、一同はその杯から飲んだ。イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マルコ福音書14:22‐24)


したがって、無教会は、教会の外にいる無神論者、仏教徒ムスリム、その他あらゆるノンクリスチャンと呼ばれる人々とキリストの体を分けあって食することをもって「聖餐」となす。


無教会は、人がクリスチャンであるか否かを問うことなく、この社会と世界の人間の悪の現実に立ち向かうあらゆる立場の人々と連帯する。こう言うからといって、無教会はクリスチャンとして彼らに語る言葉を持たないわけではない。


私たちは、あるムスリムが破戒のゆえにイスラムのコミュニティから排除されるときにも、マルヤムの子イーサー(マリヤの子イエスのアラビヤ語読み)によっても語られたアッラー(神)の恵みのゆえに、彼も救いと「普遍的な公同の教会」から排除されることはないと伝えることができる。


私たちは、出家を旨とする上座部仏教徒に対して、いまだ俗世の無明に沈む大衆にも神が彼らに降したもう「聖霊」によって、彼らも真理に「目を開かれる」機会があることを伝えることができる。


私たちは、浄土宗のような大乗の仏教徒に対して、私たちが罪あるままで来世の浄土に受け入れられるのではなく、キリストの十字架の血によって万民の罪が洗われ、新しい存在に生まれ変わらせられ、キリストに似たものとされることによって、「この世」においてもあらゆる罪と悪に立ち向かう「神の国(支配)」に組み入れさせられることを伝えることができる。


私たちは、無神論者に対して、もし無神論が神の立場に「人間」をすげ替えて「人間」を神とすることによって満足するならば、人間の動かし難い罪性のゆえに、かかる偶像崇拝が救いよりも破滅をもたらすことを避けられないと伝えることができる。


私たちは、あらゆる立場の人々に語る言葉がある。そして、彼らも私たちに語るべき言葉を持つでしょう。「なぜ神は世界にキリスト教のみを残さず、数多くの異教の宗教の繁栄を許すのか?」とクリスチャンは問います。世界に異なる宗教があるのは、神を信じると言うクリスチャンが、塔を建てて天国を自分たちの占有とし、神の威を笠に着て神のごとく振る舞おうとすることを禁じるために世界をバベル(混乱)のままにおきたもう神の采配による。クリスチャンたちが神の立場に自己をおこうとし、救済を占有できるかのように思いこむ高慢が天まで届くとき、神は異なる宗教の言葉でもって彼らを大地の混乱(バベル)に引きずり降ろし、そしてクリスチャンである彼らも罪ある有限な人間にすぎないことを思い知るようにさせられる。私たちが、「十字架にかけられた神」に似たものとされるために、神は私たちを異なる言葉と声をもつ人々のただ中におかれる。私たちは、神の座する天においてではなく、バベル(混乱)渦巻く「この世」において、十字架を背負いたもう神の愛(アガペー)を学ぶようにさせられる。それゆえに、私たちが天まで届く塔を建てるとき、他ならぬ私たちのために、神はその塔を崩すことでもって私たちを「この世」のバベル(混乱)に留め置きたもう。


「全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1‐9)


無教会には、マザー・テレサのような実践的な慈善活動家や社会福祉活動家が輩出されないと言われます。無教会が、勉強会や聖書研究会を中心とするインテリのサロンとなりがちなのは事実ですが、目立たないからといって、聖書の命じる「隣人愛」に疎いわけではない。


「隣人愛」とは、「善きサマリヤ人の譬え」(ルカ福音書10:25‐37)で書かれているように、隣り人がいなくて困っている人がいるときに、自分から彼の「隣り」にゆくことで、彼の「隣り人」となることです。ところで、隣り人がいなくて困っている人々はスラムや戦地や被災地にしかいないのだろうか? 家庭のなかにはいないのだろうか?教会のなかにはいないのだろうか? 隣り人がいなくて困っている人々は、常に身近にいないだろうか?


たしかに、万民が同情するようなスラムや戦地や被災地で困っている人々の隣りに立って奉仕することは重要ですが、困っているのは彼らだけではない。マスメディアが報道するような、極限的な状況で困難に直面している人々の支援についてはキリスト教会のみならず全世界からの支援がある。教会がそれらの支援に加われば、たしかに目立つ分キリスト教会全体への世間の印象もよくなろうし、支援に関わるクリスチャンも良心の満足を得て「立派なクリスチャン」という自己イメージと他者からの評価を得ることができる。


しかし、もしそうした支援に関わる裏で家族や友人や隣人の誰かが困難を抱えていたり、教会のなかで誰かが疎外されたりしていたら、すぐ「隣り」で「隣り人」を求めているこれらの人々を放置して、目立つ支援活動にのみ専心することは、本当に聖書が命じる「隣人愛」にかなうのだろうか? 「目立つ」こうした支援活動や慈善活動だけが隣人愛ではなく、私たちの「隣り」で常に「隣り人」を求めている「目立たない」すべての人の「隣り」となることもまた立派な「隣人愛」です。それゆえに、目立つ社会的な支援活動家や慈善活動家を輩出していないからといって、無教会が隣人愛に疎いということにはならない。


有名なマザー・テレサなどのような隣人愛の英雄も、あからさまにかわいそうと思われる人々を探しだして彼らの「隣り人」になったのではなく、彼女らの「隣り」で「隣り人」を求めている人々の「隣り」となっているうちに、たまたま注目をあびて有名になったのです。目立ちたいから、有名になりたいから、自己実現のためにと、身近で「隣り人」を求めている人を無視して、万民が同情しうるあからさまにかわいそうと見られている人々に群がることは、逆にその偽善を見抜かれることになりましょう。


「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 (マタイ福音書6:1‐4)


したがって、教会にいかないからといって、クリスチャンとして「隣人愛」の実践の場を欠いていることにはならない。小さい子供の育児や老いた親の介護で教会に通う余裕がないからといって、私たちはキリストに従っていないわけではない。家族や友人、身近な隣人といった私たちのすぐ「隣り」で「隣り人」を求めている、これらの人々に仕えることによって、無教会であっても「目立たない」ところでキリストに従い、神に仕えている。既存のキリスト教会がそれを認知しなくても、隠れたところにおられる神は、隠れたところで行われている義をご存知です。


逆に、いかに「神の栄光のために!」と叫んでも、私たちのすぐ「隣り」で「隣り人」を求めている身近なこれらのすべての人々を無視して捧げられた教会での献身、献金、奉仕、社会的支援活動やボランティアは、その白く塗られた墓(マタイ福音書23:27)の下で悪臭を放つ骸(むくろ)を世間から見抜かれることになりましょう。


モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」(マルコ福音書7:10‐13)


koji-oshima.hatenablog.com


善きサマリヤ人の譬え

「するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか。」イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ福音書10:25‐37)

無教会主義の問題~先生(教師)中心主義について~

無教会主義について調べておられるかたは、このブログが「無教会」と銘打っているにも関わらず内村鑑三矢内原忠雄について語らないことを不思議に思われるかもしれません。


無教会といっても、伝統的なキリスト教とは別の教会があるわけではありません。内村鑑三にとってはキリスト教の独立伝道者の養成こそが目的であったのであって、無教会主義という内村が指導する別の教派があるわけではありませんでした。


神は唯一、キリストも唯一、キリストの肢体(からだ)である教会も唯一。使徒信条にあるように、唯一の聖なる公同の教会があるのみ。


しかし、既存の教会が、見える「壁」や見えない「壁」にこだわるので、教会から弾かれた人々や、そもそも教会に入れない人々が存在する。弾かれた人々や入れない人々はどうすればいいのだろう? 彼らは外で雨風に濡れるだけなのだろうか? もちろん、そんなことはない。神も唯一、キリストも唯一なのだから、その恵みは余すところなく、すべての世界とすべての人に及ぶ。どれほど既存の教会が「壁」にこだわろうとも、すべてを包む神の恵みが教会の「壁」の外にいるすべての人々の屋根となって彼らを雨風からまもる。


この「屋根」。教会の外にあるがゆえに教会ではないが、一切の壁を越えて全世界を包む神の恵みの「屋根」のもとにあるがゆえに「教会」である、という意味で「教会」である。「無い」と言われているところに、実は「教会」があるという意味で、これを「無教会」という。


したがって、最初からキリスト教会が「壁」にこだわらず、万民を救う神の恵みであるキリストと共に歩んでいたならば、「無教会」なるものは存在しない。そこにはキリストの肢体(からだ)である唯一の普遍的な「公同の教会」があるのみ。無教会が「無」を冠せざるをえないのは、既存のキリスト教会の独善性や排他性、党派性、人間の欲望や願望の偶像化という様々な「壁」の存在が、そうさせるのであって、「ポジ」に対して「ネガ」の関係にある。だから、既存の教会が無教会の存在を問題視するならば、まず自身の在り方を省みなければならない。


そして、無教会を名乗る教会もまた、キリストと共に歩むことを怠って既存の教会と同じ矛盾を抱え込むならば、キリストにあって歩むクリスチャンは、無教会主義の教会に対して預言者的警告やエクソダス(脱出)をもって応じなければならない。


内村鑑三にとっては、キリストにのみ縛られて他の一切の権威に縛られない独立伝道者の養成こそが目的であったので、独立伝道者であった内村の死と共に、彼の集会も「聖書之研究」という伝道雑誌も廃刊になりました。内村は後継者を遺しませんでした。「キリストの」教会こそ、彼が遺すべきものであったのであって、「内村の」教会を遺すことなど、彼の眼中にはありませんでした。もし、遺さねばならないのだとしたら、内村が無教会主義を遺さなくとも、既存のキリスト教会が「壁」にこだわり続ける限り、神が誰かによって「無教会」を起こすであろう、と。


教会の目的は人をキリストに接ぎ木することにある( ヨハネ福音書15:4‐5)のだから、それは無教会も同じ。ただ、既存のキリスト教会がキリストと人との間に牧師や聖職者や教会法、サクラメントなどの媒介を置くのに対し、無教会はそれらを置かない。しかし、無教会が批判されることのひとつに「先生(教師)中心主義」が挙げられる。そして、こうした批判には応えなければならない。


なぜならば、聖書に「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 」(マタイ福音書23:8‐12)とあるからです。


無教会は、内村の頃から集会と聖書研究による講義を中心にしてきました。内村が預言者的なカリスマを与えられた伝道者であったので、自然と彼を講師として聴衆が形成されていきました。無教会のクリスチャンが預言の賜物を与えられて内村の集会とは別に独立伝道者として聖書研究会や講義をするときも、その人を中心として集会が形成されていきました。そのさい、主催者や講師は尊敬をこめて「先生」と呼ばれることもありました。


もちろん、尊敬すべき人を「先生」と呼ぶことは美しいことです。言葉狩りのような揚げ足とりをすべきではありません。「先生」と呼ばれた講師も、そう呼ばれていることで聴衆よりも知的、霊的に一段上のエリートのような気分になって高慢になっているわけではなく、自分も聴衆と同じく神の前で平等な平信徒である自覚を失うことはありませんでした。


しかし、パウロの時代のコリントの教会がそうであったように、「私はパウロに師事する!」「いや、私はアポロに!」「いやいや、私はペテロに!」といった具合に、伝道者を遣わした存在が忘れ去られて、伝道者が偶像となることもありえるのです。そうだとするならば、無教会はプロテスタントの遺産である神の前での「万人祭司=万人平信徒」として個人が直接神の言葉と対峙する機会を失い、先生として師事する伝道者の介添えなくして立つことのできない他律的なクリスチャンを輩出することになる。そうなれば、無教会は、既存の教会の牧師依存と変わりがない。無教会の本来の目的であった、神の前で「我タダ独リココニ立ツ(ルターによるヴォルムス帝国議会での演説)」式の独立伝道者の輩出が進まないのは、こうした先生(教師)と呼ばれる存在への依存と無関係ではないでしょう。


「あなたがたはまだ、肉の人だからである。あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。すなわち、ある人は「わたしはパウロに」と言い、ほかの人は「わたしはアポロに」と言っているようでは、あなたがたは普通の人間ではないか。アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。植える者と水をそそぐ者とは一つであって、それぞれその働きに応じて報酬を得るであろう。わたしたちは神の同労者である。あなたがたは神の畑であり、神の建物である。」(第一コリント3:3‐9)


無教会の側の弁明では、そうした「先生―弟子」のような構図の人間関係は、先生と呼ばれる人間に対する服従ではなく、講師によって語られる聖書の神の言葉(真理)に対する敬意と服従をあらわすものだと説明されます。聖なるものを見聞きするときには、拝見・拝聴する側も心身共に聖なる態度で臨まなければならない、と。


もちろん、聖書にはこのようにあります。

「主は彼がきて見定ようとするのを見、神はしばの中から彼を呼んで、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼は「ここにいます」と言った。 神は言われた、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」。 」(出エジプト記3:4‐5)


聖なるものに向き合うときには、靴を脱がなければならない。もちろん、ここでの「くつ」とは、物理的な履き物としての靴であると同時に、「自分でいっぱいの高慢な心をからっぽにして神にあけ渡せ」というメッセージでもあります。


しかし、人にその靴をぬがせ、心を明け渡し、聖なるものにひざまずかせることができるのは、人間の意志や努力によるのではなく、神の顕現の威光によるその力です。人間の側の意図的な態度によるのではありません。教師が弟子に単に形式的な態度を求めるだけならば、神妙な面持ちをして聞いていながらも心では軽蔑しているような見せかけだけの「優等生」を増産するだけです。


厳粛な態度が人に神の言葉を受け入れさせるのではない。井戸端の世間話のような軽いノリであっても、心の片隅に蒔かれた神の言葉そのものが一粒のからし種(マルコ福音書4:30‐32)として、時に応じて大きくなり、不遜で不従順な者から靴を脱がし、心を空けさせ、聖なるものにひざまずかせる。


ナザレのイエスが福音を語ったときも、厳粛な講義によってではなく、ある時は道の傍らで、ある時は食卓の席で、自然な日常のなかで語られたのです。どのような態度で福音が聞かれるかが問題ではなく、とにもかくにも福音が語られることが重要なのであって、空気が吐かれ、吸われるがごとく福音が日常のなかで語られ、聞かれることが重要なのです。


「一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、前者は、わたしの入獄の苦しみに更に患難を加えようと思って、純真な心からではなく、党派心からそうしている。すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう。なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。 」(フィリピ1:15‐19)


福音においては、厳粛な態度で拝聴していた優等生が神の意志に従わず、いいかげんな態度で聞いていた無頼漢が、あるとき悔い改めて神に従うこともある。人を神に従わせるのは、人間の真剣な態度や心の状態によるのではなく、神によってイエス・キリストの人格と共に啓示された神の言葉そのものが持つ力によるのです。


「あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。」 (マタイ福音書21:28‐31)